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グルジア王国おうこく

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グルジア王国おうこく
საქართველოს სამეფო
アブハジア王国
タオ・クラルジェティ
1008ねん - 1490ねん イメレティ王国
カヘティ王国
カルトリ王国 (1484年-1762年)
グルジア王国の国旗 グルジア王国の国章
国旗こっきくにあきら
グルジア王国の位置
13世紀せいきのはじめ、王国おうこく最盛さいせい地図ちず
公用こうよう グルジア
首都しゅと クタイシ1008ねん - 1122ねん
トビリシ1122ねん - 1490ねん
国王こくおう
978ねん - 1014ねん バグラト3せい
1089ねん - 1125ねんダヴィド4せい
1184ねん - 1213ねんタマル
1446ねん - 1465ねんギオルギ8せい
変遷へんせん
建国けんこく(グルジア統一とういつ 1008ねん
モンゴル統治とうち1238ねん - 1335ねん
崩壊ほうかい1490ねん
通貨つうかディルハム

グルジア王国おうこくグルジア: საქართველოს სამეფო サカルトヴェロス・サメポ)は、1008ねんごろに成立せいりつした中世ちゅうせい王国おうこくグルジア連合れんごう王国おうこく[1]、またはグルジア帝国ていこくともばれる[2][3][4][5]11世紀せいきから13世紀せいきにかけて、ダヴィド4せいタマル女王じょおう治世ちせいした黄金おうごん時代じだい現出げんしゅつした。その最盛さいせいには今日きょうウクライナ南部なんぶイラン北部ほくぶまでを版図はんとおさめ、アトスさんエルサレム修道院しゅうどういん保持ほじした。住民じゅうみんおおくはグルジアはなせい教徒きょうとであり、現代げんだいグルジア前身ぜんしんとなった。

13世紀せいき王国おうこくモンゴルの侵攻しんこうさらされたが、1340年代ねんだいさい独立どくりつした。しかし、その遊牧民ゆうぼくみんがもたらした黒死病こくしびょうティムールすうかいにわたる侵攻しんこうなやまされ、王国おうこく人口じんこう減少げんしょう経済けいざいだい打撃だげきけた。さらに1453ねんコンスタンティノープルの陥落かんらくにより王国おうこくふるくからの同盟どうめいこくであるひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼうした。15世紀せいきまつまでに王国おうこくテュルクけい民族みんぞくイランけい民族みんぞくくにかこまれ、キリストきょうのグルジア王国おうこく孤立こりつした。1386ねんにティムールの侵攻しんこうがはじまり、最終さいしゅうてきに1466ねん王国おうこく崩壊ほうかいをもたらした。政府せいふ状態じょうたいはその、1490ねんイメレティ王国おうこく英語えいごばんカヘティ王国おうこく英語えいごばんカルトリ王国おうこく独立どくりつ相互そうご承認しょうにんするまでつづいた。1762ねんにカルトリ王国おうこくとカヘティ王国おうこく統合とうごうされ、カルトリ・カヘティ王国おうこく成立せいりつし、グルジアはさい統一とういつされた。カルトリ・カヘティ王国おうこくはさらに18世紀せいきロシア帝国ていこく併合へいごうされた。

起源きげん

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バグラティオニあさ英語えいごばん起源きげん8世紀せいきごろ、タオ・クラルジェティ英語えいごばん時代じだいまで辿たどることができる。888ねんアダルナセ4せい英語えいごばんが「グルジアじんおう」を名乗なのったことでグルジアじん王位おうい復活ふっかつした。

グルジア連合れんごう王国おうこく1008ねん成立せいりつした。このとし、すでに父方ちちかたからタオ・クラルジェティの王位おうい継承けいしょうしたバグラト3せい英語えいごばん母方ははかたからアブハジア王国おうこく英語えいごばん王位おうい継承けいしょう、グルジアを統一とういつした。

