(Translated by https://www.hiragana.jp/)
鈴木武 - Wikipedia

鈴木すずきたけし

兵庫ひょうごけん西宮にしのみや出身しゅっしんで、近鉄きんてつパールス(バファロー)と大洋たいようホエールズに在籍ざいせきしたプロ野球やきゅう選手せんしゅ内野ないやしゅ

鈴木すずき たけし(すずき たけし、1932ねん2がつ28にち - 2004ねん6月27にち)は、兵庫ひょうごけん西宮にしのみや出身しゅっしんで、近鉄きんてつパールス(バファロー)と大洋たいようホエールズに在籍ざいせきしたプロ野球やきゅう選手せんしゅ内野ないやしゅ)である。

鈴木すずき たけし
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 兵庫ひょうごけん西宮にしのみや
生年月日せいねんがっぴ (1932-02-28) 1932ねん2がつ28にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2004-06-27) 2004ねん6月27にち(72さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
167 cm
66 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 内野ないやしゅ
プロ 1953ねん
はつ出場しゅつじょう 1953ねん
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1963ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

来歴らいれき人物じんぶつ

編集へんしゅう

鳴尾なるお高校こうこうでは、1951ねんはる選抜せんばつ出場しゅつじょう同期どうきたけ貞次ていじ法大ほうだいリッカー)、1ねん中田なかた昌宏まさひろとうほんばしらようすすむ。決勝けっしょうでは鳴門なるとだか対戦たいせんするが、9かいサヨナラけをきっじゅん優勝ゆうしょうにとどまる[1]。この大会たいかいでは打率だりつ.611を記録きろくし、攻守こうしゅ両面りょうめん活躍かつやく[2]優秀ゆうしゅう選手せんしゅ選出せんしゅつされた[3]のチ-ムメートでは、藤尾ふじおしげる山田やまだ清三郎せいさぶろうがプロりしている。

高校こうこう卒業そつぎょう社会しゃかいじん野球やきゅう東洋とうようレーヨンて、1953ねん近鉄きんてつパールス入団にゅうだん。1ねん開幕かいまくから遊撃手ゆうげきしゅばん打者だしゃ抜擢ばってきされ、鳴尾なるお高校こうこう先輩せんぱいたる日下くさかたかしいちばんコンビをんでおおくの盗塁とうるい成功せいこうさせた[3]遊撃手ゆうげきしゅとしてぜん試合しあい出場しゅつじょうたしリーグ4の40盗塁とうるい記録きろく同年どうねん規定きてい打席だせき打率だりつ.274、19)にもたっする。1954ねんパ・リーグ最多さいたの44失策しっさく記録きろくするものの、71盗塁とうるい記録きろく盗塁とうるいおう獲得かくとくする。鈴木すずきスパイクシューズ費用ひようしまず、バッグのなかには晴天せいてんよう雨天うてんようくつそこ金具かなぐながさがちがなに種類しゅるいものスパイクを常備じょうびしていた[4][5][6]当時とうじ南海なんかいホークス監督かんとく鶴岡つるおか一人かずとから「ウチの木塚きづかよりも(盗塁とうるいが)うまいで」と評価ひょうかされ、とう木塚きづか忠助ちゅうすけ鈴木すずき盗塁とうるい名人めいじんみとめていた[4]高校こうこう時代じだいのチームメイトで近鉄きんてつ所属しょぞくしていた山田やまだ清三郎せいさぶろう鈴木すずきについて走塁そうるい技術ぎじゅつ脚力きゃくりょくよりも動物どうぶつてきなカンにすぐれていたとひょうし、日下くさかたかし技術ぎじゅつめん特筆とくひつするてんかったと回想かいそうしている[3]。オールスターせん直後ちょくご盗塁とうるいすうは60をえていたが、「記録きろくにこだわる鈴木すずき」と自身じしん揶揄やゆする新聞しんぶん記事きじにして気力きりょくがれ、盗塁とうるいこころみることはほとんどなくなった[4]1955ねん毎日まいにちオリオンズとの開幕かいまくせんで、荒巻あらまきあつし二塁にるいじょう交錯こうさくみぎ足首あしくび骨折こっせつしたことでシーズンをぼうる。よく1956ねん戦列せんれつ復帰ふっきするが、かつてのはしちからうしなわれていた[7]

