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シャイローのたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャイローのたたか
Battle of Shiloh
南北戦争なんぼくせんそうなか

シャイローのたたか
とき1862ねん4がつ6にち-4がつ7にち
場所ばしょテネシーしゅうハーディンぐん
結果けっか きたぐん勝利しょうり
衝突しょうとつした勢力せいりょく
アメリカ合衆国の旗 きたぐん みなみぐん
指揮しきかん
ユリシーズ・グラント
ドン・カルロス・ビューエル
アルバート・ジョンストン
P・G・T・ボーリガード
戦力せんりょく
テネシーぐん
*48,894
オハイオぐん
*17,918[1]
ミシシッピぐん
*44,699[1]
被害ひがいしゃすう
13,047[2]
戦死せんし 1,754
負傷ふしょう 8,408
捕虜ほりょ不明ふめい 2,885)
10,699[3]
戦死せんし 1,728
負傷ふしょう 8,012
捕虜ほりょ不明ふめい 959)

シャイローのたたか(シャイローのたたかい、えい:Battle of Shiloh、またはBattle of Pittsburg Landing)は、南北戦争なんぼくせんそう初期しょき1862ねん4がつ6にちから7にちに、西部せいぶ戦線せんせんテネシーしゅう南西なんせいおこなわれたおおきなたたかいである。アルバート・ジョンストン将軍しょうぐんP・G・T・ボーリガード将軍しょうぐん指揮しきするみなみぐんが、ユリシーズ・グラント少将しょうしょう指揮しきするきたぐん急襲きゅうしゅうけ、敗北はいぼく寸前すんぜんまでんだ。

戦闘せんとうの1にちみなみぐんはグラントのテネシーぐんドン・カルロス・ビューエル少将しょうしょうオハイオぐん合流ごうりゅうするまえたたいてしまうことを期待きたいして、テネシーがわからきたぐん守備しゅびたいとおざけ西にしのオウル・クリークの沼地ぬまちろうという意図いと攻撃こうげき仕掛しかけた。みなみぐん前線ぜんせんはげしい戦闘せんとうあいだ混乱こんらんし、そのあいだにグラントの兵士へいし北東ほくとうのピッツバーグ・ランディングの方向ほうこう後退こうたいした。「ホーネッツネスト」と渾名あだなされるややくぼんだ道路どうろ陣取じんどったベンジャミン・M・プレンティスとW・H・L・ウォレスかくじゅんしょう師団しだん防御ぼうぎょし、きたぐん数多かずおお大砲たいほうれつ保護ほごした安定あんていもど貴重きちょう時間じかんた。ジョンストン将軍しょうぐんは1にち戦闘せんとうちゅう戦死せんしし、ふく司令しれいだったボーリガードがそのよるきたぐん最後さいご陣地じんちたいする攻撃こうげき決断けつだんした。

そのよるにビューエル将軍しょうぐん援軍えんぐん到着とうちゃく翌朝よくあさにはながれがわった。ビューエルとグラントは全線ぜんせんにわたる反撃はんげきてんじた。このときまでのアメリカもっと流血りゅうけつおお戦闘せんとうのちみなみぐん退却たいきゃくいられ、ミシシッピしゅう北部ほくぶへのきたぐん侵入しんにゅうめるというのぞみがたれた。

背景はいけい対戦たいせんした戦力せんりょく[編集へんしゅう]

みなみぐんは1862ねん2がつヘンリーとりでドネルソンとりでうしなったのちで、アルバート・ジョンストン将軍しょうぐんはそのぐん再編さいへんするためにテネシーしゅう西部せいぶ、ミシシッピしゅう北部ほくぶおよびアラバマしゅう退しりぞいた。3がつはじめ、これに反応はんのうしたきたぐん西部せいぶ戦線せんせん司令しれいかんヘンリー・ハレック少将しょうしょうは、グラントとその西にしテネシーぐん(この戦闘せんとうあいだもなく、そのより有名ゆうめい名前なまえであるテネシーぐんばれる)にテネシーがわのぼって侵略しんりゃくするようめいじた(ハレックはグラントにたいする職業しょくぎょうてきまた個人こじんてき敵意てきいのために、当初とうしょグラントの部下ぶかであるチャールズ・F・スミス少将しょうしょうにその遠征えんせいひきいさせ、グラントはヘンリーとりで待機たいきしているはずだった。エイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょう干渉かんしょうし、またスミスが負傷ふしょうしたので、グラントがぜんぐん指揮しきもどった)[4]。グラントがハレックからけた命令めいれいでは、ナッシュビルから進軍しんぐんしてくるビューエルのオハイオぐん合流ごうりゅうし、みなみすすんでみなみぐん生命せいめいせんであるミシシッピがわ流域りゅういき、テネシーしゅうメンフィスおよびバージニアしゅうリッチモンドむすぶメンフィス・アンド・チャールストン鉄道てつどうつかむためのきょうはたらけ攻撃こうげきけるというものだった[5]

