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ジョージ・ヘンリー・トーマス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョージ・ヘンリー・トーマス
George Henry Thomas
渾名あだな チカマウガのいわ
ナッシュビルの大槌おおつち
小走こばしりのトーマス
生誕せいたん 1816ねん7がつ31にち
バージニアしゅう サザンプトンぐん ニューサムズデポ
死没しぼつ 1870ねん3月28にち(53さいぼつ
カリフォルニアしゅう サンフランシスコ
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍りくぐん
ぐんれき 1842ねん - 1861ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 少将しょうしょう
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ジョージ・ヘンリー・トーマスえい: George Henry Thomas, 1816ねん7がつ31にち-1870ねん3月28にち)は、アメリカ陸軍りくぐん職業しょくぎょう軍人ぐんじんであり、南北戦争なんぼくせんそうのときのきたぐん将軍しょうぐんとして、西部せいぶ戦線せんせん主要しゅよう指揮しきかん一人ひとりであった。

トーマスはべいぼく戦争せんそう従軍じゅうぐんし、バージニアじんとして遺産いさん相続そうぞくしたが、南北戦争なんぼくせんそうのためにアメリカ陸軍りくぐんのこることを選択せんたくした。ケンタッキーしゅうでのミル・スプリングスのたたかきたぐんとしては南北戦争なんぼくせんそう最初さいしょ勝利しょうりひとつをた。さらにペリービルストーンズリバーのたたかでは重要じゅうよう部隊ぶたい指揮しきった。1863ねんチカマウガのたたかでは頑強がんきょうまもって、きたぐん完全かんぜんだいくずれになるのをふせぎ、そのもっと有名ゆうめい渾名あだな「チカマウガのいわ」をもらった。そのあいだもなく、だいさんチャタヌーガのたたかにおけるミッショナリーリッジで劇的げきてき突破口とっぱこうひらいた。1864ねんフランクリン・ナッシュビル方面ほうめん作戦さくせんでは、ナッシュビルのたたかみなみぐんジョン・ベル・フッド将軍しょうぐん軍隊ぐんたいやぶり、南北戦争なんぼくせんそうでももっと決定的けっていてき勝利しょうりひとつをげた。

トーマスは南北戦争なんぼくせんそうでかなりの功績こうせきげたが、ユリシーズ・グラントウィリアム・シャーマンのようなどう時代じだいじんほど歴史れきしてき称賛しょうさんられなかった。自己じこ宣伝せんでんけ、正当せいとうだとかんがえないとき昇進しょうしん辞退じたいするようなのんびりで慎重しんちょう将軍しょうぐんとしての評判ひょうばんった。戦後せんご、その功績こうせき宣伝せんでんするような回顧かいころくかなかった。グラントとは人間にんげん関係かんけいもうまくかず、グラントが昇進しょうしんして最終さいしゅうてきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうにまでなったのにたいしまずい結果けっかになった。

初期しょき経歴けいれき

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トーマスはバージニアしゅうサザンプトンぐんで、ノースカロライナしゅうまでは5マイル (8 km)しかはなれていないニューサムズデポでまれた[1]1831ねんナット・ターナー奴隷どれい反乱はんらんのためにトーマスはその姉妹しまい未亡人みぼうじんになっていたははともいえからちかくのもりかくれることを余儀よぎなくされた[2]

