16世紀 せいき 後半 こうはん のヌルハチ (1559年 ねん 生 せい ) の父祖 ふそ 一族 いちぞく は、デシク、リョチャン、ソーチャンガ、ギョチャンガ (ヌルハチ祖父 そふ )、ボーランガ、ボーシの合計 ごうけい 六 ろく 人 にん の兄弟 きょうだい (後 のち に六 ろく 祖 そ ニングタ・ベイレ と呼 よ ばれる) と、22人 にん の息子 むすこ たちで構成 こうせい される小規模 しょうきぼ な家族 かぞく 組織 そしき にすぎなかった。
ヌルハチは当初 とうしょ 、単 たん にギョロ・ハラ を名 な 告 の ったとされる。それは、2000年代 ねんだい になって発見 はっけん された史料 しりょう 中 ちゅう の、『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』から削除 さくじょ されたと思 おぼ しき実録 じつろく の原稿 げんこう からも明 あき らかで、そこではヌルハチがドンゴ (donggo) 部 ぶ やフネヘ (hunehe) 部 ぶ の者 もの に対 たい して「我 われ らは同 おな じギョロ・ハラ」と語 かた っている。しかし、ヌルハチがアイシン・グルン (後金 あときん ) を樹立 じゅりつ し、ハン (汗 あせ ) を自称 じしょう し、女 おんな 真 ま 全土 ぜんど を統一 とういつ する過程 かてい の中 なか で、ヌルハチ一族 いちぞく のうちに貴族 きぞく 意識 いしき が徐々 じょじょ に芽生 めば え始 はじ めると、ほかの部族 ぶぞく との差別 さべつ を図 はか ろうとする意識 いしき が生 うま れた。その結果 けっか として生 うま れたのがアイシン・ギョロであったとされる。[6]
清 しん 代 だい になると、ヌルハチの大 だい 伯 はく 叔父 おじ (ギョチャンガ の兄弟 きょうだい ) の子孫 しそん [7] はギョロ・ハラ と呼 よ ばれて、アイシン・ギョロ・ハラとは区別 くべつ され、直系 ちょっけい ・アイシン・ギョロ・ハラは黄 き 帯 たい 子 こ 、傍系 ぼうけい ・ギョロ・ハラは紅 べに 帯 たい 子 こ とその服飾 ふくしょく においても差別 さべつ された。また、ヌルハチの父 ちち ・タクシ (清 きよし 顕 あきら 祖 そ ) 以下 いか の子孫 しそん をウクスン (uksun, 宗室 そうしつ ) とし、それ以上 いじょう の世代 せだい とも区別 くべつ された。[8]
『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』巻 まき 1には、アイシン・ギョロ・ハラの由来 ゆらい として次 つぎ のような起源 きげん 譚 たん を記載 きさい している。
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『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』巻 まき 1「三仙女浴布勒瑚里泊」「佛 ふつ 庫 こ 倫 りん 成 なり 孕未得 とく 同 どう 昇 のぼる 」
『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』巻 まき 1「佛 ふつ 庫 こ 倫 りん 臨昇囑 しょく 子 こ 」「三姓奉雍順爲主」 ゴルミン・シャンギャン・アリン (長 ちょう 白山 はくさん ) の東北 とうほく に位置 いち するブクリ・アリン (布 ぬの 庫 こ 哩 まいる ・山 やま ) の麓 ふもと に、ブルフリという池 いけ があり、ある時 とき 、天 てん から三 さん 人 にん の仙女 せんにょ が降臨 こうりん した。長女 ちょうじょ はエングレン、次女 じじょ はジェングレン、三 さん 女 じょ はフェクレンといった。三 さん 人 にん が池 いけ で沐浴 もくよく し、岸 きし にあがったとき、一 いち 羽 わ のかち烏 がらす が飛来 ひらい し、三 さん 女 じょ ・フェクレンの衣 ころも の上 うえ に鮮 あざ やかな赤 あか い木 こ の実 み を落 お としていった。フェクレンはその木 こ の実 み をいたく愛 め で、失 しっ すまいと口 くち に咥 くわ えたまま衣 ころも を着 き 始 はじ めたところ、そのまま呑 の み込 こ んでしまった。忽 たちま ちお腹 はら が大 おお きく重 おも くなり、困 こま ったフェクレンは二 に 人 にん の姉 あね にそのことを告 つ げた。すると姉 あね 二 に 人 にん は「それも天 てん の思 おぼ し召 め し。重 おも くて飛 と べないなら、軽 かる くなってから昇 のぼ っておいで」とにべもなく先 さき に天 てん へ帰 かえ ってしまった。
