城東高等学校(現・高知高等学校)で1955年の夏の甲子園大会に出場しベスト8。卒業後は近畿大学を経て1960年に北陽高等学校に社会科教諭として着任、同時に野球部監督に就任。「高校野球は技術より精神力。闘志と忍耐無き者は去れ。」をモットーに、1990年8月に勇退するまで夏4回、春6回、計10回甲子園出場を果たし、1970年の春の甲子園大会ではチームを準優勝へ導く。
また「来る者は拒まず。」の方針で監督在任中は例年部員を200人以上抱えていたが、新1年生の顔写真をポケットアルバムに入れて顔と名前を覚えたり、選手一人一人と交換日記を行なうなどの細かい配慮のおかげか、不祥事らしい不祥事は起こさなかったそうである。
1992年3月末をもって北陽高等学校を退職。
1992年の夏の甲子園で松井秀喜5打席連続敬遠が起きた試合のテレビ解説を務めており、解説席で「ここは勝負して欲しいですね~」「いや~こんなのは初めてですね」「高知の野球とはちょっと違いますね」「私、非常に残念です」(スタンドからメガホンが投げ込まれた際に)「高校野球でこんなのは初めてですよ!」「涙出てきますね~」と悔しがっていた。
甲子園での成績
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- 春:出場6回・8勝6敗・準優勝1回(1970年)
- 夏:出場2回・3勝2敗
- 通算:出場8回(+部長として1973年春夏1回ずつ)・11勝8敗・準優勝1回