(Translated by https://www.hiragana.jp/)
山岡久乃 - Wikipedia

山岡やまおか久乃ひさの

日本にっぽん女優じょゆう (1926-1999)

山岡やまおか 久乃ひさの(やまおか ひさの、1926ねん大正たいしょう15ねん8がつ27にち[1] - 1999ねん平成へいせい11ねん2がつ15にち)は、日本にっぽん女優じょゆう

やまおか ひさの
山岡やまおか 久乃ひさの
本名ほんみょう 山岡やまおか 比佐ひさ乃(やまおか ひさの)
生年月日せいねんがっぴ (1926-08-27) 1926ねん8がつ27にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1999-02-15) 1999ねん2がつ15にち(72さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう大田おおた
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん川崎かわさき
身長しんちょう 162 cm
血液けつえきがた Aがた
ジャンル 女優じょゆう声優せいゆう
活動かつどう期間きかん 1946ねん - 1999ねん
配偶はいぐうしゃ 森塚もりづかさとし
(1956ねん - 1971ねん)
おも作品さくひん
テレビドラマ
映画えいが
 
受賞じゅしょう
毎日まいにち映画えいがコンクール
女優じょゆう助演じょえんしょう
1968ねんねむれる美女びじょ
おんな味噌汁みそしる
カモとねぎ
ギャラクシーしょう
菊田きくた一夫かずお演劇えんげきしょう
文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさいしょう
紫綬褒章しじゅほうしょう
くんよんとう宝冠章ほうかんしょう
テンプレートを表示ひょうじ

東京とうきょう東京とうきょう大森おおもり馬込まごめまれ。身長しんちょう162cm、体重たいじゅう49kg。趣味しゅみ乗馬じょうば手芸しゅげい特技とくぎスキー過去かこ出演しゅつえん作品さくひんについては権利けんり継承けいしょうしゃである養女ようじょからオフィス天童てんどう[2]委任いにんされている。生涯しょうがいのテレビドラマ本数ほんすうは400ほん以上いじょうにものぼる。

来歴らいれき人物じんぶつ

編集へんしゅう

役者やくしゃデビュー

編集へんしゅう

1942ねん33期生きせいとして宝塚たからづか音楽おんがく舞踊ぶよう学校がっこう入学にゅうがく男役おとこやく志望しぼう清澄せいちょうあきらの芸名げいめい予定よていしていたが、太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ進展しんてんにより劇団げきだん生活せいかつ限界げんかいかんじ、いち舞台ぶたいつことなく1944ねん音楽おんがく学校がっこう中途ちゅうと退学たいがくする。

終戦しゅうせんあらためて俳優座はいゆうざ養成ようせいしょ演技えんぎ勉強べんきょうをしなおし、1946ねん俳優座はいゆうざ正式せいしき入団にゅうだん[3]同年どうねんの『文化ぶんか議員ぎいん』で初舞台はつぶたいむ。はつ出演しゅつえん映画えいがは1953ねんの『やっさもっさ』である。1954ねんには、おな俳優座はいゆうざじゅん劇団げきだんいんだったあずま恵美子えみこ初井はついげんさかえらとともに劇団げきだん青年せいねん結成けっせい[1]。その日活にっかつ専属せんぞく契約けいやくむすおおくの映画えいが出演しゅつえんし、青年せいねんそうせい屋台骨やたいぼねとして劇団げきだんささえる。以来いらい舞台ぶたいをはじめ映像えいぞう分野ぶんやでも幅広はばひろ活躍かつやくする総合そうごう女優じょゆうとして活躍かつやくした。

1956ねんおな青年せいねん創立そうりつメンバーだった俳優はいゆう森塚もりづかさとし結婚けっこんするも1971ねん離婚りこんした。離婚りこん同年どうねん青年せいねん退団たいだん[1]。その終世しゅうせい独身どくしんとおした。

