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アサンテ サーナ

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アサンテ サーナ/わがいとしのタンザニア
監督かんとく 谷口たにぐちせんきち
脚本きゃくほん 井手いで雅人まさと
出演しゅつえんしゃ いたる純一じゅんいち
フランク・ムズレイ
大口おおぐち広司こうじ
八千草やちぐさかおる特別とくべつ出演しゅつえん
音楽おんがく 渡辺わたなべ貞夫さだお
撮影さつえい 倉持くらもち友一ともかず
公開こうかい 1975ねん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
スワヒリ
英語えいご
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アサンテ サーナ/わがいとしのタンザニア』(アサンテ サーナ わがいとしのタンザニア)は、谷口たにぐちせんきち監督かんとくいたる純一じゅんいち主演しゅえん1974ねん製作せいさくされた日本にっぽん映画えいがであり、タンザニアのある協同きょうどう農場のうじょう青年せいねん海外かいがい協力きょうりょく隊員たいいんとして活動かつどうする主人公しゅじんこう坂田さかた、タンザニアじん同僚どうりょうジュマ、日本人にっぽんじんヒッピーかじ中心ちゅうしん協力きょうりょく隊員たいいん活動かつどう生活せいかつ人々ひとびとしん葛藤かっとうい、タンザニアの風土ふうどなどを情熱じょうねつてきかつ情緒じょうちょゆたかにえがいている。

映画えいがでは、主人公しゅじんこう坂田さかたやくであるたちや、同僚どうりょうのジュマやくフランク・ムズレイ日本人にっぽんじんヒッピーかじやく大口おおぐち広司こうじらのほかに、監督かんとく谷口たにぐち夫人ふじんでもある八千草やちぐさかおる現地げんち駐在ちゅうざいいんつまやく特別とくべつ出演しゅつえんしている。また、俳優はいゆうがいない、劇映画げきえいがをつくった経験けいけんゼロのタンザニアで、その意味いみではまったくの素人しろうとである大勢おおぜい村人むらびとたちが出演しゅつえんし、自然体しぜんたい見事みごと演技えんぎ披露ひろうしている[1]

この映画えいが製作せいさくは、1973ねんころから協力きょうりょく隊員たいいん現地げんち生活せいかつをテーマにした一般いっぱん公開こうかいよう映画えいが作成さくせい可能かのうせい検討けんとうしていた青年せいねん海外かいがい協力きょうりょくたい事務じむきょくと、開発途上国かいはつとじょうこく旅行りょこうちゅう青年せいねん海外かいがい協力きょうりょくたい活動かつどう感銘かんめいけたことで、協力きょうりょく隊員たいいん主人公しゅじんこうとした映画えいがつく協力きょうりょくたい活動かつどうひろ日本人にっぽんじん紹介しょうかいしたいとかんがえていた谷口たにぐち意向いこう一致いっちし、実現じつげんしたものである[2]。そのあたりの経緯けいい青年せいねん海外かいがい協力きょうりょくたい機関きかんであるJOCVニュース(昭和しょうわ49ねん2がつ1にちごう)では「協力きょうりょくたい事務じむきょくでは昨年来さくねんらい隊員たいいん現地げんち生活せいかつをテーマにした一般いっぱん公開こうかいよう映画えいが作成さくせい可能かのうせい検討けんとうしていたが、わがくに映画えいがかい巨匠きょしょう一人ひとりである谷口たにぐち協力きょうりょくて、その製作せいさくをおこなうことになった。「協力きょうりょくたい応援おうえん団長だんちょう」と自称じしょうされる谷口たにぐちは、『生涯しょうがい記念きねんのこす』決意けついえ、しばらく一切いっさい仕事しごとって協力きょうりょくたい映画えいが製作せいさく専念せんねんされることになった」としるしている。

1974ねん6がつ、シノプシスや脚本きゃくほん作成さくせい、およびその英訳えいやくなどの準備じゅんび作業さぎょう終了しゅうりょうし、タンザニア当局とうきょくから正式せいしき撮影さつえい許可きょかるべく監督かんとく谷口たにぐち以下いか5めいのスタッフがタンザニア最大さいだい都市としダルエスサラーム出発しゅっぱつした。きつづいて必要ひつよう機材きざいの購送もおこなわれ、6月25にちにはいたる大口おおぐち俳優はいゆうくわえた撮影さつえい本隊ほんたい16めいがタンザニアへかった。ロケは7がつ7にちのサバサバまつ[3]撮影さつえいから開始かいしし、やく5かげつあいだにわたっておこなわれた。

1975ねん7がつ22にち明治めいじ神宮じんぐう会館かいかんおこなわれた特別とくべつ試写ししゃかいは、皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう同妃どうひ美智子みちこ浩宮ひろのみやとくじん親王しんのう臨席りんせきし、1,500めい特別とくべつ招待しょうたいしゃ出席しゅっせきのもとに、盛大せいだい開催かいさいされた。上映じょうえいさきだち、参議院さんぎいん議員ぎいん木島きしま則夫のりお司会しかいで、スタッフおよび出演しゅつえんしゃ紹介しょうかいにつづき、法眼ほうげん晋作しんさく国際こくさい協力きょうりょく事業じぎょうだんげん 国際こくさい協力きょうりょく機構きこう総裁そうさい監督かんとく谷口たにぐち、タンザニア大使たいしからの挨拶あいさつがあり、谷口たにぐちにはタンザニア大使たいしむすめから、また大使たいしには、八千草やちぐさからそれぞれ花束はなたば贈呈ぞうていされた。

1975ねん10がつから1976ねん12がつまで全国ぜんこく462ヶ所かしょ自主じしゅ上映じょうえいされ、24まんにんえる人々ひとびと観覧かんらんした。

なお、「アサンテ サーナ」とはスワヒリで「どうもありがとうございます」の意味いみである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ JOCVニュース(昭和しょうわ50ねん8がつ15にちごう
  2. ^ 制作せいさく依頼いらいされた監督かんとく谷口たにぐちは、「ぼくはアジアやアフリカの旅先たびさきで、このちかくに日本人にっぽんじんんでいるとくと、好奇心こうきしんからかなら訪問ほうもんしてみた。ってると大抵たいていまだわか青年せいねん男女だんじょでした。このひとたちがみな協力きょうりょく隊員たいいんだったのです。およそりつわる仕事しごととうじていない青年せいねんたちを主人公しゅじんこうとした映画えいがをとりたい、みんなにてもらいたいとおもはじめたのです」と「青年せいねん海外かいがい協力きょうりょくたいあゆみと現状げんじょう -その20ねん-(昭和しょうわ60ねん10がつ9にち発行はっこう 編集へんしゅう発行はっこう 国際こくさい協力きょうりょく事業じぎょうだん 青年せいねん海外かいがい協力きょうりょくたい事務じむきょく)」でかたっている。
  3. ^ 同国どうこく支配しはい政党せいとうであるタンガニカ・アフリカン・ナショナル・ユニオンの創立そうりつ記念きねんあた

外部がいぶリンク

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