松平まつだいら 信子のぶこ(まつだいら のぶこ、明治めいじ19年ねん(1886年ねん)7月がつ15日にち - 昭和しょうわ44年ねん(1969年ねん)5月8日にち)は、松平まつだいら恒雄つねおの夫人ふじんである。侯爵こうしゃく鍋島なべしま直ただし大だいの四よん女じょで、娘むすめに秩父宮ちちぶのみや妃ひ勢津子せつこ、徳川とくがわ正子まさこ、姉あねに梨本なしもと宮みや妃ひ伊都子いつこがいる。戒名かいみょうは、蓮月れんげつ院いん殿どの和光わこう妙みょう聖日せいじつ信しん大姉だいしである。
明治めいじ19年ねん(1886年ねん)、鍋島なべしま侯爵こうしゃく家かに生うまれて裕福ゆうふくな環境かんきょうで育そだった。母はは榮子えいこが外交がいこう官かんに嫁とつぐことを望のぞんだため、旧きゅう会津あいづ藩はん主おも・松平まつだいら容保かたもりの六ろく男なん恒雄つねおと婚約こんやくする。華族かぞく女学校じょがっこう(後ごの学習がくしゅう院いん女おんな学部がくぶ)卒業そつぎょう後ごの明治めいじ39年ねん(1906年ねん)秋あき、19歳さいで単身たんしん渡わたり欧おうして結婚けっこんする。
貞明皇后ていめいこうごうに仕つかえてその信頼しんらいを得え、宮廷きゅうてい内ないに大おおきな発言はつげん権けんを有ゆうしていた。学習がくしゅう院いんの同窓会どうそうかい組織そしき・常磐ときわ会かいでは会長かいちょうを務つとめた。昭和しょうわ30年代ねんだいには東宮とうぐう内うちで御ご教育きょういく参与さんよとして仕つかえた。
明仁あきひと親王しんのうの妃ひ候補こうほには北きた白川しらかわ肇子けいこ(のちの島津しまつ肇子けいこ)を推薦すいせんしていたが、その後ご明仁あきひとが正田しょうだ美智子みちことの結婚けっこんを決きめたことに際さいし、「妃ひは華族かぞくすなわち学習がくしゅう院いん出身しゅっしん者しゃに限かぎる」という慣例かんれいを主張しゅちょうして香こう淳じゅん皇后こうごうや雍仁親王やすひとしんのう妃ひ勢津子せつこ、宣仁のぶひと親王しんのう妃ひ喜久子きくこ、梨本なしもと伊都子いつこ、柳原やなぎはら白蓮びゃくれんらと共ともに激はげしく反対はんたいした[1]。しかしこの婚姻こんいんに昭和しょうわ天皇てんのうが理解りかいを示しめしたこともあり、その後ごは表立おもてだって批判ひはんすることはなくなった。
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