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武芸 (日本) - Wikipedia

武芸ぶげい (日本にっぽん)

日本にっぽん武士ぶしなどがたたかうために訓練くんれんした技芸ぎげい

武芸ぶげい(ぶげい)とは、日本にっぽん古代こだいから中世ちゅうせい近世きんせい初期しょきまでにおいて、ぐん兵卒へいそつ武官ぶかん武士ぶしなどが当時とうじ戦場せんじょうたたかうために訓練くんれんした技芸ぎげいのこと。

武芸ぶげい総論そうろん

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日本にっぽん鉄器てっき武器ぶき導入どうにゅうされたのは弥生やよい時代じだいはいってからである。

こう漢書かんしょ倭人わじんでんでは「其兵ゆうほこだてゆみ竹矢ちくや ある以骨ため」としるされているが、『こころざし倭人わじんでん』では「へいようほこだて弓木ゆみきゆみたん下長しもなが上竹かみたけあるてつ鏃或こつ」とあり、西暦せいれき200年代ねんだいごろやまとにおいてほこたてゆみてつあるいはほねもちいられていて、ゆみしたみじかうえながゆみとの記述きじゅつがある。

大和やまと朝廷ちょうてい成立せいりつした時代じだいには、大伴おおとも物部ものべなどが軍事ぐんじになった氏族しぞくとして存在そんざいした。日本にっぽん最古さいこ史書ししょといえる『日本書紀にほんしょき』の綏靖天皇てんのうじょうに「武芸ぶげい」のかたりえ、また『日本書紀にほんしょき』や『古事記こじき』にほこけんかたなゆみ、捔力(相撲すもう)などの記述きじゅつられる。

古墳こふん時代じだいまでにはうま軍馬ぐんばとしてもちいられ、さん東北とうほく日本にっぽんまでひろがってさかんとなった。ちょうゆみはより長大ちょうだいとなり、現在げんざいかずゆみほどとなった。[よう出典しゅってん]

律令制りつりょうせいととのった時代じだい律令りつりょう官制かんせい軍制ぐんせい兵部ひょうぶしょうつかさどっていた軍団ぐんだん兵士へいしせいであった。その戦闘せんとう訓練くんれんとして武官ぶかん律令制りつりょうせいしき武芸ぶげいがあり、戦術せんじゅつ軍団ぐんだんとして組織立そしきだった集団しゅうだんせん中心ちゅうしんだった。天武天皇てんむてんのう武官ぶかんたいして用兵ようへい乗馬じょうば訓練くんれんかんする発令はつれいをし、大宝たいほう律令りつりょう養老ようろう律令りつりょうつうじて学制がくせい騎兵隊きへいたい強調きょうちょうされた。また、文武ぶんぶ天皇てんのうけいくもねんろくがつ(704ねん)に諸国しょこく兵士へいし武芸ぶげいならわせたことや、聖武天皇しょうむてんのうかみひさし元年がんねん(724ねん)に坂東ばんどう9カ国かこくぐんさんまん騎射きしゃ教習きょうしゅう軍陣ぐんじん訓練くんれんけるようになったとの記事きじのこされている。なお当時とうじいしゆみ使用しようしていた。

その軍団ぐんだん兵士へいしせいから健児けんじせいはさみつつ国衙こくが軍制ぐんせいへと移行いこうするが、このとき武装ぶそう朝廷ちょうてい国衙こくがから公認こうにんされた「下級かきゅう貴族きぞくしょ大夫たいふ)」、「下級かきゅうかんじんさむらい)」、「有力ゆうりょくしゃ家人かじんさむらい)」からなる人々ひとびとは「最初さいしょ武士ぶし」であり、また、この国衙こくが軍制ぐんせいぐんには7世紀せいきから9世紀せいきあいだ大和やまと帰服きふくして俘囚ふしゅうとなった蝦夷えぞ蝦夷えぞたんゆみもちいた[よう出典しゅってん])もおり、蝦夷えぞわらび手刀てがたな和人わじんつたわり太刀たち源流げんりゅうとなった。

そして国衙こくが軍制ぐんせいにおける「最初さいしょ武士ぶし」は10世紀せいき成立せいりつした「新式しんしき武芸ぶげい」をいえげいとしてへいいえ(つわもののいえ)とされ、これを母体ぼたいとして武士ぶしとなった。

