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クトナー・ホラ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
クトナー・ホラ
聖バルボラ教会からの眺め
せいバルボラ教会きょうかいからのなが
クトナー・ホラの市旗 クトナー・ホラの市章
はた あきら
位置いち
クトナー・ホラの位置の位置図
クトナー・ホラの位置いち
座標ざひょう : 北緯ほくい4957ふん 東経とうけい1516ふん / 北緯ほくい49.950 東経とうけい15.267 / 49.950; 15.267
歴史れきし
建設けんせつ 13世紀せいき
市長しちょう Ivo Šalátek
地理ちり
面積めんせき  
  いき 33.05 km2
標高ひょうこう 254 m
人口じんこう
人口じんこう (2014ねん現在げんざい
  いき 20,300にん
公式こうしきウェブサイト : www.kutnahora.info

クトナー・ホラチェコ:Kutná Hora [ˈkutnaː ˈɦora] ( 音声おんせいファイル)中世ちゅうせいチェコ:Hory Kutné)は、チェコ中央ちゅうおうボヘミアしゅう都市としドイツはクッテンベルク(Kuttenberg)。2014ねん当時とうじ人口じんこうやく20,300にん[1]1995ねん中心ちゅうしんが「クトナー・ホラのせいバルボラ教会きょうかいのある歴史れきし地区ちくとセドレツの聖母せいぼマリアだい聖堂せいどう」としてUNESCO世界せかい遺産いさん登録とうろくされた[2]

名称めいしょう由来ゆらい

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クトナー・ホラの語源ごげんには複数ふくすうせつ存在そんざいする。

チェコで「採掘さいくつ」を意味いみするかたりである「クターニー(Kutání)」に由来ゆらいするとわれている[3]。ドイツめいのクッテンベルクは「やま」「鉱山こうざん」を意味いみする「ベルク」と「クッテ」の単語たんご合成ごうせいした言葉ことばである[4]。「クッテ」は「みぞ」「ほり」を意味いみするかたり[4]、あるいは修道しゅうどう僧衣そうい意味いみするクッテン[3]などが語源ごげんかんがえられている。さきにドイツ名前なまえけられ、それをチェコやくした「クトナー・ホラ」がこうから使つかわれるようになったとかんがえられている[4]

歴史れきし

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クトナー・ホラには先史せんし時代じだいから人類じんるい居住きょじゅうし、ケルトじん墓地ぼち発掘はっくつされている[3]

クトナー・ホラでのぎん採掘さいくつ10世紀せいきさかのぼるとかんがえられており[3]、それよりはや799ねんから採掘さいくつはじまっていたという伝承でんしょうのこされている[5]。クトナー・ホラ近郊きんこうむらであるマリーンからは10世紀せいき鋳造ちゅうぞうされたディナール銀貨ぎんか発見はっけんされているが、ディナール銀貨ぎんか使つかわれているぎんがクトナー・ホラで産出さんしゅつされたものであるかは不明ふめいである[6]

1142ねんにチェコ最初さいしょシトーかい修道院しゅうどういんがクトナー・ホラ近郊きんこうセドレツてられる[4]修道院しゅうどういん農業のうぎょう建設けんせつ技術ぎじゅつつたえる役割やくわりたし、13世紀せいき修道院しゅうどういん所領しょりょうふくまれる山中さんちゅう銀鉱ぎんこうみゃく発見はっけんされる[7]。13世紀せいき後半こうはん銀鉱ぎんこう発見はっけんされたのち鉱山こうざん中心ちゅうしん集落しゅうらく形成けいせいされ[1]中世ちゅうせいのクトナー・ホラにはドイツ出身しゅっしん鉱夫こうふ技術ぎじゅつしゃおおんでいたとかんがえられている[4]。クトナー・ホラには鉱夫こうふ技術ぎじゅつしゃ以外いがい利潤りじゅんもとめる商人しょうにん職人しょくにんあつまり、13世紀せいき当時とうじのクトナー・ホラで採掘さいくつされたぎんは、ヨーロッパで産出さんしゅつされたぎんのうちおよそ3ぶんの1をめていた[5]

1289ねんにクトナー・ホラは正式せいしき都市としとなり、1300ねんボヘミアおうヴァーツラフ2せいによって王立おうりつ造幣局ぞうへいきょく設営せつえいされた[8]。ここで鋳造ちゅうぞうされた銀貨ぎんかプラハ・グロシュばれ、ひろくボヘミア内外ないがい流通りゅうつうした。まち産出さんしゅつされたぎんはボヘミア王国おうこく重要じゅうよう財源ざいげんとなり[4]14世紀せいきから15世紀せいきにかけてプラハ重要じゅうよう都市としとなった[1]造幣局ぞうへいきょくねたおう邸宅ていたく通称つうしょう「イタリアみや」)には代々だいだいのボヘミアおうがしばしば滞在たいざいした。1409ねん1がつ18にちには、ボヘミアおうヴァーツラフ4せいが、カレル大学だいがくにおけるチェコじん優位ゆういみとめるクトナー・ホラのみことのりれい署名しょめいした[1]。また、クトナー・ホラで産出さんしゅつされるぎんはボヘミア王国おうこくだけでなくかみきよしマ帝国まていこくきつけ、神聖しんせいローマ皇帝こうていアルブレヒト1せいジギスムントらはまち包囲ほういいた[9]