テレビの世界せかい

編集へんしゅう

山岡やまおかのテレビドラマはつ出演しゅつえんは1953ねんNHK竜舌蘭りゅうぜつらんちかい』とされる[よう出典しゅってん]本名ほんみょう山岡やまおか比佐ひさ乃での主演しゅえんさくであった。以後いご脇役わきやく中心ちゅうしんに、おおくのテレビドラマに出演しゅつえんするかたわら、契約けいやくれる1960年代ねんだい中盤ちゅうばんまで日活にっかつ映画えいがにも数多かずおお出演しゅつえんした。1966ねんには、主演しゅえん映画えいがこころの山脈さんみゃく』も公開こうかいされ、女優じょゆうとしてステップアップしていった。

1970ねんの『ありがとう』で役者やくしゃとしての人気にんき決定けっていける。ドラマはむすめやく水前寺すいぜんじ清子きよことのコンビが評判ひょうばんとなり、視聴しちょうりつ50%を突破とっぱして「怪物かいぶつドラマ」とばれた。この作品さくひん契機けいきもり光子みつこ加藤かとう治子はるこ京塚きょうづか昌子まさこらとともに、しろ割烹かっぽう似合にあう「おかあさん女優じょゆう」としての地位ちい確立かくりつした[3]以後いご山岡やまおかおおくのホームドラマで母親ははおややくえんつづけ、「日本にっぽんのおかあさん」としてしたわれた[1]とくにTBS系列けいれつのホームドラマでえんじる役柄やくがら人気にんきたかく、代表だいひょうさくといえるものもおおい。

TBS火曜かよう9わく連続れんぞくドラマには1972ねん10がつ~1973ねん9がつの『みんなで7にん』(この作品さくひんのみ930ふんからの放送ほうそう)から1976ねん9がつ~1977ねん4がつの『三男さんなんさん女婿じょせいいちひきだい1シリーズ)』まで、途切とぎれることなく連続れんぞくして出演しゅつえんしている。このうち『みんなで7にん』、『家族かぞくあわせ』(1974ねん10がつ〜1975ねん3がつ)、『いごこち満点まんてん』(1976ねん4がつ~9がつ)はトップクレジットの主演しゅえんさくで、『あんたがたどこさ(だい1シリーズ)』(1973ねん10がつ~1974ねん3がつ)、『あんたがたどこさ(だい2シリーズ)』(1975ねん4がつ~9がつ)、『三男さんなんさん女婿じょせいいちひきだい1シリーズ)』の3さくは、森繁もりしげとの夫婦ふうふやくもりしげるじゅん主役しゅやくでの出演しゅつえんであった。

ミス・マープル』シリーズのえも好評こうひょうであり、新劇しんげき出身しゅっしんであることをあらためて印象いんしょうけた。

ドラマ降板こうばん騒動そうどうについて

編集へんしゅう

突然とつぜん降板こうばん臆測おくそくについて

編集へんしゅう

1998ねん10がつ1にち山岡やまおか晩年ばんねん代表だいひょうさくともえる1990ねんからつづいてきたドラマ『わた世間せけんおにばかり』シリーズの主演しゅえん岡倉おかくら節子せつこやく降板こうばんあきらかになった[4]山岡やまおかえんじる節子せつこは「海外かいがい旅行りょこうさき急死きゅうしした」という設定せっていで、げきちゅういちかおこえ登場とうじょうしないままの降板こうばんとなった[4]。そのため、世間せけんでは数々かずかず臆測おくそくんだ。TBSは山岡やまおか降板こうばんにあたり、異例いれいの「山岡やまおか降板こうばん説明せつめい記者きしゃ会見かいけん」をマスコミにたいしてひらき、6月1にちけの山岡やまおか本人ほんにん診断しんだんしょ結果けっかけて「正式せいしき出演しゅつえん困難こんなん判断はんだんした」とマスコミ各社かくしゃ説明せつめいした[4]だい3シリーズ終了しゅうりょうシリーズへの出演しゅつえん拒否きょひ意思いしつらぬ山岡やまおかたいし、橋田はしだ石井いしいなん出演しゅつえん要請ようせいをするが、山岡やまおか意思いしわらなかった。これにたい橋田はしだがTBSに「山岡やまおかさんなしではドラマがりたないので、もうこのドラマはやめましょう」と方針ほうしんつたえたが、人気にんき番組ばんぐみとなっているためTBSは納得なっとくせず、節子せつこ死亡しぼうした設定せっていにして脚本きゃくほんつくえ、製作せいさくすることとなった。TBSは先述せんじゅつ会見かいけんで「ああいう(急死きゅうしの)かたちにしたことは山岡やまおかさんにも了解りょうかいしてもらっています」と説明せつめいした[4]。これにともない、小島こじま五月さつきやくいずみピン主役しゅやく昇格しょうかくした[4]最後さいごのOPクレジットにおいては、だい3シリーズ総集編そうしゅうへんまれたうえにスタート時点じてん生存せいぞん設定せっていであっただい4シリーズだい1が、OPで山岡やまおか名前なまえった最後さいごかいとなった。ちなみに、山岡やまおかだい3シリーズ放送ほうそう終了しゅうりょう、1997ねん国際こくさい演劇えんげきがつ参加さんか作品さくひん東宝とうほう現代げんだいげき5・6がつ特別とくべつ公演こうえんわた世間せけんおにばかり3」の舞台ぶたいばんまで岡倉おかくら節子せつこやくえんじており、岡倉おかくら節子せつこやく最後さいごえんじたのはテレビではなく、この舞台ぶたい公演こうえんであった。1997ねん6がつ29にち国際こくさい演劇えんげきがつ参加さんか作品さくひん東宝とうほう現代げんだいげきでの公演こうえん岡倉おかくら節子せつこえんじた最後さいご公演こうえんである。

