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アデライデ・ディ・トリノ

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アデライデ・ディ・トリノ
アデライデ・ディ・トリノ
配偶はいぐうしゃ
子女しじょ
家名かめい アルドゥイーノ
父親ちちおや オルデリーコ・マンフレーディ2せい
母親ははおや ベルタ・ディ・ミラノ
出生しゅっしょう c. 1014/1020
トリノ
死亡しぼう 1091ねん12月19にち(1091-12-19)
埋葬まいそう カニスキオ教区きょうく教会きょうかい (特定とくてい)
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アデライデ・ディ・トリノ (イタリア: Adelaide di Torino 1014ねんごろ/1020ねん - 1091ねん12月19にち)[1]は、イヴレーア一部いちぶおんな辺境へんきょうはくトリノおんなこう辺境へんきょうはく (1034ねん - 1091ねん)。最後さいごアルドゥイーノ人物じんぶつであり、たびたびあやまってスーザ関連付かんれんづけてアデライデ・ディ・スーザ (イタリア: Adelaide di Susa)ともばれる[2]。アデライデはまた従妹じゅうまいにあたるどう時代じだいトスカーナおんなはくマティルダ・ディ・カノッサ比較ひかくされることもある[3]

アデライデ・ディ・スーザ

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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アデライデ・ディ・トリノは、1014ねん前後ぜんこうもしくは1020ねん前後ぜんこうに、トリノ辺境へんきょうはくオルデリーコ・マンフレーディ2せいベルタ・ディ・ミラノむすめとしてまれた。幼少ようしょうについてはよくかっていない[4]。アデライデにはイミリアシュヴァーベンこう)とベルタトリノこう)という2人ふたりいもうとがいた。また兄弟きょうだいが1にんいたとされているが、名前なまえつたわっておらず、ちちよりさき死去しきょしている[5]。そのため、1033/4ねん12月にオルデリーコ・マンフレーディ2せい死去しきょすると、そののこりょうだい部分ぶぶんをアデライデが継承けいしょうすることになった[6]具体ぐたいてきには、トリノとくヴァル・ディ・スーザ)、アウリタエアスティといったしょはくりょうがれた。またアルベンガ、アルバ、ブレドゥーロ、ヴェンティミーリア継承けいしょうしたが、実際じっさいには権力けんりょくおよばなかったとかんがえられている[7]継承けいしょう直後ちょくごは、ははのベルタが一時期いちじき摂政せっしょうつとめた。

3結婚けっこん

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もともと辺境へんきょうはく軍事ぐんじしょくつよ地位ちいであることから、女性じょせいくことは適切てきせつではないとかんがえられた。そこで1036/7ねん皇帝こうていコンラート2せいつまギーゼラであるシュヴァーベンこうヘルマン4せいをアデライデと結婚けっこんさせることにした。これにより、ヘルマン4せいはトリノ辺境へんきょうはく継承けいしょうした[8]。しかしかれはまもなくコンラート2せいしたがいナポリ遠征えんせいて、そこで疫病えきびょうによりいのちとした。

アデライデはみずからの膨大ぼうだい財産ざいさんまもるため、おそらく1041ねんすくなくとも1042ねん1がつ19にち以前いぜんに、モンフェッラートこうエンリコ再婚さいこんした[9]。しかしエンリコも1045ねんごろに死去しきょした。よく1046ねん、アデライデはサヴォイアはくオッドーネと3度目どめ結婚けっこんをした[4]かれとのあいだにはのサヴォイアはくピエトロ1せいアメーデオ2せい、アスティ司教しきょうオッドーネという3にん息子むすこまれた。またベルタアデライデという2人ふたりむすめがあった。前者ぜんしゃ皇帝こうていハインリヒ4せいの、後者こうしゃはシュヴァーベン大公たいこう・ドイツ対立たいりつおうルドルフ・フォン・ラインフェルデン結婚けっこんすることになる。

未亡人みぼうじんとしての統治とうち

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3にんおっとオッドーネも1057/60ねん死去しきょしたのち、アデライデは再婚さいこんすることなく、息子むすこのピエトロ1せいやアメーデオ2せいともにトリノ辺境へんきょうはくりょうとサヴォイアはくりょう統治とうちした。

アデライデが首都しゅとをトリノからスーザうつして永住えいじゅうしたとするせつがあるが、あやまりである。実際じっさいには辺境へんきょうはく宮殿きゅうでん従来じゅうらいどおりトリノにあったとする文献ぶんけん圧倒的あっとうてきおおのこっている[10]

1070ねん、アデライデは反乱はんらんこしたアスティを制圧せいあつし、はらった[11]

