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近畿大学体育会硬式野球部 - Wikipedia

近畿大学きんきだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう

日本にっぽん大学だいがく野球やきゅうチーム

近畿大学きんきだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう(きんきだいがくたいいくかいこうしきやきゅうぶ)は、関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめい所属しょぞくする大学だいがく野球やきゅうチーム。近畿大学きんきだいがく学生がくせいによって構成こうせいされている。

近畿大学きんきだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう
加盟かめい団体だんたい 関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめい
本拠地ほんきょち 奈良ならけん生駒いこま西菜畑にしなばたまち
創部そうぶ 1949ねん
監督かんとく ひかりもと一洋かずひろ
公式こうしきサイト 近畿大学きんきだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう
リーグせん成績せいせき
リーグ成績せいせき 優勝ゆうしょう49かい
全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい
出場しゅつじょう回数かいすう 31かい
最高さいこう成績せいせき 優勝ゆうしょう 4かい
明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい
出場しゅつじょう回数かいすう 13かい
最高さいこう成績せいせき 優勝ゆうしょう 2かい
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ユニフォーム表記ひょうきは、2015年度ねんどまではあか文字もじで「KINKI」であったが、2016年度ねんどからはあか文字もじで「KINDAI」に変更へんこうされた(2016ねん4がつ1にちより、同学どうがく英文えいぶん名称めいしょうが「KINKI UNIVERSITY」から「KINDAI UNIVERSITY」に変更へんこうされたため)。野球やきゅうぼうにも赤色あかいろの「K」の一文字ひともじしるされている。

なお、広島ひろしまけん東広島ひがしひろしまにキャンパスをどう大学だいがく工学部こうがくぶ、および福岡ふくおかけん飯塚いいづかにキャンパスをどう大学だいがく産業さんぎょう理工学部りこうがくぶも、工学部こうがくぶ硬式こうしき野球やきゅう広島ひろしまろく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい所属しょぞく)、産業さんぎょう理工学部りこうがくぶ硬式こうしき野球やきゅう九州きゅうしゅう地区ちく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい所属しょぞく)と、それぞれ独自どくじ硬式こうしき野球やきゅうもうけている(いずれも、ユニフォーム・野球やきゅうぼうのデザインは本部ほんぶのものとおなじ)。

1949ねん昭和しょうわ24ねん)が公式こうしき創部そうぶねん

1941ねん昭和しょうわ16ねん)、近畿大学きんきだいがく前身ぜんしんひとつである大阪おおさか専門せんもん学校がっこう日大にちだい大阪おおさか専門せんもん学校がっこう)が関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめいきゅう連盟れんめい加盟かめい戦後せんご1947ねん昭和しょうわ22ねん)、おなじく前身ぜんしんである大阪おおさか理工りこう大学だいがく大阪おおさか専門せんもん学校がっこう系列けいれつこう)が大阪大学おおさかだいがく大阪おおさか商科しょうか大学だいがくとも大阪おおさかさん大学だいがく野球やきゅう連盟れんめいとしてリーグせん再開さいかい

正式せいしき近畿大学きんきだいがくとなったのち1949ねん昭和しょうわ24ねん)が正式せいしき創部そうぶねんとされている。当初とうしょ大阪おおさかさん大学だいがく野球やきゅう連盟れんめいながれから近畿大学きんきだいがく野球やきゅう連盟れんめい所属しょぞく1959ねん昭和しょうわ34ねんごろから、近畿きんき地区ちく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい配下はいかの3連盟れんめい京滋けいじ近畿きんき阪神はんしん)ときゅう関西かんさいろく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい合併がっぺいしてにゅうがえせん導入どうにゅうするあん主導しゅどうやくとなった。

1962ねん昭和しょうわ37ねん)、にゅうがえせん趣旨しゅしとする関西大学かんさいだいがく野球やきゅう連合れんごう結成けっせいされたのにともな下位かいリーグ(2)の近畿大学きんきだいがく野球やきゅう春季しゅんきリーグせん首位しゅいこうとして、2回生かいせい横山よこやま小次郎こじろう投手とうしゅらをようしてきゅうせきろく最下位さいかいこう神戸大こうべだいとのにゅうがえせん勝利しょうりし、きゅう関西かんさいろく大学だいがくりをたす。昇格しょうかく1960年代ねんだい以降いこうきゅう加盟かめいこうせきせきどうだてや、同様どうよう昇格しょうかくした龍谷大りゅうこくだいなどとリーグせん優勝ゆうしょうあらそいにから展開てんかいつづけた。

