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ケネソーさんたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケネソーさんたたか
Battle of Kennesaw Mountain
南北戦争なんぼくせんそうなか

"ケネソーの砲撃ほうげき、64ねん"、戦争せんそう特派とくはいんアルフレッド・ウォードのスケッチ、デジタル修復しゅうふくずみ
とき1864ねん6がつ27にち (1864-06-27)
場所ばしょジョージアしゅうコブぐん
結果けっか みなみぐん勝利しょうり[1]
衝突しょうとつした勢力せいりょく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ きたぐん アメリカ連合国の旗 みなみぐん
指揮しきかん
ウィリアム・シャーマン ジョセフ・ジョンストン
部隊ぶたい
テネシーぐん
カンバーランドぐん
オハイオぐん
テネシーぐんみなみぐん
戦力せんりょく
16,225めい[2] 17,733めい[2]
被害ひがいしゃすう
3,000めい[3] 1,000めい[3]

ケネソーさんたたか(ケネソーさんのたたかい、えい: Battle of Kennesaw Mountain)は、南北戦争なんぼくせんそうアトランタ方面ほうめん作戦さくせんなかの1864ねん6がつ27にちジョージアしゅうコブぐんおこなわれた戦闘せんとうである。きたぐんウィリアム・シャーマン少将しょうしょうみなみぐんジョセフ・ジョンストン将軍しょうぐん指揮しきするテネシーぐんたいして苛烈かれつ正面しょうめん攻撃こうげき仕掛しかけたが、いた敗北はいぼくわった。

1864ねんにシャーマンがアトランタたいしてった方面ほうめん作戦さくせんは、当初とうしょからジョンストンぐん側面そくめんまわ操作そうさつづいており、その操作そうさたびみなみぐん強力きょうりょく防御ぼうぎょされた陣地じんちから撤退てったいいることとなったが、りょうぐんともおおきな被害ひがいすことはかった。そのような操作そうさで2ヶ月かげつぎ、110キロメートルを移動いどうしてのち、シャーマンぐんケネソーにあるケネソーさん(550m)という要塞ようさいした高地こうちふさがれ、これまでの戦術せんじゅつとはことなるだい規模きぼ正面しょうめん攻撃こうげきおこなうという戦術せんじゅつえらんだ。ケネソーさん北端ほくたんたいしてジェイムズ・マクファーソン少将しょうしょうテネシーぐん陽動ようどう行動こうどうおこない、一方いっぽうジョン・A・ローガン少将しょうしょう軍団ぐんだんがその南西なんせいすみにあるピジョンヒルを攻撃こうげきした。これと同時どうじジョージ・ヘンリー・トーマス少将しょうしょうカンバーランドぐんみなみぐん前線ぜんせん中央ちゅうおうにあるチーザムヒルにたいして強力きょうりょく攻撃こうげきけた。この2つの攻撃こうげきともおおくの損失そんしつして撃退げきたいされたが、ジョン・マカリスター・スコフィールド少将しょうしょうオハイオぐん陽動ようどう行動こうどうおこなってみなみぐん左翼さよくおびやかすという戦略せんりゃく成功せいこうした。みなみぐんはケネソーやまてて、さらにアトランタいちちかづく撤退てったいおこない、しかもジョンストンはテネシーぐん指揮しきはずされた。

背景はいけい[編集へんしゅう]

1864ねん3がつきたぐんユリシーズ・グラント中将ちゅうじょう昇進しょうしんし、きたぐんそう司令しれいかん指名しめいされた。みなみぐんたいして多方面たほうめんから同時どうじ攻勢こうせいける戦略せんりゃく考案こうあんし、内陸ないりく戦線せんせんみなみぐんかくぐん相互そうご補強ほきょううことがくなるのを期待きたいしていた。その攻勢こうせいなかでも重要じゅうようなものは、ジョージ・ミード少将しょうしょうポトマックぐんにグラント自身じしん同行どうこうし、ロバート・E・リー将軍しょうぐんきたバージニアぐん直接ちょくせつ攻撃こうげきけながら、アメリカ連合れんごうこく首都しゅとリッチモンドせまってくものだった。またそれとおな重要じゅうようがあったのが、ウィリアム・シャーマン少将しょうしょうのミシシッピ方面ほうめんぐんテネシーしゅうチャタヌーガからアトランタにすす作戦さくせんだった。ミシシッピ方面ほうめんぐん以前いぜんにグラントが指揮しきしていたものをシャーマンにがせていた[4]