武士ぶし戦法せんぽう騎射きしゃおもであるが、条件じょうけんととのうといちとなった。主力しゅりょく武器ぶきちょうゆみであり、そのほかに太刀たちちょうまき薙刀なぎなた鎧通よろいどおなどをもちい、わせと打物うちものでのりあいのあと組討くみうちいたるかたちであった。

鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきもとにおいてもとぐんもちいた集団しゅうだんせんへの対応たいおうなどから変化へんかしょうじ、日本にっぽんでも足軽あしがるなどの徒歩とほへい組織そしきした集団しゅうだんせんへと変化へんかした。このことにてきした武器ぶきとして長柄ながえとげ突武見直みなおされたためやり主力しゅりょく武器ぶきとなり、さら火薬かやくもちいた火器かきである火縄銃ひなわじゅう伝来でんらいして普及ふきゅうした。

江戸えど時代じだいはいり、天下てんか泰平たいへいになると江戸えど幕府ばくふかくはんかれた軍制ぐんせいやく250年間ねんかん戦争せんそうをほぼ経験けいけんしないまま存続そんぞくし、幕末ばくまつ内戦ないせんになって近代きんだい西洋せいようしき軍制ぐんせい導入どうにゅうされた。このさい幕府ばくふがわおもフランスだい帝政ていせい支援しえんを、倒幕とうばくがわおもイギリス帝国ていこく支援しえんけ、火器かき軍艦ぐんかん導入どうにゅうした。明治めいじ時代じだい大日本帝国だいにっぽんていこくとなってからはドイツ帝国ていこく軍制ぐんせいれた大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんとイギリスを規範きはんとした大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんふたつの軍隊ぐんたい編成へんせいされ、軍事ぐんじ技術ぎじゅつ練兵れんぺいさら近代きんだいされた。なお陸軍りくぐんにおいては刀剣とうけんやり銃剣じゅうけん、ナイフなどのするど棍棒こんぼうなどの鈍器どんきもちいた至近しきん距離きょり戦闘せんとう白兵戦はくへいせんんだ。

一方いっぽう江戸えど時代じだいはいって武士ぶし戦場せんじょうからとおざかり天下でんか泰平たいへいになっていくにつれて、各種かくしゅ武芸ぶげい技術ぎじゅつすすんでしょ流派りゅうはされつつ内容ないようえてゆき、弓術きゅうじゅつ剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ砲術ほうじゅつ兵学へいがくひとし流派りゅうはとなっていわばスポーツにちかい「たしなみ」として修練しゅうれんされた。明治維新めいじいしん近代きんだいになって兵学へいがく砲術ほうじゅつほろおとろえたため、教育きょういく制度せいど活路かつろ見出みいだそうとしたが一旦いったん体育たいいくかないとされてれられなかった。しかしにち戦争せんそう以後いご技術ぎじゅつではなくしん養成ようせいするという教育きょういくてき価値かち評価ひょうかされ学校がっこう教育きょういくれられて武道ぶどうとなった。武道ぶどう占領せんりょうGHQによって一時いちじ禁止きんしされたが、独立どくりつ現代げんだい武道ぶどうとして再開さいかいされた。)

武芸ぶげい各論かくろん

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騎射きしゃ弓馬きゅうば)の稽古けいこほうとしては、騎射きしゃさんぶつがある。

うま騎馬きばとして軍陣ぐんじん利用りようされるにつれて、戦闘せんとう様式ようしき武芸ぶげい技法ぎほう変化へんかまれた。天武天皇てんむてんのう武官ぶかんたいして用兵ようへい乗馬じょうば訓練くんれんかんする発令はつれいをし、大宝たいほう律令りつりょう養老ようろう律令りつりょうつうじて学制がくせい騎兵隊きへいたい強調きょうちょうされた。そのあらわれた武士ぶしにとっては「弓馬きゅうばみち」としょうせられたとおり、騎馬きばさい重要じゅうよう武芸ぶげいであり、騎馬きば武士ぶししょ大夫たいふさむらい)と郎党ろうとうにのみゆるされ、その江戸えど時代じだいいたっても、騎馬きばゆるされるか、徒歩とほ戦場せんじょう身分みぶんかで士分しぶんの(もしくはそつちがいとして)上位じょうい下位かいかがおおきくかれた。

