カディマとう

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イスラエルの旗 イスラエル政党せいとう
カディマ
קדימה
党首とうしゅ シャウル・モファズ
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 2005ねん
解散かいさん年月日ねんがっぴ 2015ねん
政治せいじてき思想しそう立場たちば 中道ちゅうどう主義しゅぎ
自由じゆう主義しゅぎ
シオニズム
公式こうしきサイト Kadima
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カディマKadimaヘブライ: קדימה‎)は、イスラエル政党せいとう

「カディマ」は「前進ぜんしん」を意味いみするヘブライ

概要がいよう[編集へんしゅう]

アリエル・シャロンによって2005ねん11月21にち創設そうせつされた「中道ちゅうどう主義しゅぎ」をかかげるシオニスト政党せいとう日本語にほんごではカディマカディーマカーディーマとも呼称こしょうされる。シャロンが脳卒中のうそっちゅうにより意識いしき不明ふめいとなったのちエフード・オルメルトいでツィッピー・リヴニ党首とうしゅつとめている。党名とうめいはヘブライ前進ぜんしん意味いみする。当初とうしょ国家こっか責任せきにんとう(National Responsibility Party)という名称めいしょう検討けんとうされたが、どう名称めいしょうでは省略しょうりゃくすればNRPとなることから、国家こっか宗教しゅうきょうとう(National Religious Party)はげしく反発はんぱつし、最終さいしゅうてきにカディマにいた。また、「カディマ」の名称めいしょうたいしても、カディマがヘブライで「前進ぜんしん」を意味いみするところから、ベニート・ムッソリーニイタリア社会党しゃかいとう所属しょぞくしていたさいどうとう機関きかん・『アヴァンティ!イタリア前進ぜんしん)』の編集へんしゅうちょうをつとめていた経緯けいいから問題もんだいするこえがったが、これは大勢おおぜいにはならなかった。

政策せいさく[編集へんしゅう]

カディマの政策せいさくはシャロンによるたいパレスチナ政策せいさくいでいる。ガザ地区ちくからは植民しょくみんしゃ軍部ぐんぶたい完全かんぜん撤退てったいさせ、そのわりにヨルダン川よるだんがわ西岸せいがんだい規模きぼユダヤじん入植にゅうしょくだるアリエルマアレ・アドゥミーム維持いじすることを目的もくてきとしている。オルメルトは党首とうしゅ時代じだいに、現在げんざい西岸せいがん建設けんせつすすんでいる防護ぼうごフェンス(「分離ぶんりかべ」) 内部ないぶだい規模きぼ入植にゅうしょく併合へいごう、それ以外いがい小規模しょうきぼ入植にゅうしょく撤退てったいさせ、分離ぶんりかべ国境こっきょうとすることを主張しゅちょうしている。また、治安ちあんうえ観点かんてんからヨルダン渓谷けいこくとその周辺しゅうへん入植にゅうしょく保持ほじ必要ひつようせいうったえている。

2006ねん9月4にち、オルメルトは国会こっかい外交がいこう防衛ぼうえい委員いいんかいで、ヨルダン川よるだんがわ西岸せいがんからの追加ついか撤退てったい凍結とうけつするかんがえを表明ひょうめい政権せいけん公約こうやく事実じじつじょうやぶられたことになり、レバノン侵攻しんこうきずついた政権せいけんへの威信いしんにさらにちをかけることとなった。

2006ねんそう選挙せんきょ[編集へんしゅう]

2006ねん3月28にちおこなわれたイスラエル議会ぎかいクネセトそう選挙せんきょでは、事前じぜん予想よそうどおとうおさえてだいいちとうとなるものの、最終さいしゅうてきには29議席ぎせき獲得かくとくにとどまる。この数字すうじ1999ねん労働党ろうどうとうぐ、建国けんこくワースト2という結果けっかである。

イスラエルがかかわったすべての戦争せんそう従事じゅうじし、抜群ばつぐん指導しどうりょく政局せいきょくみきる洞察どうさつりょくそなえたシャロンとことなり、オルメルトのぐんれき指導しどうりょく国民こくみん不安ふあんかんいたものとされた。

同年どうねん5月4にち、オルメルトをしん首相しゅしょうとする連立れんりつ政権せいけん発足ほっそく労働党ろうどうとう年金ねんきんしゃとうシャスなどが参加さんかすることとなった。

2009ねんそう選挙せんきょ[編集へんしゅう]