グラントもシャーマンも当初とうしょみなみぐん主要しゅよう軍隊ぐんたい交戦こうせんしてそれを破壊はかいするという目標もくひょうっており、てき重要じゅうよう都市とし占領せんりょうすることはてきなものであり、支援しえんてき役割やくわりかんがえていた。これはエイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょうがこの戦争せんそうつうじて強調きょうちょうして戦略せんりゃくであったが、グラントがその戦略せんりゃく積極せっきょくてき協調きょうちょうした最初さいしょ将軍しょうぐんになった。しかし、その方面ほうめん作戦さくせん進行しんこうするにれて、リッチモンドやアトランタ政治せいじてき重要じゅうようせい戦略せんりゃくおおきな部分ぶぶんめはじめた。1864ねんまでにアトランタが重要じゅうよう標的ひょうてきになっていた。この人口じんこう2まんにん都市としは4つの重要じゅうよう鉄道てつどう交差こうさするところにつくられており、鉄道てつどうみなみぐん物資ぶっし供給きょうきゅうする手段しゅだんであり、またその沿線えんせんには武器ぶき製造せいぞう工場こうじょうもあった。アトランタは「南部なんぶ入口いりくち都市とし」というニックネームがあり、それを占領せんりょうすることはディープサウス全体ぜんたい事実じじつじょうれるみちひらくことを意味いみしていた。グラントがシャーマンにあたえた命令めいれいは「ジョンストンの軍隊ぐんたいたいして行動こうどうし、それを破壊はかいし、できるだけ敵国てきこく内部ないぶはいみ、その戦争せんそう遂行すいこうのための資源しげんたいしてできるかぎりの損傷そんしょうあたえること」とされていた[5]

シャーマンぐん戦力せんりょくやく10まんめいであり、3つのぐんがあった。テネシーぐん当初とうしょはグラントが指揮しきし、の1862ねんから1863ねんはシャーマンが指揮しきした)はジェイムズ・マクファーソン少将しょうしょう指揮しきした。カンバーランドぐんはジョージ・ヘンリー・トーマス少将しょうしょう指揮しきしていた。比較的ひかくてきちいさなオハイオぐんだい23軍団ぐんだんのみで構成こうせいされ、ジョン・マカリスター・スコフィールド少将しょうしょう指揮しきした。みなみぐんはテネシーぐんであり、不人気ふにんきだったブラクストン・ブラッグ将軍しょうぐんが1863ねん11月のだいさんチャタヌーガのたたか敗北はいぼくきっしたのちで、ジョセフ・ジョンストン将軍しょうぐん指揮しきわっていた。総勢そうぜい5まんめいぐんは、ウィリアム・J・ハーディ中将ちゅうじょうジョン・ベル・フッド中将ちゅうじょうレオニダス・ポーク中将ちゅうじょう指揮しきする歩兵ほへい軍団ぐんだんジョセフ・ウィーラー少将しょうしょう指揮しきする騎兵きへい軍団ぐんだん構成こうせいされていた[6]

アトランタ方面ほうめん作戦さくせん開始かいし[編集へんしゅう]