グラントぐんは6師団しだんからなる総勢そうぜい48,894めいだった。師団しだん指揮しきかんジョン・A・マクラーナンドルー・ウォーレスかく少将しょうしょうW・H・L・ウォレス、スティーブン・A・ハールバット、ウィリアム・シャーマンおよびベンジャミン・M・プレンティスかくじゅんしょうだった[1]師団しだんのうち5師団しだんはテネシー川西かわにし尾根おね宿営しゅくえいした。グラントはこの戦争せんそうあいだてき作戦さくせんよりも自分じぶん作戦さくせんつよ関心かんしんがあるという評判ひょうばん出来できていた[6]。ピッツバーグ・ランディングにあるその宿営しゅくえいは、そのような関心かんしん欠如けつじょもっと象徴しょうちょうするものをしめしていた。その部隊ぶたい野営やえいかたちに、おおくはシャイロー(ヘブライで「平和へいわ場所ばしょ」の意味いみ[7]という木製もくせいちいさな教会きょうかいまわりでひろがり、ビューエルぐんちながらおおくの未熟みじゅく兵士へいし訓練くんれんほどこしてときごし、塹壕ざんごうやその防御ぼうぎょのための手段しゅだん気付きづいてもいない様子ようすだった。グラントはその自叙伝じじょでんで、塹壕ざんごうかんがえがおよばないことにたいする批判ひはんこたえて、「このほかに、わたし士官しかんおよび兵士へいし軍隊ぐんたいはピック、ショベルおよびおの経験けいけんするよりもおおくの訓練くんれん演習えんしゅう必要ひつようとした。...これらすべての状況じょうきょうしたわたし演習えんしゅう訓練くんれん防塞ぼうさい作業さぎょうよりも兵士へいし有益ゆうえきであると結論けつろんづけた。[8]」ルー・ウォーレスの師団しだんは5マイル (8 km)下流かりゅう北方ほっぽう)のクランプズ・ランディングにおり、みなみぐんかわきの砲台ほうだい設置せっちすることを妨害ぼうがいし、ベスルえき鉄道てつどうせん攻撃こうげきすることを意図いとした配置はいちだった[9]

ビューエルぐん総勢そうぜいは17,918めいであり戦闘せんとうよるにはシャイローへのなが行程こうていにあった。その4師団しだんアレクサンダー・マクック、ウィリアム・"ブル"・ネルソン、トマス・L・クリッテンデンおよびトマス・J・ウッドかくじゅんしょうひきいた[10]

1862ねん初期しょき西部せいぶ戦線せんせん
  みなみぐん
  きたぐん

みなみぐんがわでは、ジョンストンがそのあたらしく結成けっせいした軍隊ぐんたいをミシシッピぐん名付なづけた[11]。ジョンストンはグラントの陣地じんちからやく20マイル (30 km)南西なんせいのミシシッピしゅうコリンス周辺しゅうへんにおよそ55,000めい部隊ぶたい集結しゅうけつさせた。このなかで、44,699めい[1]4がつ3にちにコリンスをち、ビューエルぐん参入さんにゅうするまえにグラントぐん急襲きゅうしゅうすることを期待きたいしていた。この軍隊ぐんたいおおきく4軍団ぐんだん編成へんせいされた。指揮しきかん以下いかとおりだった。

  • レオニダス・ポーク少将しょうしょう指揮しき、チャールズ・クラークとベンジャミン・F・チーザムかくじゅんしょう師団しだん
  • ブラクストン・ブラッグ少将しょうしょう指揮しき、ダニエル・ラッグルズとジョーンズ・M・ウィザーズかくじゅんしょう師団しだん
  • ウィリアム・J・ハーディ少将しょうしょう指揮しき、トマス・C・ヒンドマン、パトリック・クリバーンおよびスターリング・A・M・ウッドかくじゅんしょう師団しだん
  • ジョン・ブレッキンリッジじゅんしょう指揮しき予備よびたい、ロバート・トラビューとウィンフィールド・S・ストラザムかく大佐たいさとジョン・S・ボウェンじゅんしょう旅団りょだん、および付設ふせつ騎兵隊きへいたい[12]

戦闘せんとう前夜ぜんや、グラントぐんとジョンストンぐんはほぼ拮抗きっこうする勢力せいりょくだったが、みなみぐん散弾さんだんじゅうふるかたすべりマスケットじゅう、さらにはヤリまであるというふる武器ぶき装備そうびしているにぎなかった。かれらはほとんど戦闘せんとう経験けいけんいままに戦場せんじょう到着とうちゃくした。ペンサコーラモービルからたブラクストン・ブラッグの兵士へいしもっと訓練くんれんされていた。グラントぐんにはドネルソンとりで戦闘せんとう経験けいけんした歩兵ほへい連隊れんたいが62のうち32あった。その砲兵ほうへいたい半分はんぶん騎兵隊きへいたい大半たいはん戦闘せんとう古参こさんへいだった[13]

ジョンストンぐんふく司令しれいはボーリガードだった。ボーリガードはグラントぐん攻撃こうげきしないようすすめた。行軍こうぐんおとみなみ軍兵ぐんびょうが2にちつづきのあめのちでライフルを試射ししゃするおとが、急襲きゅうしゅう価値かちげるのではないかと心配しんぱいした。ジョンストンはボーリガードの忠告ちゅうこくこばみ、「てきが100まんでも攻撃こうげき」するとつたえた。ボーリガードの根拠こんきょのある心配しんぱいにもかかわらず、きたぐんみなみぐん近付ちかづいているおとをききとることがく、3マイル (5 km)はなれたてき宿営しゅくえいうごきをなんもなく気付きづかないままだった[14]