イスラエル国会こっかい2006ねん10月30にち、オルメルト首相しゅしょうひきいるカディマと労働党ろうどうとう中道ちゅうどう左派さは連立れんりつ政権せいけん極右きょくう政党せいとうイスラエル」が参加さんかした新内しんないかく賛成さんせい多数たすう承認しょうにんした。カディマ(29議席ぎせき)を中心ちゅうしんとする政権せいけんは「」(11議席ぎせき)の参加さんかで5とう連立れんりつとなり、国会こっかい定数ていすう120のうち78議席ぎせき確保かくほした。「」リーバーマン党首とうしゅは、イランの脅威きょういへの対応たいおう担当たんとうする新設しんせつ閣僚かくりょう兼任けんにんした。

オルメルトは財務ざいむしょうつとめていた2005ねん国内こくない2の「レウミ銀行ぎんこう民営みんえいさい政府せいふ保有ほゆうかぶ売却ばいきゃくめぐり、知人ちじん2にん入札にゅうさつ便宜べんぎはかるなどしたうたがいがたれ、2007ねん1がつ16にちにイスラエル検察けんさつ当局とうきょく警察けいさつ当局とうきょくたいしてオルメルトにたいする捜査そうさ着手ちゃくしゅするよう指示しじ。オルメルト政権せいけんはカツァブ大統領だいとうりょうのレイプ疑惑ぎわくのほか、国税こくぜい当局とうきょく収賄しゅうわい疑惑ぎわく発覚はっかくするなどスキャンダルが相次あいつぎ、2006ねんなつレバノン侵攻しんこうでの不手際ふてぎわかさなって支持しじりつ急落きゅうらくした。

オルメルトはレウミ銀行ぎんこう汚職おしょくかんし、一貫いっかんして不正ふせい行為こうい否定ひていしていたが2008ねん7がつ30にち党首とうしゅせん終了しゅうりょう首相しゅしょう辞任じにんするむね記者きしゃ会見かいけん表明ひょうめい9月18にち党首とうしゅせんツィッピー・リヴニ外相がいしょう僅差きんさ勝利しょうりおさめた。9月21にちのオルメルト首相しゅしょう辞任じにんけてリヴニは新内しんないかく組閣そかく目指めざしたが、エルサレム帰属きぞくなどで宗教しゅうきょう政党せいとうシャスはげしく反発はんぱつ組閣そかく失敗しっぱいにより国会こっかい自動的じどうてき解散かいさんされた。

2009ねん2がつ10日とおかそう選挙せんきょでは28議席ぎせき獲得かくとくし、だいいちとうをかろうじて維持いじした。しかし、連立れんりつ政権せいけん交渉こうしょう不調ふちょうわり、組閣そかく要請ようせいされたリクードベンヤミン・ネタニヤフはカディマとの連立れんりつ交渉こうしょう断念だんねん、カディマはくだることとなった。

だい連立れんりつへの参加さんか[編集へんしゅう]

2012ねん3がつ党首とうしゅせんでリヴニにわってもと国防こくぼうしょうシャウル・モファズ党首とうしゅとなり、同年どうねん5がつ8にちには政権せいけん与党よとうリクードとのだい連立れんりつ政権せいけん樹立じゅりつ合意ごういした。これによりモファズがふく首相しゅしょうとして入閣にゅうかくしネタニヤフ政権せいけん安定あんてい急上昇きゅうじょうしょうしたものの、このだい連立れんりつかんしては「イラン攻撃こうげきけたならし」ときもある[1]。だがちょう正統せいとうユダヤ教徒きょうと兵役へいえき免除めんじょをめぐる賛否さんぴからわずかやく2ヶ月かげつの7がつ17にちにモファズはふく首相しゅしょう辞任じにんだい連立れんりつ解消かいしょうされた。

2013ねんそう選挙せんきょ[編集へんしゅう]

だい連立れんりつ参加さんか解消かいしょうをめぐるうごきは党内とうないはげしい動揺どうようみ、さき議員ぎいん辞職じしょくしたリヴニが11月に新党しんとう「ハトヌア(ヘブライで「運動うんどう」の)」を結成けっせいすると党内とうないはん主流しゅりゅうがこれにくわわって分裂ぶんれつ決定的けっていてきとなった。くわえてちょう正統せいとうユダヤ教徒きょうと兵役へいえき免除めんじょ問題もんだいからべつ新党しんとう「イェシュ・アティッド 」にも支持しじそうわれ、2013ねん1がつ22にちそう選挙せんきょではわずか2議席ぎせきしか獲得かくとくできず、歴史れきしてき大敗たいはいきっした。

参加さんかしゃ[編集へんしゅう]

カディマにはイスラエルのだい政党せいとうであるリクードおよび労働党ろうどうとう双方そうほうからおおくの議員ぎいん参加さんかしている。したにあげた肩書かたがきは2006ねんそう選挙せんきょまえのものである。

リクードより参加さんか

労働党ろうどうとうより参加さんか

党首とうしゅ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]