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流 (博多) - Wikipedia

ながれ (博多はかた)

博多はかた市街しがいにおける複数ふくすうまち集合しゅうごうたい

ながれ(ながれ)とは、博多はかた市街しがいにおける複数ふくすうまち集合しゅうごうたいである。

ながれ (博多はかた)
都市とし計画けいかく博多はかた祇園山ぎおんやまかさ太閤たいこうまちわり
上位じょういクラス歴史れきしてき地域ちいき 編集
仮名がなながれ 編集
くに日本にっぽん 編集
位置いちする行政ぎょうせい区画くかく博多はかた 編集
位置いち座標ざひょう33°35′44″N 130°24′45″E 編集
地図

概要がいよう

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那珂川なかがわ御笠川みかさがわ博多湾はかたわん房州ぼうしゅうほり(およそ現在げんざい国体こくたい道路どうろ国道こくどう202ごう)にかこまれた狭義きょうぎとしての博多はかたは、安土あづち桃山ももやま時代じだいまでは自治じち都市としとしてさかえたが戦火せんかにより荒廃こうはいした。九州きゅうしゅう征伐せいばつえた豊臣とよとみ秀吉ひでよし1587ねん博多はかた復興ふっこう構想こうそう黒田くろだ孝高よしたか如水じょすい)に立案りつあんさせ、石田いしだ三成みつなりをはじめ滝川たきがわつよし長束ながつかただし小西こにし行長ゆきなが山崎やまざきへんらを復興ふっこう事業じぎょうにあたらせた。この区画くかく整理せいり事業じぎょう太閤たいこうまちばれる。神屋かみやそうじん島井しまい宗室そうしつ援助えんじょおこなった。まちりにさいして秀吉ひでよし東西とうざいおよび南北なんぼく町筋まちすじとおり)のかずななじょう袈裟けさになぞらえて7ほんとし、町筋まちすじめんした家々いえいえ地区ちくごとに1つのまちとした。いわゆる背割せわ方式ほうしきであり(現代げんだいまち方式ほうしき主流しゅりゅう)、町筋まちすじはさんだかいの家々いえいえおな町内ちょうないであるが、裏手うらてにあるいえべつまちぞくした。そして町筋まちすじごとに「りゅう」というまち集合しゅうごうたい形成けいせいさせた。りゅう自治じち組織そしきじょうおよび行政ぎょうせいじょうまち上位じょうい行政ぎょうせい区画くかくでもある。

りゅう」という呼称こしょうは、小川おがわはた当時とうじかぞかた由来ゆらいするというせつや、黒田くろだ孝高よしたか播磨はりまこくでのいけかぞかた由来ゆらいするというせつなどがあるが、明確めいかくではない。

時代じだい現在げんざいでは行政ぎょうせいじょう意味いみはなくなったが、博多はかたまつ囃子ばやし博多はかた祇園山ぎおんやまかさといっただい規模きぼ祭事さいじはこのりゅう単位たんいおこなわれている。

りゅう成立せいりつ変遷へんせん

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まちりはまず中心ちゅうしんとなるいち小路こうじ市小路いちしょうじ)を南北なんぼくさだめ、ひがしひがし町筋まちすじ西にし西町にしまちすじ土居どい町筋まちすじ東西とうざい横町よこちょうすじさかな町筋まちすじさだめられた。

このさいすじごとまち集合しゅうごうたいであるりゅう組織そしきした。南北なんぼくたてすじ東町ひがしまちりゅう市小路いちしょうじりゅう呉服ごふくまちりゅう)、西町にしまちりゅう土居どいりゅう東西とうざい横筋よこすじ石堂いしどうりゅう恵比須えびすりゅう)、魚町うおまちりゅう福神ふくじんりゅう)、もっと福岡ふくおかがわりの博多はかたがわ沿いに洲崎すさきまちりゅう大黒だいこくりゅう)をはいした。

毎年まいとしこれら7りゅうのうち6りゅう博多はかた祇園山ぎおんやまかさやまかさ当番とうばんつとめ、1りゅうのう当番とうばんつとめた。また、博多はかたどんたく前身ぜんしん中核ちゅうかく)である博多はかたまつ囃子ばやしでは、福神ふくじんりゅう恵比須えびすりゅう大黒だいこくりゅうさん福神ふくじん当番とうばんつとめ、の4りゅう交代こうたい稚児ちごりゅう当番とうばんつとめた。

りゅうはそののちまち発展はってんともに、厨子ずしりゅう櫛田くしだりゅう)、新町しんまちりゅう築港ちっこうりゅう沖浜おきはまりゅう拡大かくだいした。このうち新町しんまちりゅう岡新おかしんまちりゅう(のちにおかりゅう現在げんざい祇園ぎおんまち一帯いったい)とはま新町しんまちりゅう(のちにはまりゅう現在げんざい大博たいはくまち神屋かみやまち一帯いったい)に二分にぶんされた。

