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固関 - Wikipedia

かたせき(こげん)とは、律令制りつりょうせいした日本にっぽんにおいて天皇てんのう上皇じょうこう皇后こうごう崩御ほうぎょ天皇てんのう譲位じょうい摂関せっかん薨去こうきょ謀反むほんなどの政変せいへんなどの非常ひじょう事態じたいさいして、「三関みつせき」とばれた伊勢いせこく鈴鹿すずかせき美濃みのこく不破ふわせき越前えちぜんこくあいはつせきのち近江おうみこく逢坂おうさかせき)を封鎖ふうさして通行つうこうきんじること[1]。これにたいして封鎖ふうさ解除かいじょすることをひらきせき(かいげん)という。

概要がいよう

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権力けんりょく空白くうはくじょうじて、東国とうごく反乱はんらんぐん畿内きないむことや、反対はんたい畿内きない反逆はんぎゃくしゃ東国とうごくのがれることを阻止そしするための措置そちである。かたせきおこなさいにはかたせき使つかい(こげんし)、解除かいじょするさいにはひらきせき使(かいげんし)とばれる使者ししゃ関所せきしょおもむいてかたせきひらきせきめいじる。かたせき使原則げんそくかんじんにんじられ、護衛ごえいとしてうち舎人とねり近衛府このえふ兵士へいし随行ずいこうした。出発しゅっぱつには大臣だいじん直々じきじき使者ししゃである証明しょうめいとなるちぎりかたせきめいじるみことのりかんさづけられ、うまりょうから乗馬じょうば提供ていきょうされてすずらしながら進発しんぱつした。ひらきせき使もほぼおな手続てつづきられた。

歴史れきしじょう確認かくにんされる最古さいこかたせきは、養老ようろう5ねん721ねん)の元明もとあき上皇じょうこう崩御ほうぎょときである。そののべれき8ねん789ねん)には「三関みつせき」の制度せいど自体じたい廃止はいしされるが、以後いごかたせき必要ひつよう事態じたいしょうじた場合ばあいにはせき跡地あとち封鎖ふうさする手続てつづきがられた。だが、封鎖ふうさすべき「三関みつせき」が存在そんざいしない状況じょうきょうかたせき形骸けいがい儀礼ぎれいすすんでばかりとなっていった。なお、中世ちゅうせい以後いごかたちばかりの儀礼ぎれいとしてかたせき手続てつづきられる場合ばあいがあった。畿内きないおよび近世きんせい以前いぜんにおける最後さいご譲位じょういであるひかりかく天皇てんのうおりにも、かたせきおこなわれた[2]

出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かたせき』 - コトバンク
  2. ^ 磯田いそだみち古今ここんをちこち】大変たいへんだった譲位じょうい儀礼ぎれい読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん10がつ10日とおか文化ぶんかめん)。

参考さんこう文献ぶんけん

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