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骨法 (格闘技) - Wikipedia

骨法こっぽう(こっぽう)とは、当身あてみわざ主体しゅたいとする徒手としゅ武術ぶじゅつのこととされる。ただし日本にっぽん武術ぶじゅつなかに、かく武器ぶきじゅつである「骨法こっぽう」(「つよしほう」ともばれる)や、柔術じゅうじゅつ一部いちぶではない「骨法こっぽう」という名称めいしょう独立どくりつした徒手としゅ格闘かくとうじゅつ存在そんざいしていたと主張しゅちょうするのはほりあたり正史せいし系統けいとうのみである。

伝承でんしょうについて

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おおきく2つの伝承でんしょう分類ぶんるいされる。

中国ちゅうごく起源きげんせつ1

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ほりあたり正史せいし系統けいとう以外いがい骨法こっぽう流派りゅうはたまとらりゅうとらたおせりゅう古代こだいこつ法体ほうたいじゅつ源流げんりゅう天心てんしんりゅうなど)は、中国ちゅうごく武術ぶじゅつ起源きげんであるとしており、骨法こっぽう柔術じゅうじゅつとう日本にっぽん伝統でんとう徒手としゅ武術ぶじゅつ異称いしょうのひとつであることも否定ひていしていない。日本にっぽん固有こゆうせつとなえるほりあたり正史せいし後述こうじゅつ)は、著書ちょしょ喧嘩けんかげい骨法こっぽう』のなかで、「骨法こっぽうとうそう鑑真がんじんからまなんだ中国ちゅうごく拳法けんぽうであるというせつは、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろによってでっちげられた」としている。また、ほりあたり著書ちょしょほりあたりには藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ志賀しがきよしりんどう一人物いちじんぶつつたえる口伝くでんがあったとしるしている(ただし、この口伝くでんについては、ほりあたり自身じしん著書ちょしょで「この二人ふたりどう一人物いちじんぶつであったとはかんがえられない」としるしている)。

中国ちゅうごく起源きげんせつ2

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中国ちゅうごくの姚玉とらからはじまり、ちょうたけしかち日本にっぽんつたえた[1]

日本にっぽん固有こゆうせつ

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これは現時点げんじてんではほりあたり正史せいし系統けいとうのみの主張しゅちょうである。ほりによると、骨法こっぽう柔術じゅうじゅつとう日本にっぽん伝統でんとう徒手としゅ武術ぶじゅつまったことなる武術ぶじゅつとしている。ほりは、骨法こっぽう奈良なら時代じだい武人ぶじん大伴おおとも麻呂まろよりつたわる日本にっぽん独自どくじ拳法けんぽうとしている。

野見のみ宿禰すくね当麻とうまはや対決たいけつが、現在げんざい相撲すもうちがい、はげしいいであったことを、古代こだいより日本にっぽん拳法けんぽう存在そんざいした証拠しょうことし、ここから相撲すもう起源きげんであるとしている。奈良なら時代じだいかみひさし3ねん志賀しがきよしりんによって「く・なぐる・る」のさんきんしゅにされたといわれ、一般いっぱんてきには古代こだい相撲すもう異称いしょうとされる「」はきんしゅ制定せいてい以前いぜんの、この武術ぶじゅつ呼称こしょうであるとしている。純粋じゅんすい武術ぶじゅつを「乞」・武術ぶじゅつ応用おうようした医療いりょう行為こういが「骨法こっぽう」とする主張しゅちょうもある。

また、藤原ふじわら宗忠むねただ日記にっきである『ちゅう右記うき』に「相撲すもうつよいとわれているが、もっと骨法こっぽうけなければ……」との意味いみ文章ぶんしょう源義家みなもとのよしいえ家臣かしん大宅おおたくひかりぼうたいする批評ひひょういているが、これは「相撲すもうつよいとわれているが、もっと基本きほんけなければ……」と解釈かいしゃくされていたが、ほりあたりはこの記述きじゅつ骨法こっぽうという武術ぶじゅつ存在そんざい証明しょうめいするものと主張しゅちょうしている。

その源義光みなもとのよしみつ源義家みなもとのよしいえおとうと)が衰退すいたいしていた骨法こっぽう復興ふっこうし、かれ子孫しそん一子相伝いっしそうでん継承けいしょうされ、現在げんざいいたるものとしている(ほりあたり源義光みなもとのよしみつ末裔まつえいしょうする)。骨法こっぽうのうちほり家伝かでんのものはつかさ骨法こっぽうしょうしたとする。

ほりあたり伝承でんしょうされたわざをより実戦じっせんてき改良かいりょうし、みずか流派りゅうは創始そうししゃ名乗なのっている。最初さいしょ家伝かでん武術ぶじゅつ名称めいしょうを「かわほねじゅつ」としており、一時期いちじき大東だいとうりゅうごう柔術じゅうじゅつ佐川さがわ道場どうじょういていたが、佐川さがわ道場どうじょう門人もんじんだった吉丸よしまる貞雄さだお一緒いっしょ独立どくりつ[2]したのちに「かわほねけん」と改称かいしょう[3]、さらにそのに「骨法こっぽう」に改称かいしょうしている。

ほりあたりによると、大伴おおとも麻呂まろは「てっし」(とおし)とよばれる秘技ひぎもちいたという。これは中国ちゅうごく拳法けんぽう浸透しんとう勁にたものとされるが、麻呂まろ以後いごしつでんしており、ほりあたり正史せいし現代げんだいよみがえらせたと主張しゅちょうしている。

骨法こっぽうしょうする流派りゅうはについて

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ほりあたり正史せいしとは無関係むかんけいのものをふくむ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 月刊げっかん秘伝ひでん2010ねん10がつごう BABジャパン
  2. ^ 高橋たかはしけん佐川さがわ幸義ゆきよし先生せんせいでん 大東だいとうりゅうごう真実しんじつぶくあきらどう 2007ねん
  3. ^ 木村きむら達雄たつおさま詰問きつもんじょう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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