戦後せんご体制たいせい

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だい世界せかい大戦たいせん末期まっき福岡大ふくおかだい空襲くうしゅうによって博多はかたまち焦土しょうどし、戦後せんごになり道路どうろわったが、きゅうまちぎ、りゅう存続そんぞくしえた。

戦後せんごりゅう本来ほんらい自治じち組織そしきとしての意義いぎ大幅おおはばうすれ、やまかさまつ囃子ばやし当番とうばんのためのものとなったかんがある。しかし一方いっぽうで、博多はかた祇園山ぎおんやまかさ振興しんこう期成きせいかい博多はかた祇園山ぎおんやまかさ振興しんこうかい前身ぜんしん)が結成けっせいされ、やまかさ振興しんこうのためひろ門戸もんこ開放かいほうしたため、ふる博多はかたそとから中洲なかすりゅう戦前せんぜんから土居どいりゅう加勢かぜまちとして部分ぶぶんてき参加さんかしていた)、千代ちよりゅう大津おおつまちりゅう)、みなみりゅういち丁目ちょうめりゅう)、唐人とうじんまちりゅう唐人とうじんまち一体いったい)がやまかさ参加さんかするためにりゅう組織そしきし、今日きょうやまかさ隆盛りゅうせいおおいに貢献こうけんすることとなった。

  • 呉服ごふくまちりゅう東長ひがしおさ寺前てらまえまち東長寺とうちょうじぜん新道しんどううえ小山おやままちした小山おやままち上呉服かみごふくまち下呉服しもごふくまち上市かみいち小路こうじ中市なかいち小路こうじ下市しもいち小路こうじ廿にじゅうまち(にじゅうやまち)かやどうまちおく小路こうじ
  • 東町あずままちりゅう御供所ごくしょまち金屋かなや小路こうじ北船きたふなまち上東じょうとうまち下東しもひがしまちうえ浜口はまぐちまちちゅう浜口はまぐちまちした浜口はまぐちまちかがみまち
  • 大黒だいこくりゅう東下ひがししも新川しんかわはしまち下新川しもにいかわはしまち寿通ことぶきどおり麹屋こうじやまち川端かわばたまちうえいわしまちしもいわしまちうえ洲崎すさきまちした洲崎すさきまち上対馬かみつしま小路こうじちゅう対馬小路つましょうじした対馬小路つましょうじした対馬小路つましょうじ大下おおげかけまち橋口はしぐちまち
  • 西町にしまちりゅうまんぎょう寺前てらまえまちたけわかまちはくまち上西かみにしまち下西しもさいまち蔵本くらもとまち奈良屋ならやまち古渓こけいまち芥屋けやまち釜屋かまやまち
  • 恵比須えびすりゅう蓮池はすいけまちかんないまちうえたてまちちゅうたてまち下竪しもたてまち下金屋しもかなやまち横町よこちょう下金屋しもかなやまちよこまち)、上金屋かみかなやまち中石なかいしどうまち中間なかままち綱場つなばまち
  • 土居どいりゅう上新川かみにいかわはしまち大乗だいじょう寺前てらまえまち川口かわぐちまち中土居なかどいまちかた土居といまち上土居かみつちいまち下土居しもつちいまちあるきまちはま小路こうじ西方せいほう寺前てらまえまち
  • 福神ふくじんりゅう西門にしもんまち中小路なかこうじまち上魚かみうおまちちゅうさかなまちしたさかなまちうえ店屋てんやまちした店屋てんやまち小路こうじまち
  • 築港ちっこうりゅう沖田おきたまち北浜きたはままちいち丁目ちょうめ北浜きたはままち丁目ちょうめ北浜きたはままちさん丁目ちょうめ北浜きたはままちよん丁目ちょうめ海岸かいがんどおりいち丁目ちょうめ海岸かいがんどおり丁目ちょうめ海岸かいがんどおりさん丁目ちょうめ海岸かいがんどおりよん丁目ちょうめ海岸かいがんどおり丁目ちょうめ西浜にしのはままちいち丁目ちょうめ西浜にしのはままち丁目ちょうめ恵比須えびすまち幾世いくよまち石城せきじょうまちいち丁目ちょうめ石城せきじょうまち丁目ちょうめ石城せきじょうまちさん丁目ちょうめ千歳ちとせまちいち丁目ちょうめ千歳ちとせまち丁目ちょうめ千歳ちとせまちさん丁目ちょうめ冷泉れいせんまち(ここでいう冷泉れいせんまちは、現在げんざい冷泉れいせんまちとはことなる。)
  • はまりゅう大浜おおはままちいち丁目ちょうめ大浜おおはままち丁目ちょうめ大浜おおはままちさん丁目ちょうめ大浜おおはままちよん丁目ちょうめ小金おがねまちやなぎまち
  • 櫛田くしたりゅう今熊いまくままち櫛田くした前町まえまちうえ厨子ずしまちしも厨子ずしまちうえおくどうまち中奥なかおくどうまちしもおくどうまちうえ赤間あかままちした赤間あかままち上桶屋かみおけやまちした桶屋おけやまち寺中じちゅうまちうえひろし賢堂かしこどうまちしたひろし賢堂かしこどうまち
  • おかりゅうかわらまち社家しゃけまち下祇園しもぎおんまち上祇園かみぎおんまち矢倉やぐらもん馬場ばば新町しんまちうえ辻堂つじどうまち下辻しもつじどうまち出来できまち停車場ていしゃじょうまち
  • 中洲なかすりゅうさくじんまち千日せんにちまち南新地みなみしんちよしまち人形にんぎょうまち新橋しんばし永楽えいらくまち

