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愛新覚羅氏 - Wikipedia

あいしんさとし

けんしゅうおんなしんぞくまんしゅう民族みんぞく)の姓氏せいしきよしくにせい

アイシン・ギョロ・ハラ (あいしんさとし、あいしんかくらし[3]) は、けんしゅうおんなしん発祥はっしょうとされるまんせい (まんしゅうぞく姓氏せいし) のひとつで、あまた存在そんざいするギョロ・ハラひとつ。

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最後さいご皇帝こうてい溥儀ふぎ (みぎ) とちちあつし親王しんのうおとうと溥傑
民族みんぞく おんなしんぞく/ まんしゅうぞく
始祖しそ ヌルハチ[1]
発祥はっしょう時期じき まんれき44 (1616)?[2]
げん相続そうぞくじん きむ毓嶂 (14代目だいめ)
名称めいしょう表記ひょうき
仮名かめい アイシン・ギョロ (ハラ/)
転写てんしゃ aisin gioro (hala)
漢文かんぶん あいしんさとし ()
日本語にほんご あいしんかくら(し)
ちゅうおと ㄞˋㄒㄧㄣ ㄐㄩㄝˊㄌㄨㄛˊ (ㄕˋ)
爱新觉罗 ()
拼音 àixīn juéluó (shì)

アイシンはまんしゅうで「かね」の (「あいしん」は漢文かんぶん音訳おんやく)。アイシン・ギョロ・ハラも、アイシン・グルン (後金あときんこく) も、ともにヌルハチだい成立せいりつしたとされ、これらのかねアイシンは、実際じっさいにはかつてワンヤンおんなしんぞく樹立じゅりつした"きん"王朝おうちょうすとされる。[4]

かつてはダイチン・グルン (だい清国きよくに) のくにせいとされたが、清朝せいちょう滅亡めつぼう同氏どうしぞくおおくがかんせいとして「きむ」に改称かいしょうした。ただし、「あいしんさとし」は現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中華民国ちゅうかみんこく (台湾たいわん) を中心ちゅうしんに、そのほか日本にっぽんにも存在そんざいする。

最後さいご皇帝こうていせんすべみかど溥儀ふぎとその同母どうぼおとうと溥傑[5]には男子だんしがなく、1994ねんに溥傑が死去しきょしてからは、その異母弟いぼてい溥任皇位こうい継承けいしょう順位じゅんい一番いちばんとなった。2015ねんの溥任の死後しごはその長子ちょうしきむ毓嶂承継しょうけいしたが、「あいしんさとし」ではなくかんせいきむ改称かいしょうしている。したがって、清朝せいちょう (およびまんしゅう帝国ていこく) が崩壊ほうかいしたいまきむはアイシン・ギョロ相続そうぞくじんではあるが、当主とうしゅではない。

沿革えんかく

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16世紀せいき後半こうはんヌルハチ (1559ねんせい) の父祖ふそ一族いちぞくは、デシク、リョチャン、ソーチャンガ、ギョチャンガ (ヌルハチ祖父そふ)、ボーランガ、ボーシの合計ごうけいろくにん兄弟きょうだい (のちろくニングタ・ベイレばれる) と、22にん息子むすこたちで構成こうせいされる小規模しょうきぼ家族かぞく組織そしきにすぎなかった。

ヌルハチは当初とうしょたんギョロ・ハラったとされる。それは、2000年代ねんだいになって発見はっけんされた史料しりょうちゅうの、『滿まんしゅう實錄じつろく』から削除さくじょされたとおぼしき実録じつろく原稿げんこうからもあきらかで、そこではヌルハチがドンゴ (donggo) やフネヘ (hunehe) ものたいして「われらはおなじギョロ・ハラ」とかたっている。しかし、ヌルハチがアイシン・グルン (後金あときん) を樹立じゅりつし、ハン (あせ) を自称じしょうし、おんな全土ぜんど統一とういつする過程かていなかで、ヌルハチ一族いちぞくのうちに貴族きぞく意識いしき徐々じょじょ芽生めばはじめると、ほかの部族ぶぞくとの差別さべつはかろうとする意識いしきうまれた。その結果けっかとしてうまれたのがアイシン・ギョロであったとされる。[6]