1840ねんアメリカ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょうし、フロリダしゅうでのセミノールぞくインディアンとの戦争せんそう(1841ねん)、およびべいぼく戦争せんそうではブラウンとりでレサカ・デ・ラ・パルマモンテレイおよびブエナ・ビスタのたたか砲兵ほうへいじゅん大尉たいいとして従軍じゅうぐんし、戦闘せんとうちゅう傑出けっしゅつした勇敢ゆうかんさで3昇進しょうしんした。1851ねんから1854ねんには、ウェストポイントで教官きょうかんつとめた。1855ねんとき陸軍りくぐん長官ちょうかんジェファーソン・デイヴィスによって、だい2アメリカ騎兵隊きへいたいのちだい5騎兵隊きへいたい改組かいそ)の少佐しょうさ指名しめいされた。1860ねん8がつ26にちテキサスしゅうブラゾスがわのクリアフォークでコマンチェぞく戦士せんしとの衝突しょうとつちゅうに、あごちかくのにくとおむねさるきずけた。トーマスはき、軍医ぐんい傷口きずぐち手当てあてをしたのちたたかつづけた。

南北戦争なんぼくせんそう

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南北戦争なんぼくせんそう勃発ぼっぱつすると、トーマスの連隊れんたいから3にん上官じょうかんアルバート・ジョンストンロバート・E・リーおよびウィリアム・J・ハーディ)が除隊じょたいした。南部なんぶまれのおおくの将軍しょうぐんたちがその出身しゅっしんしゅうくすかこくのためにくすかでかれた。バージニアしゅう出身しゅっしんのトーマスは決断けつだんくるしんだが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくまるという選択せんたくをした。つま北部ほくぶまれであり、トーマス自身じしん奴隷どれいせいきらっていたことがこの決断けつだん影響えいきょうしたとおもわれる。これに反対はんたいしたトーマスのしん兄弟きょうだいかべかっていたトーマスの裏返うらがえし、手紙てがみ破棄はきし、二度にどはなしをしなかった(戦後せんご南部なんぶ経済けいざい状態じょうたいくるしいときに、トーマスは姉妹しまいかねおくったが、彼女かのじょたちおこってそのりを拒否きょひし、兄弟きょうだいはもういないと宣言せんげんした)。それにもかかわらず、トーマスはまわりからも程度ていどうたがわれながらきたぐんとどまった。1861ねん1がつ18にちサムター要塞ようさいたたかすうヶ月かげつまえ、バージニア士官しかん学校がっこう校長こうちょうしょくをあてがわれた。しかし、バージニアしゅう知事ちじのジョン・レッチャーからバージニア暫定ざんていぐん兵站へいたん業務ぎょうむ局長きょくちょうになってくれともうがありこれを拒絶きょぜつしたとき、脱退だったい推進すいしんがわかたむしん否定ひていされた。

トーマスはつづけざまに昇進しょうしんして1861ねん4がつ25にち中佐ちゅうさ5月3にち正規せいきぐん大佐たいさ8がつ17にちには志願しがん兵隊へいたいじゅんしょうになった。だいいちブルランのたたかときに、シェナンドー渓谷けいこくにおいてロバート・パターソン少将しょうしょうした1個いっこ旅団りょだん指揮しきしたが、それ以降いこう任務にんむはすべて西部せいぶ戦線せんせんということになった。ケンタッキーしゅう東部とうぶ独立どくりつした部隊ぶたい指揮しきしているときに、1862ねん1がつ18にち、ミルスプリングスのたたかいでみなみぐんのジョージ・クリッテンデン将軍しょうぐんとフェリックス・ゾリコッファー将軍しょうぐん部隊ぶたいやぶり、これが南北戦争なんぼくせんそうではきたぐんにとってはじめての重要じゅうよういくさとなり、ケンタッキーしゅう東部とうぶでのみなみぐんちからよわめ、きたぐん士気しきげることができた。