黄金おうごん時代じだい

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グルジア黄金おうごん時代じだいはグルジア王国おうこく最盛さいせいで、11世紀せいきすえから13世紀せいきす。この時代じだい王国おうこくおおきく発展はってんげ、中世ちゅうせいグルジアの建築けんちく絵画かいが詩歌しかなどの文化ぶんか開花かいかした。この時期じきキリスト教きりすときょう美術びじゅつ世俗せぞくてき文学ぶんがく発展はってんし、王国おうこく軍事ぐんじ政治せいじ経済けいざい文化ぶんかなどで繁栄はんえい謳歌おうかした。この時代じだいはグルジア・ルネサンス、または東方とうほうルネサンスとばれている[6][7]

ダヴィド4せい

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シオ・ムグヴィメリ修道院しゅうどういん英語えいごばんフレスコえがかれたダヴィド4せい

黄金おうごん時代じだいダヴィド4せい治世ちせいはじまる。かれギオルギ2せい英語えいごばん王妃おうひヘレナの息子むすこであり、16さいのとき、セルジュークあさ最盛さいせい即位そくいした。かれはまず封建ほうけん領主りょうしゅちからよわめ、王国おうこく中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめた。権力けんりょく手中しゅちゅうおさめたことにより外国がいこく脅威きょうい対処たいしょ集中しゅうちゅうできたダヴィド4せい1121ねんディドゴリのたたか英語えいごばんだい勝利しょうりおさめた。グルジアぐんはそのセルジュークぐん数日すうじつあいだ追撃ついげきし、戦利せんりひん多数たすう確保かくほトビリシ獲得かくとくした[8]

ユネスコ登録とうろくした文化ぶんか遺産いさんであるゲラティ修道院しゅうどういん

王国おうこく隆盛りゅうせいたダヴィド4せいは、グルジアおうはじめてひがしマ帝国まていこくでのふうごう名乗なのらなかったものとなった。これはグルジア王国おうこくひがしマ帝国まていこく対等たいとう主張しゅちょうすることを意味いみする。マリア・バグラティオニひがしローマ皇帝こうていミカエル7せいドゥーカス結婚けっこんしたのち、12世紀せいきにはすくなくとも16にんのグルジア王族おうぞくひがしマ帝国まていこくでのふうごうたが、ダヴィドはその最後さいごとなった[9]

ダヴィド4せい東方とうほうからの影響えいきょう排除はいじょつとめ、西方せいほうキリスト教きりすときょうひがしマ帝国まていこく文化ぶんかれた。ゲラティ修道院しゅうどういん建設けんせつがその一環いっかんであり、当時とうじ正教会せいきょうかい信仰しんこう中心ちゅうしんとなった。ゲラティ修道院しゅうどういん現代げんだいではユネスコ登録とうろくした文化ぶんか遺産いさんとなった。

ダヴィド4せいはまた、グルジアの聖歌せいか伝統でんとう復活ふっかつさせ、いくつかの「あらための賛歌さんか」(グルジア: გალობანი სინანულისანი, galobani sinanulisani)を作曲さっきょくした[10]

デメトレ1せいとギオルギ3せい治世ちせい

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キンツヴィシ修道院しゅうどういん英語えいごばん所蔵しょぞうの「キンツヴィシのだい天使てんし」。使つかわれたウルトラマリン貴重きちょうなもので、グルジア王国おうこく繁栄はんえい象徴しょうちょうする。

王国おうこく繁栄はんえいはダヴィド4せいデメトレ1せい英語えいごばん治世ちせいでもつづいた。かれ治世ちせいでは王位おうい継承けいしょうあらそいがこったが、グルジアは中央ちゅうおう集権しゅうけんでありつづけ、軍事ぐんじりょく保持ほじした。ムスリムたいしてはギャンジャ決定的けっていてき勝利しょうりおさめた。

デメトレ1せいちちおなじく詩人しじんとしての才能さいのうがあり、グルジアの聖歌せいか数多かずおおうたった。そのうち一番いちばん有名ゆうめいなものはThou Art a Vineyardであり、現代げんだいグルジア正教会せいきょうかい代表だいひょうするさん美歌みかとなっている。