アトランタ方面ほうめん作戦さくせん概観がいかん
  みなみぐん
  きたぐん
ケネソーさん大砲たいほうげるみなみ軍兵ぐんびょう

シャーマンのアトランタ方面ほうめん作戦さくせんは、その3ぐんがチャタヌーガ近郷きんごう出発しゅっぱつした1864ねん5がつ7にちはじまった。ロッキーフェイスリッジと名付なづけられたながたかやま沿ったジョンストンの陣地じんちたいして示威じい攻撃こうげきけ、一方いっぽう、マクファーソンのテネシーぐんひそかにジョンストンぐん左翼さよくまわんでレサカのまちとジョンストンぐん供給きょうきゅうせんであるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道てつどう方向ほうこうすすんだ。シャーマンにとって不幸ふこうだったのは、マクファーソンぐんがレサカの郊外こうがい塹壕ざんごうはいったちいさなみなみぐん部隊ぶたい遭遇そうぐうし、慎重しんちょうにスネイククリークギャップまでいたので、みなみぐんわなける機会きかいうしなってしまったことだった。シャーマンがそのぜんぐんをレサカの方向ほうこうけると、ジョンストンはそこでじんるために後退こうたいした。5月14にちから15のレサカのたたかいで全面ぜんめんてき対決たいけつきたが決着けっちゃくかず、シャーマンはウースタナラーがわわたって再度さいどジョンストンぐん側面そくめんまわった。ジョンストンぐん再度さいど後退こうたいし、5月17にちにはアデアーズビルで小競こぜいがあり、5月18にちから19にちにはジョンストンぐんのカスビル前線ぜんせんでよりおおきな戦闘せんとうがあった。ジョンストンはシャーマンぐんおおくのルートをちかづいてるのでその一部分いちぶぶんやぶろうと作戦さくせんてたが、フッドが性格せいかくあわず慎重しんちょうであり、包囲ほういされるのをおそれ、命令めいれいされたとおり攻撃こうげきできなかった。ジョンストンはフッドとポークにうながされて再度さいど後退こうたい命令めいれいし、今度こんどはエトワがわわたった[7]

ジョンストンぐんはカーターズビルのみなみにあるアラトゥーナとうげ防御ぼうぎょてき陣地じんちいたが、シャーマンは再度さいどジョンストンぐん左翼さよくまわり、一時いちじてき供給きょうきゅうせんである鉄道てつどう放棄ほうきしてダラスのまちすすんだ。ジョンストンはその強固きょうこ防衛ぼうえい陣地じんちからの移動いどういられ、けた戦場せんじょうでシャーマンぐんたいすることになった。5月25にちのニューホープ教会きょうかいたたかい、5月27にちのピケッツミルのたたかい、5月28にちのダラスのたたかいとはげしいたたかいがつづいたが、決着けっちゃくかなかった。6月1にちまでにはげしいあめ道路どうろ泥沼どろぬまえており、シャーマンは補給ほきゅうのために鉄道てつどうのあるところまでもどることをいられた。ジョンストンのあたらしい前線ぜんせん(ブラッシーさん戦線せんせんばれた)は6がつ4にちまでにマリエッタの北西ほくせい構築こうちくされ、ロストさん、パインさん、ブッシュやま沿っていた。6月14にちあめが11日間にちかんつづいたのち、シャーマンは再度さいどうご準備じゅんび出来できていた。みずかてきぐん偵察ていさつしたときに、パインやまみなみぐん士官しかん集団しゅうだん視認しにんしており、配下はいか砲兵ほうへい大隊だいたいの1つに砲撃ほうげきめいじた。このとき、「たたか主教しゅきょう」ともばれたレオニダス・ポーク中将ちゅうじょう戦死せんしし、ジョンストンはパインやまから部隊ぶたい撤退てったいさせ、ケネソーさんからリトルケネソーやままでアーチじょうをした防衛ぼうえいせんあたらしい陣地じんち構築こうちくした。6月22にち、フッドの軍団ぐんだんがリトルケネソーやまみなみにあるピーター・コルブの農園のうえん攻撃こうげきこころみたが失敗しっぱいした(コルブ農園のうえんたたか)。ウィリアム・W・ローリング少将しょうしょうがポークの軍団ぐんだんいだ[8]

