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人生劇場 - Wikipedia

人生じんせい劇場げきじょう』(じんせいげきじょう)は、尾崎おざき士郎しろう自伝じでんてき大河おおかわ小説しょうせつ愛知あいちけん幡豆はずぐん横須賀よこすかむらげん西尾にしお吉良きらまち)から上京じょうきょうし、早稲田大学わせだだいがく入学にゅうがくしたあおしげるひさごきち青春せいしゅんとそのえがいた長編ちょうへんシリーズ。

人生じんせい劇場げきじょう
著者ちょしゃ 尾崎おざき士郎しろう
イラスト 中川なかがわ一政かずまさ
装幀そうてい 中川なかがわ一政かずまさ
発行はっこう 1935ねん - 1960ねん
発行はっこうもと 竹村たけむら書房しょぼう
新潮社しんちょうしゃ
ジャンル 大河おおかわ小説しょうせつ
くに 日本の旗 日本にっぽん
形態けいたい うえ製本せいほん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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1933ねん昭和しょうわ8ねん)に新聞しんぶんに「青春せいしゅんへん」が連載れんさいされ[1]、1935ねん3がつ竹村たけむら書房しょぼうから最初さいしょ単行本たんこうぼん刊行かんこう川端かわばた康成やすなり絶賛ぜっさんするベストセラーとなった[2]1959ねん昭和しょうわ34ねん)までに「愛慾あいよくへん」「ざん侠篇」「風雲ふううんへん」「離愁りしゅうへん」「夢幻むげんへん」「望郷ぼうきょうへん」「とろけへん」が発表はっぴょうされ、1960ねん昭和しょうわ35ねん)5がつに「とろけへん」が新潮社しんちょうしゃから刊行かんこうされた。同年どうねんから1962ねん昭和しょうわ37ねん)にかけて集英社しゅうえいしゃで「新人しんじんせい劇場げきじょう ぼしかわへん」「狂瀾きょうらんへん」が出版しゅっぱんされた。作品さくひん自伝じでん要素ようそじえ創作そうさくされたが、「ざん侠篇」は完全かんぜん創作そうさくである。その尾崎おざき生前せいぜんに「望郷ぼうきょうへん」までが新潮しんちょう文庫ぶんこぜん11かん出版しゅっぱんされていた。2008ねん平成へいせい20ねん)に角川かどかわ文庫ぶんこで「青春せいしゅんへん」のみ、ひろしけん憲史けんじのイラストによる表紙ひょうし新版しんぱん刊行かんこう。なお角川かどかわでもやく半数はんすう文庫ぶんこされ、映画えいが公開こうかいわせ新版しんぱん再刊さいかんしていた。「青春せいしゅんへん」のクライマックスになる早稲田大学わせだだいがく大隈おおくま総長そうちょう夫人ふじん銅像どうぞう騒動そうどうについては、都築つづき久義ひさよしの「早稲田わせだ青春せいしゅん 「人生じんせい劇場げきじょう舞台ぶたい」とだいする論考ろんこうくわしい[3][4]

この作品さくひん手本てほんとしたものに、おな早稲田大学わせだだいがく後輩こうはいである五木いつき寛之ひろゆき自伝じでんてき大河たいが小説しょうせつ青春せいしゅんもん』がある。

青春せいしゅんへん

編集へんしゅう

物語ものがたり舞台ぶたいさんしゅう横須賀よこすかむら(げん愛知あいちけん西尾にしお)、わずとしれた忠臣蔵ちゅうしんぐら敵役かたきやく吉良上野介きらこうずけのすけ地元じもとである。あおしげるひさごきちあおなりひょうきちちちひさご太郎たろうは、旧家きゅうか辰巳たつみ旦那だんなで、任侠にんきょう身上しんじょうとする快男児かいだんじだった。かれ吉良きら仁吉にきちをひく遊侠ゆうきょう残党ざんとう常吉つねよしというおとこに「吉良きらつね」という小料理こりょうりをやらせていた。

このちちは、ひさごきち無鉄砲むてっぽうおとこになるように教育きょういくする。やっつになったころのひさごきちに、ちちにわ銀杏いちょうのぼれとめいじた。のぼれたらなんでもってやるというのである。ひさごきちはも毎日まいにちそのにしがみついて、1ヶ月かげつにとうとう頂上ちょうじょうまでのぼることができた。頂上ちょうじょうにのぼったひさごきちもとで、ひさご太郎たろうはゆさゆささぶりだした。かれ一流いちりゅうのスパルタ教育きょういくは、こんなふうにしておさなひさごきちたたげていった。

やがて、中学ちゅうがくはいったひさごきちは、ちち教育きょういくどおり、おお少年しょうねんになっていった。入学にゅうがく早々はやばやかれは、友人ゆうじん一緒いっしょ校長こうちょうはじ教員きょういん悪口わるぐちつらねた新聞しんぶん発行はっこう訓戒くんかい処分しょぶんけてしまう。ひさご太郎たろうは、学校がっこうしをけたが、かえってひさごきちはげます。

