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エメ・フェルナン・ダヴィッド・セゼール (Aimé Fernand David Césaire , 1913年 ねん 6月26日 にち - 2008年 ねん 4月 がつ 17日 にち ) は、フランス /マルティニーク の詩人 しじん 、評論 ひょうろん 家 か 、劇 げき 作家 さっか 、政治 せいじ 家 か である。代表 だいひょう 作 さく は『帰郷 ききょう ノート』、『植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 論 ろん 』。ネグリチュード (黒人 こくじん 性 せい )運動 うんどう を牽引 けんいん し、植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ を批判 ひはん した。
フランス の植民 しょくみん 地 ち であったカリブ海 かりぶかい 小 しょう アンティル諸島 しょとう のマルティニーク 島 しま (現在 げんざい 、フランスの海外 かいがい 県 けん )出身 しゅっしん 。アフリカ系 けい カリビアンを起源 きげん とする父 ちち エメ・フェルナン・ダヴィド・セゼールと母 はは エレオノール・エレミーヌの間 あいだ には7人 にん の子供 こども がいる。父 ちち フェルナン・ダヴィドは行政 ぎょうせい 官 かん 、バス=ポワントで住宅 じゅうたく 管理人 かんりにん 、そして試験 しけん を経 へ て税務署 ぜいむしょ の監査 かんさ 員 いん として税金 ぜいきん 部門 ぶもん に配属 はいぞく された。母 はは エレオノール・エレミーヌはお針子 はりこ であった。父方 ちちかた の祖父 そふ フェルナン・セゼールはサン=クルーの高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう 卒業 そつぎょう 後 ご 、サン=ピエールのリセで文学 ぶんがく 教師 きょうし そしてマルティニークで最初 さいしょ の黒人 こくじん 小学校 しょうがっこう 教師 きょうし となった。祖母 そぼ は、彼女 かのじょ の世代 せだい の多 おお くの女性 じょせい とは反対 はんたい に、読 よ み書 か きができたため、孫 まご たちに早 はや くから教育 きょういく をする能力 のうりょく をもっていた。
1931年 ねん 、成績 せいせき 優秀 ゆうしゅう であったため奨学 しょうがく 金 きん 留学生 りゅうがくせい としてフランス本土 ほんど へ渡航 とこう 、パリ のリセ・ルイ=ル=グラン へ入学 にゅうがく 。1934年 ねん にレオポルド・サンゴール らと共 とも に学生 がくせい 新聞 しんぶん 『黒人 こくじん 学生 がくせい 』を創刊 そうかん する。ここでネグリチュードという言葉 ことば を初 はじ めて使 つか っている。1935年 ねん 、高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう に合格 ごうかく 。しかし精神 せいしん 的 てき 、肉体 にくたい 的 てき な不調 ふちょう に見舞 みま われ始 はじ めたセゼールは翌年 よくねん から長 ちょう 詩 し 『帰郷 ききょう ノート』を執筆 しっぴつ しはじめる。
1937年 ねん にマルティニーク出身 しゅっしん で同 おな じく留学生 りゅうがくせい であったシュザンヌ・ルーシィ と結婚 けっこん 。教授 きょうじゅ 資格 しかく 試験 しけん に失敗 しっぱい したセゼールは『帰郷 ききょう ノート』を発表 はっぴょう した後 のち 、1939年 ねん にマルティニークへ帰郷 ききょう する。マルティニークで母校 ぼこう シェルシェール高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう の文学 ぶんがく 教師 きょうし となった。教 おし え子 ご にはフランツ・ファノン がいた。
1941年 ねん 、セゼールは妻 つま らと文芸 ぶんげい 雑誌 ざっし 『熱帯 ねったい 』 tropiques を創刊 そうかん 。この年 とし 、パリ陥落 かんらく によりマルセイユから海路 かいろ ニューヨークへ亡命 ぼうめい 途上 とじょう のシュルレアリスム 詩人 しじん アンドレ・ブルトン と出会 であ う。ブルトンの乗 の った船 ふね はマルティニーク島 とう に強制 きょうせい 寄港 きこう させられたものであり、二人 ふたり の出会 であ いは全 まった くの偶然 ぐうぜん であった。なお、この船 ふね にはクロード・レヴィ=ストロース やヴィクトル・セルジュ も同乗 どうじょう していた。ブルトンは『帰郷 ききょう ノート』を絶賛 ぜっさん し、セゼールの次 つぎ の詩集 ししゅう 『奇跡 きせき の武器 ぶき 』の序文 じょぶん を書 か いた。『熱帯 ねったい 』は一時期 いちじき 、検閲 けんえつ により発禁 はっきん 処分 しょぶん を受 う けるもド・ゴール派 は の総督 そうとく が就任 しゅうにん したことで再 ふたた び発行 はっこう 許可 きょか を得 え た。黒人 こくじん 詩人 しじん セゼールと『熱帯 ねったい 』はニューヨークなどで評判 ひょうばん となった。
