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南部彰三 - Wikipedia

南部なんぶ彰三しょうぞう

1898-?, 俳優はいゆう

南部なんぶ 彰三しょうぞう(なんぶ しょうぞう、1898ねん6月26にち - 没年ぼつねんしょう)は、日本にっぽん俳優はいゆうである[1][2][3]本名ほんみょう鴛海おしうみ 正次まさつぐ(おしうみ まさじ)[1][2][3]きゅう芸名げいめい南部なんぶ 章三しょうぞうおなじ)、南部なんぶ あきら(なんぶ あきら)[1][3]

なんぶ しょうぞう
南部なんぶ 彰三しょうぞう
本名ほんみょう 鴛海おしうみ 正次まさつぐ(おしうみ まさじ)
べつ名義めいぎ 南部なんぶ 章三しょうぞう
南部なんぶ あきら(なんぶ あきら)
生年月日せいねんがっぴ (1898-06-26) 1898ねん6月26にち
ぼつ年月日ねんがっぴ しょうねん
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 大分おおいたけん速見はやみぐん日出ひのでまち
職業しょくぎょう 俳優はいゆう
ジャンル 新劇しんげき劇映画げきえいが時代じだいげき現代げんだいげきサイレント映画えいがトーキー)、テレビドラマ
活動かつどう期間きかん 1926ねん - 1978ねん
配偶はいぐうしゃ 一宮いちのみやあさ
おも作品さくひん
旅芸人たびげいにん
地下鉄ちかてつさんきち
意気いき衝天しょうてん
てん三段跳さんだんとび
 
受賞じゅしょう
厚生こうせい労働ろうどう大臣だいじんしょう(1977ねん
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来歴らいれき人物じんぶつ

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1898ねん明治めいじ31ねん6月26にち大分おおいたけん速見はやみぐん日出ひのでまちまれる[1][2][3]

1916ねん大正たいしょう5ねん)、大分おおいた県立けんりつ杵築きづき中学校ちゅうがっこう現在げんざい大分おおいた県立けんりつ杵築きづき高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう県下けんか代用だいよう教員きょういんつとめ、1919ねんだいせいねん)、歩兵ほへい47聯隊れんたい入隊にゅうたい[1]同年どうねん4がつシベリア出兵しゅっぺい従軍じゅうぐんし、同年どうねん8がつ帰還きかん[1]。1921ねん大正たいしょう10ねん)に除隊じょたいふたた代理だいり教員きょういんつとめていたが、1922ねん大正たいしょう11ねん)4がつ上京じょうきょう陸軍りくぐんしょう東京とうきょう経理けいり就職しゅうしょくするととも日本にっぽん大学だいがく商学部しょうがくぶ入学にゅうがくする[1][2][3]

関東大震災かんとうだいしんさい直後ちょくごの1923ねん大正たいしょう12ねん)10がつ新国劇しんこくげき沢田さわだ正二郎しょうじろう日比谷ひびや野外やがい音楽おんがくどうもよおした罹災りさい市民しみん慰安いあん野外やがいげき鑑賞かんしょうして感動かんどうし、俳優はいゆうこころざ[1][3]同月どうげつ大学だいがく中退ちゅうたいし、1924ねん大正たいしょう13ねん)3がつには陸軍りくぐんしょう退職たいしょく日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう学校がっこうの2期生きせいとして入学にゅうがく[1]同期どうきには小杉こすぎいさむ見明みみょう凡太ろうがいた。1925ねん大正たいしょう14ねん)11月に学校がっこう中退ちゅうたいし、1926ねん大正たいしょう15ねん)1がつ日活にっかつ大将軍だいしょうぐん撮影さつえいしょ入社にゅうしゃ[1][2][3]。そして同年どうねん南部なんぶ章三しょうぞうという芸名げいめい村田むらたみのる監督かんとく映画えいが日輪にちりん[4]』で映画えいがデビューをたす[1][2][3]。1927ねん昭和しょうわ2ねん)、東坊城ひがしぼうじょうきょうちょう監督かんとくデビューさく阿部あべゆたか補佐ほさした映画えいが旅芸人たびげいにん』ではつ主演しゅえんえんじた[1][3]以降いこう岡田おかだ時彦ときひこ夏川なつかわ静江しずえ共演きょうえん映画えいが人形にんぎょういえ』に助演じょえんしたほか、『地下鉄ちかてつさんきち』『意気いき衝天しょうてん』とつづけに主演しゅえん[1][3]なかでも田坂たさかたかしにはとく重用じゅうようされ、以後いご田坂たさかが1932ねん昭和しょうわ7ねん)に日活にっかつ退社たいしゃするまで緊密きんみつ関係かんけいつづいた[1][2][3]。そのも、1932ねん昭和しょうわ7ねん)に開催かいさいされたロサンゼルス五輪ごりん優勝ゆうしょうした南部なんぶ忠平ちゅうへい選手せんしゅふんして話題わだいになった木藤きとうしげる監督かんとく映画えいがてん三段跳さんだんとび』や山路やまじふみ共演きょうえん映画えいがこい踊子おどりこ』、夏川なつかわ共演きょうえん映画えいが青春せいしゅん無情むじょう』などに主演しゅえんときにはじゅん主演しゅえんし、人気にんきはくした[1][3]