1966ねん昭和しょうわ41ねん春季しゅんきリーグせんにおいて、山下やました律夫りつお投手とうしゅ、2回生かいせいゆうふじ通世みちよ藤原ふじわらみつるらの活躍かつやくによりきゅうせきろくはつ優勝ゆうしょうたした。つづだい15かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい決勝けっしょうで、森内もりうちいちちゅう投手とうしゅせいかき泰祐たいすけようする日本大にほんだいに2-3で惜敗せきはいじゅん優勝ゆうしょうとどまった。以降いこう1967ねんあき1968ねんあきにリーグ優勝ゆうしょうげる。

1973ねん昭和しょうわ48ねん)、きゅうせきろく無双むそうした関西大かんさいだい山口やまぐち高志たかし投手とうしゅ通算つうさん46しょうきゅうせきろくげんリーグ歴代れきだい1〉11はい卒業そつぎょうリーグせん混迷こんめいし、森口もりぐちえきこう投手とうしゅ通算つうさん39しょうきゅうせきろくげんリーグ歴代れきだい3〉16はい、76ねんそつようする近大きんだい田尾たお安志やすし投手とうしゅ通算つうさん14しょう3はい、76ねんそつようする同志社大どうししゃだいかれらの1ねん斉藤さいとう明雄あきお投手とうしゅ通算つうさん30しょう17はい、77ねんそつようする大阪商業大おおさかしょうぎょうだい各校かくこう優勝ゆうしょうをかけてしのぎをけずった。1974ねん昭和しょうわ49ねんはる、3回生かいせいエース森口もりぐちや4回生かいせい神垣かみがき雅行まさゆき、3回生かいせいちゅうつかさ得三とくぞうらの投打とうだようして4度目どめのリーグ優勝ゆうしょうげる。つづだい23かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準決勝じゅんけっしょうで3回生かいせい中畑なかはたきよしらの駒沢大こまざわだいに0-1(延長えんちょう13かい)で敗退はいたい

1980ねん昭和しょうわ55ねんはる、3回生かいせい投手とうしゅ西川にしかわまさる通算つうさん34しょう)、4回生かいせい木村きむらたかしや2回生かいせい柳川やながわ明弘あきひろらの打撃だげきじんようして7度目どめのリーグ優勝ゆうしょうかざる。つづだい29かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準決勝じゅんけっしょうで4回生かいせい高久たかくたかし投手とうしゅや2回生かいせい広瀬ひろせ哲朗てつろうらの駒大こまだいに0-11で大敗たいはいきっする。よく1981ねん昭和しょうわ56ねん)、エース西川にしかわまさる投手とうしゅ柳川やながわ明弘あきひろ丸山まるやま一仁かずひとら3回生かいせい連盟れんめい最多さいた本塁打ほんるいだ記録きろく19ほん保持ほじしゃ[1]の2回生かいせい西浦にしうら敏弘としひろ、4回生かいせい篠崎しのざき宏道ひろみちらの打撃だげきじんようして近大きんだいはつ春秋しゅんじゅうリーグせん連覇れんぱたす。春季しゅんきリーグせん関大かんだいおさえて優勝ゆうしょう連覇れんぱとなる秋季しゅうきリーグせんでも4回生かいせい早瀬はやせまんゆたか投手とうしゅ関大かんだいとの優勝ゆうしょう決定けっていせん延長えんちょう17かいすえせいした[2]つづはるだい30かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準決勝じゅんけっしょう宮本みやもと賢治けんじ投手とうしゅようする亜細亜大あじあだいやぶり、決勝けっしょう森岡もりおか真一しんいち投手とうしゅ平田ひらた勝男かつおようする明治大めいじだいに2-8でやぶじゅん優勝ゆうしょうあきだい12かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかいでは準決勝じゅんけっしょう優勝ゆうしょうした柳川やながわのPL学園がくえん同期どうきの3回生かいせい木戸きど克彦かつひこ西田にしだ真二しんじや2回生かいせい和田わだまもる投手とうしゅようする法政大ほうせいだい敗退はいたい

