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エメ・セゼール

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エメ・セゼール
Aimé Césaire
2003ねん
誕生たんじょう エメ・フェルナン・ダヴィッド・セゼール
(Aimé Fernand David Césaire)
1913ねん6月26にち
フランスの旗 フランス共和きょうわこく
マルティニークバス・ポワント
死没しぼつ (2008-04-17) 2008ねん4がつ17にち(94さいぼつ
フランスの旗 フランス
マルティニークフォール・ド・フランス
職業しょくぎょう 詩人しじん評論ひょうろんげき作家さっか政治せいじ
国籍こくせき フランスの旗 フランス
文学ぶんがく活動かつどう ネグリチュード
代表だいひょうさく帰郷ききょうノート』、『植民しょくみん主義しゅぎろん
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エメ・フェルナン・ダヴィッド・セゼール (Aimé Fernand David Césaire, 1913ねん6月26にち - 2008ねん4がつ17にち) は、フランス/マルティニーク詩人しじん評論ひょうろんげき作家さっか政治せいじである。代表だいひょうさくは『帰郷ききょうノート』、『植民しょくみん主義しゅぎろん』。ネグリチュード黒人こくじんせい運動うんどう牽引けんいんし、植民しょくみん主義しゅぎ批判ひはんした。

経歴けいれき

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フランス植民しょくみんであったカリブ海かりぶかいしょうアンティル諸島しょとうマルティニークしま現在げんざい、フランスの海外かいがいけん出身しゅっしん。アフリカけいカリビアンを起源きげんとするちちエメ・フェルナン・ダヴィド・セゼールとははエレオノール・エレミーヌのあいだには7にん子供こどもがいる。ちちフェルナン・ダヴィドは行政ぎょうせいかん、バス=ポワントで住宅じゅうたく管理人かんりにん、そして試験しけん税務署ぜいむしょ監査かんさいんとして税金ぜいきん部門ぶもん配属はいぞくされた。ははエレオノール・エレミーヌはお針子はりこであった。父方ちちかた祖父そふフェルナン・セゼールはサン=クルーの高等こうとう師範しはん学校がっこう卒業そつぎょう、サン=ピエールのリセで文学ぶんがく教師きょうしそしてマルティニークで最初さいしょ黒人こくじん小学校しょうがっこう教師きょうしとなった。祖母そぼは、彼女かのじょ世代せだいおおくの女性じょせいとは反対はんたいに、きができたため、まごたちにはやくから教育きょういくをする能力のうりょくをもっていた。

1931ねん成績せいせき優秀ゆうしゅうであったため奨学しょうがくきん留学生りゅうがくせいとしてフランス本土ほんど渡航とこうパリリセ・ルイ=ル=グラン入学にゅうがく。1934ねんレオポルド・サンゴールらととも学生がくせい新聞しんぶん黒人こくじん学生がくせい』を創刊そうかんする。ここでネグリチュードという言葉ことばはじめて使つかっている。1935ねん高等こうとう師範しはん学校がっこう合格ごうかく。しかし精神せいしんてき肉体にくたいてき不調ふちょう見舞みまわれはじめたセゼールは翌年よくねんからちょう帰郷ききょうノート』を執筆しっぴつしはじめる。

1937ねんにマルティニーク出身しゅっしんおなじく留学生りゅうがくせいであったシュザンヌ・ルーシィ結婚けっこん教授きょうじゅ資格しかく試験しけん失敗しっぱいしたセゼールは『帰郷ききょうノート』を発表はっぴょうしたのち、1939ねんにマルティニークへ帰郷ききょうする。マルティニークで母校ぼこうシェルシェール高等こうとう中学校ちゅうがっこう文学ぶんがく教師きょうしとなった。おしにはフランツ・ファノンがいた。

