菊池きくち 武重たけしげ(きくち たけしげ)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼく朝あさ時代じだいにかけての武将ぶしょう。菊池きくち氏しの第だい13代だい当主とうしゅ。菊池きくち武たけし時ときの嫡男ちゃくなん。
1333年ねん、父ちち武ぶ時じと共ともに挙兵きょへいし、鎌倉かまくら幕府ばくふの鎮西ちんぜい探題たんだい・北条ほうじょう英時ひでときを攻せめたが、逆ぎゃくに英えい時じや少しょう弐に貞さだ経けい、大友おおとも貞宗さだむねらの反撃はんげきを受うけて父ちちは討死うちじにし、武重たけしげは命いのちからがら本国ほんごくに逃にげ帰かえった。後醍醐天皇ごだいごてんのうによる建たて武たけしの新政しんせいが始はじまると、亡父ぼうふの功績こうせきを賞しょうされて肥後ひご一いち国こくを与あたえられた。
1335年ねん、足利尊氏あしかがたかうじが後醍醐天皇ごだいごてんのうに反逆はんぎゃくして鎌倉かまくらより軍ぐんを率ひきいて侵攻しんこうすると、弟おとうとの武吉たけよしと共ともに新田にった義貞よしさだの軍ぐんに加くわわって足利あしかが軍ぐんと戦たたかったが、敗やぶれて京都きょうとに逃にげ帰かえった。その後ご、九州きゅうしゅうに落おちた尊たかし氏しが再挙さいきょして攻せめ上のぼってくると、兵庫ひょうごなど各地かくちで足利あしかが軍ぐんと戦たたかったが、敗やぶれて足利あしかが軍ぐんに捕とらえられた。しかし一命いちめいは助たすけられて、肥後ひごに送おくり返かえされている。
1337年ねん2月がつ、九州きゅうしゅうにおける南朝なんちょう勢力せいりょくを結集けっしゅうして北朝ほくちょう勢力せいりょくと戦たたかったが、1338年ねんに死去しきょ。後ごを弟おとうとの武士ぶしが継ついだ。
没年ぼつねんには異説いせつも多おおく、1341年ねん、もしくは1342年ねん説せつもある。さらに42歳さい(正せい慶けい2年ねん3月がつ13日にち博多はかたで討死うちじに、という説せつを採とると1292年ねん - 1333年ねんとなる。ただ、この没年ぼつねん(正せい慶けい2年ねん)は父ちち武ぶ時じのものかもしれない)とも家いえ譜ふにはある。出生しゅっしょう年ねんも定さだかではない。
一族いちぞくの結束けっそくの為ため、菊池きくち家憲かけん「寄合よりあい衆しゅう内談ないだんの事こと」を作つくり、武重たけしげの血判けっぱんが押おされてある。血判けっぱん文書ぶんしょとしては最古さいこのもので、菊池きくち千本せんぼん槍やりと共ともに現在げんざいも建たて武たけし中興ちゅうこう十じゅう五ご社しゃのうちの一いち社しゃである菊池きくち神社じんじゃ(現在げんざいの熊本くまもと県けん菊池きくち市し)に保存ほぞんされ、同どう神社じんじゃでは武ぶ時じ、武たけ光ひかりと共ともに主祭しゅさい神しんとして祀まつられている[1]。
没後ぼつご570年ねん近ちかく経たった1902年ねん(明治めいじ35年ねん)11月12日にちに、明治天皇めいじてんのうより贈おく従したがえ三さん位いに叙じょされ、同日どうじつに父ちちの菊池きくち武たけし時ときが従したがえ一いち位いと、弟おとうとの菊池きくち武光たけみつも贈おく従したがえ三さん位いに叙じょされた[2]。