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柱島 - Wikipedia

柱島はしらじま

山口やまぐちけん安芸灘あきなだにあるしま

柱島はしらじま(はしらじま)は、瀬戸内海せとないかい西部せいぶ安芸灘あきなだ南西なんせい位置いちする柱島はしらじま群島ぐんとう本島ほんとうであり、きた倉橋島くらはしじま江田島えたじまみなみ屋代島やしろじまとその属島ぞくとうひがし中島なかじまをはじめとする忽那くつな諸島しょとうかこまれており、これらの島々しまじま中央ちゅうおう位置いちしている。山口やまぐちけん岩国いわくにぞくする。

柱島はしらじま
所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
山口やまぐちけん岩国いわくに
所在しょざい海域かいいき 瀬戸内海せとないかい
座標ざひょう 北緯ほくい341ふん12びょう 東経とうけい13224ふん43びょう / 北緯ほくい34.02000 東経とうけい132.41194 / 34.02000; 132.41194座標ざひょう: 北緯ほくい341ふん12びょう 東経とうけい13224ふん43びょう / 北緯ほくい34.02000 東経とうけい132.41194 / 34.02000; 132.41194
面積めんせき 3.12 km²
最高さいこう標高ひょうこう 290 m
柱島の位置(山口県内)
柱島
柱島はしらじま
柱島はしらじま (山口やまぐちけん)
柱島の位置(日本内)
柱島
柱島はしらじま
柱島はしらじま (日本にっぽん)
プロジェクト 地形ちけい
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島名しまな由来ゆらいは、島内とうないおおくの神様かみさままつられているしま神様かみさまは「はしら」とかぞえるために柱島はしらじまとなったとつたえられている。現在げんざい柱島はしらじま鎮座ちんざする賀茂かも神社じんじゃには13の末社まっしゃ須賀すかしゃ貴船きふねしゃ稲荷いなりしゃ住吉すみよししゃ春日かすがしゃ大歳おおとししゃ若宮わかみやしゃ今宮いまみやしゃ新宮しんぐうしゃ金比羅こんぴらしゃ妙見みょうけんしゃ天神てんじんしゃさる神社じんじゃ)が境内けいだいまつられており、元々もともとはもっとおおくの神様かみさましまなかまつられていたとみられる。

柱島はしらじまおよ小柱おばしらとう横島よこしまおよ黒島くろしまとのあいだ水道すいどう海域かいいき)を柱島はしらじま水道すいどうといい、エビガヒレやだいばん砠(おおごばんのばえ)などのくらがん点在てんざいする船舶せんぱく交通こうつう難所なんしょである[1]

かつてはしま近海きんかい日本にっぽん海軍かいぐん連合れんごう艦隊かんたい停泊ていはく柱島はしらじま泊地はくち)になっていた。柱島はしらじま泊地はくちには当時とうじ陸奥みちのく長門ながと扶桑ふそう山城やましろ日向ひなた伊勢いせおおくの戦艦せんかん停泊ていはくしており、ぐん島民とうみん交流こうりゅうもあったようで、連合れんごう艦隊かんたいそう司令しれいかんであった山本やまもと五十六いそろく柱島はしらじま上陸じょうりくしている。昭和しょうわ18ねん(1943ねん)、戦艦せんかん陸奥みちのく爆沈ばくちんという事故じここっており、この事故じこでの犠牲ぎせいしゃのため泊地はくち近傍きんぼう慰霊いれいがたてられており柱島はしらじま島民とうみん有志ゆうし慰霊いれいしている。

地理ちり地勢ちせい

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  • 位置いち岩国いわくにこう新港しんこう)から南東なんとうへ26km
  • 人口じんこう:145にん(2015ねん国勢調査こくせいちょうさ
  • 世帯せたいすう:96世帯せたい(2015ねん国勢調査こくせいちょうさ
  • 島内とうない最高峰さいこうほう金蔵きんぞうさん(きんぞうさん)標高ひょうこう290m(※金蔵きんぞうさん別名べつめい周防すおう小富士こふじともばれている)
  • しま地質ちしつおもかたあさじょう花崗みかげ閃緑がん形成けいせいされており、南東なんとう部分ぶぶん砂浜すなはまなどのおき積層せきそう花崗岩かこうがんしつそう一部いちぶられる。また、しまにはどう鉱脈こうみゃくがあり、大正たいしょうのころに試掘しくつおこなわれたそうだが、場所ばしょ不明ふめい

産業さんぎょう

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  • 漁業ぎょぎょう農業のうぎょう野菜やさい、みかん)が中心ちゅうしん

