真 然
生涯
幼 くして(一説 に9歳 )空海 を慕 い出家 したと伝 えられる。はじめ大安寺 に入 る。天 長 8年 (831年 )、一説 にこの年 、真 雅 から両部 灌頂を受 ける(実際 はもっと後年 とみられる)。承 和 元年 (834年 )3月 、一説 に比叡山 西 塔 院 の落慶 供養 に際 し、空海 に随 い実 恵 ら諸 弟子 とともに参列 。- 11月15
日 (12月15日 説 、天 長 10年 説 あり)、空海 から高野 山 の経営 を託 されたと伝 えられる(非 現実 的 とされている)。 承 和 3年 (836年 )、入唐 留学 僧 として遣唐使 船 に乗 り唐 を目指 す。同門 で請益僧 の真済 も同船 。ところが7月 、嵐 で船 が難破 し、筏 に移 り23日間 漂流 。30余人 の同乗 者 はみな餓死 して、真済 と真 然 だけが奇跡 的 に生 き残 り、南海 の島 (具体 的 な場所 は不明 )民 に救助 された。[2]貞 観 16年 (874年 )12月、権 律師 (一説 に律師 )に任 ぜられる。[3]貞 観 17年 (875年 )3月 、弘 福 寺 検校 に任 ぜられる。貞 観 18年 (876年 )6月 、東寺 長者 の真 雅 に請 い東寺 経蔵 から「三 十 帖 冊子 」を借 りて高野山 に持 ち帰 る。その後 、返却 要請 に応 じず、長期 にわたる東寺 と高野 山 との紛争 の原因 となる。元 慶 6年 (882年 )5月 、金剛峯寺 別当 として真言宗 年 分 度 者 6人 のうち金剛峯寺 分 3人 は、必 ず金剛峯寺 からの推薦 者 を待 って試 度 すべきことを奏請 し、認 められる。これは仁 寿 3年 に年 分 度 者 の課 試 が東寺 に移 されたことにより衰退 していた高野 山 の復興 策 である。以後 も、数次 にわたり年 分 度 者 制 の改革 に取 り組 む。元 慶 7年 (883年 )10月 、権 少 僧都 に任 ぜられる。元 慶 8年 (884年 )3月 、宗 叡 の後 を継 ぎ東寺 一 長者 となる。仁和 元年 (885年 )11月、少 僧都 に任 ぜられる。仁和 3年 (887年 )、高野山西 塔 、光孝 天皇 の御願 として完成 。仁和 4年 (888年 )3月 、権 大 僧都 に任 ぜられる。
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弟子
補注
参考 文献
真 然 大徳 記念 出版 編纂 委員 会 『高野山 第 二世伝灯国師真然大徳伝』(1990年 )