オランダりょうインド航空こうくう

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オランダりょうインド航空こうくう
Koninklijke Nederlandsch-Indische Luchtvaart Maatschappij
設立せつりつ 1928ねん7がつ16にち
ハブ空港くうこう バタビア空港くうこう
焦点しょうてん空港くうこう デンパサール空港くうこう
マイレージサービス なし
会員かいいんラウンジ なし
航空こうくう連合れんごう なし
本拠地ほんきょち オランダの旗 オランダりょうひがしインド、バタビア
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オランダりょうインド航空こうくう(Koninklijke Nederlandsch-Indische Luchtvaart Maatschappij、KNILM)は、オランダ植民しょくみんオランダりょうひがしインド存在そんざいしていた航空こうくう会社かいしゃ

歴史れきし[編集へんしゅう]

設立せつりつ[編集へんしゅう]

バンドン空港くうこうにおけるはつ便びん就航しゅうこう乗員じょういん乗客じょうきゃく地上ちじょう係員かかりいんともに白人はくじんのみでインドネシアじん姿すがたえない(フォッカーF.XIIがた1928ねん11月1にち
バンダルマシンへのはつ便びん就航しゅうこう(DC-3がた1936ねん
オランダぐん放逐ほうちくし、ジャワ島じゃわとうない進軍しんぐんする日本にっぽんぐん

1928ねん7がつ16にちに、オランダが植民しょくみんとして支配しはいしていたオランダりょうひがしインド(現在げんざいインドネシア)のオランダじん投資とうしらにより、オランダりょうひがしインドのフラッグキャリアとして設立せつりつされた。本社ほんしゃ宗主そうしゅこくのオランダのアムステルダムかれた。

植民しょくみん支配しはい道具どうぐ[編集へんしゅう]

同年どうねん11月1にちバタビア現在げんざいジャカルタ) - バンドン、バタビア - スマラン路線ろせん運航うんこうフォッカーF.XIIがた開始かいしした。そのパレンバンメダンデンパサールクタ)やバリクパパンバンジャルマシンなどオランダりょうひがしインド域内いきない路線ろせんもうひろげ、オランダによるオランダりょうひがしインドの植民しょくみん支配しはい道具どうぐとして機能きのうすることとなる。

なお、当時とうじ宗主そうしゅこくのオランダがオランダりょうひがしインドを植民しょくみん支配しはいするにおいて、インドネシアじんへの高等こうとう教育きょういく制限せいげんしたほか、現地げんち官吏かんり登用とうようしないなど徹底てっていしてインドネシアじん差別さべつする政策せいさくった[1]ことをけ、操縦そうじゅう整備せいびなどの主要しゅよう社員しゃいんはすべてオランダじんかためられており、インドネシアじん荷物にもつ運搬うんぱんなどの単純たんじゅん作業さぎょうしか担当たんとうさせられていなかった。また乗客じょうきゃくもオランダじんをはじめとする白人はくじんのみであった。

拡張かくちょう[編集へんしゅう]

1933ねんにははつの「国際線こくさいせん」としてイギリス海峡かいきょう植民しょくみんシンガポールへの運航うんこう開始かいしし、その1938ねん7がつ3にちにはダーウィンなど複数ふくすう拠点きょてん経由けいゆしてオーストラリアシドニーへの運航うんこう開始かいしした。なお宗主そうしゅこくのオランダへの便びん運航うんこうしておらず、KLMオランダ航空こうくう南回みなみまわりヨーロッパせん運航うんこうしていた路線ろせんにシンガポールで接続せつぞくした。

そのも、タイ王国おうこくバンコクや、アメリカ植民しょくみんであるフィリピンマニラフランスりょうインドシナサイゴンなどへチャちゃ便びんふく国際線こくさいせんひろげた[2]。なおマニラせんは、パンアメリカン航空こうくうサンフランシスコせん接続せつぞくした。また、1940ねんには、ドイツぐんのオランダ侵攻しんこうともない、KLMオランダ航空こうくうへの納入のうにゅう不可能ふかのうになったダグラス DC-5わりに納入のうにゅうしてもらい、世界せかいでも数少かずすくない同機どうきのオペレーターとなった。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

その1940ねん5月15にちに、ドイツ侵攻しんこうをうけて宗主そうしゅこくのオランダは降伏ごうぶくし、王室おうしつ政府せいふ首脳しゅのうじんなどはイギリスへ逃亡とうぼうロンドン亡命ぼうめい政府せいふ創設そうせつした。以後いごだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつまでオランダ本国ほんごくはドイツの占領せんりょうにおかれた。

一方いっぽう、オランダ本国ほんごく降伏ごうぶくしたのちも、オランダりょうひがしインドにおいてはオランダ亡命ぼうめい政府せいふ傘下さんかとなったざいひがしインド植民しょくみんぐんのオランダじんによる植民しょくみん統治とうちつづいていた。しかし1941ねん12月7にち大日本帝国だいにっぽんていこくとのあいだ開戦かいせんし(らんしるし作戦さくせん)、1942ねん3月1にちには、上陸じょうりくした日本にっぽんぐんとの10日とおかほどの戦闘せんとうのちざいひがしインド植民しょくみんぐん全面ぜんめん降伏ごうぶくした。