行政ぎょうせい教育きょういく

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桂島かつらしま玖珂くがぐん麻里布まりふむら一部いちぶであったが、1928ねん昭和しょうわ3ねん)に町制ちょうせい施行しこうされ、1940ねん昭和しょうわ15ねん)に麻里布まりふまちほか4町村ちょうそん合併がっぺいにより岩国いわくにとなった。

  • 岩国いわくに市役所しやくしょ柱島はしらじま出張所しゅっちょうしょがある。
  • 岩国いわくに市立しりつ柱島はしらじま小学校しょうがっこう柱島はしらじま中学校ちゅうがっこうがあるが、小学校しょうがっこうは2008ねん平成へいせい20ねん)、中学校ちゅうがっこうは2011ねん平成へいせい23ねん)から休学きゅうがくちゅう

交通こうつう

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  • 岩国いわくにこう新港しんこう)より、岩国いわくに柱島はしらじま海運かいうん高速こうそくせん平日へいじつは1にち3往復おうふく土日どにちと8がつ13にち~15にち、12月30にち~1がつ4にちは1にち4往復おうふく運航うんこうされている。
  • 所要しょよう時間じかんは、やく38~59ふん便びんによって、はしとう黒島くろしま経由けいゆするため所要しょよう時間じかんわる)

人物じんぶつ

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  • おうとく元年がんねん(1084ねん

柱島はしらじまは、平安へいあん時代じだいから室町むろまち時代じだいにかけて活躍かつやくした海上かいじょう勢力せいりょく忽那くつな七島ななしま水軍すいぐん勢力せいりょくであった。ゆるがせなな島水しますいぐんは、九州きゅうしゅう四国しこく京都きょうとむす交通こうつう要衝ようしょうである瀬戸内海せとないかい西にし関門かんもんである伊予いよ忽那くつな諸島しょとう周防すおうこく柱島はしらじま群島ぐんとうのいわゆる防予諸島ほうよしょとう手中しゅちゅうおさめて、忽那くつなとう野島のじまいか津和地つわじ二神にかみろくとう柱島はしらじま精兵せいびょう配備はいびして制海権せいかいけんほこったうみ王者おうじゃであったが、このうみ王者おうじゃ柱島はしらじま第一歩だいいっぽしるした。

藤原ふじわらみのるさとし柱島はしらじま入島にゅうじま。この人物じんぶつ文献ぶんけんられないため、いつ、どのような事情じじょう入島にゅうじましてたかは不明ふめいだが、おそらく同族どうぞく藤原ふじわら政権せいけんようられなくてきょうより地方ちほうくだってきた一人ひとりであったとかんがえられている。同伴どうはんしゃ実弟じっていいちにんふくいちぎょうななにんであったという。延久のべひさ2ねん(1070ねん)3がつ26にち ぼつはかさとし金蔵きんぞうさん中腹ちゅうふく築城ちくじょうした柱島はしらじまじょう本丸ほんまるあとてられている。

おうとく元年がんねん 甲子きのえねなつ4がつ藤原ふじわらちかしけん忽那くつなとう入島にゅうじましんけん藤原ふじわら道長みちながのところにあってつみ忽那くつなとう流罪るざいされたとつたえられているが、確実かくじつ史料しりょうはない。どのような人物じんぶつであったのか史料しりょうのこっていないため確証かくしょうはないが、さとしではないかというせつがある。ゆるがせなな島水しますいぐん有名ゆうめい忽那くつな藤原ふじわらちかしけんとしている。

藤原ふじわらちかしけんいれとうすると、忽那くつなとう柱島はしらじま群島ぐんとう領主りょうしゅになり、統治とうち諸島しょとう開墾かいこん事業じぎょう着手ちゃくしゅした。一方いっぽう柱島はしらじまとどまったさとしおとうとは、柱島はしらじま藤原ふじわらとなり、直系ちょっけいは「柱島はしらじま」、おとうと子孫しそんは「はしら」としょうした。

  • おうとく3ねん(1086ねん)〜よしみ(1096ねん

おうとく3ねん 藤原ふじわらちかしけん忽那くつなとう大浦おおうらちょうりょうてら建立こんりゅう

藤原ふじわらちかしけん忽那くつな諸島しょとう柱島はしらじま群島ぐんとう開発かいはつすすめ、しんけんである藤原ふじわら親朝ちかともだいで、寛治かんじ年中ねんじゅう(1087〜94)に忽那くつなとうふくろくとう開発かいはつし、よしみころ(1095〜96)に柱島はしらじまがい五島ごしま開発かいはつ完了かんりょうした。

  • 寿ことぶきひさし3ねん(1185ねん

4がつ24にち こう白河しらかわ法皇ほうおういんちょうより、賀茂かもべつかみなり社領しゃりょう柱島はしらじま武士ぶし狼藉ろうぜき停止ていしせよとの院宣いんぜんくだされた。

