河口湖かわぐちこ町まち(かわぐちこまち)は、かつて山梨やまなし県けん南都留みなみつる郡ぐんにあった町まちである。
県けん南東なんとう、郡ぐん西端せいたん部ぶに位置いち。中央ちゅうおう部ぶには隣接りんせつする足和田あしわだ村むら、勝山かちやま村むらにもかかる河口湖かわぐちこがあり、南岸なんがんや周辺しゅうへんに集落しゅうらくが展開てんかいする。町まち域いきの大だい部分ぶぶんは富士山ふじさん裾野すそのの原野げんやなど山林さんりん地帯ちたいであり、富士ふじ箱根はこね伊豆いず国立こくりつ公園こうえんに属ぞくする。北東ほくとう部ぶは三さんツ峠とうげ山やまを境さかいに西桂にしかつら町まちと接せっし、北部ほくぶは御坂山地みさかさんちを境さかいに御坂みさか町まちと芦川あしかわ村むらに接せっし、西部せいぶは足和田あしわだ村むらと勝山かちやま村むらに接せっし、南部なんぶは富士ふじ原野げんやを境さかいに鳴沢なるさわ村むら、富士吉田ふじよしだ市しと接せっする。
町まち域いきでは縄文じょうもん時代じだいからの遺跡いせきが確認かくにんされているが、本格ほんかく的てきな遺跡いせき分布ぶんぷ調査ちょうさは行おこなわれておらず全貌ぜんぼうは不明ふめい。河口湖かわぐちこ中ちゅうの鵜うの島しま遺跡いせきは縄文じょうもん時代じだい晩期ばんきから弥生やよい時代じだい早期そうきに至いたる移行いこう期きの遺跡いせきとして知しられている。
古代こだいの律令制りつりょうせい下かでは都留つる郡ぐん域いきに比定ひていされ、河口かこうは一時いちじ八代やしろ郡ぐん域いきに含ふくまれていた。古代こだい甲斐かい国こくでは東海道とうかいどうから甲斐かい国府こくふへ至いたる古代こだい官かん道どうの甲斐かい路ろ(御坂みさか路ろ)が整備せいびされていたが、船津ふなつから河口湖かわぐちこ北岸ほくがんにかけては官かん道どうの道筋みちすじに推定すいていされており、『延喜えんぎ式しき』では甲斐かいに三さん駅えきの設置せっちが記載きさいされているが、河口かこうには川口かわぐち駅えきが存在そんざいしたと考かんがえられている。貞さだ観かん6年ねん(864年ねん)には富士山ふじさんが噴火ふんかし(貞さだ観かん噴火ふんか)、富士ふじ北きた麓ふもとでも被害ひがいを引ひき起おこしているが、河口かこうの河口かこう浅間あさま神社じんじゃは噴火ふんかの翌よく貞さだ観かん7年ねんに甲斐かい国こく側がわでの鎮祭のため創建そうけんされたものであると伝つたわっている。
平安へいあん時代じだいに甲府盆地こうふぼんち各地かくちでは荘園しょうえんが成立せいりつし、郡ぐん内ないでは桂川かつらがわ流域りゅういきの波なみ加か利り荘そう、富士ふじ北きた麓ふもとの大原おおはら荘そうが成立せいりつしているが、町まち域いきから足和田あしわだ・勝山かつやまにかけての地域ちいきは大原おおはら荘そうに比定ひていされ、町まち域いきの「大原おおはら」は吉田よしだに対たいする広域こういき地域ちいき呼称こしょうであると考かんがえられている。平安へいあん時代じだいには河口かこうの滝沢たきざわ遺跡いせきは甲斐かい路ろにも接せっする集落しゅうらく遺跡いせきなどがあり、墨書ぼくしょ土器どきなどの出土しゅつど文字もじ資料しりょうや甲斐かい型がた土器どきも出土しゅつどしている。
中世ちゅうせいには鎌倉かまくら街道かいどうを通つうじて郡ぐん内ない地方ちほうへ日蓮にちれんや時宗じしゅう二に祖そ他た阿真あま教きょうらが往来おうらいし、町まち域いきにも妙法寺みょうほうじや常在寺じょうざいじなど日蓮宗にちれんしゅう寺院じいんが分布ぶんぷしており、信仰しんこうの拠点きょてんになっていたと考かんがえられている。
船津ふなつ口くち登山とざん道どうは吉田口よしだぐち登山とざん道どうと並ならぶ富士ふじの登とう拝はい拠点きょてんであり、中世ちゅうせい後期こうきから近世きんせいには計画けいかく的てきな短冊たんざく形がた地割じわりに御ご師し宿やどが並ならんぶ川口かわぐち御ご師しが栄さかえ、船津ふなつと川口かわぐちには関所せきしょが設もうけられた。川口かわぐち御ご師しは上吉田かみよしだ(富士吉田ふじよしだ市し)と並ならぶ富士ふじ北きた麓ふもとの御ご師もろ町まちであったが、近世きんせいには富士ふじ講こうの中心ちゅうしんが上吉田かみよしだへ移うつり衰微すいびする。天然てんねんの流出りゅうしゅつ口こうのない河口湖かわぐちこはしばしば満水まんすいし、『勝山かつやま記き』によれば中世ちゅうせいからしばしば湖岸こがんに水害すいがいを及およぼしていたという。一方いっぽう、東ひがしの新倉あらくら村むら(富士吉田ふじよしだ市し)は溶岩ようがん台地だいちの広ひろがる開拓かいたく困難こんなんな地域ちいきであったため、江戸えど時代じだいには双方そうほうの問題もんだいを解決かいけつするため河口湖かわぐちこから新倉あらくらへ隧道すいどうを掘ほる新倉にいくら掘ほ抜の計画けいかくが浮上ふじょうし、谷村たにむら藩はん主あるじ秋元あきもと氏し時代じだいに開削かいさくが行おこなわれ、谷村たにむら代官だいかん支配しはいの弘ひろ化か〜文久ぶんきゅう、文久ぶんきゅう〜元治もとはる年間ねんかんには村むら単独たんどくの普請ふしん事業じぎょうとして行おこなわれた改修かいしゅう工事こうじによって完成かんせいした。
主用しゅよう産業さんぎょうは入会地いりあいちでの山やま稼かせぎのほか、養蚕ようさんや農閑期のうかんきを利用りようした郡ぐん内ない織おの生産せいさんなど郡ぐん内ない地方ちほうの典型てんけい的てきなもので、隣接りんせつする相模さがみ国こく(神奈川かながわ県けん)方面ほうめんへも行商ぎょうしょうに歩あるいた。
明治めいじには入会にゅうかい地ちが官かん収おさむされ、明治めいじ44年ねんには組合くみあい管理かんりとなる。近代きんだいにはジャガイモ、トウモロコシなどの畑作はたさくや、交通こうつう機関きかんの発達はったつ後ごには観光かんこう業ごうが主体しゅたいとなり、別荘べっそう地ちの経営けいえいやハーブ栽培さいばいも行おこなわれている。
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