シャイローとコリンス

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1861ねん12月2にちトーマスじゅんしょうドン・カルロス・ビューエル将軍しょうぐんオハイオぐんなかだい1師団しだん指揮しきまかされた。1862ねん4がつ7にちシャイローのたたかでは2にちさんじんしたが、戦闘せんとうわったのち到着とうちゃくした。シャイローの勝者しょうしゃユリシーズ・グラント少将しょうしょう損失そんしつおおきな戦闘せんとうであったためにきびしい批判ひはんけ、その上官じょうかんヘンリー・ハレック少将しょうしょうはそのミシシッピ方面ほうめんぐんさい編成へんせいしてグラントを野戦やせん直接ちょくせつ指揮しきかんからはずした。方面ほうめんぐんの3ぐん分割ぶんかつされ、3つの「つばさ」にさい結合けつごうされた。トーマスは4がつ25にちけで少将しょうしょう昇進しょうしんし、グラントが指揮しきしていたテネシーぐん4師団しだんとオハイオぐん1個いっこ師団しだんからなる右翼うよく指揮しきまかされた。トーマスはコリンスの包囲ほういせんでこの想定そうていじょう軍隊ぐんたいひきいて成功せいこうした。6がつ10日とおか、グラントはもとのテネシーぐん指揮しきかん復帰ふっきした。

ペリービル、ストーンズがわ、チカマウガおよびチャタヌーガ

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トーマスはビューエルのしたいた。1862ねんあきみなみぐん将軍しょうぐんブラクストン・ブラッグがケンタッキーしゅう侵入しんにゅうしたとき、きたぐん最高さいこう司令しれいはビューエルの用心深ようじんぶか傾向けいこう神経しんけいとがらせ、トーマスにオハイオぐん指揮しき提案ていあんしてきたが、トーマスがこれを拒絶きょぜつした。トーマスはペリービルのたたかではビューエルぐんふく司令しれいかんであった。この戦闘せんとう戦術せんじゅつてきにはけたが、ブラッグのケンタッキー侵攻しんこうめ、自発じはつてきテネシーしゅう撤退てったいさせた。このときビューエルがブラッグぐん追撃ついげきしなかったことで最高さいこう司令しれい憤懣ふんまんつのらせ、ウィリアム・ローズクランズ少将しょうしょう指揮しき交代こうたいさせた。

トーマスはローズクランズのもとで、あらたにカンバーランドぐん改名かいめいされたぐん中央ちゅうおうぐん指揮しきまかされ、ストーンズリバーのたたかでは退却たいきゃくするきたぐん中央ちゅうおうかためて再度さいどブラッグぐん勝利しょうり阻止そしし、印象いんしょうてきはたらきをのこした。1863ねん6月22にちから7がつ3にちけてのタラホーマ方面ほうめん作戦さくせんでは、デシャードからチャタヌーガけたみさおぐんもっと重要じゅうよう部分ぶぶん担当たんとうし、テネシーがわわたった。9月19にちチカマウガのたたかでは、だい14軍団ぐんだん指揮しきり、きたぐん右翼うよく崩壊ほうかいするなかでブラッグぐん猛攻もうこうける絶望ぜつぼうてき防御ぼうぎょせん再度さいどまもいた。トーマスは突破とっぱされりになったきた軍兵ぐんびょうをホースシューリッジであつめ、きたぐんのぞみのなくなるまで崩壊ほうかいするような重大じゅうだい敗北はいぼくからすくった。カンバーランドぐん野戦やせん士官しかんで、のち大統領だいとうりょうになったジェームズ・ガーフィールド戦闘せんとうちゅうにトーマスをおとずれ、ローズクランズからの撤退てったい命令めいれいつたえた。トーマスがぜんぐん安全あんぜん確保かくほされるまでまもくとうと、ガーフィールドはローズクランズのところもどって、トーマスは「いわのようにっている」とつたえた[3]戦闘せんとうのちで、トーマスは「チカマウガのいわ」という渾名あだなひろられるようになったが、これは強力きょうりょく攻撃こうげきたいして重要じゅうようなポイントを死守ししゅしようとしたかれ決意けつい表現ひょうげんしたものであった。