シャーマンはむずかしい位置いちにいた。アトランタのきた15マイル (24 km) で往生おうじょうしていた。道路どうろとおれないためにジョンストンぐん側面そくめんまわむという戦略せんりゃくつづけられず、補給ほきゅうせんである鉄道てつどうたかさ691フィート (211 m) のケネソーやまにあるジョンストンぐん陣地じんち見下みおろされていた。ワシントンには「くに全体ぜんたいが1つの広大こうだいとりでであり、ジョンストンはすくなくとも50マイル (80 km) の連結れんけつされた塹壕ざんごう逆茂木さかもぎ完成かんせいした砲台ほうだいそなえている。我々われわれ日々ひび地歩ちほ確保かくほし、つねたたかっている...いま前線ぜんせん近距離きんきょりにあり、かなりのりょう大砲たいほうとのたたかいのがない。」と報告ほうこくした。シャーマンはケネソーさんのジョンストン軍陣ぐんじん攻撃こうげきすることでこの手詰てづまりを打開だかいすることにめた。6月24にちに、27にち午前ごぜん8から攻撃こうげきはじめるという命令めいれいした[9]

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

シャーマンの作戦さくせんでは、まずスコフィールドにみぎ展開てんかいさせて、ジョンストンの前線ぜんせんうすよわくさせようとした。つづいてマクファーソンがさい左翼さよく、マリエッタの北側きたがわ郊外こうがいとケネソーさん北東ほくとうはしで、その騎兵隊きへいたい歩兵ほへい1個いっこ師団しだん陽動ようどう行動こうどうおこない、リトルケネソーさん北西ほくせいはししゅたる襲撃しゅうげきおこなうこととした。一方いっぽう、トーマスのカンバーランドぐんみなみぐん防御ぼうぎょせん中央ちゅうおう攻撃こうげきおこない、スコフィールドはみなみぐん左翼さよく陽動ようどう行動こうどうおこない、「成功せいこう見込みこみをられれば」パウダースプリングス道路どうろちかくのどこかで攻撃こうげきおこなうこととされていた[10]

6月27にち午前ごぜん8きたぐん大砲たいほう200もん以上いじょうみなみぐん工作こうさくぶつたいしてはげしい砲撃ほうげき開始かいしし、みなみぐん大砲たいほうもすぐにおうじた。ジョセフ・S・フラートン中佐ちゅうさは、「ケネソーさんけむり、き、エトナやまほどおおきな火山かざんになった」としるした。きたぐん歩兵ほへい部隊ぶたいもなくうごはじめると、みなみぐんぐに、はば8マイル (13 km) にわたる前進ぜんしん協調きょうちょうした襲撃しゅうげきうよりも示威じい行動こうどうであると判断はんだんした。その襲撃しゅうげきなかでも最初さいしょのものは8時半じはんごろに、モーガン・L・スミスじゅんしょう師団しだん(テネシーぐんぞくするジョン・A・ローガン少将しょうしょうだい15軍団ぐんだん所属しょぞく)の3旅団りょだんが、リトルケネソー山南さんなんはしとバーントヒッコリー道路どうろちかいピジョンヒルとばれる尾根おねにいたローリング軍団ぐんだんかってった。この攻撃こうげき成功せいこうしてピジョンヒルを確保かくほできれば、ローリング軍団ぐんだんをケネソーさん孤立こりつさせられるはずだった。3旅団りょだんすべてがふかやぶ急峻きゅうしゅんいわおお斜面しゃめん、さらには地形ちけいかんする知識ちしきいままに接近せっきんするという不利ふり状況じょうきょうにあった。やく5,500めいきた軍兵ぐんびょう連隊れんたいの2れつ縦隊じゅうたいになって、やく5,000めいみなみ軍兵ぐんびょう、しかも塹壕ざんごうはいっている兵士へいしかってった[11]

スミスたい攻撃こうげき右手みぎてでは、ジョセフ・J・ライトバーンじゅんしょう旅団りょだんが、ひざまでかる湿地しっちとおっての前進ぜんしんいられており、ピジョンヒル南端なんたんみなみぐん胸壁きょうへきすこまえで、たてしゃにあって往生おうじょうした。この部隊ぶたい工作こうさくぶつ前面ぜんめん射撃しゃげきごう制圧せいあつできたが、みなみぐんほん前線ぜんせんそのものは突破とっぱできなかった。その左翼さよくでは、チャールズ・C・ウォルカット大佐たいさとジャイルズ・アレクサンダー・スミスじゅんしょうかく旅団りょだんけわしいがけ散開さんかいしたおおきないわさえぎられたむずかしい地形ちけいえ、みなみぐんフランシス・コックレルじゅんしょうのミズーリ旅団りょだん接近せっきんしていた。その兵士へいしたちいくらかは逆茂木さかもぎところまでいていたが、おおくはそこまでたっせずにうごけなくなり、樹木じゅもくいわかげから発砲はっぽうしていた。ローガン将軍しょうぐん進行しんこう具合ぐあいるためにうますすむと、部隊ぶたいへいおおくが「どうしようもない」状態じょうたいになっていると判断はんだんし、ウォルカットとスミスに撤退てったいして、前線ぜんせんけるたに背後はいご塹壕ざんごうはいらせるようめいじた[12]