理由りゆうのはっきりしない山岡やまおか突然とつぜん降板こうばんは、民放みんぽう各局かくきょくワイドショー週刊しゅうかんなどを中心ちゅうしん世間せけんさわがすことになった(実際じっさい降板こうばん理由りゆう下記かきとおりで山岡やまおか既定きてい路線ろせんだったのだが、これにれたメディアはない)。山岡やまおか認知にんちしょう発症はっしょうせつ山岡やまおか橋田はしだ確執かくしつせつ山岡やまおか橋田はしたへの報復ほうふくせつなどもうわさされることとなった[4]当時とうじメディア出演しゅつえんおおくあった橋田はしだが「山岡やまおかさんはわたしのことがよっぽどおきらいなんでしょうね」などと山岡やまおかへの不用意ふようい発言はつげん度々たびたびったことも騒動そうどうあぶらそそいだ。だい4シリーズ放送ほうそう開始かいし山岡やまおかきもかんがんであることを公表こうひょうし、がん公表こうひょうまえだい3シリーズ出演しゅつえんちゅう時点じてんつぎシリーズの出演しゅつえん意思いしはなかった。

降板こうばん理由りゆうについて

編集へんしゅう

山岡やまおか実際じっさい降板こうばん理由りゆうは、「パート3撮影さつえい発覚はっかくした石井いしい脱税だつぜい騒動そうどう自分じぶん名前なまえ脱税だつぜいのために勝手かって利用りようされていたことによる石井いしいへの不信ふしんかんと(きもかんがん発症はっしょうまえに)そうきもかん結石けっせきおよびきも機能きのう障害しょうがいのため体調たいちょうくずし、自身じしん年齢ねんれいかんがえて、今後こんご自分じぶんきな仕事しごとだけをしていくとめたためだった」と、山岡やまおか死去しきょ週刊しゅうかんほうじられた。また、これとときおなじくして東京とうきょうにあったまいをはらい、愛知あいちけん豊田とよだ知人ちじん開設かいせつする予定よていてていた老人ろうじんホームに「おわりの棲家」として入所にゅうしょすることをめており、しの準備じゅんびもパート3が放送ほうそうされた時期じきにはすではじめていたという(そのさい財産ざいさん整理せいりという意味合いみあいからめい養子ようし縁組えんぐみむすんでいる)。極秘ごくひ藤岡ふじおか琢也たくやのみにこんシリーズかぎりでりるとはなしていたという。山岡やまおか病状びょうじょう経過けいかとしては、だい3シリーズ放送ほうそう終了しゅうりょう直前ちょくぜんの1997ねん2がつそうきもかん結石けっせきおよきも機能きのう障害しょうがいのため体調たいちょうくずし、『わたりおに』の撮影さつえいすべえた3がつ手術しゅじゅつけたが7がつにはきもかんがん(ステージ4)を宣告せんこくされた。しかし、山岡やまおかはドラマと舞台ぶたい仕事しごと事前じぜんまっていたものにかんしては予定よていどお出演しゅつえんつづけ、1998ねん2がつ日生劇場にっせいげきじょうでの舞台ぶたい「おもろいおんな」(もり光子みつこ芦屋あしや雁之助がんのすけらと共演きょうえん)が山岡やまおか生涯しょうがい最後さいご仕事しごととなった。[よう出典しゅってん]

