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オシエク

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オシエク
Osijek
オシエクの市旗 オシエクの市章
はた あきら
位置いち
オシエクの位置の位置図
オシエクの位置いち
座標ざひょう : 北緯ほくい4533ふん27びょう 東経とうけい1840ふん46.52びょう / 北緯ほくい45.55750 東経とうけい18.6795889 / 45.55750; 18.6795889
行政ぎょうせい
くに クロアチアの旗 クロアチア
 ぐん オシエク=バラニャぐん
  オシエク
市長しちょう Ivica Vrkić
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき 169 km2
標高ひょうこう 94 m
人口じんこう
人口じんこう (2011ねん現在げんざい
  市域しいき 107,784にん
    人口じんこう密度みつど   637にん/km2
その
ひとしときおび 中央ちゅうおうヨーロッパ時間じかん (UTC+1)
夏時間なつじかん 中央ちゅうおうヨーロッパ夏時間なつじかん (UTC+2)
郵便ゆうびん番号ばんごう 31000
市外しがい局番きょくばん 31
ナンバープレート OS
公式こうしきウェブサイト : http://www.osijek.hr/

オシエククロアチア:Osijekハンガリー:Eszék、ドイツ:Esseg、ラテン語らてんご:Essec、トルコ:Ösek)はクロアチアで4番目ばんめおおきな都市としオシイェクとも表記ひょうきされる。ドナウがわ支流しりゅうドラヴァがわ右岸うがんにあり、スラヴォニア地域ちいき経済けいざい文化ぶんか中心ちゅうしんである。

歴史れきし

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初期しょき

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しん石器せっき時代じだいから定住ていじゅうとなっており、最初さいしょられた定住ていじゅうみんイリュリアじんであった。131ねんローマ皇帝こうていハドリアヌスふる定住ていじゅうムルサ・マイオル(Mursa Maior)を植民しょくみんとして特別とくべつ特権とっけんあたえた。しかしそのパンノニア平原へいげん舞台ぶたいとしたマ帝国まていこくたたかいで幾度いくど主戦しゅせんじょうとなり、ムルサは荒廃こうはいしていった。ローマじん移住いじゅう、クロアチアじんがムルサあと定住ていじゅうをつくり、オシエクのをつけた。オシエクとは、クロアチアしお意味いみするosekaからしょうじている。湿地しっちたいみずあふれて水浸みずびたしになるのをけるため、まちたか位置いちにつくったことに由来ゆらいする。中世ちゅうせいのオシエクの様子ようすつたえる痕跡こんせきはあまりのこっていない。オスマン帝国ていこくがこの征服せいふくしたとき、自分じぶんたちのこのむやりかたまちつくなおすことに固執こしつしたため、かれらはすべてを破壊はかいくしたのである。

オシエクがまちとして歴史れきし登場とうじょうするのは1196ねんである。1353ねんから1472ねんまで、オシエクはコロジ(Korogyi)の封建ほうけん領土りょうどであった。1526ねん8がつ8にちまちせたトルコの軍勢ぐんぜいにより略奪りゃくだつされ破壊はかいされた。かれらはトルコふうまち再建さいけんし、1579ねんおこなわれたトルコがわ調査ちょうさまち記載きさいしている。スレイマン1せいは、有名ゆうめい全長ぜんちょう8kmもある木造もくぞうはしをオシエクにけた。このはしは「スレイマンのはし」としてられている。まち公的こうてきとなるのは17世紀せいきのことである。

ハプスブルク時代じだい

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エウロプスカどおりの建物たてもの

1687ねん9がつ29にちハプスブルク帝国ていこく占領せんりょうされたオシエクは西側にしがわ支配しはい復帰ふっきする。1712ねんから1721ねんにかけ、あらたなオーストリアの権力けんりょくしゃは、トヴルジャ(Tvrđa、オシエクのきゅう市街しがい)でられるあたらしい要塞ようさい建設けんせつした。この一風いっぷうわった都市とし軍事ぐんじ施設しせつふくあいは、オシエクの心臓しんぞうとなっている。中央ちゅうおうにある三位一体さんみいったい広場ひろば北側きたがわぐん司令しれい建物たてものでふさがれ、西方せいほう主要しゅよう警備けいびたい建物たてもの東部とうぶ行政ぎょうせい長官ちょうかん官舎かんしゃ現在げんざいはスラヴォニア博物館はくぶつかん)でふさがれていた。広場ひろば中央ちゅうおうには、1729ねんてられたペスト記念きねんがたつ。標高ひょうこうたか場所ばしょにあるゴルニ・グラド(Gornji Grad)は1692ねん下町したまちであるドニ・グラド(Donji Grad)は1698ねんにつくられた。1786ねんまで、トヴルジャとゴルニ、ドニは別々べつべつ自治体じちたいのままであった。18世紀せいき後期こうき、ヴィロヴィティツァけん中心ちゅうしんとしてオシエクはヴィロヴィティツァより優勢ゆうせいとなった。