かみきよしマ帝国まていこくとの関係かんけい

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1069ねん皇帝こうていハインリヒ4せいがアデライデのむすめである皇后こうごうベルタと離婚りこんしようと画策かくさくする騒動そうどうがった[12]。これにより、アデライデと皇帝こうていとの関係かんけい一気いっきんだ。しかし1077ねんにハインリヒ4せい教皇きょうこうグレゴリウス7せい謝罪しゃざいするためカノッサかったいわゆるカノッサの屈辱くつじょくさいには、ベルタの尽力じんりょくもあって、アデライデは皇帝こうていりょうとおりイタリアにはい手助てだすけをした。その見返みかえりとして、アデライデは皇帝こうていからビュジェイあたえられた[13]。またアデライデと息子むすこアメーデオ2せいは、ハインリヒ4せい・ベルタ夫妻ふさい同行どうこうしてカノッサにおもむき、マティルダ・ディ・カノッサアルベルト・アッツォ2せい・デステらとともに教皇きょうこう皇帝こうていあいだ調停ちょうてい尽力じんりょくした[14]。その叙任じょにんけん闘争とうそうなかでハインリヒ4せいとグレゴリウス7せいあいだ戦争せんそう激化げきかするなか、1080ねんから1082ねんにかけて、皇帝こうてい聖職せいしょくしゃアルバのベンツォからアデライデに皇帝こうていへの協力きょうりょくもとめる書簡しょかんなんおくられている[15]。これ以降いこうアデライデは皇帝こうていにより接近せっきんするようになり、皇帝こうていとマティルダ・ディ・カノッサとのあいだ調停ちょうていおこなったり、1084ねんのハインリヒ4せいみなみイタリア遠征えんせい同行どうこうしたりしている[16]

教会きょうかいとの関係かんけい

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アデライデはトリノ辺境へんきょうはく領内りょうないしょ修道院しゅうどういんおおくの寄進きしんおこなった。また1064ねんにはピネローロにサンタ・マリア修道院しゅうどういん創建そうけんした[17]

彼女かのじょ教皇きょうこうアレクサンデル2せいペトルス・ダミアニ[18]グレゴリウス7せい[15]といったすうおおくの著名ちょめい聖職せいしょくしゃ書簡しょかんのやりりをしている。そこから、ときにはグレゴリウス改革かいかく賛同さんどうし、ときには反対はんたいしたという彼女かのじょ態度たいどれる。1073ねんのペトルス・ダミアニや1073ねんのグレゴリウス7せい書簡しょかんでは、アデライデに聖職せいしょくしゃ貞潔ていけつ推進すいしんしFruttuariaやサン・ミケーレ・デッラ・キウーザの修道院しゅうどういん保護ほごするようもとめている。一方いっぽう1066/7ねんのアレクサンデル2せい書簡しょかんは、グイド・ダ・ヴェラーテによるミラノ大司教だいしきょうをめぐる聖職せいしょく売買ばいばいたいするアデライデの対応たいおう非難ひなんする内容ないようになっている。

アデライデは1091ねん12月に死去しきょした[19]後世こうせい伝承でんしょうによると、彼女かのじょクオルニェのカニスキオ(カニスクルム)教会きょうかいほうむられたという。ここはおそらく、彼女かのじょぬまでの22年間ねんかんかくれてらしていた場所ばしょであったのだ、というものである[20]。ただイギリスの中世ちゅうせい史家しかチャールズ・ウィリアム・プレヴァティ・オルトンは、この伝説でんせつを「馬鹿ばかげた」ものだとしている[21]。スーザのドゥオーモかべにあるニッチに、クルミのでできた彫像ちょうぞうがある。そのうえには、ひざまずいのるアデライデ、という説明せつめいかれたブロンズせいいたかれている[22]

家族かぞく

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後世こうせいのオーストリアの文献ぶんけん誤伝ごでんにより、アデライデがヘルマン4せいとのあいだんでいたとわれることがある[23]。しかし実際じっさいにはヘルマン4せいはわずかな結婚けっこん生活せいかつしかおくれぬまま遠方えんぽう戦病死せんびょうしし、後継こうけいしゃのこすことがかった[24]。また2番目ばんめおっとエンリコとのあいだにも、まれなかった。