しんだいになると、ヌルハチのだいはく叔父おじ (ギョチャンガ兄弟きょうだい) の子孫しそん[7]ギョロ・ハラばれて、アイシン・ギョロ・ハラとは区別くべつされ、直系ちょっけい・アイシン・ギョロ・ハラはたい傍系ぼうけい・ギョロ・ハラはべにたいとその服飾ふくしょくにおいても差別さべつされた。また、ヌルハチのちちタクシ (きよしあきら) 以下いか子孫しそんをウクスン (uksun, 宗室そうしつ) とし、それ以上いじょう世代せだいとも区別くべつされた。[8]

滿まんしゅう實錄じつろくまき1には、アイシン・ギョロ・ハラの由来ゆらいとしてつぎのような起源きげんたん記載きさいしている。

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滿まんしゅう實錄じつろくまき1「三仙女浴布勒瑚里泊」「ふつりんなり孕未とくどうのぼる
 
滿まんしゅう實錄じつろくまき1「ふつりん臨昇しょく」「三姓奉雍順爲主」

ゴルミン・シャンギャン・アリン (ちょう白山はくさん) の東北とうほく位置いちするブクリ・アリン (ぬのまいるやま) のふもとに、ブルフリといういけがあり、あるときてんからさんにん仙女せんにょ降臨こうりんした。長女ちょうじょはエングレン、次女じじょはジェングレン、さんじょはフェクレンといった。さんにんいけ沐浴もくよくし、きしにあがったとき、いちかちがらす飛来ひらいし、さんじょ・フェクレンのころもうえあざやかなあかとしていった。フェクレンはそのをいたくで、しっすまいとくちくわえたままころもはじめたところ、そのままんでしまった。たちまちおはらおおきくおもくなり、こまったフェクレンはにんあねにそのことをげた。するとあねにんは「それもてんおぼし。おもくてべないなら、かるくなってからのぼっておいで」とにべもなくさきてんかえってしまった。

フェクレンはそのおとこ一人ひとりんだ。おとこまれでるやすぐに言葉ことばはなし、あっというおおきく成長せいちょうした。フェクレンはおおきくなったたいし、「じつはあなたはてんませた地上ちじょうあらそえるくにしずめんと、てんかちとりたくしたあかがまさしくあなた。そのくにおもむき、あなたがまれた訣をくわしくかたっておかせなさい。このふねってかわをくだれば、そこがそのくに」とてると、てんかえってしまった。おとこははにいわれたとおぶねにのってかわくだり、人々ひとびとらす集落しゅうらくきしにあがると、やなぎえだこしかけをこしらえてそこにすわった。

そのころ、ゴルミン・シャンギャン・アリン (ちょう白山はくさん) の東南とうなんにひろがるオモホイ・ビガン (鄂謨てる) には、オドリ・ヘチェン (鄂多しろ) とばれるしろがあり、そこではせいことなるみっつの氏族しぞく覇権はけんあらそって、ねもすがらころっていた。ちょうど一人ひとりみずみにきたものがあり、おとことめた。いもみるからに常人じょうじんことなるため、しろもどるとみなにそのことをげ、あらそっている場合ばあいではない、みなおこなってみてみようとうながした。みっつの氏族しぞくたちはそこであらそいをひとまづやめ、って川縁かわぶちまできてみると、なるほどたして特別とくべつ雰囲気ふんいきはなっている。不思議ふしぎおもってその素性すじょうたずねると、おとここたえた。「天女てんにょフェクレンのせいはアイシン・ギョロ、はブクリ・ヨンション。てんなんじらのあらそいをしずめるべくつかわせり。」さらにつづけてみずからのまれ経緯けいいくわしくかたってきかせたためみっつの氏族しぞくたちはいたくおどろき、べたをあるかせるなどとはおそおおいと、たがいにうでって輿こしかたちつくり、ブクリ・ヨンションをせてしろかえった。そしてさん氏族しぞくあらそいをやめてブクリ・ヨンションを城主じょうしゅいただき、ベリ・ゲゲというむすめめとらせて、あらたなくにをマンジュ (まんしゅう) とんだ。これが清朝せいちょう宗室そうしつ・アイシン・ギョロ・ハラのおこりである。