やく2マイル (3 km) みなみでは、トーマスぐん予定よていおくれていたが、午前ごぜん9にハーディ軍団ぐんだんたいするしゅ攻撃こうげきはじめた。カンバーランドぐんのジョン・ニュートンじゅんはたオリバー・O・ハワード少将しょうしょうだい4軍団ぐんだん所属しょぞく)とジェファーソン・C・デイビスじゅんはた(ジョン・M・パーマー少将しょうしょうだい14軍団ぐんだん所属しょぞく)の指揮しきする2師団しだんやく9,000めい通常つうじょうあるよこひろがった戦闘せんとう隊形たいけいではなく、縦隊じゅうたい前進ぜんしんし、みなみぐんベンジャミン・F・チーザム少将しょうしょうパトリック・クリバーン少将しょうしょう師団しだんかった。みなみぐん今日きょう「チーザムヒル」とばれる場所ばしょ塹壕ざんごうはいっていた。ニュートンたい左手ひだりてにはジョージ・D・ワグナーじゅんしょう旅団りょだんが、ふか下生したばえをいて攻撃こうげきしたが逆茂木さかもぎはげしい銃撃じゅうげき突破とっぱできなかった。その右手みぎてでは、チャールズ・G・ハーカーじゅんしょう旅団りょだんみなみぐんアルフレッド・ボーンじゅんしょうのテネシー旅団りょだん突撃とつげきしたが撃退げきたいされた。その2かい突撃とつげきちゅうに、ハーカーが致命傷ちめいしょうった[13]

ケネソーさんみなみぐん陣地じんち
ケネソー山麓さんろくきたぐん塹壕ざんごう

ニュートンたい右手みぎてにいたデイビスの師団しだん縦隊じゅうたい前進ぜんしんしていた。このようなうごきはせま地点ちてんたいしてちから集中しゅうちゅうすることで素早すばや突破とっぱおこな機会きかい提供ていきょうするが、てき重砲じゅうほうおおきく集中しゅうちゅうされる標的ひょうてきとなる欠点けってんもある。かれらがけた命令めいれいしずかに前進ぜんしんし、工作こうさくぶつ占領せんりょうし、その喝采かっさいして、予備よび師団しだん前進ぜんしんして鉄道てつどう確保かくほなんぐんを2つに切断せつだんするという信号しんごうあたえることだった。ダニエル・マクック大佐たいさ旅団りょだん斜面しゃめんりてクリークまで前進ぜんしんし、そのしょう麦畑むぎばたけ横切よこぎり、チーザムヒルの斜面しゃめんのぼった。この部隊ぶたいみなみぐん工作こうさくぶつからすうヤード手前てまえまで到達とうたつすると、前線ぜんせん停止ていしし、うずくまり、発砲はっぽうはじめた。しかしみなみぐん反撃はんげきがあまりに強力きょうりょくであり、マクックの旅団りょだん2人ふたり指揮しきかん(マクックと後任こうにんになるはずだったオスカー・F・ハーモン大佐たいさ)、野戦やせん士官しかんのほとんど全員ぜんいん兵士へいしの3ぶんの1をうしなった。マクックはみなみぐん胸壁きょうへきでそのけんき、「降伏ごうぶくしろ、おまえたち反逆はんぎゃくしゃ!」とさけんだとき戦死せんしした。マクックたい右手みぎてにいたジョン・G・ミッチェル大佐たいさ旅団りょだん同様どうよう損失そんしつこうむった。おそろしい白兵戦はくへいせんきたのちきた軍兵ぐんびょうみなみぐんかいにある塹壕ざんごうはいり、戦闘せんとう午前ごぜん1045ふんごろんだ。りょうぐんともにその場所ばしょを「デッドアングル(死角しかく)」と名付なづけた[14]

