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真然 - Wikipedia

しんしか

平安へいあん時代じだい前期ぜんき真言宗しんごんしゅうそう

しんしか(しんぜん、しんねん、生年せいねんしょう[1]- 寛平かんぺい3ねん9月11にち891ねん10月17にち))は、平安へいあん時代じだい前期ぜんき真言宗しんごんしゅうそう中院なかのいん僧正そうじょうこう僧正そうじょうともしょうされる。俗姓ぞくせい佐伯さえき讃岐さぬきこく多度たどぐん出身しゅっしん空海くうかいおいつたえられている。空海くうかい弟子でしとなり、のちみやびから灌頂をけた。空海くうかい死後しご荒廃こうはいしつつあった高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじ)の復興ふっこう発展はってん尽力じんりょく伝承でんしょうではくなる直前ちょくぜん空海くうかいから高野たかのさん経営けいえいたくされたといわれる。

生涯しょうがい

編集へんしゅう
  • おさなくして(一説いっせつに9さい空海くうかいした出家しゅっけしたとつたえられる。はじめ大安寺だいあんじはいる。
  • てんちょう8ねん831ねん)、一説いっせつにこのとしみやびから両部りょうぶ灌頂をける(実際じっさいはもっと後年こうねんとみられる)。
  • うけたまわ元年がんねん834ねん)3がつ一説いっせつ比叡山ひえいざん西にしとういん落慶らっけい供養くようさいし、空海くうかいしたがじつめぐみしょ弟子でしとともに参列さんれつ
  •   11月15にち(12月15にちせつてんちょう10ねんせつあり)、空海くうかいから高野たかのさん経営けいえいたくされたとつたえられる(現実げんじつてきとされている)。
  • うけたまわ3ねん836ねん)、入唐にっとう留学りゅうがくそうとして遣唐使けんとうしせんとう目指めざす。同門どうもんで請益そう真済しんぜい同船どうせん。ところが7がつあらしふね難破なんぱし、いかだうつり23日間にちかん漂流ひょうりゅう。30余人よにん同乗どうじょうしゃはみな餓死がしして、真済しんぜいしんしかだけが奇跡きせきてきのこり、南海なんかいしま具体ぐたいてき場所ばしょ不明ふめいみん救助きゅうじょされた。[2]
  • さだかん16ねん874ねん)12月、けん律師りっし一説いっせつ律師りっし)ににんぜられる。[3]
  • さだかん17ねん875ねん)3がつひろぶくてら検校けんぎょうにんぜられる。
  • さだかん18ねん876ねん)6がつ東寺とうじ長者ちょうじゃみやび東寺とうじ経蔵きょうぞうから「さんじゅうじょう冊子さっし」をりて高野山こうのやまかえる。その返却へんきゃく要請ようせいおうじず、長期ちょうきにわたる東寺とうじ高野たかのさんとの紛争ふんそう原因げんいんとなる。
  • もとけい6ねん882ねん)5がつ金剛峯寺こんごうぶじ別当べっとうとして真言宗しんごんしゅうとしぶんしゃ6にんのうち金剛峯寺こんごうぶじぶん3にんは、かなら金剛峯寺こんごうぶじからの推薦すいせんしゃってためしすべきことを奏請そうせいし、みとめられる。これはじん寿ことぶき3ねんとしぶんしゃためし東寺とうじうつされたことにより衰退すいたいしていた高野たかのさん復興ふっこうさくである。以後いごも、数次すうじにわたりとしぶんしゃせい改革かいかくむ。
  • もとけい7ねん883ねん)10がつけんしょう僧都そうずにんぜられる。
  • もとけい8ねん884ねん)3がつそうあきらのち東寺とうじいち長者ちょうじゃとなる。
  • 仁和にわ元年がんねん885ねん)11月、しょう僧都そうずにんぜられる。
  • 仁和にわ3ねん887ねん)、高野山西たかのやまにしとう光孝みつたか天皇てんのう御願ごがんとして完成かんせい
  • 仁和にわ4ねん888ねん)3がつけんだい僧都そうずにんぜられる。

    8がつ西山にしやま御願ごがんてら仁和寺にんなじ金堂こんどう落慶らっけい供養くよう導師どうしをつとめる。

  • 寛平かんぺい元年がんねん889ねん)、金剛峯寺こんごうぶじ座主ざすしょくき、弟子でし寿ことぶきちょうをこれにす。
  • 寛平かんぺい2ねん890ねん)12月、僧正そうじょうにんぜられる。
  • 寛平かんぺい3ねん891ねん)9がつ11にち高野たかの山中さんちゅういんにてぼっす(のべれき23年生ねんせいせつでは享年きょうねん88)。
  • 寿ことぶきちょう初代しょだい金剛峯寺こんごうぶじ座主ざす
  • そら代目だいめ金剛峯寺こんごうぶじ座主ざすけん律師りっし東寺とうじ長者ちょうじゃかんけん強硬きょうこうな「さんじゅうじょう冊子さっし返還へんかん要求ようきゅうこばんで山城やましろこくえんつつみてら逃亡とうぼうし、その死去しきょ
  • みねぜんしんしか入室にゅうしつ弟子でしせいたからから伝法でんぼう灌頂をける。さん代目だいめ金剛峯寺こんごうぶじ座主ざす
  • おもんみくび延暦寺えんりゃくじとくえん弟子でし天台座主てんだいざしゅ。『宇多天皇うだてんのう実録じつろく』に「みつほう金剛峯寺こんごうぶじしんしかに受く」とある。
  • せいたからみやび無量むりょう寿ことぶきほうしんしか両部りょうぶ大法たいほうけ、みなもとひとしから伝法でんぼう灌頂をける。僧正そうじょう
  • 増利まさり興福こうふく寺僧じそうだい僧都そうず。『日本にっぽん高僧こうそうでんようぶんしょう』にさだかんすえとししんしかから密教みっきょう両部りょうぶほうまなんだとある。
  • みやこりょう文章ぶんしょう博士はかせ。『扶桑ふそう略記りゃっき』によれば、しんしか東寺とうじじゅうしていたとき真言しんごん密教みっきょうけた。

補注ほちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 信頼しんらいせいたか史料しりょうしんしか生年せいねんつたえるものはない。諸説しょせつのなかではのべれき23ねん804ねん)が比較的ひかくてき有力ゆうりょくとされるが、生年せいねん不明ふめいとするのが妥当だとうである。
  2. ^ なお、この遭難そうなんについてつたえる『日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん2ねん2がつ25にちじょう真済しんぜいそつでんは「弟子でししんしか」としるしており、しんしか真済しんぜいとも師弟してい関係かんけいにあったとみられる。『東寺とうじ長者ちょうじゃ補任ほにん』には「みやび僧正そうじょう灌頂、真済しんぜい受法」とある。
  3. ^ さんだい実録じつろくさだかん16ねん12月29にちじょう興福こうふく寺本てらもとそうつな補任ほにん』では律師りっしだが、『さんだい実録じつろく』のもとけい6ねん5がつ14にちじょうもとけい7ねん10がつ7にちじょうではけん律師りっし

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • しんしか大徳だいとく記念きねん出版しゅっぱん編纂へんさん委員いいんかい高野山こうのやまだい二世伝灯国師真然大徳伝』(1990ねん