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おやさとやかた構想こうそう

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天理てんり中心ちゅうしん地図ちずみぎじょう正方形せいほうけいうちわくにあたる建築けんちくぶつがおやさとやかた。
天理参考館てんりさんこうかん入居にゅうきょするおやさとやかた

おやさとやかた構想こうそう(おやさとやかたこうそう)とは、1838ねん天保てんぽう9ねん)に立教りっきょうした日本にっぽんしん宗教しゅうきょう天理教てんりきょう構想こうそうする建築けんちく計画けいかく都市とし計画けいかくおやさとやかた計画けいかくはちまち四方しほう構想こうそうとも。

奈良ならけん天理てんりにある天理教てんりきょう聖地せいち「ぢば」を中心ちゅうしんとして、一辺いっぺんやく900メートルとする正方形せいほうけい外周がいしゅうを、「おやさとやかた」とばれる学校がっこう病院びょういんなどが入居にゅうきょする巨大きょだい建築けんちく連結れんけつさせてかこい、おやさとやかたにかこまれた内部ないぶ天理教てんりきょう理想りそうとする生活せいかつのモデル都市としとして開発かいはつしようとするもの。

1955ねん構想こうそう発表はっぴょうから2005ねんにかけて、構想こうそうされたぜん68むねのうち26むねやく38%)が完成かんせいした。2005ねん以降いこう竣工しゅんこうおよび完成かんせいとうはない。

天理教てんりきょう建築けんちく[編集へんしゅう]

あか完成かんせい着工ちゃっこう
着色ちゃくしょくそらつまみ写真しゃしん

天理教てんりきょう建築けんちく関係かんけいふか宗教しゅうきょうであるとされる。

しん宗教しゅうきょう建築けんちく研究けんきゅうした建築けんちく評論ひょうろん建築けんちくがく教授きょうじゅ五十嵐いがらし太郎たろうは、「天理教てんりきょう組織そしき活動かつどう概念がいねんはすぐれて建築けんちくてき」であるとしている。1838ねん開祖かいそである中山なかやまみきろされたとされる最初さいしょ啓示けいじから、教祖きょうそを「かみのやしろ」として建築けんちくぶつになぞらえていた[1]

もとかみかみである。この屋敷やしきにいんねんあり。このたび、世界一せかいいちれつをたすけるためにてんった。みきをかみのやしろもらけたい。」

天理教てんりきょう建築けんちくてきなメタファーを数多かずおお使用しようしている。たとえば、教祖きょうそ生涯しょうがい手本てほんとすべき「ひながた」であり、天理教てんりきょう独自どくじ用語ようごには 「はしら」(教団きょうだんみつるしゃ)、「みつるりょう」(本部ほんぶ役員やくいん)、 「用木ようぼく」(信者しんじゃ)、などがあり、また陽気ようきぐらしの世界せかい天理教てんりきょうのユートピア)への道筋みちすじはひとつの建築けんちくぶつをつくることにたとえられ、「普請ふしん」とばれており、おやさとやかた構想こうそうも、陽気ようきぐらしの雛形ひながた都市としとしてかんがえられている[1]

五十嵐いがらしは、しん宗教しゅうきょうなかでもきわめて観念かんねんてき建築けんちく都市としをつくってきた天理教てんりきょう思想しそうに、建築けんちくへの意志いしみとめられるのは偶然ぐうぜんのことではないとしている[1]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

中山なかやまみきの出生しゅっしょう立教りっきょう[編集へんしゅう]

1798ねん大和やまとこく(現在げんざい奈良ならけん)に出生しゅっしょうした中山なかやまみきは、浄土宗じょうどしゅう入信にゅうしんし、庄屋しょうや中山なかやまよし兵衞ひょうえとつぐ。1838ねん、40さい中山なかやまみきは長男ちょうなん秀司しゅうじあしやまい祈祷きとうさいかみ憑依ひょういがあり、「月日つきひのやしろ」にさだまったとされる。天理教てんりきょうでは立教りっきょうとされる。

こののちながらく、みきの言動げんどう奇行きこうまがいのあつかいであり、具体ぐたいてき布教ふきょうおこなわれなかったが、安産あんざんなどの評判ひょうばんから元治もとはる元年がんねん1864ねん)ごろにはみきをしたうものもえ、のちに天理教てんりきょう指導しどうしゃつとめる大工だいく飯降いふり伊蔵いぞうらも入信にゅうしんしている。

ぢばさだ[編集へんしゅう]

神殿しんでん内部ないぶにある「ぢば」。中心ちゅうしんには目印めじるしとして「甘露かんろだい」とばれるはしらてられている。

1875ねん中山なかやまみきによって天理教てんりきょう地理ちりてき中心ちゅうしん「ぢば」を見出みいだす「ぢばさだめ」がおこなわれ、ぢばの位置いち確定かくていした[2]

