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河口湖町 - Wikipedia

河口湖かわぐちこまち

日本にっぽん山梨やまなしけん南都留みなみつるぐんにあったまち

河口湖かわぐちこまち(かわぐちこまち)は、かつて山梨やまなしけん南都留みなみつるぐんにあったまちである。

かわぐちこまち
河口湖かわぐちこまち
河口湖と富士山
河口湖町旗 河口湖町章
河口湖かわぐちこまちはた 河口湖かわぐちこまちあきら1957ねん4月制定せいてい
廃止はいし 2003ねん11月15にち
廃止はいし理由りゆう 新設しんせつ合併がっぺい
南都留みなみつるぐん河口湖かわぐちこまち勝山かちやまむら足和田あしわだむら富士ふじ河口湖かわぐちこまち
現在げんざい自治体じちたい 富士ふじ河口湖かわぐちこまち
廃止はいし時点じてんのデータ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 中部ちゅうぶ地方ちほう甲信越こうしんえつ地方ちほう
都道府県とどうふけん 山梨やまなしけん
ぐん 南都留みなみつるぐん
市町村しちょうそんコード 19426-3
隣接りんせつ自治体じちたい 富士吉田ふじよしだ南都留みなみつるぐん西桂にしかつらまち鳴沢なるさわむら足和田あしわだむら芦川あしかわむら東八代ひがしやつしろぐん一宮いちのみやまち
河口湖かわぐちこまち役場やくば
所在地しょざいち 401-0301
山梨やまなしけん南都留みなみつるぐん河口湖かわぐちこまち船津ふなつ890
座標ざひょう 北緯ほくい3530ふん04びょう 東経とうけい13845ふん54びょう / 北緯ほくい35.50125 東経とうけい138.76511 / 35.50125; 138.76511座標ざひょう: 北緯ほくい3530ふん04びょう 東経とうけい13845ふん54びょう / 北緯ほくい35.50125 東経とうけい138.76511 / 35.50125; 138.76511
河口湖町の位置
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けん南東なんとうぐん西端せいたん位置いち中央ちゅうおうには隣接りんせつする足和田あしわだむら勝山かちやまむらにもかかる河口湖かわぐちこがあり、南岸なんがん周辺しゅうへん集落しゅうらく展開てんかいする。まちいきだい部分ぶぶん富士山ふじさん裾野すその原野げんやなど山林さんりん地帯ちたいであり、富士ふじ箱根はこね伊豆いず国立こくりつ公園こうえんぞくする。北東ほくとうさんとうげやまさかい西桂にしかつらまちせっし、北部ほくぶ御坂山地みさかさんちさかい御坂みさかまち芦川あしかわむらせっし、西部せいぶ足和田あしわだむら勝山かちやまむらせっし、南部なんぶ富士ふじ原野げんやさかい鳴沢なるさわむら富士吉田ふじよしだせっする。

 
河口湖かわぐちこしの富士山ふじさん

まちいきでは縄文じょうもん時代じだいからの遺跡いせき確認かくにんされているが、本格ほんかくてき遺跡いせき分布ぶんぷ調査ちょうさおこなわれておらず全貌ぜんぼう不明ふめい河口湖かわぐちこちゅうしま遺跡いせき縄文じょうもん時代じだい晩期ばんきから弥生やよい時代じだい早期そうきいた移行いこう遺跡いせきとしてられている。

古代こだい律令制りつりょうせいでは都留つるぐんいき比定ひていされ、河口かこう一時いちじ八代やしろぐんいきふくまれていた。古代こだい甲斐かいこくでは東海道とうかいどうから甲斐かい国府こくふいた古代こだいかんどう甲斐かい御坂みさか)が整備せいびされていたが、船津ふなつから河口湖かわぐちこ北岸ほくがんにかけてはかんどう道筋みちすじ推定すいていされており、『延喜えんぎしき』では甲斐かいさんえき設置せっち記載きさいされているが、河口かこうには川口かわぐちえき存在そんざいしたとかんがえられている。さだかん6ねん(864ねん)には富士山ふじさん噴火ふんかし(さだかん噴火ふんか)、富士ふじきたふもとでも被害ひがいこしているが、河口かこう河口かこう浅間あさま神社じんじゃ噴火ふんかよくさだかん7ねん甲斐かいこくがわでの鎮祭のため創建そうけんされたものであるとつたわっている。