そのころ辰巳たつみかたむはじめ、ひさご太郎たろう病気びょうきになる。ちち病床びょうしょうにかけつけたひさごきちは、東京とうきょう苦学くがくすることを決意けつい中学ちゅうがく中途ちゅうとでやめて、ちちからもらっただぶだぶのトンビをはおり、こうもりがさをつえに、勇躍ゆうやく上京じょうきょう友人ゆうじん夏村かそん大蔵おおくらをたよって、早稲田わせだ経済けいざい入学にゅうがくする。刃傷にんじょう沙汰ざたこした吉良きらつね校長こうちょう衝突しょうとつして学校がっこうをやめたくろ先生せんせい(戸田とだ先生せんせい)も、上京じょうきょうすることになる。

ひさごきちが、早稲田わせだ入学にゅうがくしてみると、期待きたいとはちがって教授きょうじゅ学生がくせい沈滞ちんたいしきっている。なにか事件じけんでもこして学校がっこう雰囲気ふんいき改造かいぞうしたいとかんがえていたひさごきちみみに、大隈おおくま公夫きみおじん銅像どうぞう学園がくえんない建設けんせつされるというニュースがはいってきた。チャンス到来とうらいとばかりに、ひさごきち学園がくえん私物しぶつする大隈おおくま重信しげのぶ総長そうちょう反対はんたい、「銅像どうぞう建設けんせつ反対はんたい」のアジ演説えんぜつ学生がくせいたちにぶちまくった。学生がくせいたちは、ひさごきちめい演説えんぜつ度肝どぎもかれあらしのような拍手はくしゅおくる。このから、ひさごきち早稲田わせだ英雄えいゆうとなった。 かれまわりには、九州きゅうしゅう男児だんじ新海しんかい松井まつい須磨子すまこ風呂ふろのぞいてさんだか放校ほうこうになった石上いしがみ弁舌べんぜつおにだかなどの豪傑ごうけつ集合しゅうごう学生がくせい運動うんどう指導しどうけんにぎった。しかし、銅像どうぞう反対はんたい運動うんどうは、学長がくちょう西野にしのぜん学長がくちょう白川しらかわ権力けんりょく闘争とうそうという政治せいじてききに姿すがたえ、学生がくせいたちはそのあやつ人形にんぎょうしている現実げんじつがついたひさごきちは、吹岡とともに大学だいがく決心けっしんかためる。 一方いっぽう故郷こきょうでは、やまいですっかり気力きりょくおとろえたひさご太郎たろう吉良きらつねたずねてくる。吉良きらつねは、刃傷にんじょう沙汰ざた監獄かんごくぐらしをしばらくして、その年間ねんかん台湾たいわん朝鮮ちょうせんをうろついて、これから東京とうきょうるという。ひさご太郎たろう吉良きらつね東京とうきょうったらひさごきちにこのピストルをわたしてくれとたのむ。借金取しゃっきんとりがて、その応対おうたいをおみねと吉良きらつねがしている最中さいちゅうひさご太郎たろうはピストルで自殺じさつする。

ひさごきちは、おそで将来しょうらいのことをせまられているが、態度たいどめかねている。そこへおなじく大学だいがく中退ちゅうたいし、かぶとまちはたら夏村かそんたずねてくる。ひさごきちちちくなったことをげ、帰省きせいするおかねわたされる。 ひさごきちは、帰省きせい汽車きしゃなかで、同郷どうきょう芸者げいしゃひかりりゅうことおりんと出会であう。おりんは代議士だいぎしおか小次郎こじろう結婚けっこんまり、岡崎おかざきかえるところとう。

ひさごきちは、吉良きらつねからちち遺書いしょわたされて、そこには債権さいけんしゃってすべてをまかせていえ再建さいけんなどかんがえるな、といておりひさごきちはは東京とうきょうくことを決意けついする。 葬式そうしきのときも和尚おしょうからクソ度胸どきょうなにでもえられるとはげまされる。翌朝よくあさ夜明よあけとともに吉良きらつねははれて東京とうきょうかう。 一方いっぽう東京とうきょう夏村かそんはカフェで高見こうけん久々ひさびさうと、高見こうけん大学だいがく中退ちゅうたいしてから社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうにのめりこんでいる。モスクワまできもコミンテルン代表だいひょうしゃラデックとい、活動かつどう資金しきんとして2まんえんってきたという。 そして高見こうけん夏村かそんハルピン社会しゃかい主義しゅぎしゃ仲間なかまとして同行どうこうしてくれという。。 高見こうけんかれた夏村かそん今度こんどそと横井よこいう。

一方いっぽうひさごきち吉良きらつね東京とうきょう電車でんしゃはんすけえきってくれていた。 はんすけ吉良きらつねったいきおいでおそでみせいにく。 ったいきおいでだいあばれした吉良きらつねは、そとだれかとぶつかり、前後不覚ぜんごふかくがつくと拘置こうちしょなかにそのおとこ二人ふたりでいた。

