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瀧の白糸 - Wikipedia

たき白糸しらいと[1](たきのしらいと)は、いずみ鏡花きょうか小説しょうせつ侠血」を原作げんさくとする新派しんぱげき[2]および映画えいがテレビドラマオペラである。1956ねんまでに映画えいがでは6作品さくひん製作せいさくされた。

おんな水芸みずげいひとたき白糸しらいと本名ほんみょう水島みずしまとも)」はたび仲間なかま南京なんきん出刃でば(なんきんでばうち)の寅吉とらきち一座いちざとことごとく対立たいりつしていた。危機ききすくってくれたのが高岡たかおか乗合のりあい馬車ばしゃ御者ぎょしゃとしてはたら村越むらこし欣弥きんやだった。そのことをわすれられない白糸しらいとは、あるよる金沢かなざわながれる浅野川あさのがわかる卯辰うたつきょう原作げんさくでは天神橋てんじんばし)で欣弥きんや再会さいかいした。欣弥きんやかねのために学問がくもん断念だんねんしたことをった白糸しらいとは、自分じぶん仕送しおくりをすることを約束やくそくし、欣弥きんや支援しえんする。欣弥きんやへの仕送しおくりはしばらくつづくが、人気にんき低迷ていめいとともにそれもままならなくなり、また芸人げいにん仲間なかまわかれをちさせるなどして南京なんきん出刃でばうらみをう。白糸しらいと一座いちざのために高利貸こうりがしの岩淵いわぶちからかねりたが、300えんってかえるときに南京なんきんにそれを強奪ごうだつされる。岩淵いわぶち南京なんきんがグルであることをめようと白糸しらいと岩淵いわぶちおとずれたところ、あやまって岩淵いわぶちころしてしまう。白糸しらいと勉学べんがくはげ欣弥きんやもとおとずれるがあえなく逮捕たいほ検事けんじ学業がくぎょうえてはじめて検事けんじせき欣弥きんやであった。拘置こうちしょおとずれる欣弥きんや白糸しらいと正直しょうじきさばいてしいと懇願こんがんし、法廷ほうてい切々せつせつ真実しんじつ大切たいせつさを欣弥きんや言葉ことば白糸しらいと凶行きょうこう自白じはくし、したんで自殺じさつする。そのうように欣弥きんやもピストルでおのれいのちったのであった。

1915年版ねんばん

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たき白糸しらいと
監督かんとく 細山ほそやま喜代松きよまつ
脚本きゃくほん 原作げんさく いずみ鏡花きょうか
製作せいさく 日活にっかつ向島むこうじま撮影さつえいしょ
配給はいきゅう   日活にっかつ
公開こうかい   1915ねん2がつ
製作せいさくこく   日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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日活にっかつ向島むこうじま撮影さつえいしょ製作せいさく日活にっかつ配給はいきゅう細山ほそやま喜代松きよまつ監督かんとく作品さくひんどう撮影さつえいしょは「日活にっかつ新派しんぱ」とばれ、新派しんぱつねとして、女性じょせい配役はいやく立花たちばな貞二郎ていじろう女形おんながたえんじた。ほんさく具体ぐたいてき出演しゅつえんしゃめい不明ふめいである。ほんさくは、1914ねん大正たいしょう3ねん)10がつ細山ほそやま喜代松きよまつ監督かんとくだいヒットさくカチューシャ』と1915ねん大正たいしょう4ねん)1がつ続編ぞくへんのカチューシャ』のヒット直後ちょくご作品さくひんである。

1933年版ねんばん

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たき白糸しらいと
 
監督かんとく 溝口みぞぐち健二けんじ
脚本きゃくほん 東坊城ひがしぼうじょうきょうちょう
原作げんさく いずみ鏡花きょうか
出演しゅつえんしゃ 入江いりえたか
岡田おかだ時彦ときひこ
菅井すがい一郎いちろう
村田むらた宏寿ひろとし
浦辺うらべ粂子くめこ
撮影さつえい 三木みきしげる
製作せいさく会社かいしゃ 入江いりえプロ
配給はいきゅう 新興しんこうキネマ
公開こうかい 1933ねん
上映じょうえい時間じかん 88ふん
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溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとく作品さくひんサイレント映画えいが。88ふん。5つプリントが現存げんそんするが、ラストシーンが欠落けつらくしたものや、ラストシーンをふくむものの欠落けつらくきずおおいものなど、不完全ふかんぜんなプリントしかのこされていない[3]。このため、フィルムセンターにより欠落けつらく部分ぶぶんおぎない、ラストシーンを修復しゅうふくしたデジタルリマスターばん作成さくせいされている[4][5]