りゅう消滅しょうめつ再編さいへん

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1962ねん公布こうふ施行しこうされた住居じゅうきょ表示ひょうじかんする法律ほうりつけて、行政ぎょうせい合理ごうりはかるため福岡ふくおかでは1966ねん町名まちみょうまちかい旧来きゅうらい背割せわりをはいがい方式ほうしきあらためる町名まちみょうまちかい整理せいり事業じぎょう実施じっしした。それにより、旧来きゅうらいからのまちいきもとづくりゅう行政ぎょうせいじょう区画くかくとしてのまちいきとの整合せいごうせいくなることになり、行政ぎょうせいじょう意味いみうしなはいされることとなったが、地域ちいき共同きょうどうたいにおける必要ひつようせいからりゅう即日そくじつ再編さいへんされることとなった。

たとえば、恵比須えびすりゅう大黒だいこくりゅうはほぼきゅう体制たいせいいで今日きょういたっており、土居どいりゅうは、町名まちみょうまちかい整理せいり事業じぎょうにより土居といまちをはじめとする大半たいはんまち消滅しょうめつしたため存続そんぞく困難こんなんされたが、有志ゆうしによって土居どい町筋まちすじ沿いのきゅうまち体制たいせい維持いじした土居どいりゅう保存ほぞんかい結成けっせいされてりゅう復活ふっかつすることとなり、つづやまかさ当番とうばんつと今日きょういたっている。

一方いっぽう呉服ごふくまちりゅう大半たいはん大博たいはくどおふくまれまた分断ぶんだんされることになりりゅう運営うんえいくるしくなるため、東西とうざい分離ぶんりして東側ひがしがわ東町あずままちりゅう合流ごうりゅうひがしりゅう西側にしがわ西町にしまちりゅう合流ごうりゅう西にしりゅうとなった。

現在げんざいりゅう

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現在げんざいでは、土居どいりゅう大黒だいこくりゅうひがしりゅう中洲なかすりゅう西にしりゅう千代ちよりゅう恵比須えびすりゅう福神ふくじんりゅうの8つのりゅうがあり、福神ふくじんりゅうのぞく7りゅうやまかさ当番とうばんつとめる。このやまかさつとめる7りゅうは「博多はかたななりゅう」とよばれる。

上記じょうきは、げん町名ちょうめいでありやまかさ運営うんえい町名ちょうめいきゅう町名ちょうめい)とはことなる。

恵比須えびすりゅう大黒だいこくりゅう福神ふくじんりゅう博多はかたまつ囃子ばやしさん福神ふくじん当番とうばんつとめており、おなじく博多はかたまつ囃子ばやし稚児ちごりゅう当番とうばんひがしりゅう西にしりゅうがそれぞれ2ねん交代こうたい当番とうばんつとめている。

また、上記じょうき8りゅうおよ祇園ぎおんまち神屋かみやまち大博たいはくまち築港本ちっこうほんまちみや総代そうだいみや世話人せわにんで、2がつ2、3にち節分せつぶん大祭たいさい、10月22 - 24にち秋季しゅうき大祭たいさい、12月2、3にち夫婦ふうふ恵比須えびす神社じんじゃ大祭たいさいのお世話せわつとめている。

にゅうのき

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きゅう体制たいせいではまちかい背割せわ方式ほうしきであったため、まち本通ほんどおりすじから横筋よこすじすうけんまちはいんでいた。これを「にゅうのき(いりけん)」とぶ。やまかさりゅう舁をおこなさいやまかさをこの「にゅうのき」までれてはかえしていた。りゅう再編さいへんされたときにまちのみを基準きじゅんとして再編さいへんせず旧来きゅうらいまちかい一部いちぶのこしたため、かつてより減少げんしょうしたが、この習慣しゅうかんいまのこされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 九州大学きゅうしゅうだいがく附属ふぞく図書館としょかん所蔵しょぞう福岡ふくおか城下町じょうかまち博多はかた近隣きんりんいにしえ』にもとづき作成さくせい

外部がいぶリンク

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