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さて、以上いじょうはあくまでも神話しんわいきをでないため、もとより歴史れきしてき事実じじつとはみとめられないが、[9]稻葉いなば岩吉いわきち自身じしん著書ちょしょ清朝せいちょうぜん』(早稲田大学わせだだいがく, 1914) において、この伝説でんせつは、実録じつろく編纂へんさんした大臣だいじんどもが、当時とうじおんな社会しゃかい流布るふしていた種々しゅじゅ伝説でんせつ神話しんわあつめて創作そうさくしたものではなかったかと疑問ぎもんていしている。その根拠こんきょとして以下いかてんげている。

  • 仙女せんにょさんにんとする伝説でんせつは、高句麗こうくりのチュモン (朱蒙チュモン) の伝説でんせつにもみられる。
  • さん仙女せんにょ沐浴もくよくし、そこにとり飛来ひらいするという伝説でんせつは、中国ちゅうごく最古さいこ (史料しりょうじょう) のしょう (いん) の伝説でんせつにもみられる。
  • さんせいこうそう伝説でんせつは、かねなか類似るいじ記載きさいがみられる。

考証こうしょう

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『八旗滿洲氏族通譜』未収みしゅうなぞ

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ギョロとつく姓氏せいしにはアイシン・ギョロのほかに代表だいひょうてきなもので、

  • イルゲン・ギョロ (irgen-, なんじ-):まんしゅう文字もじ (てんけん) 発明はつめいしゃ一人ひとりであるガガイなど。
  • シリン・ギョロ (sirin-, 西林にしばやし-):『八旗滿洲氏族通譜』の編纂へんさんしゃ一人ひとりであるオルタイなど。

などがあり、これ以外いがいにも多種たしゅ多様たようなギョロ存在そんざいする。稻葉いなば (上述じょうじゅつ) はどう著書ちょしょなかで、いくらくにせいだからとはいえ、『八旗滿洲氏族通譜』にアイシン・ギョロが収録しゅうろくされず、さらにほかのギョロとの関係かんけいせいなども一切いっさい言及げんきゅうされていないのは、素性すじょう疑問ぎもんたせるとべる。

父祖ふそについてのなぞ

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神話しんわ」でも紹介しょうかいしたとおり、『滿まんしゅう實錄じつろくまき1にれば、アイシン・ギョロはブクリ・ヨンションをその始祖しそとする。

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  • ブクリ・ヨンション (bukūri yongšon, ぬのまいる・雍順):仙女せんにょ・フェクレンの
    • しょう (すう世代せだい)
      • ファンチャ (fanca, 樊察):ブクリ・ヨンションのかず世代せだい苗裔びょうえい
        • □ (めい不詳ふしょう)
          • メンテム (mentemu, はじめとくきよし):ファンチャのまごせいはじめ祖原そはら皇帝こうてい
            • チュンシャン (cungšan, たかしぜん):メンテムの長子ちょうし
              • トロ (tolo, 妥羅):チュンシャンの長子ちょうし
              • トイモ (toimo, 妥義はかりごと):チュンシャンの次子じし
              • シベョチ・フィヤング (sibeoci fiyanggū, すずたからひとしへんいにしえ):チュンシャンの三子みつご
                • フマン清興せいきょうちょく皇帝こうてい
                  • ギョチャンガきよしけいつばさ皇帝こうてい
                    • タクシしんあらわせん皇帝こうてい
                      • ヌルハチせいふとしだか皇帝こうてい
            • チュヤン (cuyan, 褚宴):メンテムの次子じし