そのおとこから、ひさごきちもと担任たんにんくろ先生せんせいだった。 「くろ」はげするとう。 吉良きらつね本当ほんとうはするはなかったが本当ほんとうてしまい、みせものつかまってしまう。それでも、警察けいさつところをなんとかげおおせる。

ひさごきちはおそで消息しょうそくくために夏目なつめいにく。 ところが夏目なつめは、高見こうけん日本にっぽん潜入せんにゅうしたコミンテルンのスパイとして官憲かんけんからわれているという。 夏目なつめ一人ひとり東京とうきょうのホテルにいる高見こうけんい、高見こうけん誤解ごかいくためにこれから内務ないむ大臣だいじんいにくという。 そして高見こうけんひさごきち二人ふたりでハルピンにってしいとたのむ。

ひさごきち高見こうけんのいるホテルにかうとすではらっていた。 タクシーにると運転うんてんしゅからさきほど、社会しゃかい主義しゅぎしゃにん路上ろじょうつかまったとおしえられ、それは高見こうけんだとかんじる。 りたところで吹岡とバッタリ横井よこいいえはんすけいにく。

愛欲あいよくへん

編集へんしゅう

まるうち一角いっかくやまカン横町よこちょうのインチキビルにきょかまえる横井よこいあんふとしのもとに、あおしげるひさごきちは、高見たかみつよしひらめ、吹岡ゆうとともに厄介やっかいになる。看板かんばんは、青年せいねん民主みんしゅ同盟どうめいしょうぶんしゃである。 夏村かそんが、代議士だいぎしおか小次郎こじろう利用りようするのに談判だんぱんにいくというが、ひさごきち気持きもちの整理せいりがつかず、吹岡が厄介やっかいになっているというそとぼうあかつきかくてら(勝浦かちうら妙音寺みょうおんじがモデル)をたずねる。

そこに東京とうきょうから芝居しばい一座いちざがやってくる。そのなか吉良きら同郷どうきょうみのはんすけがいる。にんキネマの経営けいえい不振ふしんで、この一座いちざはいんだという、ひさごきち因縁いんねんあさからぬおそで世話せわしていたのも、かれだという。 吹岡は、東京とうきょうり、ときおなじくして、世話せわになっていたてら住職じゅうしょくつま姿すがたす。ちかとおもわれたが、ひさごきちには真相しんそうはわからない。 ひさごきちいで、東京とうきょうもどる。高見こうけんは、コミンテルンのスパイの嫌疑けんぎ警察けいさつ勾留こうりゅうされていた。 ひさごきちは、おそでとよりをもどすが、さきえない関係かんけい戸惑とまどいをかくせない。そんななか新進しんしん作家さっかちく野原のはらたけいちをめぐるわか文学ぶんがく青年せいねんたちの会合かいごうで、九州きゅうしゅうから上京じょうきょうしてきた女流じょりゅう作家さっかたまごしょうきし照代てるよ出会であう。

ひさごきち照代てるよらしはじめるが、うみきたホテルに陣取じんどってかれいたすうへん原稿げんこうは、雑誌ざっししゃおくはしからかえされてくる。やっと発表はっぴょうされた作品さくひんは、酷評こくひょうさらされ、照代てるよ作品さくひん彼女かのじょ前途ぜんとをますますかがやかしいものにしていくようで、ひさごきちしんれない。

そこに、照代てるよじつ九州きゅうしゅう時代じだいすで婚約こんやくしゃがいて、ほとんど結婚けっこんする寸前すんぜんまでっていたのに、なにわずに東京とうきょうてきてしまったと告白こくはく婚約こんやくしゃ熊木くまきいちろうが、ホテルにたずねてくる。 そこに居合いあわせた横井よこいは、吹岡の紹介しょうかいで、夕刊ゆうかん日報にっぽうしゃゆうぐん記者きしゃとしてつとめることになる。 横井よこいは、新聞しんぶんしゃ上司じょうしから新進しんしん女流じょりゅう作家さっかしょうきし照代てるよおとこ同棲どうせいしているらしいから、それをスッパ記事きじにするよめいじられて、ひさごきちのもとをおとずれる。そこに関東大震災かんとうだいしんさいこる。混乱こんらん東京とうきょうからげてきたくろ先生せんせいこと、戸田とだ先生せんせい再会さいかいひさごきちは、戸田とだ先生せんせい満州まんしゅう吉良きらつね一緒いっしょだったとき、吉良きらつねあんじる。 そのころ吉良きらつねよしりょうにいて、仁吉にきち墓参はかまいりをしている。そこへはんすけひきいる芝居しばい一座いちざ巡業じゅんぎょうにやってくる。 ひとり、伊豆いず天城あまぎ温泉おんせんで、ひさごきち照代てるよは、ひさごきち友人ゆうじん名乗なの石上いしがみらんがつ出会であう。執拗しつよう甘言かんげん退しりぞけたところで、高園たかぞのりんとう。もとげいひかりりゅうだった。