1982ねん昭和しょうわ57ねん)の連合れんごう解体かいたいせきせきどうだて京都大きょうとだいとも関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめい発足ほっそく参加さんか加盟かめいこうのうち唯一ゆいいつ連合れんごう以前いぜんきゅう関西かんさいろく大学だいがくリーグにぞくしていなかったチームとなる。近大きんだいそう監督かんとくつとめた松田まつだ博明ひろあきは、1963ねん昭和しょうわ38ねん)に関大かんだい西川にしかわ克弘かつひろ投手とうしゅがアマチュア野球やきゅう規定きていやぶってプロと契約けいやくむすんだ「西川にしかわ事件じけん」のさい関大かんだい除名じょめい反対はんたいしたおんにより、関大かんだいつよすすめによって近大きんだい連盟れんめいりが実現じつげんしたと推測すいそくしている[2]

1980年代ねんだいには松田まつだ博明ひろあき監督かんとくした黄金おうごんむかえ、先述せんじゅつしたように4回生かいせいエース西川にしかわかちようして81ねんあき優勝ゆうしょう決定けっていせん延長えんちょう17かいすえ関大かんだいくだし、近大きんだいはつ春秋しゅんじゅう連覇れんぱ達成たっせいよく82ねんはるはじまった関西かんさい学生がくせい野球やきゅうリーグで開始かいし早々そうそう3連覇れんぱげ(きゅうせきろくから5連覇れんぱ)、わせてきゅうせきろくからの通算つうさん優勝ゆうしょう回数かいすうが9かいからけた12かいとなる。この3連覇れんぱふく以降いこう、4連覇れんぱ・6連覇れんぱかく1かいげる圧倒的あっとうてきつよさをみせた。

1983ねん昭和しょうわ58ねん)、4かい生守いごもりえい紀之のりゆき投手とうしゅ主砲しゅほう西浦にしうら敏弘としひろ、1回生かいせい畑山はたやま俊二しゅんじらをようして春季しゅんきリーグせん優勝ゆうしょうだい32かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん決勝けっしょうで、守備しゅび失策しっさくから白井しらい一幸かずゆきや3回生かいせい河野こうの博文ひろぶみ投手とうしゅようする駒沢大こまざわだいに1-5でやぶじゅん優勝ゆうしょうまる[2]同年どうねん秋季しゅうきリーグせんでは、2回生かいせい井口いぐち和人かずと投手とうしゅようする同志社どうししゃぐ2まる。よく1984ねん昭和しょうわ59ねんはるからよく1985ねん昭和しょうわ60ねんあきまでリーグせん4連覇れんぱ。84ねんはるだい33かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準決勝じゅんけっしょうで2回生かいせいおもね波野なみの秀幸ひでゆき投手とうしゅようする亜細亜大あじあだいに0-2で惜敗せきはい同年どうねんあき明治めいじ神宮じんぐう大会たいかい関西かんさい地区ちく代表だいひょう決定けっていせんやぶ出場しゅつじょうできず。よく85ねんはる主戦しゅせんの3回生かいせい西岡にしおかつよし通算つうさん17しょう7はい)や2回生かいせい小松こまつりょうひらめ通算つうさん21しょう)らの投手とうしゅじんや3回生かいせい畑山はたやまらをようするも、当時とうじ大学だいがく選手権せんしゅけんでも採用さいようされていた関西かんさい地区ちく代表だいひょう決定けっていせん国立こくりつ大阪大おおさかだいなどにやぶほん大会たいかい進出しんしゅつできなかった。同年どうねんあきだい16かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい準決勝じゅんけっしょうで3回生かいせい西崎にしざき幸広ゆきひろ投手とうしゅようする愛知工業大あいちこうぎょうだいに2-4で敗退はいたいよく1986ねん昭和しょうわ61ねん春秋しゅんじゅうリーグせんは、4回生かいせい岩本いわもととしじん投手とうしゅ通算つうさん27しょう)や3回生かいせい古田ふるたあつし捕手ほしゅようする立命館大りつめいかんだいにリーグせん連覇れんぱゆるした。