トーマスはだいさんチャタヌーガのたたか直前ちょくぜんにローズクランズののちけてカンバーランドぐん指揮しきり、1863ねん11月23にちから25にちおこなわれたこのたたかいでは、トーマスの部隊ぶたいがミッショナリーリッジのみなみぐん前線ぜんせん突破とっぱしたことが際立きわだち、きたぐん圧倒的あっとうてき勝利しょうりとなった。カンバーランドぐん命令めいれいけていたよりも前進ぜんしんしていたので、オーチャード・ノブにいたグラント将軍しょうぐんはトーマスに「だれ前進ぜんしんめいじた?」とたずねた。トーマスは「わたしらない、わたしではない」とこたえた。

アトランタおよびフランクリン・ナッシュビル

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1864ねんはるウィリアム・シャーマン将軍しょうぐんによるジョージアしゅう進攻しんこうなかで、カンバーランドぐんは6まんめい以上いじょう軍隊ぐんたいになっており、トーマスの幕僚ばくりょうはシャーマンのぜんぐんのために兵站へいたん工作こうさく担当たんとうし、カンバーランドはしけのようなあたらしいものも開発かいはつした。1864ねん7がつ20日はつかピーチツリークリークのたたかでは、みなみぐんジョン・ベル・フッド中将ちゅうじょうアトランタ包囲ほういもうやぶ最初さいしょこころみのときに、トーマスの防御ぼうぎょじん相当そうとう被害ひがいあたえた。

1864ねんあきにフッドがアトランタを放棄ほうきし、シャーマンのなが通信つうしんせん脅威きょういあたえ、シャーマンに追撃ついげきしてくるように仕向しむけたとき、シャーマンはその通信つうしんせんてて、うみへの進軍しんぐん開始かいしした。トーマスはのちのこってフッドぐんフランクリン・ナッシュビル方面ほうめん作戦さくせんたたかった。トーマスはすくなくなった軍隊ぐんたいれて、ナッシュビルまでフッドぐんとの競走きょうそうになり、ナッシュビルで援軍えんぐんけた。

1864ねん11月30にちだいフランクリンのたたかで、ジョン・スコフィールド少将しょうしょう配下はいかについたトーマスぐんだい部分ぶぶんがフッドぐん痛撃つうげきし、ナッシュビルに軍隊ぐんたい集中しゅうちゅうするまでのあいだちこたえた。ナッシュビルでは、西部せいぶのあらゆる地域ちいきからいた部隊ぶたいにさらにおおくのわか部隊ぶたい兵站へいたん部隊ぶたい雇員こいんまでも組織そしきする必要ひつようしょうじた。その軍隊ぐんたい準備じゅんびができ、こおりおおわれた大地だいちけて活動かつどうができるようになるまで攻撃こうげきあきらめた。北部ほくぶのグラント将軍しょうぐんそのひと(このときぜんきたぐんそう司令しれいかん)をふくそう司令しれいはこの遅延ちえん我慢がまんができなくなっていた。ジョン・A・ローガン少将しょうしょうがトーマスと交代こうたいするという命令めいれいって派遣はけんされ、そのでグラントが個人こじんてき指揮しきするためにバージニアしゅうのシティポイントから西部せいぶへのたびはじめた。

トーマスは1864ねん12月15にちナッシュビルのたたかはじめ、2日間にちかん戦闘せんとうでフッドぐん事実じじつじょう破壊はかいした。トーマスはつまのフランシス・ルクレティア・ケロッグ・トーマスにてて、つぎ電報でんぽうったが、これがトーマスの通信つうしんぶんとして唯一ゆいいつのこっているものである。「我々われわれてき鞭打むちうち、おおくの捕虜ほりょとかなりのりょう大砲たいほう確保かくほした。」

トーマスはナッシュビルでの勝利しょうり日付ひづけ正規せいきぐん少将しょうしょう昇進しょうしんし、連邦れんぽう議会ぎかいからの感謝かんしゃじょうった。

...少将しょうしょうジョージ・H・トーマスとその指揮しき士官しかん兵士へいしたいし、フッド将軍しょうぐん指揮しき反乱はんらんぐんいちじるしく敗退はいたいしテネシーしゅうから駆逐くちくされたときのその手腕しゅわん不屈ふくつ勇気ゆうき

