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「薬王寺 (山梨県市川三郷町)」の版間の差分 - Wikipedia コンテンツにスキップ

薬王寺やくおうじ (山梨やまなしけん市川いちかわ三郷みさとまち)」のはんあいだ差分さぶん

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|名称めいしょう = 薬王寺やくおうじ
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2024ねん6がつ18にち (火) 14:37時点じてんにおけるはん

薬王寺やくおうじ
山梨県西八代郡市川三郷町にある寺院
本堂ほんどう
所在地しょざいち 山梨やまなしけん西八代にしやつしろぐん市川いちかわ三郷みさとまち上野うえの199
山号さんごう 河浦かわうらさん
院号いんごう 多門院たもんいん
宗派しゅうは 高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう
本尊ほんぞん 多門たもんてん毘沙門天びしゃもんてん
創建そうけんねん 天平てんぺい18ねん746ねん
開山かいさん ぜん
開基かいき 聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがん)・行基ぎょうき
中興ちゅうこう みこときよし
正式せいしきめい 河浦かわうらさん多聞たもんいん薬王寺やくおうじ
札所ふだしょとう 甲斐かい国三くにぞうじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうだいばん札所ふだしょ
甲斐かいひゃくはち霊場れいじょうだいだい95ばん札所ふだしょ
甲斐かい西八代にしやつしろ七福神しちふくじん恵比寿えびす
公式こうしきサイト 河浦かわうらさん薬王寺やくおうじ
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薬王寺やくおうじ(やくおうじ)は山梨やまなしけん西八代にしやつしろぐん市川いちかわ三郷みさとまち上野うえのにある寺院じいん宗派しゅうは高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう山号さんごう河浦かわうらさんごうし、院号いんごう多聞たもんいんごうす。本尊ほんぞん多聞天たもんてん毘沙門天びしゃもんてん)。甲斐かいこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうだい1ばん札所ふだしょ甲斐かいひゃくはち霊場れいじょうだい95ばん札所ふだしょ

概要がいよう

てらによれば、天平てんぺい18ねん746ねん)に聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがんにより、行基ぎょうき多聞天たもんてん安置あんち創建そうけんし、開山かいさんちょんという[1]。もとは法相ほうしょうむね寺院じいんであったが、そのみこときよし再興さいこうしたさい真言宗しんごんしゅう改宗かいしゅうした。山号さんごうは、芦川あしかわ由来ゆらいしている[2]

てんちょう9ねん832ねん)には淳和天皇じゅんなてんのうから、てん元年がんねん1124ねん)にはみなもと義清よしきよから、貞和さだかず3ねん1347ねん)には武田たけだ信重のぶしげから寺領じりょうたまわり、その武田たけだ祈願きがんしょとされるなど庇護ひごけた。 武田たけだ信玄しんげんから川中島かわなかじまたたかさいに、信濃しなのこく長沼ながぬま陣中じんちゅうから戦勝せんしょう祈願きがん依頼いらいをされた。天正てんしょう10ねん1582ねん)に甲斐かいこくんできた織田おだ信長のぶながぐんによる甲州こうしゅう征伐せいばつさいに、徳川とくがわ家康いえやす穴山あなやましんくんみちびきにより薬王寺やくおうじ文殊もんじゅいん陣取じんどったという。天正てんしょう11ねん1583ねん)には徳川とくがわ家康いえやすから寺領じりょう寄進きしんされ、寛永かんえい19ねん1642ねん)には徳川とくがわ家光いえみつから寺領じりょう寄進きしんされ、江戸えど幕府ばくふ歴代れきだい将軍しょうぐんからも庇護ひごされたという。また、薬王寺やくおうじ甲斐かいこく真言宗しんごんしゅうなな檀林だんりんひとつにれっせられていた[3]

甲斐かいこくながされていた良純よしずみ入道にゅうどう親王しんのうが、あかりれき元年がんねん1655ねん)にきょういんてらよりとうてらにうつり、万治まんじ2ねん1659ねん)に勅許ちょっきょによって帰京ききょうするまで5年間ねんかん滞在たいざいしていた。その文化ぶんか9ねん1812ねん)に 京都きょうとおんいんから良純よしずみ入道にゅうどう親王しんのう遺物いぶつおくられた[4]