1156ねん、デメトレ1せいギオルギ3せい王位おうい継承けいしょうした。同年どうねん、ギオルギはアナトリア半島はんとう東部とうぶセルジュークあさ地方ちほう政権せいけん攻撃こうげきドゥヴィン解放かいほうした。さらにむすめのルスダンをひがしローマ皇帝こうていアンドロニコス1せいコムネノス息子むすこマヌエル・コムネノスとつがせ、王家おうけ権威けんいたかめた。

タマル女王じょおう治世ちせい

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ギオルギ3せいむすめタマル単独たんどくでグルジア史上しじょうはじめての女王じょおうになり、その治世ちせいにグルジア王国おうこく最盛さいせい現出げんしゅつした。彼女かのじょ王国おうこくテュルクじんからまもっただけでなく、国内こくない緊張きんちょうやわらげ、最初さいしょおっとユーリー・ボゴリュブスキー画策かくさくしたクーデター粉砕ふんさいした。また、死刑しけい拷問ごうもん廃止はいしなど、彼女かのじょ時代じだいにしては進歩しんぽてき政策せいさくもあった[11]

タマル女王じょおう治世ちせい王国おうこく国外こくがいでの修道院しゅうどういん建設けんせつ推進すいしんした。画像がぞうアトスさんイヴィロン修道院しゅうどういん英語えいごばん

タマル女王じょおう治世ちせい特筆とくひつすべき事件じけんとしては1204ねんトレビゾンド帝国ていこく成立せいりつがある。そのとしひがしマ帝国まていこく一時いちじてき滅亡めつぼうしたため、女王じょおう親族しんぞくにあたるアレクシオス1せいとそのおとうとダヴィドを援助えんじょし、帝国ていこく建国けんこくした[12]。タマル女王じょおう御用ごよう歴史れきしによると、トレビゾンド援助えんじょ目的もくてきアンティオキアアトスさん修道院しゅうどういんへの送金そうきん約束やくそくやぶったアレクシオス4せいアンゲロスへの懲罰ちょうばつであるという。しかし、これには異説いせつがあり、アンゲロス王朝おうちょうだい4かい十字軍じゅうじぐん侵攻しんこうさきながくないのでグルジアの南西なんせい友好ゆうこうてきくにてた、というせつもある[13][14]

タマル女王じょおう治世ちせい後半こうはん王国おうこく聖地せいちにおけるグルジア教会きょうかい保護ほご奔走ほんそうした[15]サラディン伝記でんき作者さくしゃによると、1187ねんアイユーブあさによるエルサレム侵攻しんこうのち、タマル女王じょおうはサラディンに使者ししゃおくり、エルサレムでのグルジア教会きょうかい返還へんかん要請ようせいしたという。サラディンの返事へんじ記録きろくされていないが、女王じょおう努力どりょく結実けつじつした[16]。さらに、サラディンにたいヒッティーンのたたかうばわれたせい十字架じゅうじかを20まん金塊きんかいもど提案ていあんをしたという。これはひがしローマ皇帝こうてい提案ていあんした金額きんがくよりもうえであったが、サラディンは拒否きょひした[17]

ラテン・エルサレムそう大司教だいしきょうジャック・ド・ヴィトリ当時とうじ、グルジア王国おうこくについてのこしている:[18]

東方とうほうにもキリスト教きりすときょう人々ひとびとがいる。かれらはたたかいにつよく、勇敢ゆうかんで、無数むすう力強ちからづよ戦士せんしがおり...異教徒いきょうとくに包囲ほういされ...かれらはせいゲオルギオス崇拝すうはいするので、グルジアじんばれている...せい墳墓ふんぼ教会きょうかい巡礼じゅんれいくとき、かれらは行進こうしんしてせいなるしろはいる...だれにも通行つうこうりょうはらうことなく。それはサラセンじんかれらを侮辱ぶじょくできるわけないから...