1945年 ねん 、終戦 しゅうせん を迎 むか えたセゼールは、フランス共産党 きょうさんとう から立候補 りっこうほ し、マルティニーク島 とう の首府 しゅふ であるフォール・ド・フランス 市長 しちょう に当選 とうせん (2001年 ねん に引退 いんたい するまで同職 どうしょく にあった)。さらに共産党 きょうさんとう のフランス国民 こくみん 議会 ぎかい 議員 ぎいん に選出 せんしゅつ された。翌年 よくねん 、植民 しょくみん 地 ち であったマルティニークの海外 かいがい 県 けん 化 か 法案 ほうあん を起草 きそう する。県 けん 化 か 法案 ほうあん は成立 せいりつ し、マルチニーク市民 しみん の多 おお くに歓迎 かんげい された[ 1] 。県 けん 化 か 法 ほう は同化 どうか 法 ほう とも呼 よ ばれたが、エメ・セゼールは植民 しょくみん 地 ち からの解放 かいほう として制度 せいど 的 てき 同化 どうか を肯定 こうてい しつつ従属 じゅうぞく や文化 ぶんか 的 てき 同化 どうか を拒絶 きょぜつ した[ 1] 。この経験 けいけん をもとに『植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 論 ろん 』を執筆 しっぴつ 、1950年 ねん に発表 はっぴょう している。1956年 ねん にはハンガリー動乱 どうらん におけるフランス共産党 きょうさんとう のソ連 それん 追従 ついしょう を直接 ちょくせつ の契機 けいき とし、フランス共産党 きょうさんとう を離党 りとう した。この時 とき 、フランス共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう に宛 あ てた体裁 ていさい の『モーリス・トレーズ への手紙 てがみ 』 Lettre à Maurice Thorez を記 しる している。その後 ご も1958年 ねん に自 みずか らの政党 せいとう マルティニーク進歩 しんぽ 党 とう を立 た ち上 あ げ1993年 ねん に引退 いんたい するまでマルティニークの代表 だいひょう としてフランス国民 こくみん 議会 ぎかい 議員 ぎいん を務 つと めた。この間 あいだ も多 おお く作品 さくひん を執筆 しっぴつ している。
妻 つま とは1963年 ねん に別 わか れ、彼女 かのじょ はその3年 ねん 後 ご に50歳 さい で亡 な くなっている。
フォール・ド・フランス市長 しちょう を引退 いんたい 後 ご もマルティニーク島 とう に多大 ただい な影響 えいきょう 力 りょく を保 たも ち、島 しま を訪 おとず れる重要 じゅうよう 人物 じんぶつ には政治 せいじ 色 しょく に拘 かか わらず全員 ぜんいん と面会 めんかい するのを習慣 しゅうかん としていた。ところが、2006年 ねん にはニコラ・サルコジ 内相 ないしょう (当時 とうじ )の面会 めんかい 要請 ようせい を拒絶 きょぜつ 。このためサルコジは、マルティニーク島 とう 訪問 ほうもん 中止 ちゅうし を余儀 よぎ なくされた。面会 めんかい 拒絶 きょぜつ の理由 りゆう は政権 せいけん 与党 よとう である国民 こくみん 運動 うんどう 連合 れんごう (UMP) が植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ を肯定 こうてい する内容 ないよう の教育 きょういく カリキュラムを促進 そくしん していることと、サルコジ自身 じしん がフランス暴動 ぼうどう において若者 わかもの を「社会 しゃかい のくず」呼 よ ばわりしたことにある。2007年 ねん フランス大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では社会党 しゃかいとう のセゴレーヌ・ロワイヤル 候補 こうほ と面会 めんかい している[ 2] 。
2004年 ねん には、人種 じんしゅ の融和 ゆうわ を訴 うった えていたバラク・オバマ に注目 ちゅうもく していて、大統領 だいとうりょう になれると確信 かくしん していたといわれている。
2007年 ねん 1月 がつ 15日 にち 、「フォール・ド・フランス空港 くうこう (ラマンタン空港 くうこう )」が「エメ・セゼール・マルティニーク国際 こくさい 空港 くうこう 」と改名 かいめい された。2008年 ねん 4月 がつ 17日 にち 、逝去 せいきょ 。フランスでは国葬 こくそう され、サルコジ大統領 だいとうりょう も出席 しゅっせき した。
Œuvres complètes (trois volumes), Fort-de-France, Desormeaux, 1976.