3番目ばんめおっとオッドーネ・ディ・サヴォイアとのあいだには以下いかの5にんまれた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Previte-Orton, p250 note7; 19 December~Bernold, 25 December~Necrol. S. Solutoris etc. Turin
  2. ^ Pennington, Reina (2003). Amazons to Fighter Pilots: An Autobiographical Dictionary of Military Women. Westport, CT: Greenwood Press. pp. 3. ISBN 0313327076 
  3. ^ See e.g. Fumagalli, ‘Adelaide e Matilde'; Goez, ‘Ein neuer Typ der europäischen Fürstin'; Sergi, 'Matilde di Canossa e Adelaide di Torino'
  4. ^ a b Dunbar, Agnes Baillie Cunninghame (1904). A Dictionary of Saintly Women. Bell 
  5. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 154, 187
  6. ^ Sergi, I confini del potere, p. 81
  7. ^ On the property inherited by Adelaide, see Previté-Orton, Early History, pp. 154f., 188, 208, 217 and 231f.
  8. ^ Hellmann, Grafen, p. 13
  9. ^ Merlone, 'Prosopografia aleramica,' p. 580.
  10. ^ Sergi, 'I poli del potere'.
  11. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 228f.
  12. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 232f; Creber, Alison (2019-04-22). “Breaking Up Is Hard To Do: Dissolving Royal and Noble Marriages in Eleventh-Century Germany” (英語えいご). German History 37 (2): 149–171. doi:10.1093/gerhis/ghy108. ISSN 0266-3554. .
  13. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 237f.
  14. ^ Creber, ‘Women at Canossa'; Hellmann, Grafen, pp. 24f
  15. ^ a b For English translations of these letters, see Epistolae: Medieval Women's Latin Letters. For discussion, see: Creber, ‘The Princely Woman and the Emperor'.
  16. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 248f.
  17. ^ Previté-Orton, Early History, p. 162
  18. ^ Creber, 'Mirrors for Margraves'.
  19. ^ Previté-Orton, Early History, p. 250.
  20. ^ Chronicon Abbatiae Fructuariensis, in G. Calligaris, ed., Un’antica cronaca piemontese inedita (Turin, 1889), pp. 132f.
  21. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 250-251.
  22. ^ Casalis, Goffredo, ed (1850) (イタリア). Dizionario geografico-storico-statistico-commerciale degli stati del Redi Sardegna. G. Maspers. https://books.google.com/books?id=bQdTAAAAcAAJ&pg=PA582 
  23. ^ On this see E. Hlawitschka, 'Zur Abstammung Richwaras, der Gemahlin Herzog Bertholds I. von Zähringen,' Zeitschrift für die Geschichte des Oberrheins, 154 (2006), 1–20
  24. ^ Schwennicke, Europäische Stammtafeln, I.1, table 84
  25. ^ a b c Previte-Orton, p.231.
  26. ^ Otto is sometimes said to be Bishop Otto III of Asti (r.c.1080-c.1088), but this identification is uncertain. See L. Vergano, Storia di Asti, part I. (Asti, 1951)

参考さんこう文献ぶんけん

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  • H. Bresslau, Jahrbücher des Deutschen Reichs unter Konrad II., 2 vols. (1884), accessible online at: archive.org
  • Chicago, Judy. The Dinner Party: From Creation to Preservation. London: Merrell (2007). ISBN 1-85894-370-1
  • F. Cognasso, 'Adelaide' in Dizionario Biografico degli Italiani- Volume 1 (1960)
  • A. Creber, 'Breaking Up Is Hard To Do: Dissolving Royal and Noble Marriages in Eleventh-Century Germany', German History 37:2 (2018), pp. 149–171.
  • A. Creber, ‘The Princely Woman and the Emperor: Imagery of Female Rule in Benzo of Alba’s Ad Heinricum IV,’ Royal Studies Journal 5:2 (2018), 7-26.
  • A. Creber, ‘Women at Canossa. The Role of Elite Women in the Reconciliation between Pope Gregory VII and Henry IV of Germany (January 1077),’ Storicamente 13 (2017), article no. 13, pp. 1-44.
  • A. Creber, ‘Mirrors for Margraves: Peter Damian’s Different Models for Male and Female Rulers,’ Historical Reflections/Réflexions Historiques, 42:1 (2016), 8-20.
  • V. Fumagalli, ‘Adelaide e Matilde, due protagoniste del potere medievale,’ in La contessa Adelaide e la società del secolo XI, a special edition of Segusium 32 (1992), 243-257
  • E. Goez, ‘Ein neuer Typ der europäischen Fürstin im 11. und frühen 12.Jahrhundert?’ in B. Schneidmüller and S. Weinfurter, eds., Salisches Kaisertum und neues Europa. Die Zeit Heinrichs IV. und Heinrichs V. (Darmstadt, 2007), pp. 161–193.
  • S. Hellmann, Die Grafen von Savoyen und das Reich: bis zum Ende der staufischen Periode (Innsbruck, 1900), accessible online (but without page numbers) at: Genealogie Mittelalter
  • R. Merlone, 'Prosopografia aleramica (secolo X e prima metà dell'XI),' Bollettino storico-bibliografico subalpino, LXXXI, (1983), 451-585.
  • C.W. Previté-Orton, The Early History of the House of Savoy (1000-1233) (Cambridge, 1912), accessible online at: archive.org
  • D. Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten (Marburg, 1978).
  • G. Sergi, 'I poli del potere pubblico e dell'orientamento signorile degli Arduinici: Torino e Susa, in La contessa Adelaide e la società del secolo XI, a special edition of Segusium 32 (1992), pp. 61–76
  • G. Sergi, I confini del potere. Marche e signorie fra due regni medievali (1995).
  • G. Sergi, ‘Matilde di Canossa e Adelaide di Torino: contatti, confronti, valutazioni tipologiche,’ in Matilde di Canossa e il suo tempo. Atti del XXI congresso internazionale di studio Sull’alto Medioevo (Spoleto, 2016), pp. 57-74.

外部がいぶリンク

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