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肥後ひご駒下駄こまげた

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肥後ひご駒下駄こまげた(ひごのこまげた)は、江戸えど時代じだい忠孝ちゅうこう美談びだん敵討かたきうである。

概要がいよう

実録じつろくとしてつたえられるところによれば、のべたから年間ねんかん播州ばんしゅう龍野たつのわきざかはん浪人ろうにんである向井むかいよし九郎くろうが、肥後ひご熊本くまもと細川ほそかわ家来けらいである矢坂やさかげん兵衛ひょうえさびきの手裏剣しゅりけん秘事ひめごとるために、「こまたいら」とあらためて草履取ぞうりとりとなって、んだが、ただものではないと見破みやぶられ、ころされかけたが、あやうくのがれ、隣家りんか目付めつけである松山まつやま秀之ひでゆきしんした奉公ほうこうした。松山まつやまこまへい武芸ぶげい達人たつじんであることをり、息子むすこ秀太郎ひでたろうこまひら剣術けんじゅつ馬術ばじゅつまなばせた。あるとき矢坂やさかにわからているカキかき)のえだが、ウマっている秀太郎ひでたろうあたまれてじゃまであるので、こまへいがこれをはらった。このことからこまたいら矢坂やさかのために打擲ちょうちゃくなどされて、おおいに侮辱ぶじょくされた。こまたいらはこの仕打しうちにはらて、とうとう向井むかいよし九郎くろうという武士ぶしにかえって矢坂やさか決闘けっとうもうんだ。これをった細川ほそかわ中老ちゅうろうである中川なかがわ継之助つぐのすけは、こまひらたじつはぜんきゅうろうたいする好意こういから、わざと仲間なかまふぜいが当家とうけ指南しなんやくである矢坂やさか決闘けっとうもうむなどということはのほどらずな、不逞ふてい振舞ふるまいであるとして、焼杉やけすぎ庭下駄にわげたこまたいらって、恥辱ちじょくあたえた。こまたいらは、中川なかがわたいする遺恨いこん骨髄こつづいてっし、血染ちぞめの駒下駄こまげた懐中かいちゅうに、肥後ひご熊本くまもとり、山城やましろ粟田口あわだぐち竹内たけうち加賀かがすけという剣法けんぽう達人たつじんのもとにき、よりいっそうの修練しゅうれんはげむ。あるとき松山まつやま秀之ひでゆきしん矢坂やさかのためにころされたとき、そのである秀太郎ひでたろうかたきちの助太刀すけだちをすることになり、やがて中川なかがわ仕返しかえししたが、中川なかがわの、自分じぶん生命せいめいすくうために恥辱ちじょくあたえた好意こういがわかり、ここに義兄弟ぎきょうだいちぎりをむすぶ。こうしててき行方ゆくえさがもとめて苦労くろうしたあげく、天和てんわ2ねん9がつ13にち伏見桃山ふしみももやまにおいて、秀太郎ひでたろう加勢かせいして首尾しゅびよく本望ほんもうをとげさせたという。

竹柴たけしば諺蔵げんぞうによって歌舞伎かぶき新規しんきさく肥後ひご木履ぽっくり』(明治めいじ20ねん)に脚色きゃくしょくされた。映画えいがもされた。

参考さんこう文献ぶんけん

  • 柾木まさき正太郎しょうたろう天保てんぽうめんもとどう)『敵討かたきうち肥後ひご駒下駄こまげた : 忠孝ちゅうこうぜんほう田中たなかふとしみぎ衛門えもん大阪おおさか、1888ねんOCLC 674132007全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:41005829 

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