大正たいしょう14ねん深川ふかがわ昔気質むかしかたぎのヤクザ、青木あおき一家かずやあずかる青木あおききんじゅう、あだなは小金こがねは、馬方うまかた専業せんぎょう運送うんそうがりの新興しんこう勢力せいりょくたけとくとふとしたことからあらそいになる。横浜よこはまからおんなれてながれてきた飛車ひしゃかくは、小金こがねへのいちしょく恩義おんぎすけ参加さんかする。飛車ひしゃかく愛人あいじん、おとよは、身売みうりされたところを飛車ひしゃかくがかっさらって、一緒いっしょしてきたものだったが、その騒動そうどうのさなかに行方ゆくえ不明ふめい飛車ひしゃかくが、あてにしていた奈良ならたいら裏切うらぎって、おとよをはらったらしい。激昂げっこうした飛車ひしゃかくは、奈良ならたいらし、追手おってけ、んだところが、あおしげるひさごきちまい。ひさごきち留守るすで、ちょうどたずねてきた吉良きらつねくわす。そのひさごきち帰宅きたく吉良きらつね旧交きゅうこうあたためる。 夜中よなかに、迷惑めいわくになるのをけ、あおしげるいえからした飛車ひしゃかくは、本門寺ほんもんじもりで、逃亡とうぼうちゅう共産党きょうさんとう横井よこいあんふとし出会であう。飛車ひしゃかく横井よこいふくえ、飛車ひしゃかく川崎かわさき遊郭ゆうかくそばの舎弟しゃていやすのねぐらをたずね、やす女房にょうぼうからおとよの消息しょうそくおしえられる。たけとく奈良ならたいらんだとのことで、飛車ひしゃかく自首じしゅする。かれは、ななねん実刑じっけい市ヶ谷いちがや刑務所けいむしょおくられる。 横浜よこはま本牧ほんもくのユキホテルにもどるはずだったおとよは、玉ノ井たまのいうら売春ばいしゅんくつとす。そこでったおそでは、いまではおちょう名乗なのっている。ひさごきちは、日本にっぽん正論せいろんしゃ文壇ぶんだん二分にぶんする再建さいけんしゃ谷水たにみず社長しゃちょうからささえってみることをすすめられる。上海しゃんはいひさごきち予期よきせず吉良きらつね再会さいかいし、深夜しんや浦江うらえ川船かわぶねうえ故郷こきょうさんしゅう横須賀よこすか近況きんきょうく。

飛車ひしゃかく世話せわになっていた青木あおき一家かずやは、小金こがねがいよいよからだうごかなくなり、くみのことはやまけん仕切しきっている。ところがその弟分おとうとぶん宮川みやがわが、玉ノ井たまのいかよっているうちに、ってれてしまっのが、おとよ。飛車ひしゃかくおんなだとって、やまけんける。飛車ひしゃかくはそのあいだ市ヶ谷いちがやから前橋まえばし刑務所けいむしょうつされた。 飛車ひしゃかくが7ねん刑期けいきえて出所しゅっしょしてくると、出迎でむかえたのは吉良きらつねだった。この7ねんあいだに、小金こがね一家いっかがすっかりちぶれて、デカとら残党ざんとうあつめ、勢力せいりょくかえし、てらけんはくてつ袋叩ふくろだたきにされ、一家いっかはわずか3、4にんにまでになったこと。宮川みやがわがおとよをれて出奔しゅっぽんしてしまったことなどかされる。動揺どうようする飛車ひしゃかくに、吉良きらつねじつ宮川みやがわってほしいと、たせてあるんだと自分じぶんまいにれてく。宮川みやがわが、おとよとのことで飛車ひしゃかくあやまったあと3にんもうということになり、宮川みやがわさけいにく。しかし、かれ酒屋さかやにはかず、そのまますなまち太陽たいようシネマにき、デカとらりつける。宮川みやがわ現場げんばから逃走とうそうするが、警察けいさつつかまり、20日間にちかん勾留こうりゅうののち、本庁ほんちょうまわされるというところで、警察けいさつからし、吉良きらつねのもとにやってくる。飛車ひしゃかく吉良きらつね宮川みやがわをなんとかすくってやる算段さんだんをする。 うみきたホテルの一室いっしつひさごきちのもとに夏村かそん名古屋なごや選挙せんきょから、代議士だいぎし選挙せんきょってるので、応援おうえん依頼いらいにやってくる。 夏村かそん選挙せんきょ応援おうえん演説えんぜつのため名古屋なごやかう列車れっしゃなかで、ひさごきち石上いしがみらんがつ再会さいかいする。かれ応援おうえん演説えんぜつかうところだった。占拠せんきょには旧友きゅうゆうの吹岡もけつけていた。 選挙せんきょ運動うんどうえて、宿屋やどやもどったひさごきちのもとに、飛車ひしゃかく吉良きらつね容態ようだいきゅうげているとのらせをってやってくる。ひさごきち急遽きゅうきょ飛車ひしゃかく横須賀よこすかむらかう。吉良きらつね観月みづきホテルにいる。夏村かそん選挙せんきょ当選とうせんしたとのらせに気分きぶん高揚こうようするなかひさごきちとおそで見守みまもられて吉良きらつねいきる。通夜つや準備じゅんびすすなか、おとよが飛車ひしゃかくさがしていにる。飛車ひしゃかくはおとよへのおもいが、れず、さがしにくとちがいに出発しゅっぱつしたところだった。