1957ねん移籍いせき入団にゅうだん木塚きづか忠助ちゅうすけてい位置いちゆず二塁手にるいしゅまわる。1959ねんには巨人きょじんから移籍いせきした内藤ないとう博文ひろぶみ二塁にるいはいったため、鈴木すずき遊撃手ゆうげきしゅもどるが、このとし監督かんとく就任しゅうにんした千葉ちばしげる千葉ちばれてきたコーチじんとの確執かくしつ発生はっせいする[8]巨人きょじん出身しゅっしんしゃかたよ選手せんしゅ起用きよう抗議こうぎした直後ちょくごぐんちを通告つうこくされ、ファームでは練習れんしゅうげやりになり、いちばんちゅうさけかすこともおおくなった[9]

1960ねんになると、二塁にるいには島田しまだひかりゆうげきには新人しんじんうらこくみつるはいり、鈴木すずきがあまり起用きようされなくなっていた。ここで、守備しゅび苦手にがてとする麻生あそうみのるおとこ打撃だげきなんのある浜中はまなかさちわる有力ゆうりょく遊撃手ゆうげきしゅさがしていた大洋たいようホエールズしん監督かんとくであった三原みはらおさむは、鈴木すずき白羽しらはてた[10]。5月17にち大洋たいようたい阪神はんしん戦後せんご大阪おおさか市内しない三原みはら鈴木すずき密会みっかいして直接ちょくせつ移籍いせき打診だしんしたとされる[11]当時とうじ、シーズンちゅうのリーグあいだトレードは4がつ30にちまでと規定きていされていたが、三原みはらは「コミッショナー許可きょかがあればそのかぎりにあらず」という特例とくれい条項じょうこうをつけ、千葉ちばつよ説得せっとくしたすえ当時とうじのコミッショナー・井上いのうえのぼるから許可きょかける[12]。こうして、シーズン途中とちゅうの6がつ鈴木すずき金銭きんせんトレード大洋たいようホエールズ移籍いせきした。西鉄にしてつ監督かんとく時代じだい三原みはら鈴木すずきについて、ねばりっこいバッティング、予測よそくできない美技びぎせる一方いっぽうで、なんでもない打球だきゅうりそこなう意外いがいせい、その心理しんり状態じょうたい左右さゆうされやすいてん印象いんしょうのこっていた[13]。しかし、世間せけんはリーグ最下位さいかい近鉄きんてつひか選手せんしゅである鈴木すずきにさして期待きたいしていなかった[14]

これまでの大洋たいようにない空気くうきった鈴木すずき加入かにゅうは、二塁手にるいしゅ近藤こんどう昭仁あきひと選手せんしゅ発奮はっぷんさせた[15]。また、鈴木すずき加入かにゅうによってひかえにまわされた浜中はまなか終盤しゅうばん守備しゅびがためや代走だいそう要員よういんとして、麻生あそう代打だいだ要員よういんとしてあじ発揮はっきした[16]選手せんしゅ精神せいしんめるための「しかられやく」も鈴木すずき役目やくめで、三原みはら意図いとんでいた鈴木すずき正当せいとう理由りゆうのある叱咤しったをうれしいとかんじたときもあった[17]三原みはらから突出とっしゅつした成績せいせきのこさなくとも要所ようしょ活躍かつやくせる「ちょう二流にりゅう選手せんしゅ」の一人ひとりとして名前なまえげられるなど、鈴木すずきはこのとし大洋たいようはつのリーグ優勝ゆうしょう日本一にっぽんいち貢献こうけんした[13]日本にっぽんシリーズ2せんでは同点どうてんの7かいうら決勝けっしょうとなるタイムリーヒットをはなつと、3せんでは初回しょかい安打あんだ出塁しゅつるいするととうさんとうめて先制せんせいのホームをむなど、4打数だすう2安打あんだ2盗塁とうるい成績せいせきげた。また、随所ずいしょこう守備しゅびせて.214のてい打率だりつながら技能ぎのうしょう獲得かくとくした。よく1961ねんせい遊撃手ゆうげきしゅとして起用きようされるが、1962ねんフランシス・アグウィリーよく1963ねんマイク・クレスニックと、次々つぎつぎ外国がいこくじん内野ないやしゅ入団にゅうだんしたため、鈴木すずき徐々じょじょ出場しゅつじょう機会きかいらし、1963ねんかぎりで現役げんえき引退いんたい引退いんたい新聞しんぶんしゃ勤務きんむした[6]

