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摂丹鉄道 - Wikipedia

鉄道てつどう(せつたんてつどう)は、摂津せっつ地域ちいき丹波たんば地域ちいきとをむすぶことを目指めざした鉄道てつどう計画けいかくである。ことなる発起ほっきじんにより3つのことなる計画けいかく鉄道てつどうとして立案りつあんされたが、そのいずれも実現じつげんすることはなかった。

小西こにしたけし二郎じろうによる計画けいかく

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川辺かわべ馬車ばしゃ鉄道てつどう摂津せっつ鉄道てつどう)を設立せつりつした小西こにしたけし二郎じろうら30めい発起人ほっきにんとなり、1889ねん明治めいじ22ねん4がつ29にち設立せつりつされた。川辺かわべ馬車ばしゃ鉄道てつどう計画けいかく延伸えんしんするかたちで、当時とうじ京都きょうとだい都市としで、軍港ぐんこうとして発展はってん見込みこめる舞鶴まいづるいた鉄道てつどう敷設ふせつ目的もくてきとした。鉄道てつどうのほかにも、きょうづる鉄道てつどう京都きょうとまいづる)、舞鶴まいづる鉄道てつどう大阪おおさか園部そのべまいづる)、舞鶴まいづる鉄道てつどう大阪おおさか綾部あやべまいづる)、南北なんぼく鉄道てつどう加古川かこがわまいづる)、播丹鉄道てつどう姫路ひめじ生野いくのまいづる)の5つの民営みんえい鉄道てつどう舞鶴まいづるへの鉄道てつどう敷設ふせつ名乗なのりをあげており、積極せっきょくてき免許めんきょ許可きょか運動うんどう展開てんかいされた。

しかし、いずれの計画けいかく採算さいさん困難こんなんであると予想よそうされ、また複数ふくすう路線ろせん並立へいりつ共倒ともだおれになるとかんがえられたためいずれの路線ろせん却下きゃっかされた。なお、鉄道てつどう却下きゃっかされると、小西こにしらはふたた川辺かわべ馬車ばしゃ鉄道てつどう推進すいしんしており、鉄道てつどう基本きほん構想こうそうばんづる鉄道てつどうがれている。

弘世ひろよ助三郎すけさぶろうによる計画けいかく

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日本にっぽんにおける鉄道てつどう黎明れいめいであった1800年代ねんだいすえ京都きょうとだい都市とし日本海にほんかいがわでは有数ゆうすう都市としであった舞鶴まいづるへの鉄道てつどう敷設ふせつ急務きゅうむとなった。1892ねん明治めいじ25ねん公布こうふ鉄道てつどう敷設ふせつほう敷設ふせつ予定よてい路線ろせんとして、京都きょうと京都きょうとから舞鶴まいづるいた路線ろせんと、兵庫ひょうごけん加古かこぐん土山つちやま付近ふきん)から舞鶴まいづるいた路線ろせんの2あんげられていた一方いっぽう摂津せっつ鉄道てつどうはその路線ろせん延伸えんしんするかたち大阪おおさか大阪おおさか舞鶴まいづるとをむすぶことを計画けいかくし、1893ねん明治めいじ26ねん8がつ兵庫ひょうご大阪おおさか財界ざいかい中心ちゅうしんとなってばんづる鉄道てつどう設立せつりつした。しかし、ばんづる鉄道てつどうから土山つちやま支線しせんをつくられてしまうと物資ぶっし輸送ゆそう主導しゅどうけん神戸こうべにぎられてしまうとかんがえた大阪おおさか府会ふかい大阪おおさかかいばんづる鉄道てつどう反発はんぱつし、大阪おおさか財界ざいかい説得せっとくして代目だいめ鉄道てつどう設立せつりつした。

この鉄道てつどう計画けいかく特徴とくちょうは、能勢のせ地方ちほう園部そのべ綾部あやべ経由けいゆし、大阪おおさかからほぼ一直線いっちょくせん舞鶴まいづるしん舞鶴まいづる)に到着とうちゃくするルートをとったことである。京都きょうと鉄道てつどう京都きょうと財界ざいかい推進すいしん)・ばんづる鉄道てつどうは、ていコストであるが舞鶴まいづるにはやや遠回とおまわりとなるルートをとっていたため、鉄道てつどう舞鶴まいづる最短さいたんむすべるてん評価ひょうかされた。しかし1895ねん明治めいじ28ねん)、京都きょうと方面ほうめんから舞鶴まいづる目指めざ京都きょうと鉄道てつどうにその免許めんきょくだり、また大阪おおさか方面ほうめんからはばんづる鉄道てつどう免許めんきょりたため、その目的もくてきうしなった会社かいしゃ解散かいさん余儀よぎなくされた。