風雲ふううんへん

編集へんしゅう

離愁りしゅうへん

編集へんしゅう

夢幻むげんへん

編集へんしゅう

望郷ぼうきょうへん

編集へんしゅう

モデルとの相関そうかん関係かんけい

編集へんしゅう

登場とうじょう人物じんぶつ一人ひとりである飛車ひしゃかくは、「ぶったぐりの彦」もしくは「ぼったくりの彦」とばれた戦前せんぜんヤクザ石黒いしぐろ彦市ひこいちがモデルとされる。しかし、石黒いしぐろ昭和しょうわ17ねん1942ねん)9がつ2にち右翼うよく団体だんたい大化たいかかい村岡むらおか建次けんじ暴力団ぼうりょくだん北星ほくせいかい会長かいちょう岡村おかむらわれいち)の舎弟しゃてい水原みずはら新太郎しんたろう本名ほんみょう菊池きくち貞雄さだお)に、東京とうきょう麹町こうじまち現在げんざい東京とうきょう千代田ちよだ)の政友せいゆうかい本部ほんぶちかくで銃撃じゅうげきされ、翌日よくじつ死亡しぼうしている。石黒いしぐろ彦市ひこいち自分じぶん恋人こいびとばした女衒ぜげんころしたのは事実じじつだが、小説しょうせつ映画えいがいさましい侠客きょうかくぶりとはことなり、恐喝きょうかつかえし、身内みうち高橋たかはし一家かずや生井いくい一家かずやなだちくさん代目だいめ高橋たかはし林太郎りんたろう舎弟しゃていぶん)の人間にんげんから意見いけんされるところして、親分おやぶん女房にょうぼうまできずつける凶悪きょうあく人物じんぶつとされ、戦後せんごになっても、映画えいが監督かんとく石井いしい輝男てるお安藤あんどうのぼるから「飛車ひしゃかくってのは本当ほんとうわるいやつでね」とおしえられたとしている[5]

そのみなみ喜一きいち(くるま嘉七かしち)、茂木もき久平きゅうへい(高見たかみつよしたいら)、高木たかぎいさお(新海しんかい一八かずや)、宇野うの千代ちよ(しょうきし照代てるよ)などが登場とうじょう人物じんぶつのモデルとして著名ちょめい

文学ぶんがく

編集へんしゅう

愛知あいちけん西尾にしお吉良きらまち宮崎みやざき吉良きら温泉おんせん三河湾みかわわんのぞ高台たかだいに、「人生じんせい劇場げきじょういしぶみ」がある。いし根府川ねぶかわせきで、文字もじ尾崎おざき士郎しろう本人ほんにんのもの。昭和しょうわ40ねん(1965ねん)に尾崎おざき士郎しろう顕彰けんしょうかいによっててられた。

これまでに14かい映画えいがされている。戦後せんご作品さくひんでは1968ねんばんと1972年版ねんばん有名ゆうめい

日活にっかつ内田吐夢うちだとむ監督かんとくばん

編集へんしゅう

詳細しょうさいは「人生じんせい劇場げきじょう (1936ねん映画えいが)」を参照さんしょう

人生じんせい劇場げきじょう
監督かんとく 内田吐夢うちだとむ
脚本きゃくほん 亀屋原かめやばらいさお
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
出演しゅつえんしゃ 小杉こすぎいさむ
飛田ひだ喜美雄きみお
吉田よしだ一子かずこ
山本やまもとあや三郎さぶろう
撮影さつえい 横田よこた達之たつゆき
製作せいさく会社かいしゃ 日活にっかつ
公開こうかい 1936ねん2がつ13にち
上映じょうえい時間じかん 118ふん
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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人生じんせい劇場げきじょう』の題名だいめいで、1936ねん昭和しょうわ11ねん2がつ13にち公開こうかい日活にっかつ多摩川たまがわ撮影さつえいしょ製作せいさく日活にっかつ配給はいきゅうモノクロスタンダード、117ふん現存げんそん49ふん[6])。だい13かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンだい2

日活にっかつ千葉ちば泰樹やすき監督かんとくばん

編集へんしゅう
人生じんせい劇場げきじょう ざん侠篇
監督かんとく 千葉ちば泰樹やすき
脚本きゃくほん 吉田よしだ二三夫ふみお
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
出演しゅつえんしゃ 片岡かたおか千恵ちえぞう
小杉こすぎいさむ
山本やまもとあや三郎さぶろう
高木たかぎ永二えいじ
撮影さつえい 長井ながい信一しんいち
製作せいさく会社かいしゃ 日活にっかつ
公開こうかい 1938ねん7がつ1にち
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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人生じんせい劇場げきじょう ざん侠篇』の題名だいめいで、1938ねん昭和しょうわ13ねん7がつ1にち公開こうかい日活にっかつ多摩川たまがわ撮影さつえいしょ製作せいさく日活にっかつ配給はいきゅうモノクロスタンダード

