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菊池武重 - Wikipedia

菊池きくち 武重たけしげ(きくち たけしげ)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての武将ぶしょう菊池きくちだい13だい当主とうしゅ菊池きくちたけしとき嫡男ちゃくなん

 
菊池きくち武重たけしげ
菊池きくち武重たけしげぞう
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき - 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 徳治とくじ2ねん1307ねん)?
死没しぼつ のべもと3ねん/こよみおう元年がんねん1338ねん)?
別名べつめい 次郎じろう通称つうしょう
戒名かいみょう 歓喜かんきいんさびやまげんぼん真空しんくうさびおもねだい居士こじ
墓所はかしょ 熊本くまもとけん菊池きくち隈府わいふ正観寺しょうかんじ歓喜かんきいん
官位かんい したがえ肥後守ひごのかみおくしたがえさん明治めいじ35ねん
主君しゅくん 後醍醐天皇ごだいごてんのう
氏族しぞく 菊池きくち
父母ちちはは ちち菊池きくちたけしときはは赤星あかほしゆうたかしむすめ
兄弟きょうだい 武重たけしげよりゆきたかしりゅうしゅんたけしげるたけきよし武吉たけよしたけゆたかたけさとしたけひかりたけたかし武士ぶしたけしょうたけよしおつおもね迦丸、りょうこころもとさとし
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

1333ねんちちとも挙兵きょへいし、鎌倉かまくら幕府ばくふ鎮西ちんぜい探題たんだい北条ほうじょう英時ひでときめたが、ぎゃくえいしょうさだけい大友おおとも貞宗さだむねらの反撃はんげきけてちち討死うちじにし、武重たけしげいのちからがら本国ほんごくかえった。後醍醐天皇ごだいごてんのうによるたてたけし新政しんせいはじまると、亡父ぼうふ功績こうせきしょうされて肥後ひごいちこくあたえられた。

1335ねん足利尊氏あしかがたかうじ後醍醐天皇ごだいごてんのう反逆はんぎゃくして鎌倉かまくらよりぐんひきいて侵攻しんこうすると、おとうと武吉たけよしとも新田にった義貞よしさだぐんくわわって足利あしかがぐんたたかったが、やぶれて京都きょうとかえった。その九州きゅうしゅうちたたかし再挙さいきょしてのぼってくると、兵庫ひょうごなど各地かくち足利あしかがぐんたたかったが、やぶれて足利あしかがぐんとらえられた。しかし一命いちめいたすけられて、肥後ひごおくかえされている。

1337ねん2がつ九州きゅうしゅうにおける南朝なんちょう勢力せいりょく結集けっしゅうして北朝ほくちょう勢力せいりょくたたかったが、1338ねん死去しきょおとうと武士ぶしいだ。

没年ぼつねんには異説いせつおおく、1341ねん、もしくは1342ねんせつもある。さらに42さいせいけい2ねん3がつ13にち博多はかた討死うちじに、というせつると1292ねん - 1333ねんとなる。ただ、この没年ぼつねんせいけい2ねん)はちちのものかもしれない)ともいえにはある。出生しゅっしょうねんさだかではない。

一族いちぞく結束けっそくため菊池きくち家憲かけん寄合よりあいしゅう内談ないだんこと」をつくり、武重たけしげ血判けっぱんされてある。血判けっぱん文書ぶんしょとしては最古さいこのもので、菊池きくち千本せんぼんやりとも現在げんざいたてたけし中興ちゅうこうじゅうしゃのうちのいちしゃである菊池きくち神社じんじゃ現在げんざい熊本くまもとけん菊池きくち)に保存ほぞんされ、どう神社じんじゃではたけひかりとも主祭しゅさいしんとしてまつられている[1]

没後ぼつご570ねんちかった1902ねん明治めいじ35ねん)11月12にちに、明治天皇めいじてんのうよりおくしたがえさんじょされ、同日どうじつちち菊池きくちたけしときしたがえいちと、おとうと菊池きくち武光たけみつおくしたがえさんじょされた[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 菊池きくち神社じんじゃ”. 菊池きくち. 2021ねん3がつ18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  2. ^ 官報かんぽうだい5810ごう、「叙任じょにん及辞れい」1902ねん11月14にち