  • ぶんなが11ねん(1274ねん)〜弘安ひろやす4ねん(1281ねん

にわたるもとやくぶんながやく弘安ひろやすやく)では、もとぐん九州きゅうしゅう北岸ほくがん侵攻しんこうさいして、柱島はしらじま水軍すいぐん忽那くつな重俊しげとし指揮しきするゆるがせなな島水しますいぐんくみし、河野こうの通有つうゆうぐんくわわった。

ぶんながやくには博多湾はかたわん出動しゅつどう奮戦ふんせんし、弘安ひろやすやくには伊万里湾いまりわん鷹島たかしま鹿島かしま転戦てんせん戦果せんかをあげた。

  • のべもと4ねん(1339ねん

9がつごろ せい西にし将軍しょうぐんみやなつけ親王しんのう西下さいか途中とちゅう忽那くつなとう滞在たいざいちゅう忽那くつな水軍すいぐん大部たいぶなつけ親王しんのう警護けいごのため忽那くつな海域かいいき集中しゅうちゅうしているすきをついて、足利あしかがかた伊予いよ河野こうのとおるもり讃岐さぬき細川ほそかわじょうぜん安芸あき武田たけださん連合れんごうぐん当時とうじ忽那くつな水軍すいぐん勢力せいりょく圏内けんないにあった、周防すおう屋代島やしろじま急襲きゅうしゅうした。そのとき屋代島やしろじまには冷泉れいせん持房もちふさ大将たいしょうとする土井どい通重みちしげ土井どいとおるもと屋代島やしろじま方面ほうめんたい家室かむろ中心ちゅうしん防備ぼうびかためていたが、たたかあらず通重みちしげつうもと戦死せんしし、しままつしょう西部せいぶ占領せんりょうされてしまった。急報きゅうほういて忽那くつな水軍すいぐんはしら(藤原ふじわら)しゅんむね大将たいしょうとする、救援きゅうえん部隊ぶたい派遣はけんはしらしゅんむね油良ゆら長崎ながさき沿岸えんがん武田たけだぐん全滅ぜんめつてき打撃だげききょうえ、上陸じょうりくして河野こうの細川ほそかわぐん連破れんぱてきぐんうみついおとしつ失地しっち回復かいふくした。

このころはしらしゅんむねちちはしらしゅんきよしとともに「柱島はしらじま海賊かいぞく大将軍だいしょうぐんなり」と呼号こごうしている。

  • 興国こうこく元年がんねん(1340ねん

3月 せい西にし将軍しょうぐんみやなつけ親王しんのうは、熊野くまの村上むらかみゆるがせさん水軍すいぐん800せき船団せんだんひきいて忽那くつなとう出発しゅっぱつ九州きゅうしゅう豊後ぶんご到着とうちゃく。ついで4がつ日向ひなた上陸じょうりくした。

10がつ10日とおか 九州きゅうしゅう日向ひなたくににおいて足利あしかがかた畠山はたけやまただしあきらぐん交戦こうせんちゅうなつけ親王しんのう救援きゅうえんのため、忽那くつな重勝しげかつ忽那くつな水軍すいぐん主力しゅりょくひきいて、芸予諸島げいよしょとう村上むらかみ義弘よしひろ指揮しきする村上むらかみ水軍すいぐんとともに九州きゅうしゅうひがし南岸なんがん作戦さくせん行動こうどうていた。そのきょをついて、安芸あき武田たけだぐん忽那くつなとう急襲きゅうしゅう忽那くつな水軍すいぐんそう大将たいしょう忽那くつな義範よしのり側近そっきん200めいとも泰山たいざんじょうてこもり防戦ぼうせん。そのとき忽那くつな水軍すいぐん屋代島やしろじま防衛ぼうえいぐん大将たいしょうはしらしゅんむねいえしつにいたが、忽那くつなとう武田たけだぐん来襲らいしゅうほうくととも精鋭せいえいひきいて忽那くつなとう急行きゅうこう武田たけだぐん猛攻もうこうすると、籠城ろうじょうしていた忽那くつな義範よしのり城門じょうもんひらいて出撃しゅつげき武田たけだぐんはさった。さらに、撤退てったいする武田たけだぐん倉橋くらはしとう東岸とうがんきた波多見はたみむらげん音戸おんどまち)まで追撃ついげきだい打撃だげきくわえた。武田たけだぐん指揮しきしていた武田たけだ信武のぶたけびたが、安芸あき金山かなやまじょうぐんくことになった。