デイビス師団しだん右手みぎてでは、ジョセフ・フッカー少将しょうしょうだい20軍団ぐんだんぞくするジョン・W・ギアリー少将しょうしょう師団しだん前進ぜんしんしていたが、デイビスの攻撃こうげきにはくわわらなかった。しかしそのかなり右手みぎてではその唯一ゆいいつ成功せいこうきた。スコフィールドのぐんみなみぐん左翼さよく示威じい行動こうどうおこなうようけられており、2旅団りょだん抵抗ていこうされずにオリーズ・クリークをえておくすことができていた。そのうごきは、スコフィールドの右手みぎてジョージ・ストーンマン少将しょうしょう騎兵きへい師団しだん前進ぜんしんしたこととともに、きたぐんをアトランタをまも最後さいごかわだったチャタフーチーかわから5マイル (8 km) までちかづけ、ジョンストンぐんのどの部隊ぶたいよりもちかづいたことになった[15]

たたかいののち[編集へんしゅう]

シャーマンぐんやく3,000めい損失そんしつし、たいするジョンストンぐんやく1,000めいだった[3]。シャーマンは当初とうしょこれら損失そんしつでもくじけず、トーマスに2襲撃しゅうげき再開さいかいするようもとめた。「ぐん損失そんしつちいさい。東部とうぶ戦闘せんとうくらべればだ」とっていた。しかし「チカマウガのいわ」とあだされたトーマスは、「このような襲撃しゅうげきをあと1かいあるいは2かいやれば、この軍隊ぐんたい使つかたしてしまう」とこたえた。その数日すうじつ、シャーマンはつまてて「わたしすうせんめい兵士へいし遺体いたいちいさなこと、あるしゅあさのダッシュとしてなしはじめている」とかなしげにおくった[16]

この戦争せんそうで、ケネソーさんたたかいはシャーマンにとって最初さいしょ正面しょうめん攻撃こうげきではなかったが[17]、これが最後さいごのものになった。シャーマンはアトランタ方面ほうめん作戦さくせんにおける一連いちれんまわ操作そうさ上記じょうきのような兵站へいたんじょう理由りゆうにあると解釈かいしゃくしたが、その採用さいようした戦術せんじゅつについてジョンストンに推測すいそくつづけさせるという意味合いみあいもあった。その戦闘せんとうかんする報告ほうこくしょでは、「てきぐん士官しかんたちが、わたし防御ぼうぎょほどこされた前線ぜんせん襲撃しゅうげきさせることはないと確信かくしんするところにいたとわたし認識にんしきした。わたしえるのは側面そくめん攻撃こうげきすべてである。効率こうりつてきであろうとする軍隊ぐんたい攻撃こうげきも1つのかたちくことはないが、成功せいこう約束やくそくする作戦さくせん実行じっこうできるようにそなえねばならない。それゆえに、士気しきげる意味いみでも、胸壁きょうへき背後はいごにいるてきたいして襲撃しゅうげき成功せいこうさせたいのであり、成功せいこう勝利しょうり最大さいだい成果せいかあたえるのであれば、あの時点じてんでやってみようと判断はんだんした」としるしていた[18]

ケネソーさん通常つうじょうきたぐん戦術せんじゅつてき重大じゅうだい敗北はいぼくなされるが、歴史れきしのリチャード・M・マクマリーは、「戦術せんじゅつてきにジョンストンはローリングとハーディの前線ぜんせんちいさな防御ぼうぎょ勝利しょうりた。しかし、スコフィールドの成功せいこうによってシャーマンぐんおおきな利点りてんあたえ、シャーマンはぐにそれにることを判断はんだんした」としるした。りょうぐんたがいに至近しきん距離きょり見合みあったまま5日間にちかんごしたが、7がつ2にちになるとなつ良好りょうこう天候てんこうちかづき、シャーマンはテネシーぐんとストーンマンの騎兵隊きへいたいみなみぐん左翼さよくおくったので、ジョンストンぐんはケネソーやまからスマーナの用意よういされた陣地じんち後退こうたいすることをいられた[19]

7がつ8にち、シャーマンは再度さいどジョンストンぐんまわんだが、このときはじめて右手みぎてまわんだ。スコーフィールドのぐんにソープ・クリーク河口かこうちかくでチャタフーチーがわえさせた。アトランタにはいるためには最後さいごおおきな地形ちけいてき障害しょうがい克服こくふくされた。アメリカ連合れんごうこく大統領だいとうりょうジェファーソン・デイヴィスは、アトランタせまった危険きけん警鐘けいしょうけ、みなみぐん撤退てったいつづける戦略せんりゃく不満ふまんっており、7がつ17にちづけでジョンストンを指揮しきかんから解任かいにんし、後任こうにんにはジョン・ベル・フッドえた。フッドは暫定ざんていてき大将たいしょう昇進しょうしんした。フッドは7がつ20日はつかピーチツリークリークのたたかどう22にちアトランタのたたかどう28にちのエズラ教会きょうかいたたかいで、シャーマンぐんたいする攻撃こうげきおこなったが、そのすべてでおおきな損失そんしつし、しかも戦術せんじゅつてきるものがなかった。シャーマンはアトランタを8がついちはい包囲ほういしたが、ほぼそのぜんぐんみなみまわして、最後さいごまでつながっていた鉄道てつどう遮断しゃだんさせた。8月31にちと9がつ1にちジョーンズバラのたたかで、フッドは再度さいどその鉄道てつどうすくうために攻撃こうげきしたが成功せいこうせず、アトランタをわたすしかなくなった。シャーマンぐんは9月2にちにアトランタ市内しないはいり、リンカーン大統領だいとうりょうてて、「アトランタは我々われわれのものです。かなりの勝利しょうりです」と電報でんぽうった。この成果せいかがリンカーンを11月の選挙せんきょ大統領だいとうりょう再選さいせんさせる重要じゅうよう要素ようその1つになったとわれている[20]

今日きょう戦場せんじょうあと[編集へんしゅう]

ケネソーさんたたか戦場せんじょうあと現在げんざいケネソーやま国立こくりつ戦場せんじょうあと公園こうえん一部いちぶとなり、みなみぐんやまいただききずいた塹壕ざんごうと、きたぐん射撃しゃげきごういくらかが現在げんざいられる[21]

大衆たいしゅう文化ぶんかなか[編集へんしゅう]