1809ねん、オシエクは帝国ていこく自由じゆう都市とし特権とっけんさずかった。19世紀せいき初頭しょとう、オシエクはクロアチア最大さいだい都市としであった。その中央ちゅうおうヨーロッパしょ都市とし同様どうよう発展はってんし、ウィーンブダペストからもたらされる文化ぶんか建築けんちく社会しゃかい経済けいざい影響えいきょう浸透しんとうしていった。19世紀せいき劇場げきじょう美術館びじゅつかん私蔵しぞうひん収蔵しゅうぞうした美術館びじゅつかんが1877ねん開園かいえん)、フランシスコかい印刷所いんさつしょなどで文化ぶんかはなひらいた。経済けいざい貿易ぼうえき繁栄はんえいちからをつけた上流じょうりゅうそうは、宗教しゅうきょう行事ぎょうじ公共こうきょう行事ぎょうじ芸能げいのうやスポーツにしたしんだ。西部せいぶのラトファルダ地区ちく同様どうよう、ノヴィ・グラド地区ちくが19世紀せいき建設けんせつされた。

20世紀せいき

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1910ねん調査ちょうさでは、人口じんこうやく12,000にんがクロアチアじんやく11,000にんドイツじんやく7,000にんユダヤじんやく3,700にんハンガリーじんであった。20世紀せいきはいり、シエニアク(Sjenjak)、ヴィイェナツ(Vijenac)、ユグ(Jug)、ユグII(Jug II)のかく地区ちくができた。河岸かわぎしつという地理ちりてき条件じょうけん文化ぶんか歴史れきし両方りょうほう遺産いさんとくにバロック様式ようしきのトヴルジャ)がられるようになると、観光かんこうぎょう発展はってんしていった。

1991ねんから1995ねんクロアチア独立どくりつ戦争せんそうあいだ、オシエクはヴコヴァルのようなはげしい破壊はかいけることができたが、極端きょくたんではないものの中心ちゅうしんきよしペテロ・ひじりパウロ教会きょうかいとその外面がいめん損傷そんしょうけた[1]初期しょき市街しがいへのばくげきで、1200にんあまりの市民しみんいのちとした[2]。いくつかの建物たてものはいまだ攻撃こうげきされたあとのこしている。のファサードは近年きんねんになって復旧ふっきゅう資金しきんとうじられ、きゅう市街しがいにあるかつてのオーストリア=ハンガリー帝国ていこく時代じだい複雑ふくざつバロック建築けんちく魅力みりょくもどした。

みどころ

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バロック様式ようしき町並まちなみ、要塞ようさい、ドラヴァがわ沿いの遊歩道ゆうほどう人気にんきあつまる観光かんこうである。クロアチア民族みんぞく音楽おんがく使つかわれる楽器がっきタンブリツァ(Tamburica)の音楽おんがくさいが、国中くになかからタンブリツァの楽団がくだんあつまり毎年まいとし5がつ開催かいさいされる。なつ開催かいさいされるよるまつり(6がつから8がつ)ではおおくのイベントがおこなわれ、地元じもと料理りょうりたのしめる。また、ドラヴァがわ周辺しゅうへんでは狩猟しゅりょうりをたのしめる。

オシエク地域ちいき美食びしょくとしてられる。伝統でんとうてきなスラヴォニア料理りょうりクレンというパプリカ風味ふうみのソーセージ、ハムなど。シカにく料理りょうり、パプリカをもちいたさかなのスープriblja čorba)がたのしめる。また、地元じもとビールのブランド、オシエチコ(Osječko)とエッセケル(Esseker)がある。バラニャ地方ちほう特産とくさんワインもある。

交通こうつう

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オシエクは、鉄道てつどう高速こうそく道路どうろ接続せつぞくてんである。にはかわこうオシエク空港くうこうがある。2008ねん3がつより、ケルン・ボン空港くうこうとの国際こくさい路線ろせん開始かいしされた。鉄道てつどうは、ザグレブリエカポジェガヴィロヴィティツァナシツェスラヴォンスキ・ブロドなどへの路線ろせんがあり、ハンガリーかう路線ろせんとも接続せつぞくされている。ブダペストサラエヴォきの列車れっしゃ停車ていしゃする。

オシエク出身しゅっしん人物じんぶつ

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姉妹しまい都市とし

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関連かんれん項目こうもく

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  • NKオシエク - オシエクを本拠地ほんきょちとするサッカークラブ。

外部がいぶリンク

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