年表ねんぴょう

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  • 1893ねん明治めいじ26ねん) - 設立せつりつ京都きょうと大阪おおさか兵庫ひょうご貴族きぞくいんんだ設置せっち誘致ゆうち合戦かっせんになる。
  • 1895ねん明治めいじ28ねん) - 京都きょうと鉄道てつどう仮免許かりめんきょりたため解散かいさん

太田おおたゆきまつによる計画けいかく

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太田おおたゆきまつは、社内しゃない混乱こんらんにより路線ろせん開業かいぎょうさせることもままならなかった能勢のせ電気でんき軌道きどう現在げんざい能勢のせ電鉄でんてつ)をなおし、1913ねん大正たいしょう2ねん)に能勢のせくちえき現在げんざい川西能勢口かわにしのせぐちえき) - いち鳥居とりいえきあいだ開業かいぎょうさせた。その前年ぜんねんには本来ほんらい目的もくてきである吉川よしかわ妙見口みょうけんぐちえき)までの延長線えんちょうせん出願しゅつがんしたが、太田おおたはこれとならんで吉川よしかわ山陰本線さんいんほんせん亀岡かめおかえきとをむす軽便鉄道けいべんてつどうであるさん代目だいめ鉄道てつどう[1]出願しゅつがんしていた[2]。これが実現じつげんすれば能勢のせでん軌(能勢のせ電鉄でんてつ妙見線みょうけんせん)は陰陽連絡線いんようれんらくせんとしての役割やくわりになうことになり、能勢のせでん軌の付加ふか価値かち一層いっそうたかめることが期待きたいされた。さらには大阪おおさか - はな - 亀岡かめおか大阪おおさか - はな - 篠山しのやまむす構想こうそうもあり、はな温泉おんせんはターミナルえきとなる構想こうそうだった[3]

太田おおた能勢のせでん軌の破産はさんにより会社かいしゃわれ、鉄道てつどう専務せんむ取締役とりしまりやくいたが、ここでも財政ざいせいみだれと株主かぶぬし同士どうし対立たいりつなやまされた。1918ねん大正たいしょう7ねん)には規模きぼ縮小しゅくしょうのうえ妙見みょうけん鉄道てつどう改称かいしょうしたが、その翌年よくねんには免許めんきょ返上へんじょうした[4]

年表ねんぴょう

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  • 1912ねん明治めいじ45ねん)6がつ14にち[5] - 鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ申請しんせい[2]
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん)1がつ10日とおか - 軽便鉄道けいべんてつどう免許めんきょじょう下付かふみなみ桑田くわたぐん亀岡かめおかまち-豊能とよのぐん吉川よしかわむらあいだ[6]
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん)7がつ11にち - 設立せつりつ登記とうき[7]
  • 1915ねん大正たいしょう4ねん)8がつ18にち - 路線ろせん亀岡かめおか-東郷とうごうあいだ変更へんこうけん認可にんか[8]
  • 1915ねん大正たいしょう4ねん)10がつ15にち - 工事こうじ着工ちゃっこうするも資金しきん不足ふそくによりまもなく工事こうじ中断ちゅうだん[9]
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん妙見みょうけん鉄道てつどう改称かいしょう[4]
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ24にち - 軽便鉄道けいべんてつどう免許めんきょじょう返納へんのう[10]
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ - 会社かいしゃ解散かいさん[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽん全国ぜんこくしょ会社かいしゃ役員やくいんろくだい26かい国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  2. ^ a b 川西かわにし編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかいへん 『かわにし 川西かわにしだいさんかん』、1980ねん、276ぺーじ
  3. ^ まぼろしわった、大阪おおさか-亀岡かめおかむすぶ「鉄道てつどう計画けいかく - 亀岡かめおか市民しみん新聞しんぶんWeb
  4. ^ a b c 『かわにし 川西かわにしだいさんかん』、284ぺーじ
  5. ^ 鉄道てつどう計画けいかく挫折ざせつ」160ぺーじ
  6. ^ 軽便鉄道けいべんてつどう免許めんきょじょう下付かふ」『官報かんぽう』1913ねん1がつ16にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  7. ^ 鉄道てつどう計画けいかく挫折ざせつ」166ぺーじ
  8. ^ 鉄道てつどう計画けいかく挫折ざせつ」164ぺーじ
  9. ^ 鉄道てつどう計画けいかく挫折ざせつ」171ぺーじ
  10. ^ 軽便鉄道けいべんてつどう免許めんきょじょう返納へんのう」『官報かんぽう』1919ねん4がつ7にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西藤にしふじ二郎じろう鉄道てつどう計画けいかく挫折ざせつ」『京都学園大学きょうとがくえんだいがく論集ろんしゅうだい14かん3ごう

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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