1987ねん昭和しょうわ62ねん)、エース山内やまうち嘉弘よしひろ通算つうさん14しょう4はい)、小松こまつりょうひらめ森田もりた幸一こういち木村きむら恵二けいじら4回生かいせい強力きょうりょく投手とうしゅじんようはるあきリーグせん連覇れんぱつづだい36かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準々じゅんじゅん決勝けっしょう(2回戦かいせん)で3回生かいせい上岡うえおか良一りょういち投手とうしゅようする東北福祉大とうほくふくしだい延長えんちょう12かい2-5で敗退はいたい同年どうねんあきだい18かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい2回戦かいせん益田ますだ明典あきのり投手とうしゅようする愛知学院大あいちがくいんだいに1-3で敗退はいたいよく1988ねん昭和しょうわ63ねん)、4回生かいせい十河そごう章浩あきひろに、エース酒井さかい光次郎みつじろう通算つうさん19しょう2はい)や西原にしはらえいもと投手とうしゅじん中西なかにし美之みゆき捕手ほしゅ内匠たくみ政博まさひろ岡本おかもとけいら3回生かいせいようはるあきリーグせん連覇れんぱつづだい37かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準決勝じゅんけっしょうで3ねん葛西かさいみのる投手とうしゅようする法政大ほうせいだいを5-2、決勝けっしょう上岡うえおか良一りょういちや3回生かいせい佐々木ささき主浩おもひろらの投手とうしゅじんようする東北福祉大とうほくふくしだいせんでは8かいうら十河そごう逆転ぎゃくてん2ランがかろうじて3-1でくだ選手権せんしゅけんはつ優勝ゆうしょうたす。同年どうねんあきだい19かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい昭和しょうわ天皇てんのう不例ふれい中止ちゅうしよく1989ねん平成へいせい元年がんねん)、同様どうように4回生かいせい酒井さかい光次郎みつじろう投手とうしゅようし、はるあきリーグせん連覇れんぱ(あわせてリーグせん6連覇れんぱ)。つづだい38かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準決勝じゅんけっしょう葛西かさいようする法政大ほうせいだい延長えんちょう12かい1-0、決勝けっしょう専修大せんしゅうだいせんでは序盤じょばんから専大せんだい町田まちだこう二郎じろう左前打さぜんだ逆転ぎゃくてん3ランをび、酒井さかい失点しってん記録きろくが80かい1/3でれてしまったものの、内匠たくみ岡本おかもと、2回生かいせい奥村おくむら伸一しんいち近大きんだい打線だせん岡林おかばやし洋一よういちせんだい投手とうしゅじんくずし10-7で選手権せんしゅけん連覇れんぱした。同年どうねんあきだい20かい明治めいじ神宮じんぐう大会たいかい準決勝じゅんけっしょう九州国際大きゅうしゅうこくさいだいを1-0、決勝けっしょうでは2回生かいせい門脇かどわきふとし通算つうさん20しょう11はい)が先発せんぱつ酒井さかいおさえでめて、平田ひらた国久くにひさ投手とうしゅ黒須くろす陽一郎よういちろう山口やまぐちこうほまれようする立教大りっきょうだいを3-1でくだ優勝ゆうしょうはるあきリーグせん全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん明治めいじ神宮じんぐう大会たいかいすべ制覇せいはするグランドスラム(4かん)を達成たっせい[3]

なお、この選手権せんしゅけん連覇れんぱはこれまで東京とうきょうろく大学だいがく明大めいだいだい3・4かいだい29・30かい)、立大りつだいだい6・7かい)、法大ほうだいだい33・34かい)が達成たっせいしていたが、近大きんだい関西かんさい学生がくせいリーグぜいはつ連覇れんぱだい37・38かい、のちにだい46・47かいこうとなった[4][5]