慶安けいあん年間ねんかん1648ねん-1652ねん)と正徳まさのり4ねん(1714ねん)に火災かさいにあうものの、とおる4ねん1719ねん)からとおる9ねん1724ねん)にかけて現在げんざい伽藍がらん再建さいけんされた。

明治めいじ7ねん1874ねん)には、薬王寺やくおうじ末寺まつじだいてら火災かさいにより再興さいこう不可能ふかのう廃寺はいじとなったさいに、だいてら本尊ほんぞんじゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつきゃくぼとけとしてとうてらうつった。『甲斐かいこくこころざし』によれば、だいてら大同だいどう年間ねんかん806ねん-810ねん)の創建そうけんであり、そのてられき不明ふめいであるが、だいひさし4ねん1524ねん)に再建さいけんされたものの、天正てんしょう年間ねんかん1573ねん-1592ねん)に兵火へいかにあい、えいろく年間ねんかん1558ねん1570ねん)に再建さいけんされたとのことである[5]。そして、そのじゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつは、甲斐かい国三くにぞうじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうの1ばん札所ふだしょ本尊ほんぞんとして信仰しんこうをあつめた。[6][7]

伽藍がらん

  •  庫裏くり
  •  客殿きゃくでん
  •  玄関げんかん
  •  鐘楼しゅろうもん
  •  東照宮とうしょうぐう
  •  観音堂かんのんどう

御詠歌ごえいか

市川いちかわ
千歳ちとせをわたす
むかぶね
までも
やすわたさん

前後ぜんご札所ふだしょ

甲斐かい国三くにぞうじゅうさん観音かんのん霊場れいじょう
1 薬王寺やくおうじ -- 2 永源寺えいげんじ
甲斐かいひゃくはち霊場れいじょう
94 光勝こうしょうてら -- 95 薬王寺やくおうじ -- 96 たから寿ひさしいん 

周辺しゅうへん

参考さんこう文献ぶんけん

  •  市川いちかわ忠三ちゅうぞう坂上さかがみしげるだん 共著きょうちょ甲斐かいさんじゅうさん観音かんのん順礼じゅんれい霊場れいじょう復興ふっこうかい 1975ねん
  •  三珠みたままち編纂へんさん委員いいんかいへん三珠みたままち三珠みたままち 1980ねん
  •  相沢あいざわすすむおっと『はるかなり遍路へんろたび』トリオ 1988ねん
  •  藤巻ふじまきまさる甲斐かい国三くにぞうじゅうさんヶ所かしょ順礼じゅんれい』サンニチ印刷いんさつ 2005ねん

脚注きゃくちゅう

  1. ^ 市川いちかわ忠三ちゅうぞう坂上さかがみしげるだん 共著きょうちょ甲斐かいさんじゅうさん観音かんのん順礼じゅんれい霊場れいじょう復興ふっこうかい 1975ねん
  2. ^ 三珠みたままち編纂へんさん委員いいんかいへん三珠みたままち三珠みたままち 1980ねん
  3. ^ 三珠みたままち編纂へんさん委員いいんかいへん三珠みたままち三珠みたままち 1980ねん
  4. ^ 三珠みたままち編纂へんさん委員いいんかいへん三珠みたままち三珠みたままち 1980ねん
  5. ^ 市川いちかわ忠三ちゅうぞう坂上さかがみしげるだん 共著きょうちょ甲斐かいさんじゅうさん観音かんのん順礼じゅんれい霊場れいじょう復興ふっこうかい 1975ねん
  6. ^ 藤巻ふじまきまさる甲斐かい国三くにぞうじゅうさんヶ所かしょ順礼じゅんれい』サンニチ印刷いんさつ 2005ねん
  7. ^ 三珠みたままち編纂へんさん委員いいんかいへん三珠みたままち三珠みたままち 1980ねん

関連かんれん項目こうもく