(Translated by https://www.hiragana.jp/)
高木文雄 - Wikipedia

高木たかぎ文雄ふみお

日本にっぽん大蔵おおくら官僚かんりょう

高木たかぎ 文雄ふみお(たかぎ ふみお、1919ねん大正たいしょう8ねん4がつ6にち - 2006ねん平成へいせい18ねん2がつ14にち)は日本にっぽん大蔵おおくら官僚かんりょう大蔵おおくら事務次官じむじかん弁護士べんごし日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう国鉄こくてつげんJR総裁そうさいひとし歴任れきにんした。位階いかい勲等くんとうしたがえさん勲一等くんいっとう

たかぎ ふみお

高木たかぎ文雄ふみお
生誕せいたん 1919ねん大正たいしょう8ねん4がつ6にち
日本の旗東京とうきょう
死没しぼつ (2006-02-14) 2006ねん2がつ14にち(86さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか
職業しょくぎょう 日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう総裁そうさい弁護士べんごし
テンプレートを表示ひょうじ

略歴りゃくれき

編集へんしゅう

人物じんぶつ

編集へんしゅう

大阪おおさか国税局こくぜいきょくちょう在任ざいにんちゅう1968ねん1がつ31にち部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい中央ちゅうおう本部ほんぶ7項目こうもく密約みつやくむすぶ。大阪おおさか同和どうわ建設けんせつ協会きょうかいどうけんきょう加盟かめい業者ぎょうしゃなど同和どうわ地区ちく出身しゅっしん業者ぎょうしゃ提出ていしゅつする税務ぜいむ申告しんこくしょ審査しんさとおすという内容ないようであり、これ以降いこう部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい傘下さんか企業きぎょう国税庁こくぜいちょう黙認もくにんのもとに脱税だつぜいする特権とっけんたとされる。いわゆる同和どうわ利権りけん問題もんだい起源きげんひとつである[5]

大蔵おおくら事務次官じむじかんとしては、主計しゅけい局長きょくちょうつとめずに主税局しゅぜいきょくちょうから昇格しょうかくした。田中たなか角栄かくえいうしたてにより、おなじく福田ふくだ赳夫たけおうしたてにあったとき主計しゅけい局長きょくちょう同期どうき橋口はしぐちおさむとの次官じかんあらそいは、すみぶく戦争せんそう代理だいり戦争せんそうともいわれた。

国鉄こくてつ総裁そうさいには、ストけんスト責任せきにんわれ辞任じにんした藤井ふじい松太郎まつたろう後任こうにんとして、国鉄こくてつ赤字あかじくるしむなか、1976ねん3がつだい8だい総裁そうさい就任しゅうにんし、人員じんいん削減さくげんなどに辣腕らつわんるった。国鉄こくてつ外部がいぶ出身しゅっしんしゃ総裁そうさいだい5だい石田いしだ禮助れいすけ以来いらいであった。他方たほう高木たかぎ総裁そうさいつとめた時期じきに、国鉄こくてつはそれまで物価ぶっか対策たいさくとして抑制よくせいされていた運賃うんちん大幅おおはば値上ねあげに[ちゅう 2]同年どうねん10がつ、50%ちか大幅おおはば値上ねあげを実施じっしし、その毎年まいとしのように値上ねあげをかえすことになる。しかし、値上ねあげの影響えいきょうともなって乗客じょうきゃく減少げんしょうし(「国鉄こくてつばなれ」)、ぎゃく赤字あかじ悪化あっかする結果けっかとなった。

