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崔 光(チェ・ガン、최광、1918年7月17日 - 1997年2月21日)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人、政治家。朝鮮労働党政治局員、党中央軍事委員、国防委員会副委員長、人民武力部長(国防大臣)などを務めた。朝鮮人民軍元帥。別名は崔明錫。
経歴
1918年7月に咸鏡北道羅先市で生まれる。東北抗日聯軍で活動。1940年、第2路軍総指揮部警衛隊第2分隊長。1942年、第88旅団小隊長。ソ連軍事学校卒業。終戦後は延吉に派遣され、警備第2団団長に就任。1946年夏に帰国。
1948年2月に朝鮮人民軍第1師団参謀長に就任。1948年9月より最高人民会議代議員に選出。1950年6月に朝鮮人民軍第1師団長に就任するが、同年12月21日の党中央委員会全体会議において「自分の生命を惜しんで部下を棄てて逃亡した」として武亭・金一・林春秋、金漢中とともに批判を受け、解任される[1]。ただし、武亭以外の満州派に属する者はまもなく復帰した。1951年、朝鮮人民軍前線司令部参謀長[2]。1952年10月に姜健軍官学校(現:姜健総合軍官学校)校長に就任。1953年10月に朝鮮人民軍第5軍団長に就任。1954年1月に朝鮮人民軍中将、第1集団軍参謀長に就任。
1956年4月の朝鮮労働党第3回党大会において党中央委員候補に選出[3]。1958年6月に空軍司令官に就任。1960年6月に朝鮮人民軍上将に就任。
1961年9月の第4回党大会において党中央委員に選出[4]。1962年9月に民族保衛省副相に就任。1963年2月に朝鮮人民軍大将、総参謀長に就任。1966年10月12日の第2回党代表者会において党政治委員会委員候補に補選される[5]。1967年12月に最高人民会議常任委員に選出。1969年3月に失脚して鉱山労働者になる。
1976年4月に黄海南道の道人民委員会委員長に就任し、復活。1980年10月の第6回党大会において党中央委員、政治局員候補に選出。1981年3月に政務院副総理(副首相)に就任。1982年4月に政務院副総理兼水産委員長に就任。1988年2月12日に副総理を解任され、軍幹部に転出[6]。朝鮮人民軍総参謀長[7]、党中央軍事委員に就任するとともに、朝鮮人民軍大将に昇格。
1990年5月23日の第6期第党中央委員会第18回総会において党政治局委員に選出され[8]、国防委員会副委員長に就任。1991年、党中央軍事委員会委員に就任[9]。1992年4月20日に朝鮮人民軍次帥の称号を授与される[10]。1995年10月8日に人民武力部長に任命されるとともに、朝鮮人民軍元帥の称号を授与された[11]。
1997年2月21日に死去。
脚注
- ^ 和田春樹. 朝鮮戦争全史. 岩波書店. pp. 261
- ^ “6·25전쟁사 제8권-중공군 총공세와 유엔군의 재반격” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 508. 2019年6月10日閲覧。
- ^ 和田(1992年)、371ページ
- ^ 和田(1992年)、372ページ
- ^ 「1970年の北朝鮮」『アジア動向年報』1970年版
- ^ 玉城(1988年)、71ページ
- ^ 2月21日の報道で就任が判明。玉城(1988年)、71ページ
- ^ 「重要日誌」『アジア動向年報』1990年版
- ^ 中川(1995年)、76ページ
- ^ 中川(1992年)、42ページ
- ^ 「重要日誌」『アジア動向年報』1995年版
参考文献