フェクレンはその後 ご 、男 おとこ の子 こ を一人 ひとり 産 う んだ。男 おとこ の子 こ は産 う まれ出 で でるやすぐに言葉 ことば を話 はな し、あっという間 ま に大 おお きく成長 せいちょう した。フェクレンは大 おお きくなった我 わ が子 こ に対 たい し、「実 じつ はあなたは天 てん が産 う ませた子 こ 。地上 ちじょう の争 あらそ える国 くに を鎮 しず めんと、天 てん がかち鳥 とり に託 たく した赤 あか い木 こ の実 み がまさしくあなた。その国 くに に赴 おもむ き、あなたが産 う まれ出 で た訣を詳 くわ しく語 かた ってお聞 き かせなさい。この舟 ふね に乗 の って川 かわ をくだれば、そこがその国 くに 」と言 い い果 は てると、天 てん に帰 かえ ってしまった。男 おとこ の子 こ は母 はは にいわれた通 とお り舟 ぶね にのって川 かわ を下 くだ り、人々 ひとびと が暮 く らす集落 しゅうらく の岸 きし にあがると、柳 やなぎ の枝 えだ で腰 こし かけを拵 こしら えてそこに坐 すわ った。
その頃 ころ 、ゴルミン・シャンギャン・アリン (長 ちょう 白山 はくさん ) の東南 とうなん にひろがるオモホイ・ビガン (鄂謨輝 てる ・野 の ) には、オドリ・ヘチェン (鄂多理 り ・城 しろ ) と呼 よ ばれる城 しろ があり、そこでは姓 せい の異 こと なる三 みっ つの氏族 しぞく が覇権 はけん を争 あらそ って、日 ひ ねもすがら殺 ころ し合 あ っていた。ちょうど一人 ひとり 、水 みず を汲 く みにきた者 もの があり、男 おとこ の子 こ を見 み とめた。見 み た目 め も振 ふ る舞 ま いもみるからに常人 じょうじん と異 こと なるため、城 しろ に戻 もど ると皆 みな にそのことを告 つ げ、争 あらそ っている場合 ばあい ではない、皆 みな で行 おこな ってみてみようと促 うなが した。三 みっ つの氏族 しぞく たちはそこで争 あらそ いをひとまづやめ、連 つ れ立 だ って川縁 かわぶち まできてみると、なるほど果 は たして特別 とくべつ な雰囲気 ふんいき を放 はな っている。不思議 ふしぎ に思 おも ってその素性 すじょう を尋 たず ねると、男 おとこ の子 こ は答 こた えた。「我 が は天女 てんにょ フェクレンの子 こ 。姓 せい はアイシン・ギョロ、名 な はブクリ・ヨンション。天 てん は汝 なんじ らの争 あらそ いを鎮 しず めるべく我 が を遣 つか わせり。」さらに続 つづ けて自 みずか らの産 う まれ出 で た経緯 けいい を詳 くわ しく語 かた ってきかせた為 ため 、三 みっ つの氏族 しぞく たちはいたく驚 おどろ き、地 じ べたを歩 ある かせるなどとは畏 おそ れ多 おお いと、互 たが いに腕 うで を組 く み合 あ って輿 こし の形 かたち を作 つく り、ブクリ・ヨンションを載 の せて城 しろ へ帰 かえ った。そして三 さん 氏族 しぞく は争 あらそ いをやめてブクリ・ヨンションを城主 じょうしゅ に戴 いただ き、ベリ・ゲゲという娘 むすめ を娶 めと らせて、新 あら たな国 くに をマンジュ (満 まん 洲 しゅう ) と呼 よ んだ。これが清朝 せいちょう 宗室 そうしつ ・アイシン・ギョロ・ハラの起 おこ りである。
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さて、以上 いじょう はあくまでも神話 しんわ の域 いき をでないため、もとより歴史 れきし 的 てき 事実 じじつ とは認 みと められないが、[9] 稻葉 いなば 岩吉 いわきち は自身 じしん の著書 ちょしょ 『清朝 せいちょう 全 ぜん 史 し 』(早稲田大学 わせだだいがく , 1914) において、この伝説 でんせつ は、実録 じつろく を編纂 へんさん した大臣 だいじん どもが、当時 とうじ 女 おんな 真 ま 社会 しゃかい に流布 るふ していた種々 しゅじゅ の伝説 でんせつ や神話 しんわ を寄 よ せ集 あつ めて創作 そうさく したものではなかったかと疑問 ぎもん を呈 てい している。その根拠 こんきょ として以下 いか の点 てん を挙 あ げている。
仙女 せんにょ を三 さん 人 にん とする伝説 でんせつ は、高句麗 こうくり のチュモン (朱蒙 チュモン ) の伝説 でんせつ にもみられる。
三 さん 仙女 せんにょ が沐浴 もくよく し、そこに鳥 とり が飛来 ひらい するという伝説 でんせつ は、中国 ちゅうごく 最古 さいこ (史料 しりょう 上 じょう ) の商 しょう (殷 いん ) の伝説 でんせつ にもみられる。
