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同志社大学体育会硬式野球部 - Wikipedia

同志社大学どうししゃだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう

日本にっぽん大学だいがく野球やきゅうチーム

同志社大学どうししゃだいがく硬式こうしき野球やきゅう(どうししゃだいがくこうしきやきゅうぶ)は、関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめい所属しょぞくする大学だいがく野球やきゅうチーム。同志社大学どうししゃだいがく学生がくせいによって構成こうせいされている。ユニフォームの表記ひょうきは「DOSHISHA」、帽子ぼうしは「D」の一文字ひともじ立命館大学りつめいかんだいがくとのどうだてせん看板かんばんカードとなっている。

同志社大学どうししゃだいがく硬式こうしき野球やきゅう
明治めいじ同志社どうししゃ野球やきゅうチーム
加盟かめい団体だんたい 関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめい
本拠地ほんきょち 京都きょうと京田辺きょうたなべ多々羅たたらたに1-3 同志社大学どうししゃだいがく体育たいいくハウス2
創部そうぶ 1891ねん明治めいじ24ねん
監督かんとく 花野はなのたくみ
公式こうしきサイト 公式こうしきウェブサイト
リーグせん成績せいせき
リーグ成績せいせき 優勝ゆうしょう 26かい
全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい
出場しゅつじょう回数かいすう 6かい
最高さいこう成績せいせき じゅん優勝ゆうしょう 1かい
明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい
出場しゅつじょう回数かいすう 7かい
最高さいこう成績せいせき 優勝ゆうしょう 2かい
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1889ねん明治めいじ22ねんごろ同志社どうししゃ学生がくせいあいだ野球やきゅうひろまりはじめる。「同志社どうししゃ野球やきゅう明治めいじじゅうねんごろ正門せいもんから今出川いまでがわどおはさんですぐ南隣みなみどなり京都きょうと御苑ぎょえんはじまった」とつたわる。

1891ねん明治めいじ24ねん)、野球やきゅう創部そうぶ明治めいじ学院がくいん捕手ほしゅとして活躍かつやくしていた白洲しらす長平ながだい白洲しらす次郎じろう叔父おじ)が転入てんにゅうがくしてきて同志社どうししゃチームを組織そしき三高さんこうチームと「ベースボール競争きょうそう運動会うんどうかい」として対抗たいこう試合しあいおこなった。以来いらい大学だいがく球界きゅうかい草分くさわけとして活動かつどうした。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)、きゅう関西かんさいろく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい発足ほっそくより加盟かめい同年どうねんあきのリーグせん立命館大りつめいかんだい初代しょだい優勝ゆうしょうかざる。以降いこう関西大かんさいだいとの2きょう対決たいけつせきだてせん)として1940ねん昭和しょうわ15ねん)まで、京都きょうとみかどだいの2かい以外いがいすべてこの2こう優勝ゆうしょうこうめている状況じょうきょう関大かんだい12かいたていのち5かい)だった。同志社どうししゃ渡辺わたなべ博之ひろゆき(のち同大どうだい監督かんとく)やつた文也ふみや投手とうしゅじんとくもうしげる捕手ほしゅらをようして1941ねん昭和しょうわ16ねん春季しゅんきリーグせんになってはつ優勝ゆうしょうげ、あき優勝ゆうしょう春秋しゅんじゅう連覇れんぱたすと、戦後せんご1946ねん昭和しょうわ21ねん)まで怒濤どとうの6連覇れんぱげた。以降いこう1981ねん昭和しょうわ56ねん)までのきゅう関西かんさいろく大学だいがくリーグ通算つうさんで18かい優勝ゆうしょうほこる(たていのちは17かい)。

戦後せんご1947ねん昭和しょうわ22ねん)から5かい実施じっしされた、東京とうきょうろく大学だいがく東都とうと大学だいがく、そしてきゅう関西かんさいろく大学だいがくの3連盟れんめいあいだ王座おうざけっする全国ぜんこく大学だいがく野球やきゅう王座おうざ決定けっていせんだい4かい大会たいかい1950ねん)に出場しゅつじょうしたが、早稲田大わせだだい優勝ゆうしょうした。どう1950ねん昭和しょうわ25ねんあき、リーグせん優勝ゆうしょう