トーマスはこの勝利しょうりで「ナッシュビルの大槌おおつち」というもうひとつの渾名あだなもらった。

戦後せんご

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南北戦争なんぼくせんそう終戦しゅうせん、トーマスは1869ねんまでケンタッキーしゅうとテネシーしゅう方面ほうめんぐん指揮しきった。アンドリュー・ジョンソン大統領だいとうりょうはトーマスに中将ちゅうじょう提案ていあんした。これは共和党きょうわとういんのち大統領だいとうりょうになるグラントにえて、トーマスをぐんそう司令しれいかんにする意図いとであったが、忠義ちゅうぎしんあついトーマスは政党せいとう政治せいじかかわりたくなかったので、上院じょういん懇願こんがんしてその指名しめいげさせた。1869ねん、トーマスはサンフランシスコのプレシディオに本部ほんぶのあった太平洋たいへいよう師団しだん指揮しき官職かんしょくけてくれるよう依頼いらいした。トーマスはプレシディオでかれぐんれき批判ひはんする記事きじたいしてこたえをいているとき卒中そっちゅうんだ。血縁けつえんものだれもその葬儀そうぎ出席しゅっせきしなかった。ニューヨークしゅうトロイにあるオークウッド墓地ぼちにその亡骸なきがら埋葬まいそうされた。

トーマスの遺産いさん

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リリアン・バターによるトーマスの肖像しょうぞう、1877ねん

ウェストポイントの士官しかん候補こうほせいたちはトーマスに「小走こばしりのトーマス」という渾名あだなけ、この渾名あだなはその評判ひょうばんとすために使つかわれた。トーマスは背中せなかいためていたためになるうごいたが、精神せいしんてきにはゆるりとではなく、几帳面きちょうめんなだけであった。正確せいかく判断はんだん職業しょくぎょうてき知識ちしきられており、一度いちど問題もんだい核心かくしんつか行動こうどうときだとおもえば闊達かったつ素早すばや行動こうどうた。

カンバーランドぐん古参こさんへい組織そしきはその存在そんざい期間きかんつうじて、たたかった結果けっか、そのしたことすべてにたいして名誉めいよけるトーマスをた。

トーマスは開戦かいせんからあいだもないミルスプリングスのたたかいと終戦しゅうせん間近まぢかいナッシュビルのたたかいの2つの戦闘せんとうのみでぜんぐん指揮しきった。どちらもいくさであった。しかし、ストーンリバー、チカマウガ、チャタヌーガ、およびピーチツリークリークのかく戦闘せんとうにおけるその貢献こうけん決定的けっていてきなものであった。そのおおきな遺産いさん近代きんだい戦場せんじょう原理げんり開発かいはつ兵站へいたん統制とうせいにある。

トーマスはがいして南北戦争なんぼくせんそう歴史れきしたちにはたか評価ひょうかけている。ブルース・カットンとカール・サンドバーグはかれのことを称賛しょうさんちていており、おおくのものもグラントやシャーマンにいで南北戦争なんぼくせんそうにおけるきたぐん上位じょうい3にん将軍しょうぐん一人ひとりにトーマスをげている。しかし、トーマスはグラントやシャーマンのように大衆たいしゅう意識いしきのぼることはかった。「その人生じんせい印刷いんさつされて好奇心こうきしんさらされる」ことをこのまないとって、私的してき文書ぶんしょ破棄はきした。1870年代ねんだいからおおくの南北戦争なんぼくせんそう将軍しょうぐんたち回顧かいころく出版しゅっぱんし、その決断けつだん正当せいとうし、あるいはふる戦闘せんとうましたが、1870ねんんだトーマスは自身じしん回顧かいころく出版しゅっぱんしなかった。

