登勢とせ

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登勢とせ

登勢とせ(おとせ、文政ぶんせい12ねん1829ねん)? - 明治めいじ10ねん1877ねん9月7にち)は、幕末ばくまつ寺田てらだ女将おかみである。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

近江おうみこく大津おおつ旅館りょかん経営けいえいしていた大本おおもとしげる兵衛ひょうえ次女じじょとしてまれた。18さいで、伏見ふしみ南浜みなみはま船宿ふなやどである寺田てらだだい6代目だいめ主人しゅじんてら田屋たや伊助いすけつまとなり、一男かずお二女じじょをもうけた。おっと伊助いすけ放蕩ほうとうしゃで、経営けいえい悪化あっかさせたので、お登勢とせわりに寺田てらだ経営けいえい仕切しきり、しゅうと面倒めんどうていた。伊助いすけは(さけみすぎともわれるが)びょうたおれて35さい若死わかじににしたが、お登勢とせはそのまま女将おかみとして家業かぎょうつづけた。

寺田てらだ薩摩さつまはん定宿じょうやどであり、文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)には寺田てらだ騒動そうどうきて薩摩さつまはんごういをおこなったさいには、お登勢とせもそのにいて3さい次女じじょかまどかくして帳場ちょうばまもった。事件じけん薩摩さつまはんからの見舞みまいきんはいり、使用人しようにんめいじて即座そくざたたみふすまえて、営業えいぎょうできるようにととのえたとう。

登勢とせひと世話せわをすることを道楽どうらくとしており、坂本さかもと龍馬りょうまをはじめとする幕府ばくふからにらまれていた尊皇そんのう攘夷じょうい志士ししたちを保護ほごした。龍馬りょうまたくされたりゅう養女ようじょとしてあつかい、おりゅうはは仕送しおくりまでしていた。

慶応けいおう2ねん1がつ24にち(1866ねん3がつ10日とおか)、寺田てらだ滞在たいざいしていた龍馬りょうま三吉みよしまことぞう伏見ふしみ奉行ぶぎょうによって襲撃しゅうげきされとらえられそうなった遭難そうなんがあり、薩摩さつまはん伏見ふしみ奉行ぶぎょうとのあいだ軋轢あつれきうまれ、薩摩さつまがわのお登勢とせ幕府ばくふからけられて、危険きけん人物じんぶつなされてろうれられかけたこともある。

明治めいじ10ねん(1877ねん)、死去しきょ墓所はかしょ寺田てらだ程近ほどちか伏見ふしみ松林まつばやしいん

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 龍馬りょうま彼女かのじょてた手紙てがみおおくは、彼女かのじょたのごとくさいてもらうようなものがおおいことでられる。
  • 殿しんがりりょく(お登勢とせ長女ちょうじょ) 「『わたし坂本さかもと龍馬りょうまからうけたまわってた、なにはん浪人ろうにんだがたびようがないから少々しょうしょう借用しゃくようしたい』、『わたし陸奥むつ陽之助ようのすけ友人ゆうじんじゃが、じつ内々うちうち江戸えど様子ようすさぐりにく、路銀ろぎんとぼしいから今夜こんや特別とくべついちはくさしてれ』などと引切ひっきりなしにきたられるのを、いち謝絶しゃぜつしたことはなく出来できるだけのお世話せわいたしました」[1]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
テレビドラマ
舞台ぶたい
漫画まんが

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう へん幕末ばくまつ維新いしん人物じんぶつ事典じてん : 天皇てんのう公家くげ将軍しょうぐん幕臣ばくしん大名だいみょう藩士はんししょたいたい女性じょせい商人しょうにん外国がいこくじんほか : 全国ぜんこくばん学研がっけんマーケティング、2010ねんISBN 9784054044630 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 維新いしん史跡しせき図説ずせつ』P333