『帰郷 ききょう ノート』 Cahier d'un retour au pays natal , Paris, Présence africaine, 1939(『帰郷 ききょう ノート ; 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 論 ろん 』砂 すな 野 の 幸 さいわい 稔 みのる 訳 やく 、平凡社 へいぼんしゃ 、1997年 ねん 。のち文庫 ぶんこ 化 か )
『奇跡 きせき の武器 ぶき 』Les Armes miraculeuses , 1946.
『太陽 たいよう 、切 き られた首 くび 』Soleil cou coupé , 1947.
『失 うしな われた身体 しんたい 』パブロ・ピカソ (挿絵 さしえ )との共 とも 作 さく Corps perdu (gravures de Picasso), Paris, Editions Fragrance, 1950.
『鉄鎖 てっさ 』Ferrements , Paris, Seuil, 1960.
『土地 とち 台帳 だいちょう 』Cadastre , Paris, Seuil, 1961.
『私 わたし 、昆布 こぶ として』 Moi, laminaire , Paris, Seuil, 1982.
『全 ぜん 詩集 ししゅう 』 La Poésie , Paris, Seuil, 1994.
『そして犬 いぬ どもは黙 だま っていた』Et les chiens se taisaient , Paris, Présence Africaine, 1958
『クリストフ王 おう の悲劇 ひげき 』La Tragédie du roi Christophe , Paris, Présence Africaine, 1963(コレクション現代 げんだい フランス語 ふらんすご 圏 けん 演劇 えんげき 01『クリストフ王 おう の悲劇 ひげき 』尾崎 おざき 文太 ぶんた ・片桐 かたぎり 祐 ゆう ・根岸 ねぎし 徹郎 てつお 訳 やく /佐伯 さえき 隆幸 たかゆき 監訳 かんやく 、れんが書房 しょぼう 新 しん 社 しゃ 、2013年 ねん )
『コンゴの一季 いっき 節 ぶし 』Une saison au Congo , Paris, Seuil, 1966
『テンペスト』シェイクスピア の翻案 ほんあん 劇 げき Une tempête, d'après 'La Tempête de William Shakespeare : adaptation pour un théâtre nègre , Paris, Seuil, 1969(『テンペスト』本橋 もとはし 哲也 てつや 編 へん 訳 やく /砂 すな 野 の 幸 さいわい 稔 みのる ・小沢 おざわ 自然 しぜん ・高森 たかもり 暁子 あきこ 訳 やく 、インスクリプト、2007)
Esclavage et colonisation , Paris, Presses Universitaires de France, 1948. Réédition : Victor Schoelcher et l'abolition de l'esclavage , Lectoure, Editions Le Capucin, 2004.
『植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 論 ろん 』 Discours sur le colonialisme , Paris, Présence Africaine, 1955.
『ネグリチュードについて』 Discours sur la négritude , 1987.
『トゥーサン・ルヴェルチュール 』 Toussaint Louverture, La révolution Française et le problème colonial , Paris, Présence Africaine, 1962.
Rencontre avec un nègre fondamental, Entretiens avec Patrice Louis , Paris, Arléa, 2004.
『ニグロとして生 い きる』Nègre je suis, nègre je resterai, Entretiens avec Françoise Vergès , Paris, Albin Michel, 2005.(サピエンティア21『ニグロとして生 い きる エメ・セゼールとの対話 たいわ 』立花 たちばな 英裕 ひでひろ ・中村 なかむら 隆之 たかゆき 訳 やく 、法政大学 ほうせいだいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 、2011)
Aimé Césaire , Paris, Hatier, "Les Voix de l'écriture", 1994.
エメ・セゼール 『帰郷 ききょう ノート・植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 論 ろん 』 砂 すな 野 の 幸 さいわい 稔 みのる 訳 やく 、平凡社 へいぼんしゃ 、1997年 ねん (2004年 ねん ;平凡社 へいぼんしゃ ライブラリー)
エメ・セゼール 「もうひとつのテンペスト シェイクスピア『テンペスト』に基 もと づく黒人 こくじん 演劇 えんげき のための翻案 ほんあん 」砂 すな 野 の 幸 さいわい 稔 みのる 訳 やく 、『テンペスト』(本橋 もとはし 哲也 てつや 編 へん 訳 やく )所収 しょしゅう 、インスクリプト、2007年 ねん
尾崎 おざき 文太 ぶんた 『エメ・セゼールの戯曲 ぎきょく 作品 さくひん と政治 せいじ 思想 しそう 1940年代 ねんだい から1960年代 ねんだい まで 』一橋大学 ひとつばしだいがく 、2008年 ねん 11月12日 にち 。
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