明日あした戦闘せんとうでは武器ぶき使つかかたっている我々われわれおな西部せいぶおとこたちたたかうことになる。たたかいはのものになるだろう。
P・G・T・ボーリガード[15]

ジョンストンの作戦さくせんはグラントぐん左翼さよくおそい、きたぐん陸軍りくぐんとテネシーがわ砲艦ほうかん支援しえん(さらに退却たいきゃく)とを分離ぶんりし、西にしのスネーク・クリークやオウル・クリークの沼地ぬまちんで、そこで全滅ぜんめつさせるというものだった。ジョンストンのグラントにたいする攻撃こうげき当初とうしょ4がつ4にち予定よていされていたが、48あいだおくれた。その結果けっか再度さいどボーリガードは急襲きゅうしゅう効果こうかうしなわれるのをこわれ、コリンスへの後退こうたいすすめた。しかし、ジョンストンはこのとき撤退てったいかんがえることをこばんだ[16]

4がつ6にち戦闘せんとう[編集へんしゅう]

シャイローのたたかいの地図ちず、4がつ6にちあさ

早朝そうちょう攻撃こうげき[編集へんしゅう]

4がつ6にち午前ごぜん6、ジョンストンぐんはコリンス道路どうろまたがって戦闘せんとう配置はいちいた。実際じっさいにこの軍隊ぐんたいきたぐん宿営しゅくえいからちょうど2マイル (3 km)はなれて夜通よどお見破みやぶられないように戦闘せんとう隊形たいけい露営ろえいしてごした。その接近せっきん夜明よあけの突撃とつげきはほとんどありとある戦略せんりゃく戦術せんじゅつ急襲きゅうしゅう成功せいこうさせた。きたぐん早期そうき警戒けいかいのための歩哨ほしょう事実じじつじょうてていなかった。グラントは4がつ5にちよるにハレックにてて電報でんぽうち、「わたしぐん攻撃こうげき一般いっぱんてき攻撃こうげき)されるというかんがえはほんのすこしもいが、そのようなことこった場合ばあいそなえておくだろう。」とつたえた。グラントの準備じゅんび程度ていどっていたほどではないことがかった。シャーマンはみなみからの攻撃こうげき可能かのうせい軽視けいしし、ジョンストンぐん西にしのテネシーしゅうパーディの方角ほうがくから攻撃こうげきけてくると予測よそくした。そのあさはやく、ベンジャミン・M・プレンティス配下はいかのピーボディ大佐たいさ偵察ていさつのためにだい25ミズーリ歩兵ほへい連隊れんたい無断むだん派遣はけんしており、午前ごぜん515ふんみなみぐん前哨ぜんしょう部隊ぶたい交戦こうせんした。活発かっぱつたたかいできたぐんがいくらか配置はいちくことのたすけにはなったが、きたぐん指揮しきかんそう適切てきせつそなえができていなかった[17]

ジョンストンとボーリガードが統一とういつされた戦闘せんとう計画けいかくっていなかったので、みなみぐん部隊ぶたい混乱こんらんしたならびが攻撃こうげき効果こうからすことになった。ジョンストンはアメリカ連合れんごうこく大統領だいとうりょうジェファーソン・デイヴィスてて、攻撃こうげきつぎのようになると電報でんぽうった。「ポークが左翼さよく、ブラッグが中央ちゅうおう、ハーディが右翼うよくで、ブレッキンリッジが予備よびたいとなる。[18]」その戦略せんりゃくは、きたぐん供給きょうきゅうせん退路たいろでもあるテネシーがわたっするのをふせぐためにその右翼うよくから攻撃こうげきさせることだった。ジョンストンはボーリガードに後方こうほうのこって兵士へいし必要ひつようになる物資ぶっし指導しどうするよう指示しじし、自分じぶんうまって前線ぜんせんき、たたか兵士へいし指揮しきした。このことは実質じっしつてき戦闘せんとう全体ぜんたい指揮しきかんがかたことなるボーリガードにゆずったことになり、ボーリガードは単純たんじゅんに3攻撃こうげきしてきたぐんぐテネシーがわむとかんがえていた[19]。ハーディとブラッグの軍団ぐんだんはその師団しだんよこいちれつで、やく3マイル (5 km)のはば攻撃こうげきはじめた[20]。これらの部隊ぶたい前進ぜんしんすると、ざり制御せいぎょむずかしくなった。軍団ぐんだん指揮しきかんたち予備よびたいくして横隊おうたい攻撃こうげきした。大砲たいほう突破とっぱ効果こうかてきにするための集中しゅうちゅうができなかった。午前ごぜん7時半じはんごろ、ボーリガードは後方こうほうにいるその位置いちからポークとブレッキンリッジの軍団ぐんだん右翼うよく左翼さよくからの前進ぜんしんめいじ、その効果こうかうすめさせた。このためにその攻撃こうげきよこ一線いっせん隊形たいけいによる正面しょうめん攻撃こうげき様相ようそうになり、成功せいこうするために必要ひつようあつみもおもみもけていた。現代げんだい意味いみでの指揮しき制御せいぎょ最初さいしょ攻撃こうげき開始かいし時点じてんからうしなわれた[21]

グラントとシャーマンの反撃はんげき[編集へんしゅう]