メジャーリーグベースボール初代しょだいコミッショナーケネソー・マウンテン・ランディス判事はんじはケネソーさんにちなんで名付なづけられていたが、つづりはちがっていた、医者いしゃであるそのちちきたぐんたたかい、この戦闘せんとうあしをほとんどくしたとされている[22]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ NPS
  2. ^ a b Livermore, pp. 120–21. Eicher, pp. 696–97, gives total army strengths at the beginning of the campaign as 98,500 Union, 50,000 Confederate.
  3. ^ a b c NPS; McMurry, p. 109; Bailey, p. 74. Albert Castel's definitive campaign history lists (p. 319) Union casualties broken down as Logan's corps 586, Newton's 654, and Davis's 824; 17 missing from Logan's corps and approximately 300 prisoners from Newton's and Davis's divisions; 57 and 200 casualties respectively in the XVI and XVII Corps while demonstrating against the Confederate right; and approximately 300 for backup units of the IV and XIV Corps and skirmishers of the XX and XXIII Corps.
  4. ^ Eicher, p. 661; McPherson, p. 722.
  5. ^ Bailey, pp. 20–21; Eicher, pp. 696–97.
  6. ^ Eicher, pp. 696–97.
  7. ^ Kennedy, pp. 326–31.
  8. ^ Luvaas and Nelson, pp. 173–246; Kennedy, p. 336.
  9. ^ Kennedy, p. 336; Welcher, pp. 447–48.
  10. ^ Welcher, p. 449: Brig. Gen. Kenner Garrard's cavalry and Brig. Gen. Mortimer D. Leggett's infantry division of Maj. Gen. Francis P. Blair, Jr.'s XVII Corps.
  11. ^ Bailey, p. 66; Welcher, p. 449.
  12. ^ Castel, pp. 311–13; Kennedy, p. 338.
  13. ^ Kennedy, p. 338; Bailey, pp. 69–70.
  14. ^ Welcher, pp. 450–51; Kennedy, p. 338; Bailey, p. 74.
  15. ^ Welcher, p. 451.
  16. ^ McMurry, p. 111.
  17. ^ Sherman frontal-assaulted at Battle of Chickasaw Bayou and at Siege of Vicksburg during the Vicksburg Campaign and on the northern end of Battle of Missionary Ridge in Chattanooga. All these efforts were unsuccessful.
  18. ^ Liddell Hart, p. 266.
  19. ^ McMurry, pp. 110, 113.
  20. ^ Kennedy, pp. 339–43; McPherson, pp. 774–75. The other two significant factors contributing to Lincoln's reelection were the capture of Mobile Bay by Adm. David Farragut and the defeat of Lt. Gen. Jubal Early's Confederate army in the Shenandoah Valley by Philip Sheridan.
  21. ^ Kennesaw Mountain National Battlefield Park
  22. ^ David Pietrusza, Judge and Jury: The Life and Times of Judge Kenesaw Mountain Landis, South Bend, IN: Diamond Communications, 1998. ISBN 978-1-888698-09-1. pp. 1–3.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Bailey, Ronald H., and the Editors of Time-Life Books. Battles for Atlanta: Sherman Moves East. Alexandria, VA: Time-Life Books, 1985. ISBN 0-8094-4773-8.
  • Castel, Albert. Decision in the West: The Atlanta Campaign of 1864. Lawrence: University Press of Kansas, 1992. ISBN 0-7006-0748-X.
  • Eicher, David J. The Longest Night: A Military History of the Civil War. New York: Simon & Schuster, 2001. ISBN 0-684-84944-5.
  • Kennedy, Frances H., ed. The Civil War Battlefield Guide. 2nd ed. Boston: Houghton Mifflin Co., 1998. ISBN 0-395-74012-6.
  • Liddell Hart, B. H. Sherman: Soldier, Realist, American. New York: Da Capo Press, 1993. ISBN 0-306-80507-3. First published in 1929 by Dodd, Mead & Co.
  • Livermore, Thomas L. Numbers and Losses in the Civil War in America 1861-65. Reprinted with errata, Dayton, OH: Morninside House, 1986. ISBN 0-527-57600-X. First published 1901 by Houghton Mifflin.
  • Luvaas, Jay, and Harold W. Nelson, eds. Guide to the Atlanta Campaign: Rocky Face Ridge to Kennesaw Mountain. Lawrence: University Press of Kansas, 2008. ISBN 978-0-7006-1570-4.
  • McDonough, James Lee, and James Pickett Jones. War So Terrible: Sherman and Atlanta. New York: W. W. Norton & Co., 1987, ISBN 0-393-02497-0.
  • McMurry, Richard M. Atlanta 1864: Last Chance for the Confederacy. Lincoln: University of Nebraska Press, 2000. ISBN 0-8032-8278-8.
  • McPherson, James M. Battle Cry of Freedom: The Civil War Era. Oxford History of the United States. New York: Oxford University Press, 1988. ISBN 0-19-503863-0.
  • Welcher, Frank J. The Union Army, 1861–1865 Organization and Operations. Vol. 2, The Western Theater. Bloomington: Indiana University Press, 1993. ISBN 0-253-36454-X.
  • National Park Service battle description

関連かんれん図書としょ[編集へんしゅう]

  • Hess, Earl J. Kennesaw Mountain: Sherman, Johnston, and the Atlanta Campaign. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2013. ISBN 978-1-4696-0211-0.
  • Vermilya, Daniel J. The Battle of Kennesaw Mountain. Charleston, SC: The History Press, 2014. ISBN 978-1-62619-388-8.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい3356ふん11びょう 西経せいけい8435ふん52びょう / 北緯ほくい33.9363 西経せいけい84.5979 / 33.9363; -84.5979