ゆみふるくからしゃがあったが、騎馬きば発達はったつにつれて騎射きしゃとしても発達はったつし、火器かき武器ぶきとして登場とうじょうするまではゆみしゃ中心ちゅうしん戦法せんぽう時代じだいながつづいた。「弓馬きゅうばみち」のゆみとして、騎射きしゃ武士ぶしにとってさい重要じゅうよう武芸ぶげいであった。しゃ騎射きしゃ平行へいこうして中世ちゅうせい近世きんせいつうじ、じゅう登場とうじょう中心ちゅうしん武芸ぶげいひとつとしておこなわれた。

上代じょうだいけん(つるぎ)とは、刀剣とうけんのうち両刃りょうばのものをさすが、まず青銅せいどうせいのものがあらわれた。実用じつようとして使用しようされたのは古墳こふん時代じだいまでとられている。

刀剣とうけんのうち片刃かたはのものであるかたな平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以後いごちょくかたなから彎刀へ移行いこうし、みさおがたな技法ぎほう変化へんか発達はったつしたとみられる。源平げんぺい時代じだいには、彎刀一色いっしょくとなり、鋭利えいり強靭きょうじん軽量けいりょうのものがつくられた。

ほこやりのような長柄ながえ武器ぶきであるが、との接合せつごうふくろみのるとよばれ、ここにむ。戦闘せんとうほうぎゃくたてって使用しようしたとみられる。最初さいしょ青銅器せいどうきどうほこ出現しゅつげんし、のちてつ生産せいさんされるようになった。

やり由来ゆらいは、斉藤さいとう彦麿の『はたひさし(かたびさし)』によれば、神代かみよほこである。『日本書紀にほんしょき』の中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたり蘇我入鹿そがのいるかちゅうする記述きじゅつちゅうすでに「ちょうやり」のかたりあらわれている。

ちょうまき

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ちょうまきは、ほぼ刀身とうしんおなながさのだい太刀たちである。だい太刀たち延長えんちょうしてまわやすくしたちゅうから発展はってんしたが、ちがいは、最初さいしょからくきながつくってあるのがちょうまきで、通常つうじょうくきながさのだい太刀たち延長えんちょうしてながくしたものがちゅうまきとされる。

薙刀なぎなた

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薙刀なぎなたながさきりのある刀身とうしん装着そうちゃくした武具ぶぐで、当初とうしょは「長刀ちょうとう」(なぎなた、ながなた)とばれた。

組討くみうち

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近世きんせい以前いぜん戦場せんじょうではてきしょうたおせて、鎧通よろいどおでそのくびをとることがなされたが、これを組討くみうちといい、組討くみうち古代こだいから角力すもう(すもう)また相撲すもうとしておこなわれてきた。

古代こだい相撲すもうではつ、るなどの方法ほうほうもとられていたことが『古事記こじき』や『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつなどからうかがわれる。

源平げんぺい時代じだい中世ちゅうせい日本にっぽんにおける合戦かっせんでは正々堂々せいせいどうどういさぎよさがもとめられ、いちち(いちけ)がおこなわれていたが、この一騎討いっきうちちではわせ、打物うちもの太刀たち)でのりあいのあと組討くみうちいたるのが一般いっぱんてきであったという(『源平げんぺい盛衰せいすい藤平ふじひらみのるこう)。 『太平たいへいまきだいきゅうには設楽したら五郎ごろう左衛門尉さえもんのじょう斎藤さいとうげんもとおきな馬上もうえ組討くみうちしるされている。

足軽あしがる出現しゅつげんとうによりこの一騎討いっきうちちはすたれたが、その合戦かっせんにおいて組討くみうち重要じゅうよう武芸ぶげいであった(「甲冑かっちゅうたたかいはじゅうろくなな組討くみうちいたることは必定ひつじょうなり。」「往古おうこ武士ぶし相撲すもう修行しゅぎょうせしことここにあるなり。」木村きむらやなぎえつもりちょくなぐ角力取すもうとりぐみ伝書でんしょのべとおるねん)。

このように、ゆみ火器かきやり刀剣とうけん間合まあいにつづ格闘かくとうにおいて、微力びりょくでもってつよしきょうひとせたとき形状けいじょうなどがあつめられ研究けんきゅうされた。

