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松平信子 - Wikipedia

松平まつだいら 信子のぶこ(まつだいら のぶこ、明治めいじ19ねん1886ねん7がつ15にち - 昭和しょうわ44ねん1969ねん5月8にち)は、松平まつだいら恒雄つねお夫人ふじんである。侯爵こうしゃく鍋島なべしまただしだいよんじょで、むすめ秩父宮ちちぶのみや勢津子せつこ徳川とくがわ正子まさこあね梨本なしもとみや伊都子いつこがいる。戒名かいみょうは、蓮月れんげついん殿どの和光わこうみょう聖日せいじつしん大姉だいしである。

松平まつだいら信子のぶこ

来歴らいれき

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明治めいじ19ねん1886ねん)、鍋島なべしま侯爵こうしゃくまれて裕福ゆうふく環境かんきょうそだった。はは榮子えいこ外交がいこうかんとつぐことをのぞんだため、きゅう会津あいづはんおも松平まつだいら容保かたもりろくなん恒雄つねお婚約こんやくする。華族かぞく女学校じょがっこう学習がくしゅういんおんな学部がくぶ卒業そつぎょう明治めいじ39ねん1906ねんあき、19さい単身たんしんわたりおうして結婚けっこんする。

貞明皇后ていめいこうごうつかえてその信頼しんらい宮廷きゅうていないおおきな発言はつげんけんゆうしていた。学習がくしゅういん同窓会どうそうかい組織そしき常磐ときわかいでは会長かいちょうつとめた。昭和しょうわ30年代ねんだいには東宮とうぐううち教育きょういく参与さんよとしてつかえた。

明仁あきひと親王しんのう候補こうほにはきた白川しらかわ肇子けいこ(のちの島津しまつ肇子けいこ)を推薦すいせんしていたが、その明仁あきひと正田しょうだ美智子みちことの結婚けっこんめたことにさいし、「華族かぞくすなわち学習がくしゅういん出身しゅっしんしゃかぎる」という慣例かんれい主張しゅちょうしてこうじゅん皇后こうごう雍仁親王やすひとしんのう勢津子せつこ宣仁のぶひと親王しんのう喜久子きくこ梨本なしもと伊都子いつこ柳原やなぎはら白蓮びゃくれんらとともはげしく反対はんたいした[1]。しかしこの婚姻こんいん昭和しょうわ天皇てんのう理解りかいしめしたこともあり、その表立おもてだって批判ひはんすることはなくなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ このもう反対はんたい民間みんかんじんへの差別さべつてき意図いとではなく、民間みんかんそだった女性じょせい突如とつじょ皇室こうしつという特殊とくしゅ世界せかいとついで、としてのつとめが出来できるのかという心配しんぱいによるものである[よう出典しゅってん]