みなみぐん攻撃こうげき多少たしょう欠点けってんはあったもののおそろしいものであり、グラントのあたらしい軍隊ぐんたい経験けいけんおおくの兵士へいしもとめてテネシーがわまで逃亡とうぼうした。ものはよくたたかったが、つよ圧力あつりょく後退こうたいいられ、あたらしい防御ぼうぎょせんつくろうとこころみた。おおくの連隊れんたい完全かんぜんにバラバラにされた。戦場せんじょうのこされた中隊ちゅうたいはんみずか指揮しきしたはいった。この時間じかんたい戦闘せんとうたいするそなえを無視むししてきていたシャーマンが戦闘せんとうもっと重要じゅうよう役割やくわりたすようになった。シャーマンはその前線ぜんせん何処どこにでもあらわれて、最初さいしょ攻撃こうげきりょうぐんおどろくべき損失そんしつていたにもかかわらず、てき攻撃こうげき抵抗ていこうするよう未熟みじゅく新兵しんぺいたち鼓舞こぶつづけた。2箇所かしょかるきずけ、っていたうまは3とうじゅうたれた。歴史れきしのジェイムズ・M・マクファーソンは、この戦闘せんとうがシャーマンの人生じんせいにとって転回てんかいてんとなり、きたぐんでも傑出けっしゅつした将軍しょうぐん一人ひとりになることになったとっている[22]。シャーマンの師団しだん最初さいしょ攻撃こうげき鉾先ほこさきとなり、その陣地じんちはげしい砲火ほうかおよび、右翼うよく崩壊ほうかいしていたにもかかわらず、がんとしてたたかつづけた。きたぐん徐々じょじょ地歩ちほうしないシャイロー教会きょうかいのち後退こうたいした。マクラーナンドの師団しだん一時いちじてきにその陣地じんち安定あんていさせた。しかし、全体ぜんたいてきにジョンストンぐん正午しょうごまで着実ちゃくじつ前進ぜんしんつづけ、きたぐん陣地じんちひとつずつがしていった[23]

グラント将軍しょうぐんはそのあさやく10マイル (16 km)下流かりゅうのテネシーしゅうサバンナにいた砲艦ほうかんっていた。4月4にちっていたうまたおかれからだ下敷したじきにしたために怪我けがをしていた。戦闘せんとう回復かいふくしつつあったが、松葉杖まつばづえがなければうごけなかった[24]。グラントは砲声ほうせいくと戦場せんじょうけ、午前ごぜん8時半じはんごろ到着とうちゃくした。グラントは夢中むちゅうになってちかくにいた援軍えんぐんあつめた。川向かわむこうの上陸じょうりくてんにいたブル・ネルソンの師団しだん、クランプズ・ランディングにいたルー・ウォーレスの師団しだんなどだった。しかし、これら予備よびたい急速きゅうそく戦場せんじょう到着とうちゃくすることはなかった。これはウォーレスの判断はんだんのためだったとわれている[25]

ルー・ウォーレスのまよった師団しだん[編集へんしゅう]

ウォーレスの部隊ぶたいきたぐん前線ぜんせん後方こうほう、ストーニー・ロンサムとばれる場所ばしょにあるクランプズ・ランディングちかくに予備よびたいとしてかれていた。みなみぐん出現しゅつげんに、グラントはウォーレスにたいしてシャーマンを支援しえんするよう部隊ぶたいうごかせと命令めいれいおくった。ウォーレスはグラントが意図いとした行路こうろとはことなるみちえらんだ(のちにグラントの命令めいれいには曖昧あいまいさがあったと主張しゅちょうした)。ウォーレスはその行軍こうぐん目的もくてき到着とうちゃくして、シャーマンぐん後退こうたいいられ、ウォーレスがかんがえていた場所ばしょにはもはやいないという事実じじつ見出みいだした。さらに戦線せんせんはるこうにうごいて、ウォーレスたい前進ぜんしんするみなみぐん後方こうほうてしまったことがかった。グラントからウォーレスたいはどこにいて、何故なぜきたぐんじんかまえているピッツバーグ・ランディングにないのか不思議ふしぎがっているという伝令でんれいとどいた。ウォーレスは混乱こんらんした。ウォーレスはかれがそのときいた場所ばしょから攻撃こうげきけることができ、みなみぐんからはたけるとかんがえた。戦後せんご、ウォーレスはもしその部隊ぶたい前進ぜんしん妨害ぼうがいされなければ攻撃こうげきうつってみなみぐんやぶっていたかもれないと主張しゅちょうした[26]。それでもウォーレスは部隊ぶたい迂回うかいさせストーニー・ロンサムにもどった。もどるとすれば隊列たいれつ後衛こうえい先頭せんとうになるはずだったが、ウォーレスは部隊ぶたい当初とうしょ隊形たいけい維持いじさせるために部隊ぶたいをぐるっとまわらせて行軍こうぐんさせるやりかたえらんだ。ウォーレス部隊ぶたいはストーニー・ロンサムにもどり、つづいてピッツバーグ・ランディングにかい午後ごご6時半じはんから7あいだにグラントがいる場所ばしょ到着とうちゃくした。この戦闘せんとう事実じじつじょうわっていた。グラントは不機嫌ふきげんであり、ウォーレスの戦闘せんとう報告ほうこくしょたいする所見しょけんは、ウォーレスのぐんれきをひどくきずつけるだけの否定ひていてきなものだった[27]

