鎌田かまた 光政みつまさ(かまだ みつまさ)は、平安へいあん時代じだい末期まっきの武将ぶしょう。名なは政光まさみつ、正親おうぎとも。源義朝みなもとのよしともの乳兄弟ちきょうだいである鎌田かまた政まさし清きよしの子こ(鎌田かまた政治せいじの子こという説せつも)。兄あには鎌田かまた 盛もり政まさし(かまた もりまさ)で通称つうしょうは藤太とうた。
軍記物語ぐんきものがたり『源平げんぺい盛衰せいすい記き』では兄あに・盛もり政まさしと共ともに義経よしつね四天王してんのうの1人ひとりとして活躍かつやくし、屋島やしまの戦たたかいにて、射い落畠で平教経たいらののりつねと戦たたかい討死うちじにする。盛もり政まさしは一ノ谷いちのやの戦たたかいで討うち死じにしている。
『義経よしつね記き』には政せい清きよしの子ことして鎌田かまた 正ただし近ちか(かまた まさちか)通称つうしょうは三さん郎ろうが登場とうじょうし、僧そうとなって正門せいもん坊ぼう(唱門坊ぼう[1])と名乗なのり、牛ぎゅう若わか丸まるに出生しゅっしょうの秘密ひみつを告つげる。
なお、鎌田かまた盛もり政まさし・光政みつまさ兄弟きょうだいの存在そんざいが書かかれているのは『源平げんぺい盛衰せいすい記き』のみであり、『平家ひらか物語ものがたり』や史料しりょうである『吾妻あづま鏡きょう』、系図けいずなどでは見みられない。正せい近こんは『義経よしつね記き』のみに登場とうじょうする。
碑いしぶみが香川かがわ県けん高松たかまつ市し牟礼むれ町まちにある。