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この項目 こうもく では、1823年 ねん 生 う まれの父 ちち について説明 せつめい しています。1860年 ねん 生 う まれの同名 どうめい の子 こ については「アンドラーシ・ジュラ (子 こ ) 」をご覧 らん ください。
アンドラーシ・ジュラ / 1870年 ねん 撮影 さつえい の写真 しゃしん
アンドラーシ・ジュラ伯爵 はくしゃく (ハンガリー語 ご : Andrássy Gyula 、1823年 ねん 3月3日 にち 〜1890年 ねん 2月 がつ 18日 にち )は19世紀 せいき ハンガリー の貴族 きぞく ・政治 せいじ 家 か 。オーストリア=ハンガリー二 に 重 じゅう 帝国 ていこく )のハンガリー王国 おうこく で初代 しょだい の首相 しゅしょう を務 つと めた。ドイツ名 めい はユリウス(またはジュラ)・アンドラーシ (Julius (Gyula) Graf Andrássy von Csík-Szent-Király und Kraszna-Horka )。姓 せい の読 よ みは「アンドラーッシ」とも。
1823年 ねん 、ハンガリー貴族 きぞく であるアンドラーシ・カーロイの子 こ として、当時 とうじ はオーストリア領 りょう ハンガリー王国 おうこく の領内 りょうない であったコショ (ハンガリー語 ご でカシャ / 現 げん ・スロヴァキア のコシツェ)に生 う まれた(ハンガリー王国 おうこく の歴史 れきし 的 てき 地域 ちいき 参照 さんしょう )。
ハンガリー革命 かくめい からアウスグライヒへ [ 編集 へんしゅう ]
アンドラーシの署名 しょめい
1848年 ねん から翌年 よくねん にかけてのハンガリー革命 かくめい と独立 どくりつ 戦争 せんそう にコシュート を支持 しじ して参加 さんか するが、革命 かくめい は敗北 はいぼく しアンドラーシはパリ ・ロンドン での亡命 ぼうめい 生活 せいかつ を余儀 よぎ なくされた。1857年 ねん に恩赦 おんしゃ で帰国 きこく した後 のち は、ハプスブルク王家 おうけ と和解 わかい してハンガリーの自治 じち 権 けん 獲得 かくとく をめざし、自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ デアーク・フェレンツ とともにオーストリア帝国 ていこく との妥協 だきょう (アウスグライヒ )を推進 すいしん した。この結果 けっか 、1867年 ねん にハンガリー王国 おうこく に広範 こうはん な自治 じち が認 みと められ、独自 どくじ の政府 せいふ ・議会 ぎかい を有 ゆう することが認 みと められると、同年 どうねん 2月 がつ 20日 はつか 、アンドラーシは(二 に 重 じゅう 帝国 ていこく の下 した では)初代 しょだい の首相 しゅしょう 兼 けん 国防 こくぼう 相 しょう となった。1871年 ねん 、オーストリア側 がわ のカール・フォン・ホーエンヴァルト 首相 しゅしょう が、帝国 ていこく 内 ない のチェコ人 じん とのアウスグライヒ(ボヘミア・アウスグライヒ)を立法 りっぽう 化 か すると、アンドラーシ首相 しゅしょう は帝国 ていこく 内 ない でのハンガリー人 じん の地位 ちい が相対 そうたい 的 てき に低下 ていか し、ハンガリー領内 りょうない のスラヴ系 けい 住民 じゅうみん (スロヴァキア人 じん など)の民族 みんぞく 意識 いしき を鼓舞 こぶ することを懸念 けねん して反対 はんたい した。皇帝 こうてい フランツ・ヨーゼフ1世 せい も彼 かれ に同調 どうちょう し同 どう 法 ほう を承認 しょうにん しなかったため、ボヘミア・アウスグライヒは破棄 はき された。
ベルリン会議 かいぎ 時 じ のアンドラーシ(中央 ちゅうおう ・青 あお 服 ふく の人物 じんぶつ )