ホーネッツネスト[編集へんしゅう]

シャイローのたたかい、4がつ6にち

きたぐん主力しゅりょく防衛ぼうえいせんでは、午前ごぜん9ごろから、プレンティスとW・H・L・ウォレスの師団しだんが「ホーネッツネスト」と渾名あだなされる陣地じんち構築こうちくまもった。そこはいまでは「サンクンロード」(くぼんだみち)と一般いっぱんばれる道路どうろ沿いだったが、その名前なまえ正当せいとうする痕跡こんせきはほとんどのこっていない[28]みなみぐん単純たんじゅんにその陣地じんち迂回うかいせずに数時間すうじかん攻撃こうげきし、この攻撃こうげきちゅうおおきな損失そんしつこうむった。ホーネッツネストの右翼うよく左翼さよくきたぐん後退こうたいいられ、プレンティスの陣地じんち前線ぜんせんなか突出とっしゅつしたようになった。部隊ぶたいあいだ連携れんけいがお粗末そまつであり、個別こべつ指揮しきかん決断けつだんだけで部隊ぶたい後退こうたいした。みなみぐん圧力あつりょくは、その陣地じんち一番いちばんおおきな部隊ぶたい指揮しきしていたウォレスが致命傷ちめいしょうったことで増加ぞうかした[29]連隊れんたい解体かいたいされ、中隊ちゅうたい分解ぶんかいした。しかし、攻撃こうげきがわが50もん以上いじょう大砲たいほうあつ陣地じんちかこむようにしてできた砲撃ほうげきくわえてやっと、7あいだ死守ししゅされたホーネッツネストがちた[30]きたぐんざんへいにとっておおきな陣地じんち占領せんりょうされたが、その犠牲ぎせいによってグラントにはピッツバーグ・ランディングで最後さいご防衛ぼうえいせん余裕よゆうができた[31]

ホーネッツネストをうばったときにきた問題もんだい一部いちぶは、みなみぐんにとってべつ痛手いたでがあったことだった。ジョンストン将軍しょうぐんきたぐん左翼さよく攻撃こうげき指揮しきしているときの午後ごご2時半じはんごろ致命傷ちめいしょうった。ジョンストンは自分じぶんあしきず重傷じゅうしょうではないとかんがえ、その個人こじんてき軍医ぐんい負傷ふしょうへい手当てあてかせたが、その軍医ぐんいのいないあいだに、ジョンストンは出血しゅっけつ多量たりょうんだ。その長靴ながぐつ出血しゅっけつあふれていた[32]実際じっさい銃弾じゅうだんひざ窩動みゃく切断せつだんしていた。このことはみなみぐんにとって深刻しんこく損失そんしつだった。ジェファーソン・デイヴィスは、自分じぶんうちでアルバート・ジョンストンがもっと効果こうかてき将軍しょうぐんだとかんがえた(この時点じてんロバート・E・リーみなみぐん傑出けっしゅつした将軍しょうぐんとして浮上ふじょうする2ヶ月かげつまえだった)。ボーリガードが指揮しきいだが、後方こうほうにいるその場所ばしょからは戦線せんせん配置はいちについてほんのぼんやりとしたかんがえしかなかったとおもわれる[33]。ボーリガードは軍隊ぐんたい士気しきうしなうことをけるためにジョンストンの秘密ひみつにしておくことにしてその死骸しがいつつんでおくようめいじ、つづいてホーネッツネストにたいする攻撃こうげき再開さいかいさせた。これは戦術せんじゅつてきあやまりだったとおもわれる。きたぐん両翼りょうよくはゆっくりと退しりぞいてピッツバーグ・ランディングのまわりに半円はんえんえがくようになっており、もしボーリガードが部隊ぶたいきたぐん側面そくめん集中しゅうちゅうさせておれば、きたぐんやぶることができ、ホーネッツネストの突出とっしゅつおもいのままだったかもしれない[34]

ピッツバーグ・ランディングの防御ぼうぎょ[編集へんしゅう]

