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氏長者 - Wikipedia

長者ちょうじゃ(うじのちょうじゃ)は、平安へいあん時代じだい以降いこう(うじ)なか代表だいひょうしゃ呼称こしょうである。古代こだい日本にっぽんではじょう(うじのかみ、このかみ)とばれていた。みなもと藤原ふじわらたちばなおう菅原すがわらなどでみられる。

その氏族しぞくなかもっと官位かんいたかもの朝廷ちょうていからみとめられ就任しゅうにんし、氏神うじがみ祭祀さいしするしゃ先祖せんぞとむらてら菩提寺ぼだいじ管理かんりけん、またその財源ざいげん掌握しょうあくすることでじん統制とうせいした。

概要がいよう

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古代こだい奈良なら時代じだい

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大化たいか以前いぜん社会しゃかいには様々さまざま氏族しぞくがあり、じょう(うじのかみ、このかみ)がこれを統率とうそつしていた。じょうはつは『日本書紀にほんしょき天智天皇てんぢてんのう3ねん664ねん)2がつの「まさるじょう大刀たちを、しょうじょう小刀こがたなを、ともづくりひとしじょうだて弓矢ゆみやたまう」という記事きじであるが、これは私的してき存在そんざいであったじょう公的こうてきみとめたものと推測すいそくされる。じょう地域ちいき集団しゅうだんちょうとしておおきな影響えいきょうりょくゆうしていたが、これ以降いこう天武天皇てんむてんのう4ねん675ねん)にきょく私有しゆうみん)が廃止はいしされ(『日本書紀にほんしょき』)、天平てんぴょうたから元年がんねん757ねん)には公事こうじ以外いがいぞくじん糾合きゅうごうすることがきんじられるなど(『ぞく日本にっぽん』)、律令制りつりょうせいなかまれていった。それでも奈良なら時代じだいにおいては、じょう地位ちい朝廷ちょうてい認可にんか必要ひつようとするもののじん協議きょうぎによりえらばれ、その任期にんき終身しゅうしんであり、古代こだい族長ぞくちょうてき性質せいしつのこしていた。

平安へいあん時代じだい以降いこう

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じょう平安へいあん時代じだいになると長者ちょうじゃ名称めいしょう変化へんかし、氏族しぞくなかもっと官位かんいたかもの就任しゅうにんするようになった。必然ひつぜんてき長者ちょうじゃ貴族きぞく社会しゃかい限定げんていされ、氏族しぞく集団しゅうだん内部ないぶながというだけでは長者ちょうじゃになることはできなくなった。また官位かんい逆転ぎゃくてんによる交代こうたいもあり、終身しゅうしんてき地位ちいでもなくなった。文献ぶんけんじょうではばん高階たかしなちゅうしん卜部うらべ越智おち和気わけにも長者ちょうじゃ存在そんざいしたようであるが、平安へいあん後期こうきにはおおくの氏族しぞく貴族きぞく社会しゃかいまることができず没落ぼつらくしていった。長者ちょうじゃのなかでもとく権威けんいちからっていたのが、ふじ長者ちょうじゃ源氏げんじ長者ちょうじゃである。解体かいたいとともに名目めいもくてき地位ちいしたが、家系かけい高貴こうきさをほこ称号しょうごうとして存続そんぞくし、前者ぜんしゃ摂関せっかんのなかで摂政せっしょう関白かんぱくにんじられたものね、後者こうしゃ鎌倉かまくら時代じだい村上むらかみはじめ独占どくせんとなったあと、やがて足利あしかが将軍家しょうぐんけ村上むらかみはじめ久我くがなどが交代こうたいつとめ、江戸えど時代じだい徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ独占どくせんして幕末ばくまついたった。また菅原すがわら長者ちょうじゃなが存続そんぞくし「北野きたの長者ちょうじゃ」としょうされ、最高さいこう公卿くぎょう交代こうたいつとめた。あかりおう5ねん1496ねん)に九条くじょうまさしもと菅原すがわら一員いちいんである唐橋からはしざいかず殺害さつがいした事件じけんでは、北野きたの長者ちょうじゃであった高辻たかつじちょうただし一門いちもん公卿くぎょうひきいてせいもと告発こくはつするさるじょう朝廷ちょうてい提出ていしゅつしている。なお、たいらには長者ちょうじゃ存在そんざいした記録きろくはない。