2004ねん6がつ27にち午後ごご85ふん出血しゅっけつせいショックのため兵庫ひょうごけん西宮にしのみや病院びょういん死去しきょ。72さいぼつ

詳細しょうさい情報じょうほう

編集へんしゅう

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

編集へんしゅう
とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1953 近鉄きんてつ 120 535 496 56 136 20 6 2 174 36 40 13 19 -- 19 -- 1 34 8 .274 .302 .351 .653
1954 132 579 536 78 136 19 2 2 165 38 71 18 17 2 22 -- 1 21 10 .254 .284 .308 .592
1955 3 11 11 1 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .364 .364 .364 .727
1956 133 495 431 54 105 14 2 0 123 17 37 13 32 2 28 1 2 50 10 .244 .292 .285 .577
1957 95 359 323 39 89 9 1 3 109 23 23 10 14 2 19 0 1 29 4 .276 .316 .337 .653
1958 105 376 342 30 79 4 3 1 92 17 30 16 11 1 18 0 4 42 7 .231 .277 .269 .546
1959 121 400 380 26 91 7 4 0 106 23 15 4 5 3 8 2 3 41 6 .239 .259 .279 .538
1960 20 46 44 4 5 1 0 0 6 1 0 0 2 0 0 0 0 4 0 .114 .114 .136 .250
大洋たいよう 76 271 252 29 53 8 1 0 63 16 12 5 5 0 13 3 1 27 4 .210 .252 .250 .502
'60けい 96 317 296 33 58 9 1 0 69 17 12 5 7 0 13 3 1 31 4 .196 .232 .233 .465
1961 127 371 345 28 82 8 1 1 95 24 12 7 10 0 16 0 0 42 8 .238 .271 .275 .547
1962 117 269 257 12 53 6 0 0 59 14 2 2 6 0 6 0 0 30 2 .206 .224 .230 .454
1963 82 212 190 13 42 4 1 0 48 4 4 2 13 0 8 0 1 18 5 .221 .256 .253 .509
通算つうさん:11ねん 1131 3924 3607 370 875 100 21 9 1044 214 246 90 134 10 157 6 14 338 66 .243 .276 .289 .566
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

表彰ひょうしょう

編集へんしゅう
節目ふしめ記録きろく
  • 1000試合しあい出場しゅつじょう:1962ねん7がつ19にち史上しじょう73にん
その記録きろく
  • 1イニング3盗塁とうるい:1954ねん5がつ20日はつかたい阪急はんきゅうブレーブスたたかえ、5かいとうさんとうほんぬすめ史上しじょう12にん[18]

背番号せばんごう

編集へんしゅう
  • 31 (1953ねん
  • 7 (1954ねん - 1960ねん途中とちゅう
  • 11 (1960ねん途中とちゅう - 1963ねん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 選抜せんばつ高等こうとう学校がっこう野球やきゅう大会たいかい60ねん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃへん 1989ねん
  2. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』92ぺーじ
  3. ^ a b c 感動かんどう軌跡きせき』148-149ぺーじ
  4. ^ a b c 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』923ぺーじ
  5. ^ 『プロ野球やきゅうトレードこうかげ』12ぺーじ
  6. ^ a b 『プロ野球やきゅうつくっためい選手せんしゅ異色いしょく選手せんしゅ400にん』301ぺーじ
  7. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』94ぺーじ
  8. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』94-97ぺーじ
  9. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』91,96ぺーじ
  10. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』91ぺーじ
  11. ^ 『プロ野球やきゅうトレードこうかげ』14ぺーじ
  12. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』89-90ぺーじ
  13. ^ a b 三原みはら風雲ふううん軌跡きせき』229-232ぺーじ
  14. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』90ぺーじ
  15. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』97-98ぺーじ
  16. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』99-100ぺーじ
  17. ^ 富永とみなが三原みはらおさむ昭和しょうわさんじゅうねん』100-101ぺーじ
  18. ^ 宇佐美うさみ徹也てつや日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん講談社こうだんしゃ、711ページ

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう