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座標 ざひょう : 北緯 ほくい 54度 ど 39分 ふん 東経 とうけい 21度 ど 04分 ふん / 北緯 ほくい 54.650度 ど 東経 とうけい 21.067度 ど / 54.650; 21.067
グヴァルジェイスクの紋章 もんしょう
グヴァルジェイスク (ロシア語 ご : Гварде́йск , Gvardeysk, リトアニア語 ご : Tepliava/Tepliuva , ポーランド語 ご : Tapiawa/Tapiewo )は、ロシア のカリーニングラード州 しゅう 中部 ちゅうぶ にある都市 とし 。人口 じんこう は1万 まん 4122人 にん (2021年 ねん )[1] 。
歴史 れきし 的 てき には東 ひがし プロイセン に属 ぞく し、1946年 ねん まではタピアウ (ドイツ語 ご : Tapiau ) の名 な で知 し られた。
グヴァルジェイスク空 そら 撮 つまみ
グヴァルジェイスクは、州都 しゅうと カリーニングラード (ケーニヒスベルク )の東 ひがし 38キロメートルの地点 ちてん にある。カリーニングラードからリトアニアのカウナス を経 へ てロシア本土 ほんど へ向 む かう幹線 かんせん 鉄道 てつどう と、国道 こくどう A229線 せん (ドイツ時代 じだい の国道 こくどう 1号線 ごうせん )が走 はし っている。またこの地方 ちほう 最大 さいだい の川 かわ であるプレゴリャ川 がわ (プレーゲル川 がわ )が流 なが れており、ここでデイマ川 がわ (デイメ川 がわ )が北 きた へ分流 ぶんりゅう している。
13世紀 せいき 後半 こうはん から14世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけて活動 かつどう したドイツ騎士 きし 団 だん の年代 ねんだい 記 き 作家 さっか 、デュイスブルクのペーター(Peter von Dusburg)は1254年 ねん の条 じょう で「タピオウ」(Tapiow)という集落 しゅうらく について言及 げんきゅう している。1265年 ねん には近 ちか くの砦 とりで スルグルビ(Surgurbi)もすでに建設 けんせつ されていた。タピアウとは古 こ プロイセン人 じん の言葉 ことば で「暖 あたた かい」を意味 いみ するtape, teplu, toplu, tapiから来 き たものと考 かんが えられ、砦 とりで の名 な は「山 やま のまわり」を意味 いみ する sur garbis から来 き たと考 かんが えられる。プロイセン人 じん の住 す むこの地 ち は、13世紀 せいき のプロイセン十字軍 じゅうじぐん によりドイツ騎士 きし 団 だん に征服 せいふく された。東 ひがし に住 す むナドロヴィア人 じん やスカロヴィア人 じん からプレーゲル河口 かこう 付近 ふきん の地 ち サムラントを守 まも るため、プレーゲル川 がわ とデイメ川 がわ の分流 ぶんりゅう 点 てん タピオウに1283年 ねん から1290年 ねん にかけて城 しろ が築 きず かれた。この城 しろ は1351年 ねん に石造 いしづく りの騎士 きし 団 だん の城 しろ (Ordensburg)、タピアウ城 じょう に建 た て替 か えられた。
グヴァルジェイスクのマルクト広場 ひろば
タピアウ城 じょう
ドイツ人 じん たちは城 しろ の周 まわ りの集落 しゅうらく もタピアウの名 な で呼 よ ぶようになった。1385年 ねん にはリトアニア大公 たいこう 国 こく の大公 たいこう ヴィタウタス がタピアウでキリスト教徒 きりすときょうと に改宗 かいしゅう し洗礼 せんれい を受 う けている。ドイツ騎士 きし 団 だん 総長 そうちょう の居城 きょじょう がマリエンブルク城 じょう からケーニヒスベルク城 じょう へ移 うつ った後 のち 、その東 ひがし 隣 となり にあるタピアウには1469年 ねん から1722年 ねん まで騎士 きし 団 だん の文書 ぶんしょ 館 かん と図書館 としょかん が置 お かれていた。
タピアウは1525年 ねん に騎士 きし 団 だん 領 りょう から成立 せいりつ したプロシア公 おおやけ 領 りょう の一部 いちぶ となった。以後 いご 、タピアウ城 じょう はプロイセン公 こう の第 だい 二 に の居城 きょじょう として使 つか われる。プロシア公 おおやけ 領 りょう を成立 せいりつ させた初代 しょだい プロイセン公 こう のアルブレヒト はタピアウで没 ぼっ した。1701年 ねん にはプロイセン王国 おうこく が成立 せいりつ し、1722年 ねん にタピアウはプロイセン王 おう フリードリヒ1世 せい から市 し の地位 ちい を得 え た。プロイセン王国 おうこく 時代 じだい のタピアウの地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区分 くぶん 上 じょう の地位 ちい は、東 ひがし プロイセン州 しゅう ヴェーラウ郡 ぐん (Landkreis Wehlau)の一部 いちぶ であった。周囲 しゅうい の農産物 のうさんぶつ の集散 しゅうさん 地 ち であったほか、食品 しょくひん 工業 こうぎょう や繊維 せんい などの軽工業 けいこうぎょう も栄 さか えた。
タピアウは他 た の東 ひがし プロイセン北部 ほくぶ の町 まち とは異 こと なり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (独 どく ソ戦 せん )末期 まっき の戦闘 せんとう における手 て ひどい破壊 はかい からは免 まぬか れた。1945年 ねん 1月 がつ 25日 にち には赤軍 せきぐん に占領 せんりょう された。戦争 せんそう が終 お わると東 ひがし プロイセン北部 ほくぶ はソビエト連邦 れんぽう に編入 へんにゅう され、1946年 ねん にはカリーニングラード州 しゅう の一部 いちぶ となり、タピアウは「グヴァルジェイスク」(守 まも りの町 まち )と改名 かいめい された。ドイツ人 じん 住民 じゅうみん は先 さき に避難 ひなん していった者 もの も多 おお かったが、残 のこ った者 もの もドイツへ追放 ついほう され、代 か わりにソ連 それん 各地 かくち からの移住 いじゅう 者 しゃ が入 はい ってきた。
グヴァルジェイスクには今 いま もドイツ時代 じだい の建物 たてもの が比較的 ひかくてき よく残 のこ っている。タピアウ時代 じだい の主要 しゅよう な出身 しゅっしん 者 しゃ はドイツにおける印象派 いんしょうは ・表現 ひょうげん 主義 しゅぎ の先駆 せんく 的 てき な画家 がか ロヴィス・コリント (Lovis Corinth, 1858年 ねん - 1925年 ねん )で、1910年 ねん には町 まち の教会 きょうかい の祭壇 さいだん に絵画 かいが を寄贈 きぞう しているが第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 末期 まっき に行方 ゆくえ 不明 ふめい になった。コリントの生家 せいか は今 いま もグヴァルジェイスクに建 た つ。
主 おも な見 み どころとしては1502年 ねん に創建 そうけん された教会堂 きょうかいどう のほか、タピアウ城跡 じょうせき がある。タピアウ城 じょう の建物 たてもの は1879年 ねん に修復 しゅうふく され孤児 こじ 院 いん となり、ソ連 それん 時代 じだい には刑務所 けいむしょ としても用 もち いられていた。