氏長者の権能は、以下の事項である。
- 氏神の祭祀、氏社・氏寺の管理
- 橘氏の梅宮社、藤原氏の春日社・興福寺など。祭日に奉幣使を立て、別当を補任した。
- 藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、王氏の奨学院、和気氏の弘文院など。10世紀の初めに、大学で学ぶ子弟のために諸氏族は学曹という寄宿舎を設立するが、やがて大学寮の付属機関として大学別曹と呼ばれるようになった。勧学院は規模を拡張し、春日社・興福寺関係の事務全般を取り扱った。
- 正六位上の氏人から一人を従五位下に推挙する制度。律令制では五位以上は貴族として多くの特権が認められるため、希望者は氏長者に熱心な働きかけをした。この権限は推挙する者を「是とし定める」ことから是定と呼ばれた。なお橘氏は平安中期に公卿が絶えたため長者と是定が分離し、是定は藤原氏の公卿、多くの場合摂政・関白が就任するようになった。
氏長者は、本来は氏人のうちで最高位の官位を有する者が就任するものであるが、保元元年(1156年)に当時の藤氏長者藤原頼長が保元の乱で敗れて謀反人とされ、氏長者の地位を停止された。次の氏長者となるべき頼長の兄の忠通は、謀反人から直接氏長者を引き継ぐわけにはいかず、後白河天皇の宣旨による任命に甘んじることになる。その後の藤氏長者は、摂関家が分裂し、親子間での継承が行われなくなると、長者の交代に際して前任者と後任者の間でトラブルが頻発するようになり、後任者が天皇にその地位の保証を求めるために宣旨を得ることになったのが故実化して、藤氏長者が天皇の宣旨によって任じられる地位になっていった[1]。本来はこれは摂関家の弱体化を明示する屈辱的な事態であったが、その後、逆に天皇の保障を受けた氏長者の地位はむしろ名誉なものとみなされ、源氏長者はついに自ら宣旨による任命を望むに至った。なお宣旨は、上卿の命令を左大史が書きとった形式を持つもので、本来は要するに内部文書・メモ書きであり、これをもとにして正式の叙位・任官のための文書が作成されるのであるが、朝廷の衰退・変質にともなう業務の簡略化で、叙位・任官の当事者に直接交付されるようになったものである。
【「豊臣秀吉公関白宣旨案写」による】
左中将藤原朝臣慶親傳宣、權大納言藤原朝臣敦光宣、
奉 勅、宜令關白内大臣爲氏長者者、
天正十三年七月十一日
修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰朝芳(奉を脱するか?)
(読み下し)
左中将藤原朝臣慶親伝宣す。権大納言藤原朝臣敦光宣す。勅(みことのり)を奉る(うけたまはる)に、宜しく関白内大臣をして氏長者と為さしむ(なさしむ)べし者(てへり)。
天正十三年七月十一日
修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰朝芳(奉る(うけたまはる))。
- ※藤原朝臣慶親:中山慶親、藤原朝臣敦光:柳原敦光、関白内大臣:豊臣秀吉、小槻宿禰󠄀朝芳:壬生朝芳
(大意)
頭中将中山慶親が上卿柳原敦光に伝えた天皇のおことばを、敦光がさらにみなに伝える。「天皇のおことばを承るに『関白豊臣秀吉を氏長者とすべし』との仰せである」。このご命令は、天正13年7月11日、官務壬生朝芳が承ってここに記したものである。
- ^ 樋口健太郎「藤氏長者宣旨の再検討」(初出:『古代文化』63巻3号(2011年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3)
- 竹内理三 「氏長者」『律令制と貴族政権.第2部』御茶の水書房、昭和33年(1958年)。
- 宇根俊範 「氏爵と氏長者」『王朝国家国政史の研究』坂本賞三編、吉川弘文館、昭和62年(1987年)。