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牛山純一 - Wikipedia

牛山うしやま 純一じゅんいち(うしやま じゅんいち、1930ねん2がつ4にち - 1997ねん10月6にち)は、日本にっぽんドキュメンタリー映像えいぞう作家さっかちち歴史れきし学者がくしゃ牛山うしやま栄治えいじ

来歴らいれき人物じんぶつ

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東京とうきょう出身しゅっしん小学しょうがく6年生ねんせいから旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうまで現在げんざい茨城いばらきけん龍ケ崎りゅうがさきごす。

茨城いばらき県立けんりつ龍ヶ崎りゅうがさき中学校ちゅうがっこう現在げんざい竜ヶ崎りゅうがさき第一高等学校だいちこうとうがっこう)を1953ねん早稲田大学わせだだいがくだい文学部ぶんがくぶ西洋せいよう史学しがく専修せんしゅう卒業そつぎょう早稲田大学わせだだいがく卒業そつぎょう開局かいきょくしたての日本にほんテレビ入社にゅうしゃし、報道ほうどう記者きしゃとして活躍かつやく

1954ねん日本にほんテレビ放送ほうそうされた、吉田よしだ内閣ないかく不信任ふしんにんあんにおける国会こっかい混乱こんらん造船ぞうせん汚職おしょく事件じけんなどをあつかった『特集とくしゅうだいじゅうきゅう国会こっかい』がかれのテレビ・ドキュメンタリーのデビューとなった[1]

1961ねんから、ドキュメント番組ばんぐみノンフィクション劇場げきじょう』を制作せいさく。「老人ろうじんたか」で、民放みんぽうさいげん日本民間放送連盟にほんみんかんほうそうれんめいしょう金賞きんしょう。またプロデューサーとして大島おおしまなぎさの「わすれられた皇軍こうぐん」(1963ねん)、土本どもと典昭のりあきの「水俣みなまたきている」(1965ねん)「市民しみん戦争せんそう」(1966ねん)などを担当たんとうする。

しかし、1965ねんの「ベトナム海兵かいへい大隊だいたい戦記せんき」はだい1放送ほうそう各界かくかいからの批判ひはんび、だい2以降いこう放送ほうそう中止ちゅうしとなった。テレビのわくないでジャーナリスティックな姿勢しせいつらぬくことの限界げんかいおもらされた。

その1966ねんから『日立ひたちドキュメンタリー すばらしい世界せかい旅行りょこう』を制作せいさく1990ねんまでの24年間ねんかんわたって放送ほうそうされる長寿ちょうじゅ番組ばんぐみとなった。1972ねん独立どくりつし、「日本にっぽん映像えいぞう記録きろくセンター(映像えいぞう記録きろく)」を設立せつりつ。フリーのドキュメンタリー映像えいぞう作家さっかとなり、これ以降いこうも「すばらしい世界せかい旅行りょこう」の制作せいさく、さらに1975ねんから「トヨタ日曜にちようドキュメンタリー られざる世界せかい」(- 1986ねん)の制作せいさくがけた。

1975ねん有楽町ゆうらくちょう読売よみうり会館かいかん8かいに「日本にっぽん映像えいぞうカルチャーセンター」を設立せつりつし、収集しゅうしゅうした映像えいぞう記録きろく資料しりょう定期ていきてき公開こうかいするスペースとした[2]1983ねん川崎かわさきが「現代げんだい映像えいぞう文化ぶんかセンター構想こうそう」を発表はっぴょうし、牛山うしやま純一じゅんいち映像えいぞう資料しりょう収集しゅうしゅう委員いいん委託いたくされ、1988ねん開館かいかんの「川崎かわさき市民しみんミュージアム」として結実けつじつした[2]。1983ねんから毎年まいとし武蔵野女子大学むさしのじょしだいがくにて「映像えいぞう文化ぶんか人類じんるいがく」の講義こうぎおこなった[2]

1997ねん10がつ6にち死去しきょ享年きょうねん67。

牛山うしやま純一じゅんいち作品さくひんは2000年代ねんだいはいってからBS朝日あさひの「牛山うしやまじゅんいち20世紀せいき映像えいぞう遺産いさん」(日曜にちよう9:00~10:00)においてかく分野ぶんや専門せんもん現代げんだいてき視点してんからの解説かいせつおぎなって放送ほうそうされた[3]

2012ねん2がつ11にちにはドキュメンタリー映画えいが『テレビに挑戦ちょうせんしたおとこ牛山うしやま純一じゅんいち』が製作せいさく公開こうかいされている。

そのおもなプロデュース番組ばんぐみ

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  • 20世紀せいきアワー
  • たのしい歴史れきし旅行りょこう
  • 「ドキュメント人生じんせい劇場げきじょう
  • 「ナゾの海底かいてい探検たんけん
  • きている人間にんげん旅行りょこう

脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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