平安へいあん時代じだい甲府盆地こうふぼんち各地かくちでは荘園しょうえん成立せいりつし、ぐんないでは桂川かつらがわ流域りゅういきなみそう富士ふじきたふもと大原おおはらそう成立せいりつしているが、まちいきから足和田あしわだ勝山かつやまにかけての地域ちいき大原おおはらそう比定ひていされ、まちいきの「大原おおはら」は吉田よしだたいする広域こういき地域ちいき呼称こしょうであるとかんがえられている。平安へいあん時代じだいには河口かこう滝沢たきざわ遺跡いせき甲斐かいにもせっする集落しゅうらく遺跡いせきなどがあり、墨書ぼくしょ土器どきなどの出土しゅつど文字もじ資料しりょう甲斐かいがた土器どき出土しゅつどしている。

中世ちゅうせいには鎌倉かまくら街道かいどうつうじてぐんない地方ちほう日蓮にちれん時宗じしゅう阿真あまきょうらが往来おうらいし、まちいきにも妙法寺みょうほうじ常在寺じょうざいじなど日蓮宗にちれんしゅう寺院じいん分布ぶんぷしており、信仰しんこう拠点きょてんになっていたとかんがえられている。

船津ふなつくち登山とざんどう吉田口よしだぐち登山とざんどうなら富士ふじとうはい拠点きょてんであり、中世ちゅうせい後期こうきから近世きんせいには計画けいかくてき短冊たんざくがた地割じわり宿やどならんぶ川口かわぐちさかえ、船津ふなつ川口かわぐちには関所せきしょもうけられた。川口かわぐち上吉田かみよしだ富士吉田ふじよしだ)となら富士ふじきたふもともろまちであったが、近世きんせいには富士ふじこう中心ちゅうしん上吉田かみよしだうつ衰微すいびする。天然てんねん流出りゅうしゅつこうのない河口湖かわぐちこはしばしば満水まんすいし、『勝山かつやま』によれば中世ちゅうせいからしばしば湖岸こがん水害すいがいおよぼしていたという。一方いっぽうひがし新倉あらくらむら富士吉田ふじよしだ)は溶岩ようがん台地だいちひろがる開拓かいたく困難こんなん地域ちいきであったため、江戸えど時代じだいには双方そうほう問題もんだい解決かいけつするため河口湖かわぐちこから新倉あらくら隧道すいどう新倉にいくら計画けいかく浮上ふじょうし、谷村たにむらはんあるじ秋元あきもと時代じだい開削かいさくおこなわれ、谷村たにむら代官だいかん支配しはいひろ文久ぶんきゅう文久ぶんきゅう元治もとはる年間ねんかんにはむら単独たんどく普請ふしん事業じぎょうとしておこなわれた改修かいしゅう工事こうじによって完成かんせいした。

主用しゅよう産業さんぎょう入会地いりあいちでのやまかせぎのほか、養蚕ようさん農閑期のうかんき利用りようしたぐんない生産せいさんなどぐんない地方ちほう典型てんけいてきなもので、隣接りんせつする相模さがみこく神奈川かながわけん方面ほうめんへも行商ぎょうしょうあるいた。

明治めいじには入会にゅうかいかんおさむされ、明治めいじ44ねんには組合くみあい管理かんりとなる。近代きんだいにはジャガイモトウモロコシなどの畑作はたさくや、交通こうつう機関きかん発達はったつには観光かんこうごう主体しゅたいとなり、別荘べっそう経営けいえいハーブ栽培さいばいおこなわれている。

沿革えんかく

編集へんしゅう

出身しゅっしん有名人ゆうめいじん

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関連かんれん項目こうもく

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