1952ねん昭和しょうわ27ねん)、4回生かいせい小俣おまたしげるはつさんけたにのせるリーグ最多さいた通算つうさん118安打あんだ記録きろくした[1]

1953ねん昭和しょうわ28ねん)、国松くにまつあきら青木あおきみのる伊香いか輝男てるおらの投手とうしゅじん入学にゅうがくし、どう1953ねん秋季しゅうきリーグで青木あおきが6しょうげるなど活躍かつやくしたが、1950年代ねんだいせきせきつよくなかなかリーグせん上位じょういを覗うことができなかった。そろって2ねん中退ちゅうたいした国松くにまつ青木あおき1955ねん昭和しょうわ30ねん)に巨人軍きょじんぐん入団にゅうだんした。どう55ねん、1950ねんあき以来いらいおよそ5ねんぶりに春季しゅんきリーグせん優勝ゆうしょうつづだい4かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい準決勝じゅんけっしょう島津しまつ四郎しろう投手とうしゅようする日本大にほんだいに3-4(延長えんちょう10かい)で惜敗せきはいどう55ねん7がつべいぐん慰問いもん旅行りょこう途次とじざい日米にちべいぐん慰問いもん来日らいにちしたみなみだい日大にちだい明治大めいじだい同志社どうししゃに3しょうした。

1960ねん昭和しょうわ35ねん)、2回生かいせい山尾やまお孝雄たかお投手とうしゅ通算つうさん24しょう10はい)をようして春季しゅんきリーグせん優勝ゆうしょう通算つうさん10かい優勝ゆうしょうとなる。つづだい9かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい決勝けっしょう山崎やまざき正之まさゆき新山にいやまあきらただしりょう投手とうしゅようする法政大ほうせいだいに1-2(延長えんちょう14かい)でやぶじゅん優勝ゆうしょう。そのよく1961ねん昭和しょうわ36ねん)、OBでもとプロの渡辺わたなべ博之ひろゆき監督かんとく就任しゅうにんし、1978ねん昭和しょうわ53ねん)まで長期ちょうきにわたり指揮しきをとった。

1962ねん昭和しょうわ37ねん)、にゅうがえせん趣旨しゅしとする関西大学かんさいだいがく野球やきゅう連合れんごう成立せいりつし、きゅう関西かんさいろく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい参加さんかした。そのころ1964ねん1965ねんかく秋季しゅうきリーグせん優勝ゆうしょうし、エース久野くの剛司たけし通算つうさん33しょう同大どうだい歴代れきだい1〉)が活躍かつやくした。

1971ねん昭和しょうわ46ねん)、エース増岡ますおか義教よしのり(72ねんそつ)の活躍かつやくで、3回生かいせい山口やまぐち高志たかし投手とうしゅ通算つうさん46しょう〈リーグ歴代れきだい1〉11はいようする関大かんだいの5連覇れんぱはば春季しゅんきリーグせんを10せん全勝ぜんしょうして優勝ゆうしょうだい20かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかいでは準決勝じゅんけっしょう横山よこやま晴久はるひさ投手とうしゅようする法政大ほうせいだいに1-4で敗退はいたいした。