遊牧民ゆうぼくみん侵攻しんこうとグルジアの衰退すいたい

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モンゴルのルーシ侵攻しんこうおなごろ、モンゴルぐん一部いちぶ南下なんかしてグルジアに侵攻しんこうした。タマル女王じょおうギオルギ4せい英語えいごばんはすぐさまだい5かい十字軍じゅうじぐん支援しえんりやめ、くにげての抵抗ていこうをはじめた。しかし、グルジアはモンゴルの軍事ぐんじりょくには対抗たいこうできず、ギオルギ4せい緒戦しょせん重傷じゅうしょうい、1222ねんに31さいくなった。

モンゴルの支配しはいにもかかわらず、グルジア文化ぶんか開花かいかつづいた。画像がぞうウビサ修道院しゅうどういんフレスコ

ギオルギ4せいいもうとルスダン王位おうい継承けいしょうしたが、彼女かのじょには国政こくせい経験けいけんがなく、くに自体じたい遊牧民ゆうぼくみんすにはよわすぎた。1236ねんチョルマグンひきいるモンゴルぐんふたたびグルジアに侵攻しんこうすると、ルスダンはグルジア西部せいぶへの避難ひなん余儀よぎなくされた。東部とうぶ抵抗ていこうつづける貴族きぞく完全かんぜん消滅しょうめつさせられ、のこりの貴族きぞくはモンゴルに臣従しんじゅうみつぎぜい支払しはらった。モンゴルぐんスラミ山脈さんみゃくえなかったためグルジア西部せいぶ被害ひがいすくなく、ルスダンは危機ききだっした。その、ルスダンはローマ教皇きょうこうグレゴリウス9せい支援しえんもとめたが失敗しっぱいし、1243ねんにモンゴルに臣従しんじゅうした。

しかし、モンゴルのグルジア支配しはい磐石ばんじゃくではなく、はんモンゴル蜂起ほうき相次あいついだ。1259ねんダヴィド6せい英語えいごばんこした蜂起ほうきは30ねんデメトレ2せい英語えいごばん処刑しょけいされるまでつづき、そのダヴィド8せい英語えいごばん闘争とうそうつづけた。こうそうつづいているあいだイルハンあさ衰退すいたいし、ギオルギ5せい英語えいごばん治世ちせい結実けつじつした。ギオルギ5せいはイルハンあさへのみつぎぜい支払しはらいをめ、モンゴル侵攻しんこう以前いぜん領土りょうど回復かいふくひがしマ帝国まていこくヴェネツィア共和きょうわこくジェノヴァ共和きょうわこくとの貿易ぼうえき発展はってんさせ、さらにトレビゾンド帝国ていこくへの影響えいきょうりょくふたたつよめた。ギオルギ5せいはまた、エルサレムにあるいくつかの教会きょうかいグルジア正教会せいきょうかい返還へんかんさせ、グルジアじん巡礼じゅんれいしゃ聖地せいちへの通行つうこうけんみとめさせた。中世ちゅうせいグルジアでひろ使つかわれているエルサレム十字じゅうじ英語えいごばんはギオルギ5せい時代じだい考案こうあんされたものであり、それが現代げんだいグルジアの国旗こっきにも使つかわれた[19]

黒死病こくしびょう

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グルジアの政治せいじてき軍事ぐんじてき衰退すいたい原因げんいん黒死病こくしびょうわれている。黒死病こくしびょう1336ねんギオルギ5せい南西なんせいグルジアを遠征えんせいし、オルハン侵攻しんこう撃退げきたいしたときにもたらされた。この疫病えきびょうはグルジアの人口じんこう半分はんぶんちかくを死亡しぼうさせたという[20][21]。これにより、帝国ていこく軍事ぐんじりょく衰退すいたい物流ぶつりゅうおおきく阻害そがいされた。

王国おうこく解体かいたい

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1490ねんにおけるグルジアの3王国おうこく5公国こうこく

ギオルギ5せい治世ちせい1299ねん - 1302ねん1314ねん - 1346ねん)では王国おうこくがモンゴルの侵攻しんこうから回復かいふくし、ふたた繁栄はんえいするようにおもえたが、1386ねんから1403ねんまで8かいかぞえるティムール侵攻しんこう王国おうこくだい打撃だげきあたえた。最終さいしゅうてき王国おうこくは1490ねん崩壊ほうかいイメレティ王国おうこく英語えいごばん西にしグルジア)、カヘティ王国おうこく英語えいごばんひがしグルジア)、カルトリ王国おうこく(グルジア中部ちゅうぶから東部とうぶにかけて)に分裂ぶんれつし、バグラティオニあさ英語えいごばん分家ぶんけにあたる王族おうぞくがそれぞれの王位おういについた。王国おうこくのこりの領地りょうちは5つの公国こうこくにわかれ、グルジアの貴族きぞくおおやけ即位そくいした。