東映とうえい佐分利さぶりしん監督かんとくばん

編集へんしゅう
人生じんせい劇場げきじょう だい一部いちぶ 青春せいしゅん愛欲あいよくへん
人生じんせい劇場げきじょう だい ざん侠風くもへん
監督かんとく 佐分利さぶりしん
脚本きゃくほん 八木やぎ保太郎やすたろう
棚田たなだ吾郎ごろう
舟橋ふなばし和郎かずお(だい)
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
製作せいさく 大川おおかわひろし
出演しゅつえんしゃ 佐分利さぶりしん
北林きたばやしたにさかえ
舟橋ふなばしはじめ
加藤かとう与一よいち
音楽おんがく 早坂はやさか文雄ふみお
撮影さつえい 藤井ふじいしず
編集へんしゅう 河野こうの秋和あきわ
製作せいさく会社かいしゃ 東映とうえい
配給はいきゅう 東映とうえい
公開こうかい 1952ねん11月6にち(だい一部いちぶ)
1953ねん2がつ19にち(だい)
上映じょうえい時間じかん 78ふん(だい一部いちぶ)
112ふん(だい)
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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ぜん2さく東映とうえい東京とうきょう撮影さつえいしょ製作せいさく東映とうえい配給はいきゅうモノクロスタンダード

  • 1.人生じんせい劇場げきじょう だい一部いちぶ 青春せいしゅん愛欲あいよくへん』(1952ねん昭和しょうわ27ねん11月6にち公開こうかい、78ふん
  • 2.人生じんせい劇場げきじょう だい ざん侠風くもへん』(1953ねん昭和しょうわ28ねん)2がつ19にち公開こうかい、112ふん

東映とうえい萩原はぎはらりょう監督かんとくばん

編集へんしゅう
人生じんせい劇場げきじょう 望郷ぼうきょうへん さんしゅう吉良きらこう
監督かんとく 萩原はぎはらりょう
脚本きゃくほん 岡本おかもとつとむ
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
出演しゅつえんしゃ 宇野うの重吉しげよし
佐野さの周二しゅうじ
ほり雄二ゆうじ
宇佐美うさみ
音楽おんがく 伊福部いふくべあきら
撮影さつえい 永塚ながつか一栄かずえ
製作せいさく会社かいしゃ 東映とうえい
配給はいきゅう 東映とうえい
公開こうかい 1954ねん9月14にち
上映じょうえい時間じかん 107ふん
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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人生じんせい劇場げきじょう 望郷ぼうきょうへん さんしゅう吉良きらこう』の題名だいめいで、1954ねん昭和しょうわ29ねん9月14にち公開こうかい東映とうえい東京とうきょう撮影さつえいしょ製作せいさく東映とうえい配給はいきゅうモノクロスタンダード、107ふん

東宝とうほうすぎこう敏男としお監督かんとくばん

編集へんしゅう
人生じんせい劇場げきじょう 青春せいしゅんへん
監督かんとく すぎこう敏男としお
脚本きゃくほん 椎名しいなあや
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
製作せいさく 佐藤さとう一郎いちろう
出演しゅつえんしゃ 池部いけべりょう
森繁もりしげ久彌ひさや
志村しむらたかし
たきはな久子ひさこ
音楽おんがく 神津こうづ善行よしゆき
撮影さつえい かんくら泰一やすいち
編集へんしゅう 岩下いわした廣一ひろかず
製作せいさく会社かいしゃ 東宝とうほう
配給はいきゅう 東宝とうほう
公開こうかい 1958ねん11月23にち
上映じょうえい時間じかん 108ふん
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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人生じんせい劇場げきじょう 青春せいしゅんへん』の題名だいめいで、1958ねん昭和しょうわ33ねん11月23にち公開こうかい東宝とうほう製作せいさく配給はいきゅうカラー東宝とうほうスコープ、108ふん

大映だいえい弓削ゆげ太郎たろう監督かんとくばん

編集へんしゅう
しん人生じんせい劇場げきじょう
監督かんとく 弓削ゆげ太郎たろう
脚本きゃくほん 舟橋ふなばし和郎かずお
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
出演しゅつえんしゃ 藤巻ふじまきじゅん
かのう順子じゅんこ
うら洋子ようこ
川口かわぐちひろし
音楽おんがく 池野いけのしげる
撮影さつえい 石田いしだひろし
製作せいさく会社かいしゃ 大映だいえい
配給はいきゅう 大映だいえい
公開こうかい 1961ねん5月31にち
上映じょうえい時間じかん 85ふん
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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しん人生じんせい劇場げきじょう』の題名だいめいで、1961ねん昭和しょうわ36ねん5月31にち公開こうかい大映だいえい東京とうきょう撮影さつえいしょ製作せいさく大映だいえい配給はいきゅうカラー大映だいえいスコープ、85ふん