三 さん 姓 せい の抗 こう 争 そう の伝説 でんせつ は、金 かね 史 し の中 なか に類似 るいじ の記載 きさい がみられる。
ギョロ とつく姓氏 せいし にはアイシン・ギョロのほかに代表 だいひょう 的 てき なもので、
イルゲン・ギョロ (irgen-, 伊 い 爾 なんじ 根 ね -):満 まん 洲 しゅう 文字 もじ (無 む 点 てん 圏 けん ) 発明 はつめい 者 しゃ の一人 ひとり であるガガイなど。
シリン・ギョロ (sirin-, 西林 にしばやし -):『八旗滿洲氏族通譜』の編纂 へんさん 者 しゃ の一人 ひとり であるオルタイなど。
などがあり、これ以外 いがい にも多種 たしゅ 多様 たよう なギョロ氏 し が存在 そんざい する。稻葉 いなば (上述 じょうじゅつ ) は同 どう 著書 ちょしょ の中 なか で、いくら国 くに 姓 せい だからとはいえ、『八旗滿洲氏族通譜』にアイシン・ギョロが収録 しゅうろく されず、さらにほかのギョロ氏 し との関係 かんけい 性 せい なども一切 いっさい 言及 げんきゅう されていないのは、素性 すじょう に疑問 ぎもん を持 も たせると述 の べる。
「神話 しんわ 」でも紹介 しょうかい した通 とお り、『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』巻 まき 1に拠 よ れば、アイシン・ギョロ氏 し はブクリ・ヨンションをその始祖 しそ とする。
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ブクリ・ヨンション (bukūri yongšon, 布 ぬの 庫 こ 哩 まいる ・雍順):仙女 せんにょ ・フェクレンの子 こ 。
不 ふ 詳 しょう (数 すう 世代 せだい )
ファンチャ (fanca, 樊察):ブクリ・ヨンションの子 こ 。数 かず 世代 せだい 後 ご の苗裔 びょうえい 。
□ (名 めい 不詳 ふしょう )
メンテム (mentemu, 孟 はじめ 特 とく 穆 きよし ):ファンチャの孫 まご 。清 せい 肇 はじめ 祖原 そはら 皇帝 こうてい 。
チュンシャン (cungšan, 充 たかし 善 ぜん ):メンテムの長子 ちょうし 。
トロ (tolo, 妥羅):チュンシャンの長子 ちょうし 。
トイモ (toimo, 妥義謀 はかりごと ):チュンシャンの次子 じし 。
シベョチ・フィヤング (sibeoci fiyanggū, 錫 すず 宝 たから 斉 ひとし ・篇 へん 古 いにしえ ):チュンシャンの三子 みつご 。
チュヤン (cuyan, 褚宴):メンテムの次子 じし 。
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以上 いじょう が『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』巻 まき 1で紐解 ひもと かれるヌルハチ父祖 ふそ の世 よ 系 けい であるが、この内 うち 、ヌルハチから遡 さかのぼ って、明朝 みんちょう や李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の史料 しりょう と照合 しょうごう の取 と れる人物 じんぶつ は精 せい 々がギョチャンガ (ヌルハチ祖父 そふ ) までで、清朝 せいちょう 史料 しりょう で「覚 さとし 昌 あきら 安 やす jiàochāngān 」と漢字 かんじ 表記 ひょうき されるギョチャンガは、明朝 みんちょう 史料 しりょう で「教場 きょうじょう jiàochǎng 」などと表記 ひょうき され (参考 さんこう までに普通 ふつう 話 ばなし 拼音を漢字 かんじ の後 うし ろに記 しる す)、タクシ は清朝 せいちょう 史料 しりょう で「塔 とう 克 かつ 世 よ tǎkèshì 」、明朝 みんちょう 史料 しりょう で「塔 とう 失 しつ tǎshī 」などと表 あらわ されるが、フマン (同 どう 曽 そ 祖父 そふ ) およびシベョチ・フィヤング (同 どう 高祖父 こうそふ ) については該当 がいとう する人物 じんぶつ をみいだせない。
続 つづ いては明代 あきよ 史料 しりょう にみえる建 けん 州 しゅう 左 ひだり 衛 まもる と建 けん 州 しゅう 右 みぎ 衛 まもる の世 よ 系 けい 。
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以上 いじょう の二 ふた つの家系 かけい をみくらべると、ファンチャからの数 すう 代 だい は明朝 みんちょう 側 がわ の記録 きろく 中 ちゅう に比定 ひてい できる人物 じんぶつ を見出 みいだ し得 え る。