南北なんぼくあさ北畠きたばたけ親房ちかふさは『しょくげんしょう』に「凡称長者ちょうじゃおうみなもとふじたちばなゆう此号」としるしている。

このほか、16世紀せいき後期こうき豊臣とよとみ新設しんせつされるにともない、豊臣とよとみ秀吉ひでよしゆたか長者ちょうじゃとなっている。

権能けんのう

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長者ちょうじゃ権能けんのうは、以下いか事項じこうである。

  • 氏神うじがみ祭祀さいししゃてら管理かんり
たちばな梅宮うめみやしゃ藤原ふじわら春日しゅんじつしゃ興福寺こうふくじなど。祭日さいじつ奉幣ほうへい使て、別当べっとう補任ほにんした。
  • 大学だいがくべつ曹の管理かんり
藤原ふじわら勧学かんがくいんたちばながくかんいんおう奨学しょうがくいん和気わけ弘文こうぶんいんなど。10世紀せいきはじめに、大学だいがくまな子弟していのためにしょ氏族しぞくまなべ曹という寄宿舎きしゅくしゃ設立せつりつするが、やがてだい学寮がくりょう付属ふぞく機関きかんとして大学だいがくべつ曹とばれるようになった。勧学かんがくいん規模きぼ拡張かくちょうし、春日かすがしゃ興福寺こうふくじ関係かんけい事務じむ全般ぜんぱんあつかった。
  • 爵の推挙すいきょ
せいろくじょうじんからいちにんしたがえ推挙すいきょする制度せいど律令制りつりょうせいでは以上いじょう貴族きぞくとしておおくの特権とっけんみとめられるため、希望きぼうしゃ長者ちょうじゃ熱心ねっしんはたらきかけをした。この権限けんげん推挙すいきょするものを「としさだめる」ことからじょうばれた。なおたちばな平安へいあん中期ちゅうき公卿くぎょうえたため長者ちょうじゃじょう分離ぶんりし、じょう藤原ふじわら公卿くぎょうおおくの場合ばあい摂政せっしょう関白かんぱく就任しゅうにんするようになった。

長者ちょうじゃ辞令じれい宣旨せんじ

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長者ちょうじゃは、本来ほんらいじんのうちで最高さいこう官位かんいゆうするもの就任しゅうにんするものであるが、もと元年がんねん1156ねん)に当時とうじふじ長者ちょうじゃ藤原ふじわらよりゆきちょうもとらんやぶれて謀反ぼうほんじんとされ、長者ちょうじゃ地位ちい停止ていしされた。つぎ長者ちょうじゃとなるべきよりゆきちょうあにちゅうどおりは、謀反むほんじんから直接ちょくせつ長者ちょうじゃぐわけにはいかず、後白河天皇ごしらかわてんのう宣旨せんじによる任命にんめいあまんじることになる。そのふじ長者ちょうじゃは、摂関せっかん分裂ぶんれつし、親子おやこあいだでの継承けいしょうおこなわれなくなると、長者ちょうじゃ交代こうたいさいして前任ぜんにんしゃ後任こうにんしゃあいだでトラブルが頻発ひんぱつするようになり、後任こうにんしゃ天皇てんのうにその地位ちい保証ほしょうもとめるために宣旨せんじることになったのが故実こじつして、ふじ長者ちょうじゃ天皇てんのう宣旨せんじによってにんじられる地位ちいになっていった[1]本来ほんらいはこれは摂関せっかん弱体じゃくたい明示めいじする屈辱くつじょくてき事態じたいであったが、そのぎゃく天皇てんのう保障ほしょうけた長者ちょうじゃ地位ちいはむしろ名誉めいよなものとみなされ、源氏げんじ長者ちょうじゃはついにみずか宣旨せんじによる任命にんめいのぞむにいたった。なお宣旨せんじは、うえきょう命令めいれいひだりだいきとった形式けいしきつもので、本来ほんらいようするに内部ないぶ文書ぶんしょ・メモきであり、これをもとにして正式せいしき叙位じょい任官にんかんのための文書ぶんしょ作成さくせいされるのであるが、朝廷ちょうてい衰退すいたい変質へんしつにともなう業務ぎょうむ簡略かんりゃくで、叙位じょい任官にんかん当事とうじしゃ直接ちょくせつ交付こうふされるようになったものである。


