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グヴァルジェイスク

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標ざひょう: 北緯ほくい5439ふん 東経とうけい2104ふん / 北緯ほくい54.650 東経とうけい21.067 / 54.650; 21.067

グヴァルジェイスクの紋章もんしょう

グヴァルジェイスクロシア: Гварде́йск, Gvardeysk, リトアニア: Tepliava/Tepliuva, ポーランド: Tapiawa/Tapiewo)は、ロシアカリーニングラードしゅう中部ちゅうぶにある都市とし人口じんこうは1まん4122にん(2021ねん[1]

歴史れきしてきにはひがしプロイセンぞくし、1946ねんまではタピアウドイツ: Tapiau) のられた。

地理ちり

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グヴァルジェイスクそらつまみ

グヴァルジェイスクは、州都しゅうとカリーニングラードケーニヒスベルク)のひがし38キロメートルの地点ちてんにある。カリーニングラードからリトアニアのカウナスてロシア本土ほんどかう幹線かんせん鉄道てつどうと、国道こくどうA229せん(ドイツ時代じだい国道こくどう1号線ごうせん)がはしっている。またこの地方ちほう最大さいだいかわであるプレゴリャがわ(プレーゲルがわ)がながれており、ここでデイマがわ(デイメがわ)がきた分流ぶんりゅうしている。

歴史れきし

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13世紀せいき後半こうはんから14世紀せいき前半ぜんはんにかけて活動かつどうしたドイツ騎士きしだん年代ねんだい作家さっか、デュイスブルクのペーター(Peter von Dusburg)は1254ねんじょうで「タピオウ」(Tapiow)という集落しゅうらくについて言及げんきゅうしている。1265ねんにはちかくのとりでスルグルビ(Surgurbi)もすでに建設けんせつされていた。タピアウとはプロイセンじん言葉ことばで「あたたかい」を意味いみするtape, teplu, toplu, tapiからたものとかんがえられ、とりでは「やまのまわり」を意味いみする sur garbis からたとかんがえられる。プロイセンじんむこのは、13世紀せいきのプロイセン十字軍じゅうじぐんによりドイツ騎士きしだん征服せいふくされた。ひがしむナドロヴィアじんやスカロヴィアじんからプレーゲル河口かこう付近ふきんサムラントをまもるため、プレーゲルがわとデイメがわ分流ぶんりゅうてんタピオウに1283ねんから1290ねんにかけてしろきずかれた。このしろ1351ねん石造いしづくりの騎士きしだんしろ(Ordensburg)、タピアウじょうえられた。

グヴァルジェイスクのマルクト広場ひろば
タピアウじょう

ドイツじんたちはしろまわりの集落しゅうらくもタピアウのぶようになった。1385ねんにはリトアニア大公たいこうこく大公たいこうヴィタウタスがタピアウでキリスト教徒きりすときょうと改宗かいしゅう洗礼せんれいけている。ドイツ騎士きしだん総長そうちょう居城きょじょうマリエンブルクじょうからケーニヒスベルクじょううつったのち、そのひがしとなりにあるタピアウには1469ねんから1722ねんまで騎士きしだん文書ぶんしょかん図書館としょかんかれていた。

タピアウは1525ねん騎士きしだんりょうから成立せいりつしたプロシアおおやけりょう一部いちぶとなった。以後いご、タピアウじょうはプロイセンこうだい居城きょじょうとして使つかわれる。プロシアおおやけりょう成立せいりつさせた初代しょだいプロイセンこうアルブレヒトはタピアウでぼっした。1701ねんにはプロイセン王国おうこく成立せいりつし、1722ねんにタピアウはプロイセンおうフリードリヒ1せいから地位ちいた。プロイセン王国おうこく時代じだいのタピアウの地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんじょう地位ちいは、ひがしプロイセンしゅうヴェーラウぐん(Landkreis Wehlau)の一部いちぶであった。周囲しゅうい農産物のうさんぶつ集散しゅうさんであったほか、食品しょくひん工業こうぎょう繊維せんいなどの軽工業けいこうぎょうさかえた。

タピアウはひがしプロイセン北部ほくぶまちとはことなり、だい世界せかい大戦たいせんどくせん末期まっき戦闘せんとうにおけるひどい破壊はかいからはまぬかれた。1945ねん1がつ25にちには赤軍せきぐん占領せんりょうされた。戦争せんそうわるとひがしプロイセン北部ほくぶソビエト連邦れんぽう編入へんにゅうされ、1946ねんにはカリーニングラードしゅう一部いちぶとなり、タピアウは「グヴァルジェイスク」(まもりのまち)と改名かいめいされた。ドイツじん住民じゅうみんさき避難ひなんしていったものおおかったが、のこったものもドイツへ追放ついほうされ、わりにソ連それん各地かくちからの移住いじゅうしゃはいってきた。

文化ぶんか

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グヴァルジェイスクにはいまもドイツ時代じだい建物たてもの比較的ひかくてきよくのこっている。タピアウ時代じだい主要しゅよう出身しゅっしんしゃはドイツにおける印象派いんしょうは表現ひょうげん主義しゅぎ先駆せんくてき画家がかロヴィス・コリント(Lovis Corinth, 1858ねん - 1925ねん)で、1910ねんにはまち教会きょうかい祭壇さいだん絵画かいが寄贈きぞうしているがだい大戦たいせん末期まっき行方ゆくえ不明ふめいになった。コリントの生家せいかいまもグヴァルジェイスクにつ。

おもどころとしては1502ねん創建そうけんされた教会堂きょうかいどうのほか、タピアウ城跡じょうせきがある。タピアウじょう建物たてもの1879ねん修復しゅうふくされ孤児こじいんとなり、ソ連それん時代じだいには刑務所けいむしょとしてももちいられていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ city population”. 2023ねん5がつ6にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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