きたぐん側面そくめんされっぱなしだったが、まだ決着けっちゃくくところまではおこなっていなかった。みなみぐんハーディとポークの部隊ぶたいきたぐん右翼うよくのシャーマンとマクナーランドの部隊ぶたいをピッツバーグ・ランディングの方向ほうこう後退こうたいさせ、ホーネッツネストの右翼うよくひらいたままになった。ジョンストンの直後ちょくごに、みなみぐん予備よびたいだったブレッキンリッジの軍団ぐんだんきたぐん前線ぜんせんさい左翼さよく攻撃こうげきし、戦力せんりょくおとるデイビッド・スチュアートの旅団りょだん後退こうたいさせ、きたぐん後部こうぶとテネシーがわへのみちけることになった。しかし、ブレッキンリッジたいさい結集けっしゅうと、つかれや混乱こんらんからの回復かいふくのために停止ていしし、つづいてホーネッツネストにけた砲声ほうせい方向ほうこうすすむことをえらんだので機会きかいうしなわれた。ホーネッツネストがちたのちきたぐんのこっている部隊ぶたいは、ピッツバーグ・ランディングのまわりにテネシーがわから西にしにさらにきた川道かわみちびる3マイル (5 km)のかた前線ぜんせん確立かくりつし、おくれているルー・ウォーレス師団しだん到着とうちゃく期待きたいして接近せっきんけたままにしていた。シャーマンが前線ぜんせん右翼うよく指揮しきし、マクラーナンドが中央ちゅうおう左翼さよくはW・H・L・ウォレス、ハールバットおよびスチュアートのざんへいがピッツバーグ・ランディングのうえがけっていたなんせんものはぐれへい[35]混合こんごうしてまもった。ビューエルぐん1個いっこ旅団りょだん、ブル・ネルソン師団しだんのジェイコブ・アメンじゅんしょう旅団りょだんふね到着とうちゃくして前線ぜんせん左端ひだりはしくわわった[36]防御ぼうぎょせんには50もん以上いじょう大砲たいほうたまきがあった[37]。またかわには砲艦ほうかん(USSレキシントンとUSSタイラー)の大砲たいほうがあった[38]みなみぐんウィザーズじゅんしょうひきいられた2旅団りょだんによる最後さいご攻撃こうげきは、戦線せんせん突破とっぱこころみたが撃退げきたいされた。ボーリガードは日没にちぼつ午後ごご6以後いごに2かいこころみを中止ちゅうしさせた[39]みなみぐん作戦さくせんついえた。みなみぐんはグラントぐんかわ沿いの防御ぼうぎょてき陣地じんちんだが、計画けいかくした西にし沼地ぬまちへではなかった[40]

よる休戦きゅうせん[編集へんしゅう]

4がつ6にちよる、アメリカなかでももっと流血りゅうけつおお戦闘せんとうひとつのだい1にちには気落きおちさせる結末けつまつだった。りょうぐんあいだ戦場せんじょうんでいく兵士へいし絶望ぜつぼうてきさけびが夜通よどおきたぐんみなみぐん宿営しゅくえいこえた。雷雨らいうがその地域ちいきとおぎ、きたぐん砲艦ほうかんからの周期しゅうきてき砲撃ほうげきりょうぐんどもにそのよるみじめな経験けいけんにさせた。グラントの一時いちじてき挫折ざせつにもひるまない態度たいど攻撃こうげきてき姿勢しせいつらぬ傾向けいこう要約ようやくする有名ゆうめい逸話いつわがある。つかったみなみぐん兵士へいし放棄ほうきされたきたぐん宿営しゅくえいいたとき、シャーマンはそそあめけているしたでグラントに出逢であった。グラントは葉巻はまきいながらその損失そんしつ翌日よくじつ作戦さくせんかんがえていた。シャーマンが「ところでグラント、今日きょう悪魔あくまだったとはおもわないか?」とうと、グラントは見上みあげて、「そうだな」とこたえ、1ふくしたのち、「そうだ、だが明日あしたやつらにものせよう」とった[41]

もし明日あしたあさてきがやってくれば、地獄じごくのようにひっぱたいてやろう。
ネイサン・ベッドフォード・フォレストからパトリック・R・クレバーンに[42]

ボーリガードはデイヴィス大統領だいとうりょうに「完璧かんぺき勝利しょうり」と電報でんぽうち、のちに「わたしはグラント将軍しょうぐんをまさにのぞんでいた場所ばしょにおいていたので、明日あしたあさにはわらせることができるとかんがえた」ことをみとめた。その部下ぶかおおくも、きたぐん宿営しゅくえいり、なんせんもの捕虜ほりょすうトンもの物資ぶっし捕獲ほかくしたことでよろこいさんでいた。しかし、グラントには楽観らっかんてきになる理由りゆうがあった。ルー・ウォーレス師団しだんと、ドン・カルロス・ビューエルの15,000めい軍隊ぐんたいがそのよる到着とうちゃくしつつあり、ビューエルのぜんぐん午前ごぜん4までに到着とうちゃくして、翌日よくじつながれをえるのにった[43]。ボーリガードの夕暮ゆうぐれでその攻撃こうげき停止ていしさせた決断けつだんについては、かなりの歴史れきしてき議論ぎろんんだ。ブラクストン・ブラッグとアルバート・ジョンストンの息子むすこ、ウィリアム・プレストン・ジョンストン大佐たいさは、いわゆる「シャイローのうしなわれた機会きかい」をなげいたものたちなかにいた。ボーリガードはきたぐん前線ぜんせんつよさをるために前線ぜんせんてこないで、シャイロー教会きょうかいとどまっていた。ネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐たいさからのビューエルぐんがグラントぐん補強ほきょうのためにかわわたるろうとしているという情報じょうほう(さらに戦争せんそう捕虜ほりょプレンティスの空威張からいば[44]))も軽視けいしした。ボーリガードはその決断けつだんのいいわけで、部隊ぶたいたんつかれており、ひるこうは1あいだのこっておらず、グラントぐん大砲たいほう優位ゆうい手強てごわいものだったとしていた。またアラバマしゅう北部ほくぶにいるベンジャミン・ハーディン・ヘルムじゅんしょうから、ビューエルぐんはアラバマしゅうジケーターにかっており、ピッツバーグ・ランディングにけてではないという伝言でんごんっていた[45]

4がつ7にち戦闘せんとう[編集へんしゅう]