「ぢば(地場じば)」とは、場所ばしょや、地点ちてん意味いみする言葉ことばであるが、天理教てんりきょうにおける「ぢば」とは、「おやしん人間にんげん創造そうぞうされたもと地点ちてんであり、天理てんり王命おうめい(てんりおうのみこと)のかみめいさづけられたところ」とある。つまり「ぢば」は天理教てんりきょうにおいてもっと重要じゅうよう信仰しんこう対象たいしょう、そして中心ちゅうしんである[2]

37年間ねんかん天理教てんりきょうでは信仰しんこう中心ちゅうしん教祖きょうそである中山なかやまみきであったが、「ぢばさだめ」がおこなわれると信仰しんこう中心ちゅうしんてき対象たいしょう教祖きょうそほかに、空間くうかんてき対象たいしょうの「ぢば」がくわわった[2]

はちまち四方しほう[編集へんしゅう]

1881ねん中山なかやまみきがのこしたとされる「はちまち四方しほう」の言葉ことばが、おやさとやかた構想こうそうもととされる。この言葉ことばはちまちつまり872m四方しほう屋敷やしきまわらせるものとのちに解釈かいしゃくされた。

いまに、ここらあたいちめんに、いえむのやで。奈良なら初瀬はつせななさとあいだいえつづき、いちさと四方しほう宿屋やどやまるほどに。屋敷やしきなかは、はちまち四方しほうるのやで。
稿本こうほん天理教てんりきょう教祖きょうそでん逸話いつわへんはちまち四方しほう
天理てんり中学校ちゅうがっこう(げん:天理高等学校てんりこうとうがっこう)(1932)内田うちだ祥三しょうぞう設計せっけい。おやさとやかたの建築けんちくモチーフとされた[1]

おやさとやかた構想こうそう[編集へんしゅう]

1915ねん中山なかやまみきのまご中山なかやま正善しょうぜん天理教てんりきょう管長かんちょう就任しゅうにんする。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく宗教しゅうきょうがく専攻せんこうした中山なかやま正善しょうぜん天理てんり教務きょうむしゃとして教会きょうかい本部ほんぶ整備せいびつとめ、「昭和しょうわ普請ふしん」としてられる神殿しんでん新設しんせつなどにも尽力じんりょくした。

おやさとやかた構想こうそうは、中山なかやま正善しょうぜん内田うちだ祥三しょうぞう奥村おくむらおとづくりの3めいしゅとして構想こうそうされた[1]

「おやさと」とは、人間にんげんまれされた“もと”であり、またそれを目指めざしてかえるもと・ふるさとの[3]

内田うちだ祥三しょうぞう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく建築けんちく学科がっか教授きょうじゅであったが、昭和しょうわななねんごろ天理てんり学園がくえん設計せっけいたのまれて以来いらい天理てんりとのえんふかくする。奥村おくむらおとづくり飯降いふり伊蔵いぞう子孫しそんにあたる天理教てんりきょう信者しんじゃであり、昭和しょうわきゅうねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく建築けんちく学科がっか卒業そつぎょうするとすぐに、中山なかやま正善しょうぜんから仕事しごと依頼いらいされた内田うちだ祥三しょうぞうのすすめで、昭和しょうわ普請ふしん建築けんちく技術ぎじゅつつとめる。以後いご奥村おくむらおとづくりはずっと天理教てんりきょう建築けんちくかかわり、おやさとやかた構想こうそうも、奥村おくむらおとづくり中心ちゅうしん発案はつあんし、中山なかやま内田うちだ相談そうだんしながら決定けっていした[1]

現在げんざいのおやさとやかた構想こうそう[編集へんしゅう]

筑波大学つくばだいがく院生いんせい石坂いしざかあいによると、1955ねんはちまち四方しほう構想こうそう発表はっぴょうから2013ねんまでにおやさとやかたのやく38%が完成かんせいしているが、2005ねん以降いこう竣工しゅんこうおよび完成かんせいとうはなく計画けいかく進行しんこうゆるやかになっている。石坂いしざかはその理由りゆうとして「①教会きょうかい本部ほんぶ財政ざいせい問題もんだい」「②はちまち四方しほう内部ないぶ土地とち確保かくほするじょうでの問題もんだい」の2てんげている[4]

ギャラリー[編集へんしゅう]

おやさとやかた一覧いちらん[編集へんしゅう]