1941ねん、セゼールはつまらと文芸ぶんげい雑誌ざっし熱帯ねったいtropiques創刊そうかん。このとし、パリ陥落かんらくによりマルセイユから海路かいろニューヨークへ亡命ぼうめい途上とじょうシュルレアリスム詩人しじんアンドレ・ブルトン出会であう。ブルトンのったふねはマルティニークとう強制きょうせい寄港きこうさせられたものであり、二人ふたり出会であいはまったくの偶然ぐうぜんであった。なお、このふねにはクロード・レヴィ=ストロースヴィクトル・セルジュ同乗どうじょうしていた。ブルトンは『帰郷ききょうノート』を絶賛ぜっさんし、セゼールのつぎ詩集ししゅう奇跡きせき武器ぶき』の序文じょぶんいた。『熱帯ねったい』は一時期いちじき検閲けんえつにより発禁はっきん処分しょぶんけるもド・ゴール総督そうとく就任しゅうにんしたことでふたた発行はっこう許可きょかた。黒人こくじん詩人しじんセゼールと『熱帯ねったい』はニューヨークなどで評判ひょうばんとなった。

1945ねん終戦しゅうせんむかえたセゼールは、フランス共産党きょうさんとう から立候補りっこうほし、マルティニークとう首府しゅふであるフォール・ド・フランス市長しちょう当選とうせん(2001ねん引退いんたいするまで同職どうしょくにあった)。さらに共産党きょうさんとうのフランス国民こくみん議会ぎかい議員ぎいん選出せんしゅつされた。翌年よくねん植民しょくみんであったマルティニークの海外かいがいけん法案ほうあん起草きそうする。けん法案ほうあん成立せいりつし、マルチニーク市民しみんおおくに歓迎かんげいされた[1]けんほう同化どうかほうともばれたが、エメ・セゼールは植民しょくみんからの解放かいほうとして制度せいどてき同化どうか肯定こうていしつつ従属じゅうぞく文化ぶんかてき同化どうか拒絶きょぜつした[1]。この経験けいけんをもとに『植民しょくみん主義しゅぎろん』を執筆しっぴつ、1950ねん発表はっぴょうしている。1956ねんにはハンガリー動乱どうらんにおけるフランス共産党きょうさんとうソ連それん追従ついしょう直接ちょくせつ契機けいきとし、フランス共産党きょうさんとう離党りとうした。このとき、フランス共産党きょうさんとう書記しょきちょうてた体裁ていさいの『モーリス・トレーズへの手紙てがみLettre à Maurice Thorezしるしている。そのも1958ねんみずからの政党せいとうマルティニーク進歩しんぽとうげ1993ねん引退いんたいするまでマルティニークの代表だいひょうとしてフランス国民こくみん議会ぎかい議員ぎいんつとめた。このあいだおお作品さくひん執筆しっぴつしている。

つまとは1963ねんわかれ、彼女かのじょはその3ねんに50さいくなっている。

フォール・ド・フランス市長しちょう引退いんたいもマルティニークとう多大ただい影響えいきょうりょくたもち、しまおとずれる重要じゅうよう人物じんぶつには政治せいじしょくかかわらず全員ぜんいん面会めんかいするのを習慣しゅうかんとしていた。ところが、2006ねんにはニコラ・サルコジ内相ないしょう当時とうじ)の面会めんかい要請ようせい拒絶きょぜつ。このためサルコジは、マルティニークとう訪問ほうもん中止ちゅうし余儀よぎなくされた。面会めんかい拒絶きょぜつ理由りゆう政権せいけん与党よとうである国民こくみん運動うんどう連合れんごう (UMP) が植民しょくみん主義しゅぎ肯定こうていする内容ないよう教育きょういくカリキュラムを促進そくしんしていることと、サルコジ自身じしんがフランス暴動ぼうどうにおいて若者わかものを「社会しゃかいのくず」ばわりしたことにある。2007ねんフランス大統領だいとうりょう選挙せんきょでは社会党しゃかいとうセゴレーヌ・ロワイヤル候補こうほ面会めんかいしている[2]

2004ねんには、人種じんしゅ融和ゆうわうったえていたバラク・オバマ注目ちゅうもくしていて、大統領だいとうりょうになれると確信かくしんしていたといわれている。

2007ねん1がつ15にち、「フォール・ド・フランス空港くうこう(ラマンタン空港くうこう)」が「エメ・セゼール・マルティニーク国際こくさい空港くうこう」と改名かいめいされた。2008ねん4がつ17にち逝去せいきょ。フランスでは国葬こくそうされ、サルコジ大統領だいとうりょう出席しゅっせきした。

作品さくひんリスト

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  • Œuvres complètes (trois volumes), Fort-de-France, Desormeaux, 1976.