グラントとトーマスは、その全容ぜんようあきらかでない理由りゆうつめたい関係かんけいであったが、どう時代じだいじん証言しょうげんおおい。チャタヌーガ方面ほうめん作戦さくせんまえあめれそぼったグラントがトーマスの作戦さくせん本部ほんぶ到着とうちゃくしたとき、トーマスは行動こうどうに捉われており、副官ふっかん注意ちゅういするまでのすう分間ふんかん将軍しょうぐん存在そんざい気付きづかなかった。トーマスがかっていてやったナッシュビルでの遅延ちえん、これは天候てんこうのためにむをないことであったが、グラントは堪忍袋かんにんぶくろいとぐちれあやうく交代こうたいさせるところであった。グラントの『個人こじんてき回想かいそうろく』ではトーマスの功績こうせき矮小わいしょうする傾向けいこうがあり、とくにフランクリン・ナッシュビル方面ほうめん作戦さくせんときのことを、トーマスのうごきが「いつも慎重しんちょうのろすぎる。ただし防御ぼうぎょ効果こうかてきだ」とっている[4]戦中せんちゅうにトーマスにちかしかったシャーマンも戦後せんご、トーマスが「にぶい」とかえ告発こくはつしており、このかすかな称賛しょうさんのある痛罵つうばが20世紀せいきはいってもチカマウガのいわたいする評価ひょうか影響えいきょうしがちになった。

トーマスの記念きねん

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ワシントンのトーマス広場ひろばにあるトーマス将軍しょうぐん銅像どうぞう
  • ケンタッキーしゅうニューポートみなみにあるとりではトーマスの名前なまえちなんで名付なづけられ、いまはそこにあるフォート・トーマスもそのかんしている。
  • トーマス将軍しょうぐん顕彰けんしょうするいしぶみワシントンD.C.のそのもトーマス広場ひろばることができる[5]
  • トーマスの代表だいひょうてき版画はんがによる肖像しょうぞう1890ねん1891ねん紙幣しへい使つかわれた。この紙幣しへいは「おたから紙幣しへい」とばれ、今日きょうでもひろ蒐集しゅうしゅう対象たいしょうとなっている。これら希少きしょう紙幣しへい銀行ぎんこうけんあらわれた詳細しょうさい版画はんが素晴すばらしいれいかんがえるものおおい。
  • 1999ねん彫刻ちょうこくルディ・アヨラの制作せいさくになるトーマスの銅像どうぞうがケンタッキーしゅうレバノンで除幕じょまくされた[6]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Cleaves, p. 7.
  2. ^ Cleaves, pp. 6-7; O'Connor, p. 60.
  3. ^ eHistory website
  4. ^ Grant, chapter LX.
  5. ^ dcmemorials.com
  6. ^ Announcement of Lebanon sculpture

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Cleaves, Freeman, Rock of Chickamauga: The Life of General George H. Thomas, University of Oklahoma Press, 1948, ISBN 0-8061-1978-0.
  • Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.
  • Grant, Ulysses S., Personal Memoirs of U. S. Grant, Charles L. Webster & Company, 1885–86, ISBN 0-914427-67-9.
  • O'Connor, Richard, Thomas, Rock of Chickamauga, Prentice-Hall, 1948.
  • Warner, Ezra J., Generals in Blue: Lives of the Union Commanders, Louisiana State University Press, 1964, ISBN 0-8071-0822-7.
  • George H. Thomas Homepage
  •  この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Thomas, George Henry". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 26 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 866-867.
  • Furgurson, Ernest B., "Catching up with Old Slow Trot", Smithsonian, March 2007, pages 50-57.

外部がいぶリンク

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先代せんだい
ウィリアム・ローズクランズ
カンバーランドぐん指揮しきかん
1863ねん10がつ19にち - 1865ねん8がつ1にち
次代じだい
解散かいさん