1973ねん昭和しょうわ48ねん)、きゅうせきろく無双むそうした関大かんだい山口やまぐち高志たかし投手とうしゅ卒業そつぎょう、2回生かいせい田尾たお安志やすし通算つうさん14しょう3はい)と3回生かいせい笹本ささもと信二しんじのバッテリー、4ばん中井なかい順二じゅんじ中心ちゅうしんに2回生かいせい花野はなのたくみ吉川よしかわ博敏ひろとしともにのち同大どうだい監督かんとく)らの打撃だげきじんはるのリーグせん全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうした。つづいてのぞんだだい22かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい中央大ちゅうおうだいの2回生かいせい投手とうしゅ田村たむら政雄まさお完封かんぷうされベスト4。同年どうねんあきのリーグせんせい春秋しゅんじゅう連覇れんぱたす。はつ出場しゅつじょうだい4かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかいでは栗橋くりはししげるや2回生かいせい中畑なかはたきよしようする駒澤大こまざわだいやぶじゅん優勝ゆうしょうよく1974ねん昭和しょうわ49ねん)のだい5かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかいに2度目どめ出場しゅつじょうをし、またしても中大ちゅうだい田村たむら完封かんぷうされベスト4にわる。どう74ねんには小竹こだけ重行しげゆき投手とうしゅ入学にゅうがく。この時代じだい以降いこう田尾たおの1ねん斉藤さいとう明雄あきお投手とうしゅようする大阪商業大おおさかしょうぎょうだい田尾たお同期どうき森口もりぐちえきこう投手とうしゅようする近畿大きんきだいつよく、小竹こだけ在学ざいがくちゅうの8ちゅう6が2であった。

1978ねん昭和しょうわ53ねん)、3回生かいせいエース中本なかもと茂樹しげき通算つうさん31しょう9はい)と1ねん渋谷しぶや卓弥たくや捕手ほしゅのバッテリー、どう神宮じんぐう大会たいかい連続れんぞく安打あんだ記録きろく(7打席だせき)と最多さいた安打あんだ記録きろく樹立じゅりつした植村うえむらただし島田しまだ芳明よしあき野口のぐち真一しんいちら3回生かいせい中心ちゅうしん秋季しゅうきリーグせん優勝ゆうしょうつづいてだい9かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい準決勝じゅんけっしょうで、向田むかいだけいもと北口きたぐち勝久かつひさりょう投手とうしゅ岡田おかだ彰布あきのぶようする早稲田大わせだだいを4-1、決勝けっしょう松沼まつぬま雅之まさゆき投手とうしゅようする東洋大とうようだいを6-2と次々つぎつぎ撃破げきはし、渡辺わたなべ監督かんとく最終さいしゅうねん神宮じんぐう大会たいかいはつ大学だいがく日本一にっぽんいちとなる。よく1979ねん昭和しょうわ54ねん)、最上級さいじょうきゅうせい中本なかもと投手とうしゅらをようして秋季しゅうきリーグせん優勝ゆうしょうつづいて出場しゅつじょうしただい10かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい1回戦かいせん九州産業大きゅうしゅうさんぎょうだいせんでは、1回生かいせい大畑おおはたとおる投手とうしゅおさまれ0-7(8かいコールド)で大敗たいはいした。

1982ねん昭和しょうわ57ねん)、たていのち関学かんがくきゅうせきろくから下部かぶリーグに降格こうかくどうだてせんせきせきせんなどの対抗たいこう試合しあいができないこと、下部かぶしょ大学だいがくが1きゅうせきろくになかなか昇格しょうかくできないことなどの不満ふまん顕在けんざいし、1962ねん以来いらい採用さいようされていたにゅうがえせん趣旨しゅしとする連合れんごう解体かいたいされ、せきせきどうだて京都大きょうとだい近畿大きんきだいくわえた現在げんざい関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめい創設そうせつされた。

1980年代ねんだい新興しんこう近大きんだい連覇れんぱつづくなか、1983ねん昭和しょうわ58ねん秋季しゅうきリーグせんで、3回生かいせい田中たなかよしみなお通算つうさん25しょう)と甲子園こうしえんじゅん優勝ゆうしょうした2回生かいせいちいさなだい投手とうしゅ 井口いぐち和人かずと通算つうさん20しょうトヨタ自動車とよたじどうしゃ)らの投手とうしゅじんと3回生かいせい桐山きりやま一憲かずのりのバッテリーをようしてリーグせん優勝ゆうしょう代表だいひょう決定けっていせんき、つづだい14かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい初戦しょせん2回戦かいせん九州産業大きゅうしゅうさんぎょうだいを2-0でくだすも、準決勝じゅんけっしょう鍋島なべしまひろしと3回生かいせい河野こうの博文ひろぶみりょう投手とうしゅようする駒大こまだいに0-4でやぶれた。このころから野球やきゅう強化きょうかすすみ、清水しみずたかしえつ清水しみずあきら笹岡ささおかしんこう安本やすもと政弘まさひろ松田まつださとし片岡かたおか篤史あつし宮本みやもと慎也しんや当時とうじ高校こうこう球界きゅうかい常勝じょうしょうPL学園がくえんからこう選手せんしゅ入部にゅうぶつづいた。80年代ねんだい後半こうはんには酒井さかい光次郎みつじろう投手とうしゅようする近大きんだいがリーグせん6連覇れんぱげた。そのあいだ同級生どうきゅうせい同士どうしとなる杉浦すぎうら正則まさのり投手とうしゅ通算つうさん23しょう14はい、91ねんそつようする同志社どうししゃ長谷川はせがわしげる投手とうしゅ通算つうさん40しょう〈リーグ歴代れきだい2〉18はい、91ねんそつようするたていのちかんがほぼ交互こうごにリーグせん2めた。