おやさとやかた、建築けんちくじゅん
完成かんせい 名前なまえ 規模きぼ 設備せつび
1955ねん10がつ26にち ひがしとう 地上ちじょう6かい地下ちか1かい 教義きょうぎおよ資料しりょう集成しゅうせい天理教てんりきょうおとあん研究けんきゅうかい天理教てんりきょう校本こうほん
1955ねん10がつ26にち ひがしひだりだいいちむね 地上ちじょう5かい地下ちか1かい 別席べっせきじょう
1955ねん10がつ26にち ひがしひだりだいむね 地上ちじょう5かい地下ちか1かい 別席べっせきじょう
1955ねん10がつ26にち ひがしひだりだいさんむね 地上ちじょう5かい地下ちか1かい 別席べっせきじょう修養しゅうようとう
1955ねん10がつ26にち ひがしひだりだいよんむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 別席べっせきじょう修養しゅうようとう
1962ねん10がつ25にち ひがしひだりだいむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 別席べっせきじょう修養しゅうようとう
1965ねん9がつ13にち みなみひだりだいよんむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 天理大学てんりだいがく
1965ねん11月25にち 西にしみぎだいむね 地上ちじょう8かい地下ちか1かい いこいのいえ
1965ねん11月25にち 西にしみぎだいさんむね 地上ちじょう8かい地下ちか1かい いこいのいえ
1967ねん11月25にち みなみひだりだいさんむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 天理大学てんりだいがく
1969ねん9がつ1にち みなみひだりだいむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 天理てんり小学校しょうがっこう
1970ねん10がつ25にち 西にしひだりだいよんむね 地上ちじょう8かい地下ちか1かい 郡山こおりやまだい協会きょうかい詰所つめしょ中河なかがわだい協会きょうかい詰所つめしょ
1972ねん12月30にち ひがしみぎだいいちむね 地上ちじょう5かい地下ちか1かい 天理教てんりきょうこう専修せんしゅう
1975ねん6がつ29にち みなみひだりだいいちむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 天理教てんりきょうきょうちょう
1975ねん9がつ29にち きたひだりだいよんむね 地上ちじょう7かい地下ちか2かい ごく東大とうだい教会きょうかい詰所つめしょ鹿島かしまだい教会きょうかい詰所つめしょ
1975ねん10がつ15にち 西にしひだりだいさんむね 地上ちじょう8かい地下ちか1かい 高知こうちだい教会きょうかい詰所つめしょ
1979ねん4がつ2にち ひがしみぎだいよんむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 教会きょうかいちょう任命にんめい講習こうしゅうかいおよび資格しかく認定にんてい講習こうしゅうかい
1980ねん3がつ27にち 西にしひだりだいむね 地上ちじょう8かい地下ちか1かい 敷島しきしまだい教会きょうかい詰所つめしょ
1981ねん12月1にち 西にしみぎだいむね 地上ちじょう8かい地下ちか2かい 南海なんかいだい教会きょうかい詰所つめしょ
1983ねん4がつ1にち 西にしみぎだいよんむね 地上ちじょう8かい地下ちか2かい 天理てんり病院びょういん(いこいのいえ
1985ねん8がつ31にち みなみみぎだいさんむね 地上ちじょう7かい地下ちか2かい 高安たかやすだい教会きょうかい詰所つめしょ
1992ねん5がつ25にち みなみとう 地上ちじょう6かい 学校がっこう本部ほんぶいちれつかい少年しょうねんかい本部ほんぶ学生がくせい担当たんとう委員いいんかい学生がくせいかい
1993ねん10がつ25にち 地上ちじょう8かい地下ちか1かい 天理教てんりきょうこう学園がくえん高等こうとう学校がっこう
1993ねん10がつ25にち 地上ちじょう8かい地下ちか1かい 天理教てんりきょうこう学園がくえん高等こうとう学校がっこう
2000ねん11月30にち みなみみぎだいいちむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 天理参考館てんりさんこうかん
2005ねん10がつ25にち みなみみぎだいむね 地上ちじょう5かい地下ちか2かい 天理教てんりきょう基礎きそ講座こうざ研修けんしゅうしつ展示てんじコーナー、映像えいぞうホール、陽気ようきホール、みなみみぎだいむね企画きかく

その[編集へんしゅう]

民俗みんぞくがくけい博物館はくぶつかん天理参考館てんりさんこうかん内部ないぶ展示てんじ

おやさとやかた建築けんちくのうち、「天理参考館てんりさんこうかん」は博物館はくぶつかんとして開館かいかんしており、一般人いっぱんじんでも入場にゅうじょうできる(有料ゆうりょう)。その予約よやく必要ひつようであるが天理教てんりきょう基礎きそ講座こうざなどももよおされている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f しん宗教しゅうきょう建築けんちく都市とし、その戦略せんりゃくろん序説じょせつ | 五十嵐いがらし太郎たろう”. LIXIL Publishing. 2024ねん6がつ9にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 𠮷かわ彰布あきのぶ (2019 ねん 6 がつ). “天理教てんりきょう教会きょうかいじくせいについて −だい教会きょうかい事例じれいとして−”. 日本にっぽん建築けんちく学会がっかい技術ぎじゅつ報告ほうこくしゅう だい 25 かん だい 60 ごう: 971-975. 
  3. ^ 附属ふぞくおやさと研究所けんきゅうじょ”. 天理大学てんりだいがく. 2024ねん6がつ9にち閲覧えつらん
  4. ^ 都市とし構想こうそうをとりまく主体しゅたいあいだ協力きょうりょく競合きょうごうからみる 「理想りそうてき宗教しゅうきょう都市とし」への課題かだい奈良ならけん天理てんり事例じれいに―”. 国立こくりつ研究けんきゅう開発かいはつ法人ほうじん科学かがく技術ぎじゅつ振興しんこう機構きこう. 2024ねん6がつ9にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]