「ファンチャfanca 」と「凡察fánchá」
「メンテムmentem 」と「猛 もう 哥帖木 き 児 じ měnggētiēmùér 」
「チュンシャンcungšan 」と「童 わらわ 倉 くら tóngcāng /董 ただし 山 さん dǒngshān 」
「トロtolo 」と「脱 だつ 羅 ら tuōluó /土 ど 老 ろう tǔlǎo 」
「トイモtoimo 」と「脱 だつ 原保 わらぼ tuōyuánbǎo 」
しかし、またもシベョチ・フィヤングおよびフマンの二 に 代 だい に該当 がいとう する人物 じんぶつ は見出 みいだ し得 え ない。惜 お しむらくは、明朝 みょうちょう の史料 しりょう は「脱 だつ 羅 ら 」以下 いか の世代 せだい について記録 きろく がすっぽり欠落 けつらく していることだが、それを差 さ し引 ひ いたとしても、続柄 つづきがら の不一致 ふいっち など噛 か み合 あ わない点 てん がいくつかみられることから、稻葉 いなば は、メンテムが実在 じつざい したとしても、ヌルハチがその直系 ちょっけい であると断言 だんげん することは難 むずか しいと述 の べる。
^ 清朝 せいちょう の系図 けいず 上 じょう はヌルハチ父 ちち ・タクシ が初代 しょだい になっているが、タクシが生前 せいぜん にアイシン・ギョロを称 しょう したことはないとされる。また、『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』巻 まき 1には天女 てんにょ から生 う まれたブクリ・ヨンションなる人物 じんぶつ がアイシン・ギョロを名 な 告 の ったとあるが、固 もと より神話 しんわ に過 す ぎない。
^ 編輯 へんしゅう 前 まえ のテンプレには「1616年 ねん 2月 がつ 17日 にち 」とかなり具体 ぐたい 的 てき な時期 じき をあげていたが、典拠 てんきょ 不 ふ 詳 しょう のため採用 さいよう しなかった。1616年 ねん はアイシン・グルン (後金 あときん ) が樹立 じゅりつ された年 とし 。
^ 百科 ひゃっか 事典 じてん マイペディア 「愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 」の意味 いみ ・わかりやすい解説 かいせつ .コトバンク
^ “愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら あいしんかくら/アイシンギョロ” . 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ) . 小学館 しょうがくかん . https://kotobank.jp/word/愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら -174786#:~:text=中国 ちゅうごく ,清朝 せいちょう 王室 おうしつ の,滅亡 めつぼう まで使用 しよう された%E3%80%82
^ 溥儀 ふぎ の相続 そうぞく 人 じん として、溥傑は広 ひろ く認 みと められていた: • Schmetzer, Uli, "Emperor-in-waiting recalls bygone age", Chicago Tribune , Oct. 25, 1992. "The heir to China`s throne [Pujie] lives in an old house with a courtyard in which the last chrysanthemums of fall sprout amid a heap of coal briquettes collected for the winter." • "Pu Jie, 87, Dies, Ending Dynasty of the Manchus ", New York Times , March 2, 1994. "If Japan had won the war, Pu Jie could have become Emperor of China." • Song, Yuwu, Biographical Dictionary of the People’s Republic of China , 2014, McFarland and Co., p. 6. "The younger brother of Pu Yi (the Emperor Xuantong) Pu Jie was technically head of the Imperial Qing Dynasty from the death of his brother in 1967 until his own death in 1994."