  • 興国こうこく3ねん(1343ねん

3がつ10日とおか せい西にし将軍しょうぐんみや鹿児島かごしま上陸じょうりく作戦さくせんのため、そう大将たいしょう忽那くつな義範よしのりゆるがせぐん主力しゅりょくひきいて村上むらかみ水軍すいぐん熊野くまの水軍すいぐん九州きゅうしゅう南東なんとうがん作戦さくせん展開てんかいちゅう足利あしかがかた伊予いよ河野こうのとおるもり忽那くつなとう手薄てうす攻撃こうげきをかけてた。そのとき同族どうぞく忽那くつな重勝しげかつ指揮しきり、神浦かみうら義嗣よしつぐ武藤むとう則平のりひら一族いちぞく300にん泰山たいざんじょうもって防戦ぼうせんした。せんは3日間にちかんわたった。3にちはしらしゅんむね屋代島やしろじま防衛ぼうえいぐん参戦さんせんし、海陸かいりくから河野こうのぐん猛攻もうこう河野こうのとおるもり大敗たいはいして築城ちくじょう撤退てったいした。このせん屋代やしろぐん救援きゅうえんおくれたのは、この海域かいいき一帯いったいはるばんれていたためという。河野こうのとおるもりゆるがせとう侵攻しんこうは、その直後ちょくごおなじ3がつちゅうゆるがせぐん反撃はんげきによってむくいられた。この攻囲こういせんはしらしゅんむね屋代やしろぐん方面ほうめんたい土井どい通世みちよぐんよっておこなわれた。

7がつ14にち 河野こうのぐん宮方みやかたぐん土井どい通世みちよ土肥どいしろ包囲ほういしたが、忽那くつなぐん攻撃こうげきけて敗退はいたい

9月3にち 忽那くつなぐん中道前なかみちまえにおいて河野こうのぐん連破れんぱ河野こうのぐんゆるがせとう侵攻しんこう作戦さくせん失敗しっぱい忽那くつなぐん伊予いよ本土ほんど反撃はんげきよん連戦れんせんは、河野こうの伝統でんとうてき権威けんいくずしさり、四国しこくはもちろん全国ぜんこくてき宮方みやかたぐん指揮しきいちじるしく増大ぞうだいした。

  • 正平しょうへい元年がんねん(1348ねん

11月ごろ 柱島はしらじま(太朗たろう左衛門尉さえもんのじょう藤原ふじわら)道明みちあき 鹿児島湾かごしまわん沿岸えんがんにある谷山たにやまじょう東福寺とうふくじじょう攻防こうぼうせん戦死せんし一門いちもんおおくこれにじゅんず。そのとき谷山たにやまじょうにはせい西にし将軍しょうぐんみやなつけ親王しんのう滞在たいざいちゅうで、東福寺とうふくじじょうまもっている足利あしかがかた島津しまつ貞久さだひさとのあいだ戦闘せんとう展開てんかいされていた。

柱島はしらじま藤原ふじわら道明みちあき次男じなん仏門ぶつもんはいる。忽那くつなとう(中島なかじま)真言宗しんごんしゅうさん狩山かりやまちょうたかしてら だいじゅうろくせい法子のりこめい かしわりん西堂せいどう子孫しそん藤本ふじもとはちぞう

  • ぶんろく元年がんねん(1592ねん

6がつ 豊臣とよとみ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいときはしら(九郎兵衛くろべえ藤原ふじわら)しゅんぼうさむらいばしらとう頭領とうりょうとして出征しゅっせい日本にっぽん水軍すいぐん来島らいとう水軍すいぐんだんそう大将たいしょう伊予いよ来島くるしま村上むらかみ水軍すいぐん来島くるしま出雲いずもまもるどおりそうぐん所属しょぞくし、きょずみとう海戦かいせん皮切かわきりに各地かくち転戦てんせんつねさん間柄あいだがらながやりをふるって勇戦ゆうせん来島らいとうむらじょうの「やりの九郎兵衛くろべえ」の雷名らいめいとどろかした。朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいだいいちかいとき柱島はしらじま水主みずし42屋敷やしきより42めい出動しゅつどうし、きてかえったもの7めいちゅうしん家老がろう牧野まきのおさむ左衛門さえもん以下いか35めい戦没せんぼつ

なお日本にっぽん水軍すいぐん編成へんせい内訳うちわけつぎとおり。

  • 慶長けいちょう3ねん(1598ねん

朝鮮ちょうせんやくやみ、はしらしゅんぼう柱島はしらじま帰還きかんしたが、そのときそう大将たいしょうよりその武勲ぶくんたたえられ、子々孫々ししそんそんいたるまでいえものは「九郎兵衛くろべえ名乗なのれ」ともうけられ、代々だいだい当主とうしゅ九郎兵衛くろべえしょうした。 

出典しゅってん

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  1. ^ 備後灘びんごなだ燧灘ひうちなだ安芸灘あきなだ広島ひろしまわん”. 国土こくど交通省こうつうしょう. 2022ねん3がつ18にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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