1998ねん12月、みずからがきもかんがんわずらっていることを告白こくはく[1][4]同月どうげつ15にち所属しょぞく事務所じむしょつうじて山岡やまおかは「70ねんぱしってきてそろそろゆっくりあるいてこうかとおもっていた矢先やさきに『がん』という最悪さいあくのシナリオをいただいてしまいました。ただ、さいわいなことに、このシナリオには結末けつまついてありません。わたし自由じゆうえんじていいことになっているんですね。ちからはいりますよ。もうすこ時間じかんがかかるとおもいますが、しばらくこの女優じょゆう底力そこぢから見守みまもってください」というコメントを発表はっぴょうした[4]。この発表はっぴょういた橋田はしだもそれまでの自分じぶん発言はつげんい、神社じんじゃへおひゃくまいりし山岡やまおか回復かいふくいのったという。

しかし、上記じょうきのコメント発表はっぴょうからわずか2ヶ月かげつの1999ねん2がつ15にち午後ごご1002ふん山岡やまおかきもかんがんによる心不全しんふぜんのため親族しんぞく八千草やちぐさかおる長山ながやま藍子あいこ石井いしいふくらに看取みとられ神奈川かながわけん川崎かわさき病院びょういん死去しきょした[1]。72さいぼつ

1998ねん1がつ6にち放送ほうそうされた、日本にほんテレビ開局かいきょく45周年しゅうねん記念きねんドラマ『よめとり婿むことりだい騒動そうどう』への出演しゅつえんがテレビドラマにおける最後さいご出演しゅつえんとなった。1998ねん2がつ日生劇場にっせいげきじょうでの舞台ぶたい『おもろいおんな』(もり光子みつこ芦屋あしや雁之助がんのすけらと共演きょうえん)が山岡やまおか生涯しょうがい最後さいご仕事しごととなり、黄疸おうだん化粧けしょうかくして病状びょうじょう悪化あっかするなか千秋楽せんしゅうらくまでえんじきった映像えいぞうのこされている。同年どうねん7がつ8がつ芸術座げいじゅつざ予定よていされていた単独たんどく座長ざちょう公演こうえんつきひかり』の舞台ぶたいめず、山岡やまおか代役だいやく親友しんゆう池内いけうちつとめた(のちに池内いけうちは『つきひかり』による演技えんぎ菊田きくた一夫かずお演劇えんげき大賞たいしょうとう受賞じゅしょうした)。

なお、山岡やまおか死去しきょ各局かくきょくのニュース速報そくほうでもながれ、連日れんじつのワイドショーなどでもおおきく報道ほうどうされ一部いちぶスポーツではいちめんトップ記事きじあつかいにもなった。築地つきじ本願寺ほんがんじおこなわれた通夜つや葬儀そうぎには、八千草やちぐさかおる黒柳くろやなぎ徹子てつこ草笛くさぶえ光子こうし池内いけうち淳子じゅんこ若尾わかお文子ふみこ野村のむら昭子あきこ小林こばやし桂樹けいじゅ高倉たかくらけん赤木あかぎ春恵はるえきょう唄子うたこ井上いのうえじゅん森繁もりしげ久彌ひさや植草うえくさ克秀かつひで吉村よしむらすずかえなりかずき山田やまだ雅人まさと石坂いしざか浩二こうじ角野かくの卓造たくぞういずみピン中田なかた喜子のぶこ野村のむら真美まみ藤田ふじた朋子ともこ麻生あそう美代子みよこ橋田はしだ壽賀子すがこ藤岡ふじおか琢也たくや萬田まんだ久子ひさこ高橋たかはし由美子ゆみこ東山ひがしやま紀之のりゆき麻丘あさおかめぐみ水前寺すいぜんじ清子きよこ沢田さわだ雅美まさみあずまてる宇津井うついけん山本やまもとまなぶ前田まえだぎん三田村みたむら邦彦くにひこ山村やまむらさとし池部いけべりょう加藤かとう治子はるこ淡島あわしま千景ちかげ奈良岡ならおか朋子ともこ佐野さの浅夫あさお篠田しのだ三郎さぶろう香川かがわ照之てるゆき船越ふなこし英一郎えいいちろう夏木なつき陽介ようすけ和田わだアキ子あきこ大鹿おおしか次代じだいなど、おおくの俳優はいゆう仲間なかま後輩こうはいおとずれ、一般いっぱん参列さんれつしゃおおおとずれた。「これだけ大物おおもの俳優はいゆう女優じょゆうそろ通夜つや葬儀そうぎめずらしい」とひょうされるほどだった。