酒井さかいらが卒業そつぎょうした1990年代ねんだい前半ぜんはんからなかばにかけてリーグせん行方ゆくえ近大きんだい1きょうから混迷こんめいした展開てんかいとなる。1990ねん平成へいせい2ねん)、同大どうだい杉浦すぎうら正則まさのりたていのち長谷川はせがわしげるりょう投手とうしゅ春秋しゅんじゅうリーグせん優勝ゆうしょうをさらい、よく1991ねん平成へいせい3ねんはるには関大かんだい高木たかぎたか池添いけぞえおさむりょう投手とうしゅ活躍かつやく山口やまぐち高志たかし以来いらい久々ひさびさ優勝ゆうしょうたした。以降いこうも、近大きんだい浜田はまだしん輔(通算つうさん14しょう5はい)、大塔おおとう正明まさあき通算つうさん11しょう4はい)と1ねん今井いまい圭吾けいご通算つうさん22しょう7はい)、同大どうだい細見ほそみ和史かずし関大かんだい岡本おかもとあきら関学かんがく木原きはら栄一郎えいいちろうと2ねんじょう本荘ほんじょう雅章まさあき(のち関学かんがく監督かんとく)、たていのち水田みずた章雄あきおと1ねんじょう金森かなもり隆浩たかひろらが各校かくこう優勝ゆうしょうする展開てんかいとなる。しかし90年代ねんだい後半こうはんになると、本川ほんがわみつぐ監督かんとくのもとでふたた近大きんだい黄金おうごんきずかれ、これに互するかたちたていのちかん戦力せんりょく充実じゅうじつしていた。

1994ねん平成へいせい6ねんはるだい43かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん決勝けっしょうで3回生かいせい大塔おおとう正明まさあき駒大こまだい4回生かいせい河原かわはら純一じゅんいちりょう投手とうしゅうが駒沢大こまざわだいに2-5でやぶじゅん優勝ゆうしょうまる。よく1995ねん平成へいせい7ねんあき、3回生かいせい今井いまい圭吾けいご投手とうしゅ主戦しゅせんに3回生かいせいこうもと一洋かずひろ(のち近大きんだい監督かんとく)や1回生かいせいおか智宏ともひろらの投打とうだようして、だい26かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい準決勝じゅんけっしょう澤崎さわさき俊和としかず倉野くらの信次しんじりょう投手とうしゅ井口いぐちじんら3回生かいせい投打とうだようする青山学院大あおやまがくいんだいに0-7で敗退はいたい

1997ねん平成へいせい9ねん)、おか智宏ともひろ宇高うだか伸次しんじ投手とうしゅ藤井ふじいあきらじん山下やましたかつたかしといった3回生かいせいメンバーを中心ちゅうしんに、エースの4回生かいせい清水しみず章夫あきお投手とうしゅ、97ねん春秋しゅんじゅう首位しゅい打者だしゃの2回生かいせい木之内きのうちかおる(のち新日鐵しんにってつ君津きみつ)らをようして、はるあきリーグせん連覇れんぱはるだい46かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準決勝じゅんけっしょう松尾まつお宏和ひろかず投手とうしゅ高橋たかはしゆかりしんようする慶応大けいおうだいを3-1、決勝けっしょう井端いばた弘和ひろかずや3回生かいせい赤星あかほしけんひろらをようする亜細亜大あじあだいを2-0でくだ優勝ゆうしょう同年どうねんあきだい28かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい準決勝じゅんけっしょう延長えんちょう16かいすえ高橋たかはししょうなりや1回生かいせい武田たけだひさ投手とうしゅようする駒大こまだいを10-7、決勝けっしょう真木まきすすむじゅ伊達だて昌司しょうじらの投手とうしゅじんようする法大ほうだいを1-0でくだ優勝ゆうしょうはるあきリーグせん全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん明治めいじ神宮じんぐう大会たいかい全日本ぜんにほんアマチュア野球やきゅう王座おうざ決定けっていせん(このとしかぎりで廃止はいし)のすべてに優勝ゆうしょうし、史上しじょうはつにして唯一ゆいいつのアマチュア5かん達成たっせいした。さらによく1998ねん平成へいせい10ねん)、はるあきリーグせん連覇れんぱ秋季しゅうきリーグ優勝ゆうしょうでリーグせん5連覇れんぱ達成たっせい)。だい47かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん準々じゅんじゅん決勝けっしょう愛知学院大あいちがくいんだいせん延長えんちょう11かいうらおか大会たいかい記録きろくとなる逆転ぎゃくてんサヨナラ3ランをはなち5x-3で辛勝しんしょうおかはこの試合しあい逆転ぎゃくてんホームランから準決勝じゅんけっしょう青森大あおもりだいせんの4打数だすう4安打あんだ決勝けっしょうの2回生かいせい長坂ながさか秀樹ひでき投手とうしゅようする東海大とうかいだいせんの1かいうら右中間うちゅうかん3塁打るいだはなつまで大会たいかい記録きろくの6打席だせき連続れんぞく安打あんだをマークした[6]試合しあいは4-3で東海大とうかいだいくだ選手権せんしゅけん大会たいかい連覇れんぱ、かつだい28かい神宮じんぐう大会たいかい制覇せいはわせて全国ぜんこく大会たいかい3連覇れんぱげた。しかし、同年どうねんあきだい29かい明治めいじ神宮じんぐう大会たいかい準決勝じゅんけっしょうで3ねん佐藤さとう宏志ひろしや2ねん吉川よしかわ昌宏まさひろらの投手とうしゅじんよう優勝ゆうしょうした亜大あだいに1-7で敗退はいたい。グランドスラムとはならなかった。

