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東坊城恭長 - Wikipedia

東坊城ひがしぼうじょうきょうちょう

日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう脚本きゃくほん映画えいが監督かんとく(1904−1944)

東坊城ひがしぼうじょう きょうちょう(ひがしぼうじょう やすなが、1904ねん9月9にち - 1944ねん9月22にち)は、日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう脚本きゃくほん映画えいが監督かんとくせいさんくんさんとう子爵ししゃく貴族きぞくいん議員ぎいん東坊城ひがしぼうじょう徳長とくなが三男さんなんで、戦前せんぜん日活にっかつ大将軍だいしょうぐん撮影さつえいしょとう活躍かつやくした。どう子爵ししゃくさんじょ入江いりえたか実妹じつまい、その長女ちょうじょ女優じょゆう入江いりえ若葉わかばめいたる。

ひがしぼうじょう やすなが
東坊城ひがしぼうじょう きょうちょう
生年月日せいねんがっぴ (1904-09-09) 1904ねん9月9にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1944-09-22) 1944ねん9月22にち(40さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう麻布まふ
職業しょくぎょう 俳優はいゆう脚本きゃくほん映画えいが監督かんとく
ジャンル サイレント映画えいが
活動かつどう期間きかん 1924ねん - 1940ねん
著名ちょめい家族かぞく いもうと入江いりえたか
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人物じんぶつ来歴らいれき

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1904ねん9月9にち東京とうきょう麻布まふ東坊城ひがしぼうじょう三男さんなん庶子しょし)としてまれる[1]

慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく卒業そつぎょう京都きょうとうつり、23さい子爵ししゃく小笠原おがさわら長生ながお長男ちょうなん小笠原おがさわらあきらほうが1923ねん京都きょうと設立せつりつしたばかりの映画えいが会社かいしゃ小笠原おがさわらプロダクション」に入社にゅうしゃ大正たいしょう末期まっき無声むせい映画えいが時代じだいに、映画えいが俳優はいゆうとなる。1924ねん、20さいのときに三善みよしえいよしこと小笠原おがさわらあきら二郎じろう監督かんとくの『泥棒どろぼう日記にっき』、あるいはそのあに小笠原おがさわらあきらほう監督かんとくの『海賊かいぞくとう』の端役はやくでデビュー、とされる。

つぎに、京都きょうと日活にっかつ大将軍だいしょうぐん撮影さつえいしょ入社にゅうしゃ、「現代げんだいげき」の映画えいが俳優はいゆうとしてキャリアがはじまる。最初さいしょにクレジットとして記録きろくのこっている作品さくひん村田むらたみのる監督かんとくの『青春せいしゅんうた』で、どうさくは1924ねん12月5にち鈴木すずきでんあきら主演しゅえんさくとして浅草あさくさ三友さんゆうかん皮切かわきりに全国ぜんこく公開こうかいされた。

よく1925ねんには、溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとくの『小品しょうひん映画えいがしゅうまちのスケッチ》』やよく1926ねん村田むらたみのる監督かんとくの『故郷こきょうみずなつかし』では、小品しょうひんといえど主役しゅやくるようになる。当時とうじ俳優はいゆう仲間なかまには、のちに映画えいが監督かんとくとなるしまこう渡辺わたなべ邦男くにおがいた。

やがて1927ねん脚本きゃくほんとしてデビューする。はつ脚本きゃくほんさく内田吐夢うちだとむ監督かんとくの『くつ』で、同年どうねん3がつ26にち浅草あさくさ三友さんゆうかん皮切かわきりに全国ぜんこく公開こうかいされた。俳優はいゆうぎょうは、同年どうねん5がつ1にち全国ぜんこく公開こうかいされた村田むらたみのる監督かんとく夏川なつかわ静江しずえ主演しゅえんの『椿つばきひめ』を最後さいご廃業はいぎょうした。大将軍だいしょうぐん撮影さつえいしょでは1928ねんあきまでに9ほん監督かんとくした。

日活にっかつ大将軍だいしょうぐん撮影さつえいしょ閉鎖へいさにより、「時代じだいげき」につぐ「現代げんだいげき」の移転いてんにともない、1928ねん新設しんせつ日活にっかつ太秦うずまさ撮影さつえいしょうつる。ここでも1929ねん-1932ねんあいだに11ほん監督かんとくした。1932ねん1がつどう撮影さつえいしょでの監督かんとくさく10さくサトウ・ハチロー原作げんさく市川いちかわ春代はるよ主演しゅえんの『浅草あさくさ悲歌ひか』に出演しゅつえんした直後ちょくご、まだ20さいだったいもうと入江いりえたかどう撮影さつえいしょから独立どくりつ製作せいさく会社かいしゃ入江いりえぷろだくしょん」を設立せつりつした。同社どうしゃは、大阪おおさか帝国ていこくキネマ改組かいそして東京とうきょう設立せつりつした新興しんこうキネマとの提携ていけい配給はいきゅうで、そうおか現在げんざい右京うきょう御室双岡おむろならびがおかまち)に新設しんせつした専用せんよう撮影さつえいしょで、入江いりえ主演しゅえんとした「現代げんだいげき」を製作せいさくしていく会社かいしゃだった。