東映とうえいさわ島忠しまちゅう監督かんとくばん

編集へんしゅう

ぜん3さく東映とうえい東京とうきょう撮影さつえいしょ製作せいさく東映とうえい配給はいきゅうカラーシネマスコープ

日活にっかつ舛田ますだ利雄としお監督かんとくばん

編集へんしゅう
人生じんせい劇場げきじょう
監督かんとく 舛田ますだ利雄としお
脚本きゃくほん 棚田たなだ吾郎ごろう
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
出演しゅつえんしゃ 高橋たかはし英樹ひでき
松原まつばら智恵子ちえこ
宍戸ししどじょう
小池こいけ朝雄あさお
音楽おんがく 伊部いべ晴美はるみ
主題歌しゅだいか 高橋たかはし英樹ひでき人生じんせい劇場げきじょう
撮影さつえい 間宮まみや義雄よしお
編集へんしゅう 辻井つじい正則まさのり
製作せいさく会社かいしゃ 日活にっかつ
配給はいきゅう 日活にっかつ
公開こうかい 1964ねん2がつ23にち
上映じょうえい時間じかん 105ふん
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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人生じんせい劇場げきじょう』の題名だいめいで、1964ねん昭和しょうわ39ねん2がつ23にち公開こうかい日活にっかつ製作せいさく配給はいきゅうカラーシネマスコープ、105ふん

東映とうえい内田吐夢うちだとむ監督かんとくばん

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詳細しょうさいは「人生じんせい劇場げきじょう 飛車ひしゃかく吉良きらつね」を参照さんしょう
1968ねん昭和しょうわ43ねん10月25にち公開こうかい東映とうえい東京とうきょう撮影さつえいしょ製作せいさく東映とうえい配給はいきゅうカラーシネマスコープ、109ふん監督かんとく内田吐夢うちだとむ脚本きゃくほん棚田たなだ吾郎ごろうおも出演しゅつえん鶴田つるた浩二こうじ辰巳たつみ柳太郎りゅうたろう松方まつかた弘樹ひろきふじ純子じゅんこ高倉たかくらけん

松竹しょうちく加藤かとうやすし監督かんとくばん

編集へんしゅう
人生じんせい劇場げきじょう 青春せいしゅんへん 愛欲あいよくへん ざん侠篇
監督かんとく 加藤かとうやすし
脚本きゃくほん 野村のむら芳太郎よしたろう
三村みつむら晴彦はるひこ
加藤かとうやすし
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
製作せいさく 三嶋みしまあずかよん
野村のむら芳太郎よしたろう
杉崎すぎさき重美しげみ
出演しゅつえんしゃ 竹脇無我たけわきむが
森繁もりしげ久彌ひさや
津島つしま恵子けいこ
田宮たみや二郎じろう
音楽おんがく 鏑木かぶらきはじめ
主題歌しゅだいか 美空みそらひばり人生じんせい劇場げきじょう
撮影さつえい 丸山まるやまめぐみ
編集へんしゅう 大沢おおさわしづ
製作せいさく会社かいしゃ 松竹しょうちく
配給はいきゅう 松竹しょうちく
公開こうかい 1972ねん7がつ15にち
上映じょうえい時間じかん 167ふん
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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人生じんせい劇場げきじょう 青春せいしゅんへん 愛欲あいよくへん ざん侠篇』の題名だいめいで、1972ねん昭和しょうわ47ねん7がつ15にち公開こうかい松竹しょうちく製作せいさく配給はいきゅうカラービスタ、167ふん

東映とうえい深作ふかさく欣二きんじ佐藤さとうじゅんわたる中島なかじま貞夫さだお監督かんとくばん

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詳細しょうさいは「人生じんせい劇場げきじょう (1983ねん映画えいが)」を参照さんしょう

人生じんせい劇場げきじょう
監督かんとく 深作ふかさく欣二きんじ
佐藤さとうじゅんわたる
中島なかじま貞夫さだお
脚本きゃくほん 深作ふかさく欣二きんじ
佐藤さとうじゅんわたる
中島なかじま貞夫さだお
野上のかみ龍雄たつお
原作げんさく 尾崎おざき士郎しろう
出演しゅつえんしゃ 三船みふね敏郎としお永島ながしま敏行としゆき松坂まつさか慶子けいこ中井なかい貴恵きえ
製作せいさく会社かいしゃ 東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ
配給はいきゅう 東映とうえい
公開こうかい 1983ねん1がつ29にち
上映じょうえい時間じかん 138ふん
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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人生じんせい劇場げきじょう』の題名だいめいで、1983ねん昭和しょうわ58ねん1がつ29にち公開こうかい東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ製作せいさく東映とうえい配給はいきゅうカラーワイド、138ふん

監督かんとく深作ふかさく欣二きんじ佐藤さとうじゅんわたる中島なかじま貞夫さだお脚本きゃくほん深作ふかさく佐藤さとう中島なかじま野上のかみ龍雄たつおおも出演しゅつえん三船みふね敏郎としお永島ながしま敏行としゆき松坂まつさか慶子けいこ中井なかい貴恵きえ