喪主もしゅ山岡やまおか養女ようじょつとめ、通夜つや葬儀そうぎ演出えんしゅつ石井いしい担当たんとうし、葬儀そうぎ司会しかい井上いのうえじゅん担当たんとう弔辞ちょうじもり光子みつこ長山ながやま藍子あいこ蜷川にながわ幸雄ゆきおんだ。かん葬儀そうぎじょうりのさい山岡やまおかかんせたくるまが1あいだをかけて明治めいじ帝国ていこく劇場げきじょう芸術座げいじゅつざをまわり、沿道えんどうには1まんにんのファンがあつまった。戒名かいみょうは「はないさおいんみょう伎日ひさ大姉だいし」。山岡やまおか遺体いたい渋谷しぶや代々だいだいはた斎場さいじょう荼毘だびされた。墓地ぼち東京とうきょう墨田すみだほうおんてら

同年どうねん2がつ19にちにTBSが放送ほうそうした山岡やまおか追悼ついとう番組ばんぐみは18.6%の視聴しちょうりつ記録きろくした。  

面倒めんどうさ、事務所じむしょ掃除そうじいんやスタッフへ手料理てりょうり振舞ふるまうなど気前きまえく「おかあさん」としたわれていた。「じゅん主役しゅやくきゅう脇役わきやく」としての印象いんしょうつよいが、1970年代ねんだい以降いこう主演しゅえんおおかった。また、2あいだドラマの主演しゅえんおおかった。

石井いしいふく橋田はしだ壽賀子すがこ関係かんけいする作品さくひん起用きようされる機会きかいおおかったため、「石井いしいファミリー(橋田はしだぐみ)」の筆頭ひっとうかくなされていた。もり光子みつこをはじめ、杉村すぎむら春子はるこ山田やまだ五十鈴いすず加藤かとう治子はるこ赤木あかぎ春恵はるえ菅井すがいきん麻生あそう美代子みよこ杉山すぎやまとく佐々木ささきすみ奈良岡ならおか朋子ともこ八千草やちぐさかおる香川かがわ京子きょうこ河内かわうち桃子ももこ黒柳くろやなぎ徹子てつこ草笛くさぶえ光子こうし池内いけうち淳子じゅんこ若尾わかお文子ふみこらとは共演きょうえんおおかった。また加藤かとう麻生あそうはち千草ちぐさ黒柳くろやなぎ池内いけうち三崎みさき千恵子ちえこなどとも交流こうりゅうがあった。とくに、和田わだ沢田さわだ麻丘あさおかなどはむすめのように可愛かわいいがっていたという。宝塚歌劇団たからづかかげきだん先輩せんぱいでもあった乙羽おとわ信子のぶことはむかしからドラマなどで共演きょうえんおおく、なかかったという。山村やまむらさとし森繁もりしげ久彌ひさや千秋ちあきみのるさん國連こくれん太郎たろう小林こばやし桂樹けいじゅ藤岡ふじおか琢也たくや夫婦ふうふやくえんじたこともある。

晩年ばんねん池内いけうち黒柳くろやなぎの3にん一緒いっしょ有料ゆうりょう老人ろうじん介護かいご施設しせつ入居にゅうきょして隠居いんきょ生活せいかつをしようと約束やくそくをしており、のち夏木なつき陽介ようすけ約束やくそくくわわった[5][6]

