須永すなが 徹とおる(すなが とおる、1950年ねん2月がつ14日にち[1] - 1991年ねん11月23日にち[1])は、日本にっぽんの政治せいじ家か。元もと日本にっぽん社会党しゃかいとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(1期き)。
群馬ぐんま県けん太田おおた市し出身しゅっしん[1]。1971年ねん群馬大学ぐんまだいがく工業こうぎょう短期大学たんきだいがく部ぶ卒そつ[1]。富士重工ふじじゅうこうに入はいり、その後ご衆議院しゅうぎいん議員ぎいん小川おがわ省吾しょうごの秘書ひしょを務つとめた[2]。太田おおた中小ちゅうしょう企業きぎょう労務ろうむ協会きょうかい理事りじ長ちょう、自治労じちろう群馬ぐんま県けん本部ほんぶ特別とくべつ執行しっこう委員いいん[1]、日本にっぽん社会党しゃかいとう太田おおた総そう支部しぶ書記しょき長ちょう[2]、同どう党とう群馬ぐんま県けん副ふく委員いいん長ちょうを経へて、1990年ねんの総そう選挙せんきょで旧きゅう群馬ぐんま2区くから立候補りっこうほして初はつ当選とうせん[1][3]。
しかし在職ざいしょく中ちゅうの1991年ねん11月23日にち、群馬ぐんま県けん桐生きりゅう市し内うちの知人ちじんの結婚けっこん披露宴ひろうえんに出席しゅっせきし祝辞しゅくじを述のべた直後ちょくごに倒たおれ、近ちかくの大間々おおまま町まちの恵めぐみ愛あい堂どう病院びょういんに搬送はんそうされたが、30分ふん後ごに死亡しぼうした[4]。41歳さい没ぼつ。死没しぼつ日付ひづけをもって従したがえ五ご位い勲くん四よん等とうに叙じょされた[4]。追悼ついとう演説えんぜつは同年どうねん12月がつ16日にちの衆議院しゅうぎいん本ほん会議かいぎで同おなじ選挙せんきょ区くであった笹川ささかわ堯により行おこなわれた。翌年よくねんに同おなじ選挙せんきょ区くの中島なかじま源太郎げんたろう(自由民主党じゆうみんしゅとう)も死去しきょしたことにより補欠ほけつ選挙せんきょが行おこなわれ、社会党しゃかいとうは妻つまの須永すなが敏江としえを擁立ようりつしたが、次点じてんに終おわった[3]。
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