舞台ぶたい作品さくひん

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戦前せんぜん

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連載れんさいちゅうの1935ねんには、はやくも当時とうじ新築地しんつきじ劇団げきだんによって舞台ぶたいされた[9]

げき作家さっか宮本みやもとけん脚色きゃくしょくにより「ざん侠篇」が『こんひとたびの修羅しゅら』のだい舞台ぶたいされている。

歌謡かようきょく人生じんせい劇場げきじょう

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人生じんせい劇場げきじょう
村田むらた英雄ひでおシングル
リリース
録音ろくおん   日本にっぽん
ジャンル 演歌えんか
レーベル 日本にほんコロムビア
作詞さくし作曲さっきょく 佐藤さとう惣之助そうのすけ作詞さくし
古賀こが政男まさお作曲さっきょく
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続々ぞくぞくざん侠篇」が刊行かんこうされた翌年よくねんの1938ねん昭和しょうわ13ねん)にはほん作品さくひん題材だいざいとした、佐藤さとう惣之助そうのすけ作詞さくし古賀こが政男まさお作曲さっきょく歌謡かようきょく人生じんせい劇場げきじょう」が楠木くすのき繁夫しげおうたとして発表はっぴょうされ、ひろられている。とく早稲田大学わせだだいがく出身しゅっしんしゃ学生がくせい愛唱あいしょうされ、「だい早稲田大学わせだだいがく校歌こうか」ともわれている。後年こうねんには中島なかじまたかし村田むらた英雄ひでおによってもうたわれた。とく村田むらたばんめい唱としてられ、1965ねんはんテレビドラマ(製作せいさく フジテレビ日本にっぽん電波でんぱ映画えいが監修かんしゅう 渡辺わたなべ邦男くにお)の主題歌しゅだいかにも使つかわれ、いまでは[いつ?]村田むらた英雄ひでおほん楽曲がっきょくのオリジナル歌手かしゅだと認識にんしきされることもおおい。1971ねん(昭和しょうわ46ねん)にはふじ圭子けいこがLP『圭子けいこ人生じんせい劇場げきじょう』でカバー。

映画えいが監督かんとく古澤ふるさわ憲吾けんごが『軍艦ぐんかん行進曲こうしんきょく』にいで映画えいが使用しようするきょくで、『日本一にっぽんいちのホラおとこ』や『日本一にっぽんいちのゴマすりおとこ』といったクレージー映画えいがはじめ、『ぞくわかぶし』や『幕末ばくまつてなもんやだい騒動そうどう』でも使用しようしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 挿絵さしえ中川なかがわ一政かずまさ担当たんとうした
  2. ^ 人生じんせい劇場げきじょう世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はんコトバンク、2015ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ 都築つづき久義ひさよし早稲田わせだ青春せいしゅん:「人生じんせい劇場げきじょう」の舞台ぶたい」『愛知淑徳大学あいちしゅくとくだいがく論集ろんしゅう 文学部ぶんがくぶ文学ぶんがく研究けんきゅうへんだい36ごう愛知淑徳大学あいちしゅくとくだいがく文学部ぶんがくぶ、2011ねん、166-156ぺーじISSN 13495496NAID 1200050379522021ねん11月11にち閲覧えつらん もともとの出典しゅってんは、とみあん玲子れいこ教職きょうしょく課程かてい総合そうごう演習えんしゅう」における「ジェンダーと教育きょういく」『愛知淑徳大学あいちしゅくとくだいがく論集ろんしゅう 文学部ぶんがくぶ文学ぶんがく研究けんきゅうへんだい36ごう愛知淑徳大学あいちしゅくとくだいがく文学部ぶんがくぶ、2011ねん、1-14ぺーじISSN 13495496NAID 120005037945 
  4. ^ 当時とうじ尾崎おざき士郎しろう自身じしん述懐じゅっかいは、『わたし履歴りれきしょ<だい19しゅう>』1963ねん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ
  5. ^ 飯干いいぼし晃一こういちおおかみどもの仁義じんぎ』(角川書店かどかわしょてん)、猪野いいの健治けんじ実録じつろく人生じんせい劇場げきじょう』(双葉社ふたばしゃ
  6. ^ 人生じんせい劇場げきじょう東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター所蔵しょぞう映画えいがフィルム検索けんさくシステム、2015ねん10がつ24にち
  7. ^ a b しん人生じんせい劇場げきじょう - KINENOTE、2022ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ a b しん人生じんせい劇場げきじょう”. 角川かどかわ映画えいが. 2021ねん9がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ 﨑士ろう記念きねんかん企画きかくてん士郎しろう作品さくひん中川なかがわ一政かずまさ挿絵さしえ装丁そうてい世界せかい特集とくしゅう (PDF) - 西尾にしお(2010ねん - 2011ねん企画きかくてん資料しりょう

関連かんれん項目こうもく

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