そこで、東坊城ひがしぼうじょうも1932ねんまつをもって古巣ふるす日活にっかつ退社たいしゃ、「入江いりえぷろ」に入社にゅうしゃ阿部あべゆたか監督かんとくの『須磨すま仇浪あだなみ』(1933ねん3がつ16にち公開こうかい)や、かつて俳優はいゆう時代じだい主演しゅえん抜擢ばってきしてくれた溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとくの『たき白糸しらいと』(同年どうねん6がつ1にち公開こうかい)の脚本きゃくほんく。また同社どうしゃ提携ていけいさき新興しんこうキネマで、3ほん無声むせい映画えいが監督かんとくした。

1935ねん新興しんこうキネマ京都きょうと撮影さつえいしょはなつ、絢爛けんらん豪華ごうか正月しょうがつ作品さくひんはる姿すがたむすめ道中どうちゅう』の監督かんとく抜擢ばってきされる。どうさく東坊城ひがしぼうじょうにとってはじめての「サウンドばん映画えいが現代げんだいげきで、市川いちかわ春代はるよ主演しゅえんに、たけ夏子なつこきりたちのぼる浦辺うらべ粂子くめこもり静子しずこ、そして入江いりえたかといったスター女優じょゆうそろみ、浅草あさくさ電気でんきかんをはじめとして全国ぜんこく公開こうかいされた。しかし、これが東坊城ひがしぼうじょうにとっての最後さいご監督かんとくさくとなった。

入江いりえぷろ」が1935ねんをもって新興しんこうキネマとの提携ていけい解消かいしょう撮影さつえいしょ閉鎖へいさ、1937ねんからはあらたにPCL映画えいが製作所せいさくしょとの製作せいさく提携ていけい東宝とうほう映画えいが配給はいきゅうとの配給はいきゅう提携ていけい移行いこうした。そこで東坊城ひがしぼうじょうは、木村きむら荘十二そとじふくすいおさむ監督かんとく入江いりえたか主演しゅえんさく、2ほんトーキー脚本きゃくほんき、また、同年どうねんのPCLほか4しゃ合併がっぺいによる「東宝とうほう映画えいが」の設立せつりつ入江いりえ東宝とうほう専属せんぞく契約けいやくし、どうプロダクションは解散かいさんした。

1940ねん佐藤さとうたけし監督かんとく吉屋よしや信子のぶこ原作げんさくいもうと主演しゅえんさくつま場合ばあい まえへん』(トーキー、東宝とうほう映画えいが)の脚本きゃくほんいたが、どうさく最後さいごに、その活動かつどうしょう

1944ねん9月22にち死去しきょ。40さいぼつ

フィルモグラフィ

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出演しゅつえん

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日活にっかつ大将軍だいしょうぐん撮影さつえいしょ

脚本きゃくほん監督かんとく

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日活にっかつ大将軍だいしょうぐん撮影さつえいしょ
  • くつ 1927ねん 原作げんさく脚本きゃくほん 監督かんとく内田吐夢うちだとむ主演しゅえんとうこう小杉こすぎいさむ
  • 旅芸人たびげいにん 1927ねん 監督かんとく 共同きょうどう監督かんとく阿部あべゆたか主演しゅえん南部なんぶ章三しょうぞう
  • 鉄路てつろおおかみ 1927ねん 監督かんとく 原作げんさく主演しゅえん浅岡あさおか信夫しのぶ
  • 喧嘩けんか 1927ねん 監督かんとく 原作げんさく脚本きゃくほん木村きむらめぐみわれ主演しゅえん中野なかの英治えいじ
  • 激情げきじょう 1928ねん 監督かんとく脚本きゃくほん 主演しゅえん中野なかの英治えいじ入江いりえたか
  • りた指輪ゆびわ 1928ねん 監督かんとく 脚本きゃくほん木村きむらめぐみわれ主演しゅえんおき悦二えつじ
  • かなしき女性じょせい 1928ねん 監督かんとく 原作げんさく脚本きゃくほん木村きむらめぐみわれ主演しゅえんたにみきいち千秋ちあきみのる浦辺うらべ粂子くめこ佐久間さくま妙子たえこ
  • 蔚山うるさんおき海戦かいせん 1928ねん 監督かんとく 共同きょうどう監督かんとく畑本はたもとあきはじめ主演しゅえん山本やまもと嘉一きいちしまこう中野なかの英治えいじ
  • どろ人形にんぎょう 1928ねん 監督かんとく原作げんさく脚本きゃくほん 主演しゅえん中野なかの英治えいじ徳川とくがわ良子りょうこ
  • 田園でんえん哀愁あいしゅう 1928ねん 監督かんとく原作げんさく脚本きゃくほん 主演しゅえんだにみきいち津島つしまルイ子るいこ
日活にっかつ太秦うずまさ撮影さつえいしょ
入江いりえぷろだくしょん - 新興しんこうキネマ
新興しんこうキネマ京都きょうと撮影さつえいしょ(サウンドばん
PCL映画えいが製作所せいさくしょ - 東宝とうほう映画えいが東京とうきょう撮影さつえいしょ(トーキー)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 東坊城ひがしぼうじょう徳長とくなが人事じんじ興信録こうしんろくだい4はん [大正たいしょう4(1915)ねん1がつ]

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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