これをけて、オランダりょうインド航空こうくうのオランダじん社員しゃいん所有しょゆうおおくはオランダとおな連合れんごうこくであるオーストラリアへと逃亡とうぼうした。しかしダグラスDC-2やダグラスDC-5のいくつかは逃亡とうぼうすることが出来できず、日本にっぽんぐん鹵獲ろかくされその日本にっぽんぐんにより現地げんち輸送ゆそうとして使用しようされたほか日本にっぽん本土ほんど移送いそうされ戦利せんりひんとして展示てんじされた。

なお、オーストラリアへげたオランダりょうインド航空こうくうのダグラスDC-3のうち1日本にっぽんぐんによるブルーム空襲くうしゅうさいに、日本にっぽん海軍かいぐんれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうにより撃墜げきついされた。のこるダグラスDC-2やダグラスDC-3、ダグラスDC-5やデ・ハビランド DH.89 ドラゴン・ラピードなどは、同年どうねん5がつオーストラリアぐん編入へんにゅうされたほか、同盟どうめいこくアメリカぐん売却ばいきゃくされた。

独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつ[編集へんしゅう]

独立どくりつ宣言せんげんおこなうスカルノとハッタ(1945ねん8がつ17にち
マカッサル空港くうこうちゅうするKLMのダグラスDC-3がた(1948ねん12がつ

その1945ねん8がつ15にちに、オランダの植民しょくみん地下ちかにおかれていたひがしインドからオランダぐん放逐ほうちくした日本にっぽんだい世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくした。その2にち8がつ17にちには、日本にっぽんぐんのオランダりょうひがしインドへの侵攻しんこうまえにオランダぐんによってとらえられていたものの日本にっぽんぐんによって解放かいほうされ、その日本にっぽんからの協力きょうりょく支援しえんけて独立どくりつ準備じゅんびすすめていた民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどう活動かつどうスカルノモハマッド・ハッタが、「民族みんぞくにおいて」インドネシア独立どくりつ宣言せんげんした。

しかし、だい世界せかい大戦たいせんの「戦勝せんしょうこく」となったオランダはその独立どくりつみとめず、帝国ていこく主義しゅぎ仲間なかまのイギリスやその支配しはいにあるオーストラリアの協力きょうりょくのもとでインドネシアへの植民しょくみん支配しはい復活ふっかつさせようとしたが、スカルノやハッタらを指導しどうしゃとした民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどう活動かつどう勢力せいりょくとの武力ぶりょく衝突しょうとつ頻発ひんぱつした。そのこれらの武力ぶりょく衝突しょうとつインドネシア独立どくりつ戦争せんそうとなり、本格ほんかくてき戦争せんそうとなった。

このよう状況じょうきょうであったものの、インドネシアへの植民しょくみん支配しはい既成きせい事実じじつさせる目的もくてきもあり、オランダ政府せいふは、オランダりょうインド航空こうくう域内いきない路線ろせん運航うんこうをオランダりょうインド政府せいふ航空こうくう(NIGAT)の協力きょうりょくもと再開さいかいさせた。

消滅しょうめつ[編集へんしゅう]

さらに1946ねん9月には、NIGATからリースしたダグラス DC-4で、はつ長距離ちょうきょり路線ろせんのバタビア-グアム-ホノルル-ロサンゼルス便びん運航うんこう開始かいしした。しかし、ロサンゼルス便びん採算さいさんがとれずに数カ月すうかげつ廃止はいしされたうえに、インドネシア独立どくりつ戦争せんそう影響えいきょう域内いきない路線ろせん運航うんこうもままならなくなったために資金しきんなんおちいったオランダりょうインド航空こうくうは、1947ねん8がつ1にち運航うんこう停止ていしした。

その路線ろせんもう所有しょゆうはKLMオランダ航空こうくう移管いかんされたものの、だい世界せかい大戦たいせんにより国力こくりょく疲弊ひへいしきっていたオランダは、もはやとおはなれた植民しょくみん維持いじするだけの国力こくりょくわせていなかっただけでなく、植民しょくみん支配しはいおこな大義名分たいぎめいぶんうしな独立どくりつ戦争せんそう敗北はいぼくし、1949ねん12月27をもってインドネシアから撤収てっしゅうした。

オランダの撤収てっしゅう、それまでKLMオランダ航空こうくう運航うんこうしていたインドネシア域内いきない路線ろせん国際線こくさいせんは、あらたにインドネシアのフラッグ・キャリアとなったガルーダ・インドネシア航空こうくうがれた。

おも寄港きこう[編集へんしゅう]

オランダりょうひがしインド内線ないせん[編集へんしゅう]

パレンバン近郊きんこう墜落ついらくしたDC-3がた1938ねん

国際線こくさいせん[編集へんしゅう]

おも運航うんこう機材きざい[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]