おかみさんだいおんなたたか』で共演きょうえんした当時とうじ人気にんき絶頂ぜっちょうのアイドルでもある高橋たかはし由美子ゆみこ素行そこうわるさに激怒げきどし、「このチンピラ!!」と一喝いっかつしたことがある。ただ、山岡やまおかのこのけんについては週刊しゅうかんとうによる後追あとお記事きじで、おおげさに報道ほうどうされた側面そくめんおおきい。実際じっさいには番組ばんぐみ制作せいさく発表はっぴょうさい山岡やまおかが「高橋たかはし由美子ゆみこ)さんは演技えんぎでは優等生ゆうとうせいだけど、もしわたしだったら、あんなチンピラに旅館りょかん女将おかみまかせない」という発言はつげんをしたことが発端ほったんとされており、のち高橋たかはし自身じしんが『徹子てつこ部屋へや』において「あれは女子じょし高校生こうこうせい旅館りょかん女将おかみ抜擢ばってきされるというドラマ設定せっていまえた発言はつげんで、実際じっさい山岡やまおかさんはやさしかった」と発言はつげんし、また生前せいぜん山岡やまおかとの親交しんこうふかかった黒柳くろやなぎも「山岡やまおかさんは(本心ほんしんで)そんなことをおっしゃるほうではない」と発言はつげんした。なお、山岡やまおか使つかった「チンピラ」という言葉ことば自体じたい元来がんらいしの若輩じゃくはいしゃ」といったニュアンスでも使つかわれることから、かならずしも高橋たかはし本人ほんにん素行そこうわるさを指摘してきした言葉ことばであったかどうかは、いまとなっては不明ふめいのままである。[よう出典しゅってん]

また、山岡やまおかはドラマ『あんたがたどこさ』や『三男さんなんさん女婿じょせいいちひきだい2シリーズ)』とう共演きょうえんした、傍若無人ぼうじゃくぶじんいの和田わだしかけたことがある。山岡やまおか叱咤しったによって改心かいしんした和田わだ以降いこう山岡やまおかのことを「おっかあ」としたうようになった。ちなみに山岡やまおかバラエティ番組ばんぐみにゲスト出演しゅつえんしたさい、「もっと印象いんしょうのこっているむすめやく和田わだアキ子あきこ」とこたえている。[よう出典しゅってん]

さらに舞台ぶたい山岡やまおか共演きょうえんした麻丘あさおかたいしては、役柄やくがらになりきれず苦戦くせんする麻丘あさおかかねて演技えんぎ指導しどうって通常つうじょう稽古けいこまえに1たい1で演技えんぎをつけたという。そのさい「あなたには生活せいかつかんがまったくない。『麻丘あさおかめぐみ』がわれたとおりそこにすわっているだけ」など容赦ようしゃない言葉ことばんだが、おかげでなんとか舞台ぶたいった麻丘あさおかは、のち山岡やまおかを「師匠ししょう」としたっていた。[よう出典しゅってん]

夫婦ふうふやくとして共演きょうえんおおかったもりしげるによると「みんな(山岡やまおかに)おこられた」とのこと。ひだりとんぺいによれば、「森繁もりしげ先生せんせいおこれるのは山岡やまおかさんだけだった」とのこと。ただ、それだけまわりからしたわれていても、芸能人げいのうじんのように「ファミリー」てきなつながりはつくらず、そのかたじつにさっぱりしたものであったという。[よう出典しゅってん]

評価ひょうか

編集へんしゅう

演劇えんげき評論ひょうろん藤田ふじたひろし山岡やまおか演技えんぎりょく存在そんざいかんみとめ、「“おかあさん女優じょゆう”として、あたたかさときびしさをあわった母親ははおややくをうまくえんじてきた。」とひょうした[1]