1419ねんフス戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、皇帝こうていジギスムントは、クトナー・ホラをフス対抗たいこうする拠点きょてんとした。1421ねん12月、ジギスムントはフス急進きゅうしん勢力せいりょくターボルターボルまち拠点きょてんとした)をひきいるヤン・ジシュカやぶれ(クトナー・ホラのたたか)、まちはジシュカに攻略こうりゃくされた。一時いちじてき和解わかいのち、ターボル手中しゅちゅうまちふたた陥落かんらくするのをさまたげようとしたかみきよしマ帝国まていこくぐんによって、1422ねんまちはなたれた。フス戦争せんそう終結しゅうけつしたとき、坑道こうどうどろみずにまみれ、まちささえていたドイツじんおおくは場所ばしょ移住いじゅうした[10]1471ねんにボヘミアおう選出せんしゅつされたウラースロー2せいのもとでクトナー・ホラは復興ふっこうし、中断ちゅうだんされていたせいバルボラ教会きょうかい工事こうじ再開さいかいされる[11]

しかし15世紀せいき後半こうはん以降いこうぎん枯渇こかつはじ[1]1541ねんにはもっと資源しげんんだ坑道こうどう水没すいぼつした。皇帝こうていフェルディナント1せいたいするボヘミアの反乱はんらんまちすべての特権とっけんうしない、黒死病こくしびょうさんじゅうねん戦争せんそう戦禍せんかでクトナー・ホラは廃墟はいきょした。平和へいわ回復かいふくされたのちすたれた鉱山こうざん修復しゅうふくするこころみは成功せいこうせず、まち衰微すいびした。1547ねん貨幣かへい鋳造ちゅうぞうしょ廃止はいしされ、1727ねん銀鉱ぎんこうやま閉鎖へいさされる[12]1770ねんまち大火たいか見舞みまわれる。1845ねん鉄道てつどう敷設ふせつされたのち経済けいざい活動かつどう中心ちゅうしんはクトナー・ホラのきた10kmに位置いちするコリーンにうつった[13]

産業さんぎょう

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クトナー・ホラでは冶金やきん繊維せんい食品しょくひん工業こうぎょういとなまれている[1]。1812ねんにシトーかい修道院しゅうどういんかれていた場所ばしょにタバコ工場こうじょう建設けんせつされ、なが歴史れきし工場こうじょうとして操業そうぎょうつづけている[3]

クトナー・ホラではかつてぎん採掘さいくつ事業じぎょうおこなわれ、銀鉱ぎんこうやま操業そうぎょうしていた400ねんあいだにおよそ2,500トンのぎん採掘さいくつされたと見積みつもられている[14]銀鉱ぎんこうみゃく枯渇こかつしたのちも、1991ねんまでなまり亜鉛あえん採掘さいくつおこなわれていた[3]

建築けんちくぶつ

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鉱山こうざん開発かいはつとともに急速きゅうそく発展はってんしたクトナー・ホラは計画けいかくてき拡張かくちょうおこなわれず、街並まちなみは不規則ふきそくひろがっている[4]。13世紀せいきから16世紀せいきにかけてまち地下ちか複雑ふくざつ坑道こうどうすすめられ、最深さいしん地下ちか500mにたっする[15]

クトナー・ホラと隣接りんせつするセドレツのまち世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。地域ちいきにあるさい重要じゅうよう建築けんちくぶつゴシック様式ようしきで、5つの本堂ほんどうつ14世紀せいきせいバルボラ教会きょうかい、13世紀せいきわりにてられたかつての王宮おうきゅう硬貨こうか鋳造ちゅうぞうしょであったイタリアみやがそれにあたる。ゴシック様式ようしきの『いしいえ』は1902ねんから博物館はくぶつかんとして利用りようされており、国内こくない有数ゆうすう公文書こうぶんしょ保管ほかんしている。ゴシック様式ようしきせいヤクプ教会きょうかいは83メートルのとうつ。セドレツには、ゴシック様式ようしき聖母せいぼ教会きょうかい有名ゆうめいセドレツ納骨のうこつどうがある。