シャイローのたたかい、4がつ7にち

4がつ7にちきたぐんは2ぐん合流ごうりゅうして総勢そうぜい45,000めいとなった。みなみぐんは1にちおおきな損失そんしつけて、そのかずは8,500めいとされたが、ちこぼれや脱走だっそうのために、その指揮しきかんたち報告ほうこくではのこ実質じっしつ20,000めいぎなかった。ビューエルは戦後せんごその数字すうじ反論はんろんし、28,000めいはいたと主張しゅちょうした。みなみ軍兵ぐんびょうみなみのプレンティスとシャーマンが宿営しゅくえい使つかっていた場所ばしょかえし、ポークの軍団ぐんだんはピッツバーグ・ランディングの南西なんせい4マイル (6.5 km)、4がつ5にち露営ろえいしたところまでもどった。戦線せんせんきずかれておらず、いたとしても弾薬だんやく補給ほきゅうはほとんどかった。兵士へいしたち食料しょくりょうみずおよびもっと必要ひつようとするよる休息きゅうそくのための待避たいひしょさが必要ひつようせい消耗しょうもうしていた。

ボーリガードはこのとき勢力せいりょくけていることに気付きづいておらず、攻撃こうげき続行ぞっこうしてグラントぐんかわとす作戦さくせんてた。かれおどろかされたことに、きたぐん夜明よあけととも行動こうどう開始かいし大挙たいきょして反撃はんげきはじめた。グラントとビューエルはその攻撃こうげき別々べつべつはじめた。きょうはたらけ行動こうどう師団しだんレベルでのみこった。ルー・ウォーレス師団しだんきたぐん前線ぜんせん最右翼さいうよく午前ごぜん7ごろにティルマン・ブランチをわたるって最初さいしょ戦闘せんとう突入とつにゅうし、プレストン・ポンド大佐たいさ旅団りょだんかえした。ウォーレス師団しだん左翼さよくはシャーマン師団しだんのこりであり、マクラーナンドやW・H・L・ウォレス(このときはジェイムズ・タトル大佐たいさ指揮しきいでいた)の残存ざんそんへいくわわった。ビューエルぐんのブル・ネルソン、クリッテンデンおよびマクックのかく師団しだん左翼さよくいた。みなみぐん防御ぼうぎょじんはひどくじりっており、部隊ぶたい結束けっそく旅団りょだんえてはほとんどかった。ポーク少将しょうしょう師団しだん露営ろえいから南西なんせいうごかして配置はいちけるまで2時間じかん以上いじょうようした。午前ごぜん10までに、ボーリガードはその前線ぜんせん安定あんていさせ、左翼さよくからブラッグ、ポーク、ブレッキンリッジおよびハーディのじゅんならんだ[46]

きたぐん左翼さよくはネルソンの師団しだん前進ぜんしん誘導ゆうどうし、密接みっせつしてクリッテンデンおよびマクックのかく師団しだんつづき、コリンス道路どうろとハンバーグ・サバンナ道路どうろくだった。はげしい戦闘せんとうのちでクリッテンデンの師団しだんあさおそくまでにホーネッツネスト地域ちいきもどしたが、クリッテンデンとネルソンはどちらもブレッキンリッジによる決死けっし反撃はんげき撃退げきたいされた。きたぐん右翼うよく着実ちゃくじつ前進ぜんしんし、ブラッグとポークをみなみ後退こうたいさせた。クリッテンデンおよびマクックのかく師団しだんがその攻撃こうげき再開さいかいし、ブレッキンリッジは後退こうたいいられ、ひるまでにボーリガードぐん前線ぜんせんはハンバーグ・パーディ道路どうろ沿うようになった[47]

午後ごごはやく、ボーリガードはシャイロー教会きょうかい地域ちいきから一連いちれん反撃はんげきけさせ、コリンス道路どうろ制圧せいあつねらった。きたぐん右翼うよくはウォーターオークス・ポンドでのこれら攻撃こうげきによって一時いちじてき後退こうたいさせられた。クリッテンデンはタトルの支援しえんけてハンバーグ・パーディ道路どうろひがしコリンス道路どうろ交差点こうさてん占拠せんきょし、みなみぐんをプレンティスが使つかっていた宿営しゅくえいんだ。ネルソンはその攻撃こうげき再開さいかいし、午後ごごおそくまでにロカストグラブ・ブランチを見下みおろす高台たかだい占領せんりょうした。ボーリガードの最後さいご反撃はんげき側面そくめん攻撃こうげきけ、グラントがジェイムズ・C・ビーチ大佐たいさ旅団りょだん前進ぜんしんさせたときに撃退げきたいされた[48]