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以上いじょうが『滿まんしゅう實錄じつろくまき1で紐解ひもとかれるヌルハチ父祖ふそけいであるが、このうち、ヌルハチからさかのぼって、明朝みんちょう朝鮮ちょうせん史料しりょう照合しょうごうれる人物じんぶつせい々がギョチャンガ (ヌルハチ祖父そふ) までで、清朝せいちょう史料しりょうで「さとしあきらやすjiàochāngān」と漢字かんじ表記ひょうきされるギョチャンガは、明朝みんちょう史料しりょうで「教場きょうじょうjiàochǎng」などと表記ひょうきされ (参考さんこうまでに普通ふつうばなし拼音を漢字かんじうしろにしるす)、タクシ清朝せいちょう史料しりょうで「とうかつtǎkèshì」、明朝みんちょう史料しりょうで「とうしつtǎshī」などとあらわされるが、フマン (どう祖父そふ) およびシベョチ・フィヤング (どう高祖父こうそふ) については該当がいとうする人物じんぶつをみいだせない。

つづいては明代あきよ史料しりょうにみえるけんしゅうひだりまもるけんしゅうみぎまもるけい

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  • しょう
    • もう哥帖けんしゅうひだりまもるみやこただし[10]
      • まごわらわくら/ただしさん
        • 曾孫そうそんだつ/ろう
          • 玄孫げんそんだつ原保わらぼ
    • ・凡察:けんしゅうみぎまもる
      • まごおもね哈塔/阿下あげだい
        • 曾孫そうそんおさめろう
      • まごぼくはな禿かぶろ/はじめはな
        • 曾孫そうそんなお
      • まご・剌哈/
        • 曾孫そうそんろう察/われあきら

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以上いじょうふたつの家系かけいをみくらべると、ファンチャからのすうだい明朝みんちょうがわ記録きろくちゅう比定ひていできる人物じんぶつ見出みいだる。

  • 「ファンチャfanca」と「凡察fánchá」
  • 「メンテムmentem」と「もう哥帖měnggētiēmùér
  • 「チュンシャンcungšan」と「わらわくらtóngcāng/ただしさんdǒngshān
  • 「トロtolo」と「だつtuōluó/ろうtǔlǎo
  • 「トイモtoimo」と「だつ原保わらぼtuōyuánbǎo

しかし、またもシベョチ・フィヤングおよびフマンのだい該当がいとうする人物じんぶつ見出みいだない。しむらくは、明朝みょうちょう史料しりょうは「だつ以下いか世代せだいについて記録きろくがすっぽり欠落けつらくしていることだが、それをいたとしても、続柄つづきがら不一致ふいっちなどわないてんがいくつかみられることから、稻葉いなばは、メンテムが実在じつざいしたとしても、ヌルハチがその直系ちょっけいであると断言だんげんすることはむずかしいとべる。

著名ちょめいじん

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歴史れきし人物じんぶつ (みんこく以降いこう)

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現代げんだい (戦後せんご)