酒井さかいらが卒業そつぎょうした1990年代ねんだい前半ぜんはんからなかばにかけてリーグせん行方ゆくえ近大きんだい1きょうから混迷こんめいした展開てんかいとなる。1990ねん平成へいせい2ねん)、杉浦すぎうら長谷川はせがわども最上級さいじょうきゅうせいとなり、まずたていのちかん同年どうねんはる1986ねん昭和しょうわ61ねん春秋しゅんじゅう連覇れんぱ以来いらい4ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょうたす(しかし当時とうじ設置せっちされていた関西かんさい地区ちく代表だいひょう決定けっていせんやぶ全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけんには出場しゅつじょう)。いで同年どうねんあき同志社どうししゃ杉浦すぎうら鴨井かもいしんあきら通算つうさん13しょう8はい)らの投手とうしゅじん松田まつださとし池田いけだだか時代じだいの86ねん選抜せんばつ甲子園こうしえん優勝ゆうしょうメンバー藤原ふじわら浩史こうじら4回生かいせい片岡かたおか篤史あつし西にしつめ嘉明よしあき投手とうしゅら3回生かいせい宮本みやもと慎也しんや飯倉いいくら敏昭としあき通算つうさん13しょう10はい)や前田まえだ孝介こうすけ通算つうさん12しょう7はい大阪おおさかガス)ら投手とうしゅじんの2回生かいせいようして1983ねん昭和しょうわ58ねんあき以来いらい7ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょうたす。つづだい21かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい準決勝じゅんけっしょう小池こいけ秀郎ひでお温存おんぞん高津たかつしんわれ先発せんぱつのぞんだ亜細亜大あじあだいを、決勝けっしょう高橋たかはし一太郎いちたろう投手とうしゅ主軸しゅじく山口やまぐちこうほまれ溝口みぞぐちさとしなりらをようする立教大りっきょうだいやぶり12ねんぶり2度目どめ優勝ゆうしょうたす。

よく1991ねん平成へいせい3ねんはるには関大かんだい高木たかぎたか池添いけぞえおさむりょう投手とうしゅ活躍かつやく山口やまぐち高志たかし以来いらい久々ひさびさ優勝ゆうしょうたす。以降いこうも、同大どうだい細見ほそみ和史かずし通算つうさん18しょう14はい、96ねんそつ)に小塩こしおたか通算つうさん11しょう10はい、95ねんそつ)やつじ太一たいち通算つうさん12しょう9はい、96ねんそつ)、関大かんだい岡本おかもとあきら近大きんだい大塔おおとう正明まさあきと1ねん今井いまい圭吾けいご関学かんがく木原きはら栄一郎えいいちろうと2ねんじょう本荘ほんじょう雅章まさあき(のち関学かんがく監督かんとく)、たていのち水田みずた章雄あきおと1ねんじょう金森かなもり隆浩たかひろらがい、各校かくこう優勝ゆうしょうする展開てんかいとなる。しかし90年代ねんだい後半こうはんになると、おか智宏ともひろようする近大きんだい連覇れんぱつづき、ときたていのちなどが互する展開てんかいつづいた。2000年代ねんだいはいころ時代じだいは、野口のぐちえい通算つうさん21しょう17はい、00ねんそつ)や東出ひがしで康成やすなり通算つうさん20しょう20はい、00ねんそつ)らの投手とうしゅじん藤田ふじた和男かずお捕手ほしゅ平石ひらいし洋介ようすけらが活躍かつやくした。