2003ねん平成へいせい15ねん)、それまでの主戦しゅせんで4回生かいせい野村のむら宏之ひろゆき通算つうさん24しょう12はい)や3回生かいせい三木田みきた敬二けいじ通算つうさん13しょう6はい)らにくわえて野村のむら同期どうき糸井いとい嘉男よしお投手とうしゅ活躍かつやくしリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんだい52かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけん1回戦かいせん糸井いとい投手とうしゅ先発せんぱつするも、4回生かいせいうまはら孝浩たかひろと3回生かいせい髙橋しゅうさとしりょう投手とうしゅようする九州共立大きゅうしゅうきょうりつだいに0-14(5かいコールド)で大敗たいはいする。同年どうねんあき、4回生かいせい渡辺わたなべあきらと3回生かいせい染田そめだ賢作けんさくの2ほんばしらようする同志社どうししゃにリーグせん5連覇れんぱはばまれる。

2005ねん平成へいせい17ねんはるだい54かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい決勝けっしょうで、3回生かいせいだいとなり憲司けんじ通算つうさん22しょう11はい)と4回生かいせいきのえふじ啓介けいすけりょう投手とうしゅようするも、3回生かいせい高市たかいちしゅん投手とうしゅようする青山学院大あおやまがくいんだいやぶじゅん優勝ゆうしょうよく2006ねん平成へいせい18ねんはるだい55かい全日本ぜんにほん大学だいがく選手権せんしゅけんでは、だいとなりや2回生かいせいたつみしんさとる通算つうさん19しょう4はい)と山本やまもと哲哉てつやらの投手とうしゅじんようするも優勝ゆうしょうした大阪体育大おおさかたいいくだい準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい同年どうねんあきだい37かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかいでは4回生かいせい宮本みやもとけん投手とうしゅらの早稲田大わせだだい準決勝じゅんけっしょう敗退はいたいよく2007ねん平成へいせい19ねんはる、4回生かいせい黒田くろだいわおいきや2回生かいせい藤原ふじわらただしてんらの投手とうしゅじんようするたていのちかんにリーグせん5連覇れんぱはばまれる。よく2008ねん平成へいせい20ねんはるだい57かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかいでは、たつみ山本やまもと谷口たにぐちとももと通算つうさん12しょう2はい)ら4回生かいせい投手とうしゅじんようするも優勝ゆうしょうした4回生かいせい上野うえの大樹だいきや2回生かいせいいぬいしんだい鹿沼かぬまけいたすくらの投手とうしゅじんようする東洋大とうようだい準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい

2013ねん平成へいせい25ねん)、春季しゅんきリーグせんで8ぶり44度目どめのリーグせん優勝ゆうしょうたしたが[7]同年どうねん8がつ2にち部員ぶいん不祥事ふしょうじにより野球やきゅう秋季しゅうきリーグ参加さんか辞退じたいおよび3カ月かげつあいだ活動かつどう停止ていし処分しょぶん大学だいがくがわよりくだされた[8]。これにより監督かんとく榎本えのもとたもつ部長ぶちょう浦崎うらさきちょくひろし大学だいがく辞任じにんもう[9]よく2014ねん平成へいせい26ねん)より田中たなかしげるあきら監督かんとく就任しゅうにん2018ねんあきだい49かい明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅう大会たいかい準決勝じゅんけっしょう環太平洋かんたいへいようだいに0-7(8かいコールド)で大敗たいはい環太平洋かんたいへいようたいは2回戦かいせん法大ほうだいくだし、決勝けっしょう立正大りっしょうだいやぶじゅん優勝ゆうしょう)。

2023ねんれい5ねん)、秋季しゅうきリーグせん終了しゅうりょう監督かんとく田中たなかしげるあきら勇退ゆうたいし、2014ねん4がつからコーチをつとめていたひかりもといちよう監督かんとく就任しゅうにんした。

本拠地ほんきょち

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おも出身しゅっしんしゃ

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Category:近畿大学きんきだいがく体育たいいくかい硬式こうしき野球やきゅう選手せんしゅ参照さんしょう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ きゅう関西かんさいろく大学だいがく連盟れんめい記録きろく現在げんざい関西かんさい学生がくせい野球やきゅう連盟れんめいにもがれているが、現在げんざい連盟れんめい記録きろくだけだと近大きんだい佐藤さとう輝明てるあきの14ほんとなる。
  2. ^ a b c 近大きんだいそう監督かんとく 松田まつだ博明ひろあき ”Talk”and Talk わら指導しどうしゃろん(3) 近畿大学きんきだいがく硬式こうしき野球やきゅうOB開明かいめいかい
  3. ^ 近大きんだいそう監督かんとく 松田まつだ博明ひろあき ”Talk”and Talk わら指導しどうしゃろん(4) 近畿大学きんきだいがく硬式こうしき野球やきゅうOB開明かいめいかい
  4. ^ ちなみに、のちに東洋大とうようだい東都とうと大学だいがくぜいはつ連覇れんぱだい59・60かいこうとなった。つづいて青学大あおがくだい東都とうとぜい2こう連覇れんぱだい72・73かい)となる。
  5. ^ 東洋大とうようだい近大きんだい……続々ぞくぞく姿すがた有力ゆうりょくこうだい58かい全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん・4にちリポート 島尻しまじりゆずる Yahoo!スポーツナビ 2009ねん6がつ12にち 22:01
  6. ^ 大学だいがく選手権せんしゅけん明大めいだいは98ねん大会たいかい以来いらいの“イチコロ”となったが、98ねん明大めいだいきでもたのしめた。近大きんだいおか史上しじょうはつ逆転ぎゃくてんサヨナラだん 平野ひらの重治しげはる 週刊しゅうかんベースボール Online 2016ねん6がつ28にち(火) 10:00
  7. ^ 近大きんだいが8ぶり44度目どめV/関西かんさい学生がくせい野球やきゅうリーグ スポーツニッポン 2013ねん5がつ18にち配信はいしん
  8. ^ 2013ねん8がつ2にち近畿大学きんきだいがく野球やきゅう部員ぶいんが5月8にち窃盗せっとう容疑ようぎで7がつ25にち奈良なら県警けんけい逮捕たいほされたことをあきらかにし、この部員ぶいん期限きげん停学ていがく処分しょぶん野球やきゅう秋季しゅうきリーグへの参加さんか辞退じたいおよび3カ月かげつ活動かつどう停止ていし処分しょぶんとすること発表はっぴょうした。
  9. ^ 近大きんだい秋季しゅうきリーグ辞退じたいへ 窃盗せっとう容疑ようぎ野球やきゅう部員ぶいん逮捕たいほ スポーツニッポン 2013ねん8がつ2にち配信はいしん
  10. ^ a b 大学だいがく野球やきゅう近大きんだいが2ぶり49度目どめのリーグ優勝ゆうしょうで2ねん連続れんぞく31度目どめ全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん”. スポーツ報知ほうち (2023ねん5がつ22にち). 2023ねん6がつ12にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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