受賞じゅしょう

編集へんしゅう

出演しゅつえん作品さくひん

編集へんしゅう

テレビドラマ

編集へんしゅう

日本にほんテレビ

編集へんしゅう

TBS系列けいれつ

編集へんしゅう

テレビ朝日てれびあさひ

編集へんしゅう
  • すまま(1962ねんだい15とも遠方えんぽうよりたる」
  • よめしゅうとやせがまん、ダイエット合戦かっせん(1987ねん
  • はぐれ刑事けいじ純情じゅんじょう(1990ねん)- 遠井といキミヨ
  • 新春しんしゅんドラマスペシャル・家族かぞく日和びより'93(1993ねん1がつ1にち)- 間宮まみや和子かずこ
  • うしなわれたとき・おんなたちの太平洋戦争たいへいようせんそうII(1993ねん
  • 流水りゅうすいきょう
文化庁ぶんかちょう芸術げいじゅつさいしょう菊田きくた一夫かずお演劇えんげきしょう受賞じゅしょう
  • おもろいおんな※1998ねん2がつ日生劇場にっせいげきじょう山岡やまおか生涯しょうがい最後さいご仕事しごととなった。黄疸おうだん化粧けしょうかくして千秋楽せんしゅうらくまでえんじた映像えいぞうのこされている。
  • かり
  • 近松ちかまつ心中しんちゅうの物語ものがたり
  • 元禄げんろくみなと
  • ハムレット
  • つるひさしだい
  • ナポリの王様おうさま
  • おしん
  • はるかなり山河さんが
  • さくらひめ
  • はつつぼみ
  • レティスとラベッジ
  • 夫婦ふうふ
  • トーチソングトリロジー
  • もず
  • わた世間せけんおにばかり(ふくすうかい上演じょうえんされていたが、だい3シリーズ放送ほうそう終了しゅうりょうの1997ねん国際こくさい演劇えんげきがつ参加さんか作品さくひん東宝とうほう現代げんだいげき5・6がつ特別とくべつ公演こうえんわた世間せけんおにばかり3」の舞台ぶたいばんまで岡倉おかくら節子せつこやくえんじており、岡倉おかくら節子せつこやく最後さいごえんじたのはテレビではなくこの舞台ぶたい公演こうえんとなった)
  • 幸福こうふく
  • かたき同志どうし
  • ゆめせんだい日記にっき
  • 田川たがわのおせん
  • うちのおばあちゃん
  • 結婚けっこんする手続てつづ
  • いくじなし
  • 友達ともだち

編集へんしゅう

劇場げきじょうアニメ

編集へんしゅう

広告こうこく

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d e f g h i 山岡やまおか久乃ひさのさん死去しきょ”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ): p. 39. (1999ねん2がつ16にち) 
  2. ^ オフィス天童てんどう. “オフィス天童てんどう office-TENDO トップページ”. 2017ねん6がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 山岡やまおか久乃ひさの人物じんぶつ|NHKアーカイブス”. NHKアーカイブス. NHK. 2023ねん12月15にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h わたりおに降板こうばん病魔びょうまたたかった山岡やまおか久乃ひさの|プレイバック芸能げいのうスキャンダル”. 日刊にっかんゲンダイDIGITAL (2014ねん1がつ8にち). 2023ねん12月15にち閲覧えつらん
  5. ^ 黒柳くろやなぎ徹子てつこ盟友めいゆう池内いけうち淳子じゅんこに「本当ほんとういままでの友情ゆうじょう、ありがとう」となみだのコメント”. ウォーカープラス (2010ねん10がつ1にち). 2015ねん2がつ9にち閲覧えつらん
  6. ^ TVでたぞう「2010ねん9がつ24にち放送ほうそう てっ部屋へや”. ワイヤーアクション (2010ねん9がつ24にち). 2015ねん2がつ9にち閲覧えつらん
  7. ^ だい7かい(1969年度ねんど期間きかん選奨せんしょう”. 放送ほうそう批評ひひょう懇談こんだんかい. 2015ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  8. ^ 日本にっぽん演劇えんげき協会きょうかい へん年刊ねんかんラジオドラマ』《だい4しゅうたからぶんかん、1956ねん、298ぺーじ 
  9. ^ 読売新聞よみうりしんぶん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ。1976ねん9がつ4にち夕刊ゆうかん ニッポンハム広告こうこく「ウイニー発売はつばい10周年しゅうねん記念きねん ヨーロッパへご招待しょうたい」より。7ぺーじ

外部がいぶリンク

編集へんしゅう