アンドラーシは自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は の「デアーク党 とう 」領袖 りょうしゅう となったデアークと協力 きょうりょく して国内 こくない 政治 せいじ をまとめ、1871年 ねん 11月14日 にち 首相 しゅしょう 辞任 じにん とともにオーストリア政府 せいふ の外相 がいしょう に就任 しゅうにん したが、この職 しょく はオーストリアとハンガリー王国 おうこく の共通 きょうつう 閣僚 かくりょう 会議 かいぎ の議長 ぎちょう として両国 りょうこく 共通 きょうつう の外交 がいこう を担当 たんとう していた。アンドラーシはロシア帝国 ていこく およびスラヴ系 けい 諸国 しょこく に対抗 たいこう するため、ドイツ帝国 ていこく との提携 ていけい を進 すす めたが、これはドイツ帝国 ていこく 成立 せいりつ に伴 ともな い二 に 重 じゅう 帝国 ていこく にとっては「ドイツ(統一 とういつ )問題 もんだい 」よりも「バルカン問題 もんだい 」の比重 ひじゅう が高 たか くなり、同時 どうじ に、帝国 ていこく 内 ない のスラヴ系 けい 民族 みんぞく の独立 どくりつ 運動 うんどう を煽 あお る汎 ひろし スラヴ主義 しゅぎ やロシアのバルカン南下 なんか 策 さく がハンガリーの領土 りょうど 保全 ほぜん を脅 おど かしかねないという判断 はんだん によるものであった。それと同時 どうじ に彼 かれ はロシアとの部分 ぶぶん 的 てき 和解 わかい にも努 つと め、1872年 ねん には独 どく 露 ろ との三 さん 帝 みかど 同盟 どうめい を締結 ていけつ し1877年 ねん の露 ろ 土 ど 戦争 せんそう には中立 ちゅうりつ を守 まも った。
1878年 ねん のベルリン会議 かいぎ でアンドラーシ外交 がいこう は、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ の行政 ぎょうせい 権 けん とノヴィ・パザール (セルビア とモンテネグロ の回廊 かいろう 地帯 ちたい )の占領 せんりょう 権 けん を獲得 かくとく するなどの成果 せいか を上 あ げたが、オーストリアではアンドラーシによる議会 ぎかい 無視 むし の外交 がいこう がドイツ人 じん の自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は から反発 はんぱつ され、ハンガリーでもスラヴ系 けい 住民 じゅうみん の比率 ひりつ を増 ふ やすことになるボスニア=ヘルツェゴヴィナの獲得 かくとく には批判 ひはん が高 たか まった。また、この会議 かいぎ の結果 けっか 、要求 ようきゅう が通 とお らなかったロシアが三 さん 帝 みかど 同盟 どうめい から離脱 りだつ したため同盟 どうめい は崩壊 ほうかい したが、アンドラーシはドイツとの二 に 帝 みかど 同盟 どうめい を締結 ていけつ (1882年 ねん にロシアが参加 さんか して三 さん 帝 みかど 協商 きょうしょう に発展 はってん する)、その翌日 よくじつ の1879年 ねん 10月2日 にち に外相 がいしょう を辞任 じにん し政界 せいかい を引退 いんたい した。彼 かれ の退任 たいにん 後 ご 、オーストリア=ハンガリーはグスタフ・カールノキ 外相 がいしょう の下 した でロシアとの提携 ていけい を重視 じゅうし する外交 がいこう を進 すす めていった。アンドラーシ外交 がいこう は、バルカンにおけるオーストリア=ハンガリーの利権 りけん を一時 いちじ 的 てき に拡大 かくだい することには成功 せいこう したが、長期 ちょうき 的 てき に見 み るとボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合 へいごう に帰着 きちゃく することによってロシアやスラヴ諸国 しょこく との非 ひ 和解 わかい 的 てき 対立 たいりつ を招 まね き、(第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん による)帝国 ていこく 解体 かいたい の原因 げんいん を作 つく り出 だ すことになった。
その後 ご 1890年 ねん 、イストリア 地方 ちほう のヴォロスカ (現 げん ・クロアティア のヴォロスコ)で死去 しきょ 。同名 どうめい の次男 じなん も二 に 重 じゅう 帝国 ていこく 末期 まっき の1918年 ねん の10月 がつ から11月 がつ までオーストリア外相 がいしょう (共通 きょうつう 閣僚 かくりょう 会議 かいぎ 議長 ぎちょう )を務 つと めた。
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