2003ねん平成へいせい15ねん)、エース渡辺わたなべあきら通算つうさん26しょう13はい)や3回生かいせい染田そめだ賢作けんさく通算つうさん15しょう9はい [2]らの投手とうしゅじんようしてあきのリーグせん糸井いとい嘉男よしお野村のむら宏之ひろゆきらの投手とうしゅじんようする近大きんだいの5連覇れんぱはばみ10ねんぶり22度目どめ優勝ゆうしょうたす。しかし、つづ代表だいひょう決定けっていせん大阪産業大おおさかさんぎょうだいやぶ神宮じんぐう出場しゅつじょうならず。2008ねん平成へいせい20ねん)、新日鉄しんにってつ大分おおいた明豊めいほうだかひきいた小玉こだまたかし監督かんとく就任しゅうにん。このころは、佐川さがわひとしたかし投手とうしゅ通算つうさん22しょう16はい、09ねんそつ)らが活躍かつやくした。

2008ねんあき2009ねんあき藤原ふじわらただしてん投手とうしゅようするたていのちかん近大きんだいおさえリーグ優勝ゆうしょうしたのにつづき、よく2010ねん平成へいせい22ねん)、通算つうさん25しょうげた4回生かいせい藤井ふじい貴之たかゆき投手とうしゅ通算つうさん25しょう15はい)と3回生かいせい小林こばやし誠司せいじのバッテリーで、はるのリーグせんで13り23度目どめ優勝ゆうしょうたす。つづ全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけんだい59かい)に1973ねん以来いらい37ねんりに出場しゅつじょうしたが、準々じゅんじゅん決勝けっしょうで3回生かいせい菅野かんの智之としゆき投手とうしゅようする東海大とうかいだいに0-7(7かいコールド)で敗退はいたいあきのリーグせん優勝ゆうしょうどう73ねん以来いらい37ねんり5度目どめ春秋しゅんじゅう連覇れんぱたすが、代表だいひょう決定けっていせん関西かんさい国際こくさいだいやぶ神宮じんぐう大会たいかい出場しゅつじょうはならなかった。よく2011ねん平成へいせい23ねん)、小林こばやし誠司せいじ捕手ほしゅ中心ちゅうしん春秋しゅんじゅうリーグせん連覇れんぱし、戦後せんごはつのリーグせん4連覇れんぱげる。しかし、はるは2ねん連続れんぞく全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけんだい60かい)に出場しゅつじょうしたが、初戦しょせん2回戦かいせんで3回生かいせい大瀬おおせりょう大地だいち投手とうしゅようする九州共立大きゅうしゅうきょうりつだいに0-3で敗退はいたいあき代表だいひょう決定けっていせん神戸学院大こうべがくいんだいやぶ神宮じんぐう大会たいかい出場しゅつじょうはならなかった。

本拠地ほんきょち

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京都きょうと京田辺きょうたなべ多々羅たたらたに1-3 同志社大学どうししゃだいがく体育たいいくハウス2

おも出身しゅっしんしゃ

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Category:同志社大学どうししゃだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう選手せんしゅ参照さんしょう

プロ野球やきゅう

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アマチュア野球やきゅうその

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 1991ねん関学かんがく4回生かいせい田口たぐちたけし更新こうしん(123安打あんだ)。2018ねんたていのち4回生かいせい辰己たつみ涼介りょうすけ田口たぐちにあと1ほんせまる122安打あんだ記録きろく
  2. ^ 2004ねんはる開幕かいまくせん京大きょうだい1回戦かいせんはつ完全かんぜん試合しあい達成たっせいいで、2017ねんあき近大きんだい2回戦かいせん関大かんだい山本やまもと隆広たかひろ達成たっせい

外部がいぶリンク

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