そうした情勢じょうせいけ、1980ねんには「最後さいご国鉄こくてつ再建さいけんプラン」とばれた国鉄こくてつ再建さいけんほう日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう経営けいえい再建さいけん促進そくしん特別とくべつ措置そちほう)が成立せいりつした。この法律ほうりつでは国鉄こくてつ路線ろせん輸送ゆそう密度みつどによって幹線かんせん地方ちほう交通こうつうせん区分くぶんし、それまで一時期いちじき例外れいがいのぞいて全国ぜんこく一律いちりつとされてきた運賃うんちん二本立にほんだてとすることを可能かのうとした。さらにとく輸送ゆそう密度みつどひく特定とくてい地方ちほう交通こうつうせんについては、地元じもと協議きょうぎうえで、国鉄こくてつ経営けいえいから分離ぶんりしバス転換てんかんまたは事業じぎょうしゃによる運営うんえい移管いかんすることがさだめられた。ただし、路線ろせん区分くぶんべつ運賃うんちん実行じっこううつされたのは高木たかぎ総裁そうさい退任たいにんである。また、どうほうでは日本鉄道建設公団にほんてつどうけんせつこうだんによって建設けんせつすすめられた地方ちほう路線ろせん(ABせん)についても一部いちぶのぞいて建設けんせつ凍結とうけつされた。

しかし、どうほう実行じっこううつ矢先やさきだい臨時りんじ行政ぎょうせい調査ちょうさかい臨調りんちょう)による「行政ぎょうせい改革かいかく路線ろせんなか国鉄こくてつ効率こうりつ焦点しょうてんてられ、マスコミの非難ひなん集中しゅうちゅうすることになる。1982ねんには東北新幹線とうほくしんかんせん上越新幹線じょうえつしんかんせん部分ぶぶん開業かいぎょうにこぎけたが、1983ねん12月1にち国鉄こくてつ総裁そうさい任期にんきなかばで辞任じにんすることとなった。とはいえ、在任ざいにん7ねん十河そごう信二しんじいで国鉄こくてつ総裁そうさい史上しじょう2番目ばんめながい。国鉄こくてつ総裁そうさい退任たいにんは、横浜よこはまみなとみらい21の社長しゃちょうとしてみなとみらい地区ちく開発かいはつ尽力じんりょくした。

栄典えいてん

編集へんしゅう

高木たかぎの『わたし履歴りれきしょ』によれば、

ちち雄次郎ゆうじろう京橋きょうばし商家しょうかまれそだち「3だいつづかねば江戸えどとはいえない」と江戸えど商人しょうにんまれを自慢じまんした。はは大阪おおさかちゃおろししょうむすめ
祖父そふふじなな孤児こじ同然どうぜんちで小学校しょうがっこう中井なかいさけてん奉公人ほうこうにんから支配人しはいにん出世しゅっせした人物じんぶつ祖母そぼ日本橋にほんばしたたみむすめ高木たかぎルーツについてははっきりしないが、記録きろくによると明和めいわ9ねん1772ねんごろには江戸えどていた」という。

著書ちょしょ

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ a b 2にんいる総務そうむぞくしている主計しゅけいかんは、1人ひとり予算よさん全体ぜんたい数字すうじてきりまとめをし、もう1人ひとり予算よさん編成へんせい方針ほうしん草案そうあんるなど総合そうごうてき予算よさんをつかむ一方いっぽう予算よさんえんふか財政ざいせい投融資とうゆうし計画けいかく立案りつあん[4]
  2. ^ 国鉄こくてつ高木たかぎ総裁そうさい就任しゅうにんまえの1975ねん6がつ全国ぜんこくに「国鉄こくてつ(わたくし)ははなしたい」とだいする全面広告ぜんめんこうこくを3日間にちかんにわたって掲載けいさいして値上ねあげにたいする理解りかいうったえており、以前いぜんから布石ふせきたれていた。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 大蔵省おおくらしょう人名じんめいろく明治めいじ. 大正たいしょう. 昭和しょうわ大蔵おおくら財務ざいむ協会きょうかい、1973ねん発行はっこう、103ぺーじ
  2. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん11月発行はっこう、349ぺーじ
  3. ^ 内藤ないとう國夫くにお悶死もんし中川なかがわ一郎いちろう怪死かいし事件じけんくさおもえしゃ、1985ねん2がつ発行はっこう、75ぺーじ
  4. ^ 大蔵省おおくらしょうともぶんしゃ、1956ねん9がつ発行はっこう、44ぺーじ
  5. ^ 溝口みぞぐちあつし食肉しょくにく帝王ていおう』pp.42-48(講談社こうだんしゃ2003ねん