しかし1934ねん昭和しょうわ9ねん)1がつぼう助監督じょかんとく昇進しょうしん擁護ようごして日活にっかつ社長しゃちょう中谷なかたにさだよりゆき抗議こうぎしたことから馘首かくしゅされ、だい映画えいが入社にゅうしゃ余儀よぎなくされる[1][2][3]根岸ねぎし東一郎とういちろう監督かんとく映画えいがさくら音頭おんど』などに主演しゅえんして、同年どうねん10がつ退社たいしゃ[1][2][3]退社たいしゃかわろう一座いちざ参加さんかして公園こうえん劇場げきじょう振出ふりだしに四国しこく地方ちほう九州きゅうしゅう地方ちほう中心ちゅうしん巡演じゅんえん[1][3]。1935ねん昭和しょうわ10ねん)4がつ新興しんこうキネマ谷津やづ撮影さつえいしょ入社にゅうしゃし、勝浦かつうらせん太郎たろう監督かんとく映画えいがきずだらけのおあき』などに助演じょえん[1][2][3]。1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ京都きょうと撮影さつえいしょ移籍いせきし、市川いちかわ男女だんじょすけ共演きょうえん石田いしだ民三たみぞう監督かんとく映画えいが海道かいどうひゃく』など多数たすう時代じだいげき出演しゅつえんした[1][2][3]

以後いご脇役わきやくまわり、1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつからは統合とうごうにより大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ所属しょぞくし、以後いご多数たすう時代じだいげき現代げんだいげき脇役わきやくとして出演しゅつえん[1][2][3]。このあいだ戦後せんごの1951ねん昭和しょうわ26ねん)に南部なんぶ 彰三しょうぞう改名かいめいしているが、一時期いちじき南部なんぶ あきらという芸名げいめいもちいたこともある[1][3]。1971ねん昭和しょうわ46ねん)、大映だいえい倒産とうさんによりフリーとなるが、1978ねん昭和しょうわ53ねん)に公開こうかいされた熊井くまいあきら監督かんとく映画えいがぎんさま』までなが活躍かつやくした[1][2][3]。1979ねん昭和しょうわ54ねん)に発行はっこうされた『日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう全集ぜんしゅう 男優だんゆうへん』では、存命ぞんめい人物じんぶつとして京都きょうと京都きょうと左京さきょう修学院坪江しゅうがくいんつぼえまち連絡れんらくさきしめされている[1][2][3]以後いご消息しょうそく不明ふめいとされていた[1][2]が、南部なんぶまご証言しょうげんによると、晩年ばんねんつま先立さきだたれ、痴呆ちほうのためむすめ北海道ほっかいどう札幌さっぽろ同居どうきょし、のち息子むすこ関東かんとう地方ちほうき、そこであいだもなく死去しきょしたという。没年ぼつねんしょう[よう出典しゅってん]

また、芸能げいのう活動かつどうかたわら1953ねん昭和しょうわ28ねん)に月形つきがた龍之介りゅうのすけ創立そうりつしたにちげい信用組合しんようくみあい理事りじつとめたほか、京都きょうと芸術げいじゅつ国民こくみん健康けんこう保険ほけん組合くみあい創立そうりつ尽力じんりょくして常務じょうむ理事りじつとめ、その功績こうせきたたえて1977ねん昭和しょうわ52ねん)、厚生こうせい労働ろうどう大臣だいじんしょう受賞じゅしょうした[1][2]

出演しゅつえん作品さくひん

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テレビドラマ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう全集ぜんしゅう 男優だんゆうへんキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1979ねん、435-436ぺーじ 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 芸能人げいのうじんぶつ事典じてん 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ日外にちがいアソシエーツ、1998ねん、441ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 日本にっぽん映画えいが美男びなん俳優はいゆう せん前編ぜんぺん』 ワイズ出版しゅっぱん、2014ねん
  4. ^ 三上みかみ於菟吉おときち原作げんさく日活にっかつホームページ 「日輪にちりん まえへん映画えいが

外部がいぶリンク

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