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 清朝せいちょう系図けいずじょうはヌルハチちちタクシ初代しょだいになっているが、タクシが生前せいぜんにアイシン・ギョロをしょうしたことはないとされる。また、『滿まんしゅう實錄じつろくまき1には天女てんにょからまれたブクリ・ヨンションなる人物じんぶつがアイシン・ギョロをったとあるが、もとより神話しんわぎない。
  2. ^ 編輯へんしゅうまえのテンプレには「1616ねん2がつ17にち」とかなり具体ぐたいてき時期じきをあげていたが、典拠てんきょしょうのため採用さいようしなかった。1616ねんはアイシン・グルン (後金あときん) が樹立じゅりつされたとし
  3. ^ 百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「あいしんさとし」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ.コトバンク
  4. ^ あいしんさとし あいしんかくら/アイシンギョロ”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ). 小学館しょうがくかん. https://kotobank.jp/word/あいしんさとし-174786#:~:text=中国ちゅうごく清朝せいちょう王室おうしつの,滅亡めつぼうまで使用しようされた%E3%80%82 
  5. ^ 溥儀ふぎ相続そうぞくじんとして、溥傑はひろみとめられていた:
    • Schmetzer, Uli, "Emperor-in-waiting recalls bygone age", Chicago Tribune, Oct. 25, 1992. "The heir to China`s throne [Pujie] lives in an old house with a courtyard in which the last chrysanthemums of fall sprout amid a heap of coal briquettes collected for the winter."
    • "Pu Jie, 87, Dies, Ending Dynasty of the Manchus", New York Times, March 2, 1994. "If Japan had won the war, Pu Jie could have become Emperor of China."
    • Song, Yuwu, Biographical Dictionary of the People’s Republic of China, 2014, McFarland and Co., p. 6. "The younger brother of Pu Yi (the Emperor Xuantong) Pu Jie was technically head of the Imperial Qing Dynasty from the death of his brother in 1967 until his own death in 1994."
  6. ^ 増井ますい, ひろし也 (2010). いち、「おなじハラの兄弟きょうだい」とギョロ=ハラの構成こうせい. “ギョロ = ハラ Gioro hala 再考さいこうとくそとこん規制きせいをてがかりに―”. たていのちかん文學ぶんがく (619): 93. https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/619/619PDF/masui.pdf. 
  7. ^ ヌルハチは、独立どくりつしていちこくあるじとなるまでに、ニングタ・ベイレ (だいはく叔父おじ) の子孫しそんから迫害はくがいけた。
  8. ^ “ᡠᡴᠰᡠᠨ uksun”. 满汉だい辞典じてん. 遼寧りょうねい民族みんぞく出版しゅっぱんしゃ. p. 189. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/p06/imageviewer/detail?dicId=6&imageFileName=189. "〔めい〕① ぞく家族かぞく宗族そうぞく。②宗室そうしつそくきよし显祖とうかつ (つとむ尔哈あかちち) てき本文ほんぶん孙为宗室そうしつはく兄弟きょうだいささえ觉罗,宗室そうしつこしたば带子,觉罗こしたば红带。" 
  9. ^ “アイシンギョロ【あいしんさとし】(Aisin Gioro)”. ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん. ブリタニカ・ジャパン. https://kotobank.jp/word/アイシンギョロ%28あいしんさとし%29-23701 
  10. ^ 部族ぶぞくなな. 滿まんしゅう源流げんりゅうこう. 7. よん全書ぜんしょ. https://zh.wikisource.org/wiki/欽定きんてい滿まんしゅう源流げんりゅうこう_(よん全書ぜんしょほん)/まき07. "あかり實録じつろく永樂えいらく二年置建州衛十年 (編者へんしゃ註釈ちゅうしゃく:1412ねん) おけけんしゅうひだりまもるせんとく七年置建州右衛" 
  11. ^ 安田やすだみねしゅん (2021ねん8がつ23にち). “普通ふつうなんですが…」ネットをさわがせる“眼科がんかあいしんさとし先生せんせい”がかす、やっぱりすごい“わが半生はんせい”. 文春ぶんしゅんオンライン. 株式会社かぶしきがいしゃ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう. 2021ねん11月15にち閲覧えつらん
  12. ^ YUHANプロフィール | あいしんさとしゆうはん(YUHAN)

参照さんしょう

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  • 編者へんしゃしょう滿まんしゅう實錄じつろくよん全書ぜんしょ, 1781 (漢文かんぶん) *中央ちゅうおう研究けんきゅういん歴史れきしげん研究所けんきゅうじょばん
  • 編者へんしゃしょう『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳ (manju i yargiyan kooli:滿まんしゅう實錄じつろく)』よん全書ぜんしょ, 1781 (まんぶん)

研究けんきゅうしょ

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  • 稻葉いなば岩吉いわきち清朝せいちょうぜん早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん, 1914

関連かんれん項目こうもく

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