みどころ

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  • 聖母せいぼ昇天しょうてん洗礼せんれいしゃひじりヨハネ教会きょうかいcs:Chrám Nanebevzetí Pany Marie
  • せいバルボラ教会きょうかいcs:Kostel Sv. Barbory) - チェコのゴシック様式ようしき教会きょうかい最高さいこう傑作けっさくひとつにかぞえられる[4]。1380ねんごろ着工ちゃっこうされたが、フス戦争せんそうきた15世紀せいき工事こうじ中断ちゅうだんし、財源ざいげん不足ふそくした16世紀せいき工事こうじ進行しんこう停滞ていたいした[4]経費けいひ削減さくげんのためか教会きょうかい上部じょうぶとうてられず、わりにサーカスのテントのような屋根やねけられている[4]
  • セドレツ納骨のうこつどう墓地ぼち礼拝れいはいどう、Kostnice Sedlec)
  • せいヤクプ教会きょうかい(Kostel sv. Jakuba)
  • ひじりヤン・ネポムツキー教会きょうかい(Kostel sv. Jana Nepomuckého)
  • せいウルスラ女子じょし修道院しゅうどういん教会きょうかい(Kostel Kláštera Voršilek)
  • イエズスかい学校がっこうcs:Jezuitská kolej
  • 小城おぎ(Hrádek)
  • いたりひじりさんしゃ教会きょうかい(Kostel Nejsvětější Trojice)
  • 石井いしい(Kamenná kašna)
  • いしいえ(Kamenný dům)
  • 聖体せいたい礼拝れいはいどう(Kaple Božího těla)
  • だい首席しゅせき司祭しさいかん(Arciděkanství)
  • ヴラショスキー・ドヴール(ヴラヒ宮殿きゅうでん/イタリア宮殿きゅうでん、Vlašský dvůr) - ボヘミアおう別邸べってい造幣局ぞうへいきょくねた建物たてもの。14世紀せいきまつにヴァーツラフ4せいによって王宮おうきゅう改築かいちくされた[4]現在げんざい市庁舎しちょうしゃとして使用しようされている[13]
  • 聖母せいぼマリアのペストばしら(Morový sloup)
  • 鉱山こうざん博物館はくぶつかん - ヴラヒ宮殿きゅうでん西にし位置いちする。かつて使用しようされていた坑道こうどう見学けんがくするガイドツアーが実施じっしされている。

姉妹しまい都市とし

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 薩摩さつま「クトナー・ホラ」『東欧とうおう事典じてん新版しんぱん、118ぺーじ
  2. ^ UNESCO page on Kutná Hora”. 2007ねん3がつ7にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f はやし「クトナーホラ」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』4、969ぺーじ
  4. ^ a b c d e f g h i j k 薩摩さつま図説ずせつ チェコとスロヴァキア』、22-25ぺーじ
  5. ^ a b 増田ますだくろいチェコ』、102ぺーじ
  6. ^ 増田ますだくろいチェコ』、101-102ぺーじ
  7. ^ 増田ますだくろいチェコ』、101ぺーじ
  8. ^ 地球ちきゅうあるかた 2017〜18 チェコ/ポーランド/スロヴァキア』ダイヤモンド・ビッグしゃ、2017ねん、129ぺーじISBN 978-4-478-06043-8 
  9. ^ 増田ますだくろいチェコ』、106ぺーじ
  10. ^ 増田ますだくろいチェコ』、109ぺーじ
  11. ^ 増田ますだくろいチェコ』、109-110ぺーじ
  12. ^ 増田ますだくろいチェコ』、111ぺーじ
  13. ^ a b 沼野ぬまのちゅうおう ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、109-110ぺーじ
  14. ^ 増田ますだくろいチェコ』、105ぺーじ
  15. ^ 増田ますだくろいチェコ』、103ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 薩摩さつましゅうとう図説ずせつ チェコとスロヴァキア』(ふくろうのほん, 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ, 2006ねん11月)
  • 薩摩さつましゅうとう「クトナー・ホラ」『東欧とうおう事典じてん新版しんぱん収録しゅうろく平凡社へいぼんしゃ, 2015ねん7がつ
  • 沼野ぬまのたかし監修かんしゅうちゅうおう ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』(んでたびする世界せかい歴史れきし文化ぶんか, 新潮社しんちょうしゃ, 1996ねん2がつ
  • はやし忠行ただゆき「クトナーホラ」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』4収録しゅうろく朝倉書店あさくらしょてん, 2016ねん3がつ
  • 増田ますだ幸弘ゆきひろくろいチェコ』(いろどりりゅうしゃ, 2015ねん9がつ

外部がいぶリンク

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  • www.kutnahora.info - Website of the region
  • Kutná Hora - 完全かんぜんなリストと、クトナーホラの王室おうしつまち記念きねん説明せつめい