^ 増井 ますい , 寛 ひろし 也 (2010). 一 いち 、「同 おな じハラの兄弟 きょうだい 」とギョロ=ハラの構成 こうせい . “ギョロ = ハラ Gioro hala 再考 さいこう ―特 とく に外 そと 婚 こん 規制 きせい をてがかりに―”. 立 たて 命 いのち 館 かん 文學 ぶんがく (619): 93. https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/619/619PDF/masui.pdf .
^ ヌルハチは、独立 どくりつ して一 いち 国 こく の主 あるじ となるまでに、ニングタ・ベイレ (大 だい 伯 はく 叔父 おじ ) の子孫 しそん から迫害 はくがい を受 う けた。
^ “ᡠᡴᠰᡠᠨ uksun” . 满汉大 だい 辞典 じてん . 遼寧 りょうねい 民族 みんぞく 出版 しゅっぱん 社 しゃ . p. 189. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/p06/imageviewer/detail?dicId=6&imageFileName=189 . "〔名 めい 〕① 族 ぞく ,家族 かぞく ,宗族 そうぞく 。②宗室 そうしつ ,即 そく 清 きよし 显祖塔 とう 克 かつ 世 よ (努 つとむ 尔哈赤 あか 之 の 父 ちち ) 的 てき 本文 ほんぶん 子 こ 孙为宗室 そうしつ ,伯 はく 叔兄弟 きょうだい 之 の 支 ささえ 觉罗,宗室 そうしつ 腰 こし 束 たば 带子,觉罗腰 こし 束 たば 红带子 こ 。"
^ “アイシンギョロ【愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 】(Aisin Gioro)” . ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん . ブリタニカ・ジャパン. https://kotobank.jp/word/アイシンギョロ%28愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら %29-23701
^ “部族 ぶぞく 七 なな ” . 滿 まん 洲 しゅう 源流 げんりゅう 考 こう . 7 . 四 よん 庫 こ 全書 ぜんしょ . https://zh.wikisource.org/wiki/欽定 きんてい 滿 まん 洲 しゅう 源流 げんりゅう 考 こう _(四 よん 庫 こ 全書 ぜんしょ 本 ほん )/卷 まき 07 . "明 あかり 實録 じつろく 永樂 えいらく 二年置建州衛十年 (編者 へんしゃ 註釈 ちゅうしゃく :1412年 ねん ) 置 おけ 建 けん 州 しゅう 左 ひだり 衛 まもる 宣 せん 德 とく 七年置建州右衛"
^ 安田 やすだ 峰 みね 俊 しゅん (2021年 ねん 8月 がつ 23日 にち ). “「普通 ふつう なんですが…」ネットを騒 さわ がせる“眼科 がんか の愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 先生 せんせい ”が明 あ かす、やっぱり凄 すご い“わが半生 はんせい ” ”. 文春 ぶんしゅん オンライン . 株式会社 かぶしきがいしゃ 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう . 2021年 ねん 11月15日 にち 閲覧 えつらん 。
^ YUHANプロフィール | 愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら ゆうはん(YUHAN)
編者 へんしゃ 不 ふ 詳 しょう 『滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく 』四 よん 庫 こ 全書 ぜんしょ , 1781 (漢文 かんぶん ) *中央 ちゅうおう 研究 けんきゅう 院 いん 歴史 れきし 語 ご 言 げん 研究所 けんきゅうじょ 版 ばん
編者 へんしゃ 不 ふ 詳 しょう 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳ (manju i yargiyan kooli:滿 まん 洲 しゅう 實錄 じつろく )』四 よん 庫 こ 全書 ぜんしょ , 1781 (満 まん 文 ぶん )
稻葉 いなば 岩吉 いわきち 『清朝 せいちょう 全 ぜん 史 し 』早稲田大学 わせだだいがく 出版 しゅっぱん 部 ぶ , 1914