水軍すいぐん登場とうじょうするふる戦乱せんらんとして、5世紀せいきのこととかんがえられる吉備きびらんなどがられる。

近世きんせいまで日本にっぽん船舶せんぱく和船わせんであり、軍用ぐんよう船舶せんぱくおなじであった。船型せんけい埴輪はにわ古代こだい和船わせん様子ようすあらわしており、古代こだい諸手もろてせん(もろたぶね)が軍事ぐんじよう使つかわれていた記録きろくがある。大和やまと政権せいけん水軍すいぐん安曇あずみ海人かいじん津守つもりなどがになった。陸上りくじょう武士ぶしのように、平安へいあん時代じだい後期こうき古代こだい末期まっき)には海上かいじょう活動かつどうする軍事ぐんじ勢力せいりょく海賊かいぞく」が活躍かつやくするようになるが、専用せんよう設計せっけいされた軍船ぐんせんではなく、漁船ぎょせん商船しょうせんだてばん武装ぶそうしたものを使用しようした。本格ほんかくてき軍船ぐんせん登場とうじょう室町むろまち時代じだい中期ちゅうき以降いこうのことであり、安宅あたかせんなどの軍船ぐんせんがあった。

原初げんしょてき火器かきとして、火矢ひやがあった。

中華ちゅうかけんでは、はやくから黒色こくしょく火薬かやく発明はつめいされて火薬かやくめた擲弾原始げんしてきじゅう使用しようされており、10世紀せいきにはかなり普及ふきゅうした兵器へいきだったが、火薬かやくりの火器かき日本にっぽん使用しようされたのは、13世紀せいきもと襲来しゅうらいさい登場とうじょうしたてつはう”が最初さいしょである。

その中国ちゅうごく江南こうなん朝鮮ちょうせんとの交易こうえきによって13から14世紀せいき日本にっぽんにも黒色こくしょく火薬かやく製法せいほう伝来でんらいしたとかんがえられている。伝承でんしょうとしては、楠木くすのき正成まさしげ篭城ろうじょうせんてつはう使つかったとされているほか、応仁おうにんらんでは、細川ほそかわ軍勢ぐんぜいがてつはうや火箭かせん(ロケットのこと)を使用しようしたとの記述きじゅつのこされている。また、太田おおた道灌どうかん江戸城えどじょう築城ちくじょうさい天然てんねん硝石しょうせきおもわれる「もえ」を発見はっけんし、これをもちいた狼煙のろし火箭かせんといった火薬かやく兵器へいき使用しようしたとつたえられている。

つづいて戦国せんごく時代じだいはいると、ヨーロッパせい火縄銃ひなわじゅう種子島たねがしま伝来でんらいし、国産こくさんされてひろ普及ふきゅうした。しかし、てつ加工かこう技術ぎじゅつ鍛造たんぞう中心ちゅうしんだった日本にっぽんでは鋳造ちゅうぞうせい大砲たいほう製造せいぞうすること困難こんなんであったため、大砲たいほう代替だいたいとして焙烙ほうろく火矢ひや焙烙ほうろくだまばれた擲弾使用しようされ、江戸えど時代じだいにおいても使用しようされている。

兵法ひょうほう

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近世きんせい以前いぜん軍事ぐんじにおける戦略せんりゃく戦術せんじゅつ戦闘せんとう、(格闘かくとうふく場合ばあいがある)について体系たいけいしたものを兵法ひょうほうといった。古代こだい中国ちゅうごく孫子まごこ兵法ひょうほう日本にっぽんこくでも有名ゆうめいである。

れいとして、戦国せんごく時代じだい甲斐かい武田たけだ事跡じせきもととしてかれた軍学ぐんがくしょである『きのえようぐんかん』には、「武芸ぶげいよんもんとはゆみ鉄砲てっぽう兵法ひょうほうよんなり」とある。

武芸十八般ぶげいじゅうはっぱん

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脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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  • 武道ぶどう現在げんざいも「武道ぶどう」とんでそのまま無形むけい文化財ぶんかざいとして伝承でんしょうしているものがある。
  • フルーシーヤ:サーサーンあさペルシアで、騎兵きへい必修ひっしゅうとされた教養きょうよううま騎射きしゃやり、14世紀せいきから剣術けんじゅつ追加ついか

外部がいぶリンク

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