出典しゅってん注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ グルジア5都市としによる姉妹しまい都市とし提携ていけい希望きぼう ちゅうにちグルジア大使館たいしかん、2011ねん9がつ
  2. ^ Chufrin, Gennadiĭ Illarionovich (2001). The Security of the Caspian Sea Region. Stockholm, Sweden: Oxford University Press. p. 282. ISBN 0199250200. https://books.google.ge/books?id=UrSJl5rjdbkC 
  3. ^ Waters, Christopher P. M. (2013). Counsel in the Caucasus: Professionalization and Law in Georgia. New York City, USA: Springer. p. 24. ISBN 9401756201. https://books.google.ge/books?id=YX3wCAAAQBAJ 
  4. ^ Suny, Ronald Grigor (1994). The Making of the Georgian Nation. Bloomington, IN, USA: Indiana University Press. p. 87. ISBN 0253209153. https://books.google.ge/books?id=riW0kKzat2sC 
  5. ^ Ronald G. Suny (1996) Armenia, Azerbaijan, and Georgia DIANE Publishing pp. 157-158-160-182
  6. ^ Brisku, Adrian (2013). Bittersweet Europe: Albanian and Georgian Discourses on Europe, 1878-2008. NY, USA: Berghahn Books. p. 134. ISBN 0857459856. https://books.google.ge/books?id=1TPUAAAAQBAJ 
  7. ^ van der Zweerde, Evert (2013). Soviet Historiography of Philosophy: Istoriko-Filosofskaja Nauka. Berlin, Germany: Springer Science & Business Media. p. 140. ISBN 9401589437. https://books.google.ge/books?id=G959BwAAQBAJ 
  8. ^ (グルジア Javakhishvili, Ivane (1982), k'art'veli eris istoria (The History of the Georgian Nation), vol. 2, pp. 184-187. Tbilisi State University Press.
  9. ^ Cyril Toumanoff. Studies in Christian Caucasian history. Georgetown University Press, 1963. p 202
  10. ^ Donald Rayfield, "Davit II", in: Robert B. Pynsent, S. I. Kanikova (1993), Reader's Encyclopedia of Eastern European Literature, p. 82. HarperCollins, ISBN 0-06-270007-3.
  11. ^ Machitadze, Zacharia. Mirianashvili, Lado. Lives of the Georgian Saints. St. Herman of Alaska Brotherhood: 2006, p. 167
  12. ^ アレクシオスとダヴィドのはははタマル女王じょおういもうとにあたる。二人ふたりともグルジアでそだてられた。
  13. ^ Eastmond (1998), pp. 153–154.
  14. ^ Vasiliev (1935), pp. 15–19.
  15. ^ Antony Eastmond. Royal Imagery in Medieval Georgia. Penn State Press, 1998. p. 122
  16. ^ Pahlitzsch, Johannes, "Georgians and Greeks in Jerusalem (1099–1310)", in Ciggaar & Herman (1996), pp. 38–39.
  17. ^ Antony Eastmond. Royal Imagery in Medieval Georgia. Penn State Press, 1998. p. 122-123
  18. ^ David Marshall Land. The Lives and Legends of the Georgian Saints. London: Allen & Unwin, 1976, p. 11
  19. ^ D. Kldiashvili, History of the Georgian Heraldry, Parlamentis utskebani, 1997, p. 35.
  20. ^ IBP, Inc. (2012). Georgia Country Study Guide Volume 1 Strategic Information and Developments. Lulu.com. p. 44. ISBN 1438774435. https://books.google.ge/books?id=hQWWBQAAQBAJ 
  21. ^ West, Barbara A. (2010). Encyclopedia of the Peoples of Asia and Oceania. New York City, NY, USA: Infobase Publishing. p. 229. ISBN 1438119135. https://books.google.ge/books?id=pCiNqFj3MQsC 

関連かんれん項目こうもく

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