【「豊臣とよとみ秀吉ひでよしおおやけ関白かんぱく宣旨せんじあんうつし」による】

ひだり中将ちゅうじょう藤原ふじわら朝臣あそんけいおやでんせんけん大納言だいなごん藤原ふじわら朝臣あそんあつし光宣みつのぶ

たてまつ みことのりむべれい關白かんぱく内大臣ないだいじん爲氏ためうじ長者ちょうじゃしゃ

天正てんしょうじゅうさんねんなながつじゅういちにち

修理しゅうり東大寺とうだいじ大佛だいぶつ長官ちょうかんぬし殿どのあたまけんひだりだい小槻おおづく宿禰すくねあさかおるたてまつだっするか?)

くだし)

ひだり中将ちゅうじょう藤原ふじわら朝臣あそんけいおやでんせんす。けん大納言だいなごん藤原ふじわら朝臣あそんあつしこうせんす。みことのり(みことのり)をたてまつる(うけたまはる)に、よろしく関白かんぱく内大臣ないだいじんをして長者ちょうじゃためさしむ(なさしむ)べしもの(てへり)。 天正てんしょうじゅうさんねんなながつじゅういちにち 修理しゅうり東大寺とうだいじ大仏だいぶつ長官ちょうかんぬし殿どのあたまけんひだりだい小槻おおづく宿禰すくねあさかおるたてまつる(うけたまはる))。

藤原ふじわら朝臣あそんけいおや中山なかやまけいおや藤原ふじわら朝臣あそんあつしこう柳原やなぎはらあつしこう関白かんぱく内大臣ないだいじん豊臣とよとみ秀吉ひでよし小槻おおづく宿禰すくね󠄀あさかおる壬生みぶちょうよし

大意たいい

あたま中将ちゅうじょう中山なかやまけいおやうえきょう柳原やなぎはらあつしこうつたえた天皇てんのうのおことばを、あつしこうがさらにみなにつたえる。「天皇てんのうのおことばをうけたまわるに『関白かんぱく豊臣とよとみ秀吉ひでよし長者ちょうじゃとすべし』とのおおせである」。このご命令めいれいは、天正てんしょう13ねん7がつ11にちかんつとむ壬生みぶちょうよしうけたまわってここにしるしたものである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 樋口ひぐち健太郎けんたろうふじ長者ちょうじゃ宣旨せんじさい検討けんとう」(初出しょしゅつ:『古代こだい文化ぶんか』63かん3ごう(2011ねん)/所収しょしゅう:樋口ひぐち中世ちゅうせい王権おうけん形成けいせい摂関せっかん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2018ねんISBN 978-4-642-02948-3

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 竹内たけうちさん長者ちょうじゃ」『律令制りつりょうせい貴族きぞく政権せいけん.だい2御茶おちゃみず書房しょぼう昭和しょうわ33ねん1958ねん)。
  • 宇根うね俊範としのり爵と長者ちょうじゃ」『王朝おうちょう国家こっか国政こくせい研究けんきゅう坂本さかもとしょうさんへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん昭和しょうわ62ねん1987ねん)。

関連かんれん項目こうもく

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