出演しゅつえん

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2007ねん望月もちづききょう付随ふずい音楽おんがく作曲さっきょくIRCAMフェスティヴァル・アゴラのわくないルーヴル美術館びじゅつかんオーディトリウムで初演しょえんされた。

このようなむかし無声むせい映画えいが現代げんだい作曲さっきょくあらたに音楽おんがくけるこころみは、ここじゅうすう年間ねんかん[いつ?]毎年まいとしルーヴル美術館びじゅつかんおこなわれているが、日本にっぽん映画えいがとしてははつれいである。

1937年版ねんばん

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マキノトーキー製作所せいさくしょ製作せいさく広瀬ひろせ五郎ごろう監督かんとく作品さくひん

出演しゅつえん

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1946年版ねんばん

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大映だいえい製作せいさく川口かわぐち松太郎まつたろう脚本きゃくほん木村きむらめぐみわれ監督かんとく作品さくひん

出演しゅつえん

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1952年版ねんばん

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大映だいえい製作せいさく依田よだ義賢よしかた脚本きゃくほんふちあきら監督かんとく作品さくひん白糸しらいと自殺じさつせず、結末けつまつ欣弥きんやむすばれる。

出演しゅつえん

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1956年版ねんばん

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大映だいえい製作せいさくしまこう脚本きゃくほんしまこう監督かんとく作品さくひん白糸しらいと無罪むざいとなり、欣弥きんやむすばれる。

出演しゅつえん

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テレビドラマ

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1973ねん NETけいおんな・そのあいのシリーズちゅういちさくとして前後ぜんごへんけて放送ほうそうされた。依田よだ義賢よしかた脚本きゃくほん稲垣いながきひろし監督かんとく坂田さかた晃一こういち音楽おんがく東映とうえい京都きょうと製作せいさく

出演しゅつえん

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2014ねん高岡たかおか高岡たかおか市民しみん会館かいかん)、金沢かなざわ金沢かなざわ歌劇かげき)、東京とうきょうしん国立こくりつ劇場げきじょうちゅう劇場げきじょう)で初演しょえん[6]千住せんじゅあきら作曲さっきょくをし、俳人はいじんまゆずみまどか台本だいほんき、演出えんしゅつ十川そがわみのる演出えんしゅつをした。ソプラノ歌手かしゅ中嶋なかじま彰子あきこが「たき白糸しらいとやくで、はじめて日本語にほんごオペラに出演しゅつえんした。2015ねん金沢かなざわ石川いしかわ県立けんりつ音楽おんがくどう)で再演さいえん[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 白糸しらいとぞう金沢かなざわ浅野川あさのがわ左岸さがんの「鏡花きょうかみち」にある。レリーフ高岡たかおか万葉まんようせん片原かたはらまち停留ていりゅうじょうちかくにある。
  2. ^ 花房はなふさ柳外りゅうがい脚色きゃくしょくにより、明治めいじ28ねん川上かわかみ一座いちざ駒形こまがた浅草あさくさ初演しょえん翌年よくねんれ、喜多村きたむら緑郎ろくろう白糸しらいと賞賛しょうさんはくし、昭和しょうわには花柳はなやぎ章太郎しょうたろう水谷みずたに八重子やえこ (初代しょだい)へとがれ、新派しんぱあた狂言きょうげんとなった。
  3. ^ 佐伯さえき知紀とものり、「映画えいがフィルムの収集しゅうしゅう復元ふくげん ふたつの事例じれい-「忠次ちゅうじたび日記にっき」 (伊藤いとう大輔だいすけ監督かんとく1927ねん) と「たき白糸しらいと」 (溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとく1933ねん) -を中心ちゅうしん」『映像えいぞう情報じょうほうメディア学会がっかい』 2001ねん 55かん 1ごう p.14-17, doi:10.3169/itej.55.14
  4. ^ 映像えいぞう東京とうきょうメトロポリタンテレビジョンTokYo,Boy(2010ねん10がつ17にち放送ほうそうぶんにて紹介しょうかいされている。
  5. ^ 復元ふくげん技術ぎじゅつ(9)フィルムの復元ふくげん映画えいが復元ふくげんする~(2006ねんサイエンスチャンネル
  6. ^ 昭和音楽大学しょうわおんがくだいがくオペラ研究所けんきゅうじょ オペラ情報じょうほうセンター
  7. ^ 昭和音楽大学しょうわおんがくだいがくオペラ研究所けんきゅうじょ オペラ情報じょうほうセンター

外部がいぶリンク

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