詩集ししゅう

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  • 帰郷ききょうノート』 Cahier d'un retour au pays natal, Paris, Présence africaine, 1939(『帰郷ききょうノート ; 植民しょくみん主義しゅぎろんすなさいわいみのるやく平凡社へいぼんしゃ、1997ねん。のち文庫ぶんこ
  • 奇跡きせき武器ぶきLes Armes miraculeuses, 1946.
  • 太陽たいようられたくびSoleil cou coupé, 1947.
  • うしなわれた身体しんたいパブロ・ピカソ挿絵さしえ)とのともさく Corps perdu (gravures de Picasso), Paris, Editions Fragrance, 1950.
  • 鉄鎖てっさFerrements, Paris, Seuil, 1960.
  • 土地とち台帳だいちょうCadastre, Paris, Seuil, 1961.
  • わたし昆布こぶとして』 Moi, laminaire, Paris, Seuil, 1982.
  • ぜん詩集ししゅうLa Poésie, Paris, Seuil, 1994.

戯曲ぎきょく

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  • 『そしていぬどもはだまっていた』Et les chiens se taisaient, Paris, Présence Africaine, 1958
  • 『クリストフおう悲劇ひげきLa Tragédie du roi Christophe, Paris, Présence Africaine, 1963(コレクション現代げんだいフランス語ふらんすごけん演劇えんげき01『クリストフおう悲劇ひげき尾崎おざき文太ぶんた片桐かたぎりゆう根岸ねぎし徹郎てつおやく/佐伯さえき隆幸たかゆき監訳かんやく、れんが書房しょぼうしんしゃ、2013ねん
  • 『コンゴの一季いっきぶしUne saison au Congo, Paris, Seuil, 1966
  • 『テンペスト』シェイクスピア翻案ほんあんげき Une tempête, d'après 'La Tempête de William Shakespeare : adaptation pour un théâtre nègre, Paris, Seuil, 1969(『テンペスト』本橋もとはし哲也てつやへんやく/すなさいわいみのる小沢おざわ自然しぜん高森たかもり暁子あきこやく、インスクリプト、2007)

エッセイしゅう

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  • Esclavage et colonisation, Paris, Presses Universitaires de France, 1948. Réédition : Victor Schoelcher et l'abolition de l'esclavage, Lectoure, Editions Le Capucin, 2004.
  • 植民しょくみん主義しゅぎろんDiscours sur le colonialisme, Paris, Présence Africaine, 1955.
  • 『ネグリチュードについて』 Discours sur la négritude, 1987.

歴史れきししょ

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対話たいわしゅう

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  • Rencontre avec un nègre fondamental, Entretiens avec Patrice Louis, Paris, Arléa, 2004.
    • 『ニグロとしてきる』Nègre je suis, nègre je resterai, Entretiens avec Françoise Vergès, Paris, Albin Michel, 2005.(サピエンティア21『ニグロとしてきる エメ・セゼールとの対話たいわ立花たちばな英裕ひでひろ中村なかむら隆之たかゆきやく法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、2011)

音声おんせい録音ろくおん

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  • Aimé Césaire, Paris, Hatier, "Les Voix de l'écriture", 1994.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • エメ・セゼール 『帰郷ききょうノート・植民しょくみん主義しゅぎろん』 すなさいわいみのる やく平凡社へいぼんしゃ、1997ねん(2004ねん平凡社へいぼんしゃライブラリー)
  • エメ・セゼール 「もうひとつのテンペスト シェイクスピア『テンペスト』にもとづく黒人こくじん演劇えんげきのための翻案ほんあんすなさいわいみのる やく、『テンペスト』(本橋もとはし哲也てつやへんやく)所収しょしゅう、インスクリプト、2007ねん
  • 尾崎おざき文太ぶんたエメ・セゼールの戯曲ぎきょく作品さくひん政治せいじ思想しそう 1940年代ねんだいから1960年代ねんだいまで一橋大学ひとつばしだいがく、2008ねん11月12にち

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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