ボーリガードは主導しゅどうけんうしない、弾薬だんやく食料しょくりょうきかけ10,000めい以上いじょう兵士へいし戦死せんしし、負傷ふしょうし、不明ふめいになっていることを認識にんしきし、もはやこれ以上いじょうすすめないとかった。ブレッキンリッジの5,000めい殿軍でんぐん使つかい、教会きょうかいとシャイロー・ブランチのみなみ尾根おねにあった大砲たいほう集中しゅうちゅうさせてぐんをシャイロー教会きょうかいのち退しりぞかせた。これらの部隊ぶたい午後ごご5まできたぐんをコリンス道路どうろ陣地じんちめさせ、そのみなみぐんはコリンスにけて秩序ちつじょある撤退てったい開始かいしした。つかったきたぐんは、以前いぜんのシャーマンやプレンティスの宿営しゅくえいまで追撃ついげきするのがやっとだった。ルー・ウォーレスの師団しだんはシャイロー・ブランチをえて前進ぜんしんしたが、部隊ぶたい支援しえんがなかったので、やみおとずれるととも停止ていしし、シャーマンの宿営しゅくえいもどった。戦闘せんとうわった。そのながあいだ、グラントとビューエルは、まだあかるさがのこっている時間じかん利用りようしてでも即座そくざ追撃ついげきけないとグラントが決断けつだんしたことについてくち喧嘩げんかした。グラントは、兵士へいしつかっていることをげていたが、みなみぐんおなじようにつかっていたことも事実じじつだった。グラントが躊躇ちゅうちょしたことの一端いったんは、ビューエルと普通ふつうではない指揮しき関係かんけいったことでもあった。グラントが上級じょうきゅう士官しかんであり、事実じじつじょうりょうぐん指揮しきしたが、ビューエルは2日間にちかんたたかいをつうじて独立どくりつして行動こうどうすることを明確めいかくにしていた[49]

フォールン・ティンバーズ、4がつ8にち[編集へんしゅう]

4がつ8にち、シャーマンをコリンス道路どうろ沿って威力いりょく偵察ていさつ派遣はけんし、みなみぐん撤退てったいしたかあるいはさい結集けっしゅうして攻撃こうげき再開さいかいするつもりかを確認かくにんさせた。グラントぐんには、偵察ていさつ行動こうどうもっとてきし、退却たいきゃくするてき活発かっぱつ追撃ついげきすることにてきしたおおきな組織そしきされた騎兵隊きへいたいかった。シャーマンはその師団しだんから2旅団りょだんと2騎兵きへい大隊だいたいえらんで前進ぜんしんさせ、ビューエルぐんのトマス・J・ウッドじゅんしょう師団しだん遭遇そうぐうした。ピッツバーグ・ランディングから6マイル(10 km)南西なんせいで、シャーマンたいけた平原へいげんてきて、そこにみなみぐん野戦やせん病院びょういんふく広範こうはん宿営しゅくえいがあった。そのみなみぐんのフォレスト大佐たいさ指揮しきする300めい騎兵きへいまもっていた。その平原へいげんちかづくみちには200ヤード (180 m)以上いじょうにわたって倒木とうぼくかれていた[50]

だい77オハイオ歩兵ほへい連隊れんたいへい接近せっきんしていったが、倒木とうぼくはらうために難渋なんじゅうした。フォレストは突撃とつげきめいじ、散弾さんだんじゅう拳銃けんじゅうはなち、サーベルをりかざし、南部なんぶ騎兵きへいあら混戦こんせんし、シャーマンを捕獲ほかくする寸前すんぜんまでいった。ジェシー・ヒルデブランド大佐たいさ旅団りょだん横隊おうたい形成けいせいはじめると、みなみぐん騎兵きへい強力きょうりょくてき後退こうたいはじめ、部下ぶかよりもかなりまえていたフォレストは、自分じぶん孤立こりつしていると認識にんしきするまえきた軍兵ぐんびょうからはすうヤードの距離きょりになっていた。シャーマンの兵士へいしが「やつころせ!やつうまころせ」とさけんだ。1人ひとりきたぐん兵士へいしがそのマスケットじゅうでフォレストのわきねらいをさだめて発砲はっぽうし、しりうえたり、背骨せぼねまでかよった。フォレストは重傷じゅうしょうだったがうままりつづげおおせた。フォレストはそのきず戦争せんそう全体ぜんたいのこった。きたぐんやく100めいうしない、フォレストの突撃とつげきであやうく捕獲ほかくされるところだった。この出来事できごとは「フォールン・ティンバーズ」(倒木とうぼく)という名前なまえ記憶きおくされている。シャーマンはみなみぐん野戦やせん病院びょういん占領せんりょうしたのち、ブレッキンリッジの殿軍でんぐんのさらに後尾こうび遭遇そうぐうして、てきあらたな攻撃こうげきける兆候ちょうこういと判断はんだんし、宿営しゅくえいもどった[51]

戦闘せんとうのち[編集へんしゅう]

この戦闘せんとう直後ちょくご北部ほくぶ新聞しんぶんは4がつ6にち戦闘せんとうでのグラントの行動こうどう非難ひなんした。記者きしゃたちおおくは戦場せんじょうからとおはなれていたが、グラントがさけっており、このことで防御ぼうぎょそなえがかったために兵士へいしたちがそのテントで銃剣じゅうけんされることになったというあやまった情報じょうほうひろめた。きたぐん勝利しょうりにもかかわらず、グラントの評判ひょうばん北部ほくぶ世論せろんあいだ悪化あっかした。おおくのもの破壊はかいされたきたぐん統制とうせいし、4がつ7にち勝利しょうりみちびいたのはビューエルの功績こうせきだとした。グラント解任かいにん要求ようきゅうホワイトハウスれた。エイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょうはグラントにかんするもっと有名ゆうめい発言はつげんこたえた。「わたしにはこのおとこえられるものがいない。かれたたかう」シャーマンはそのまえ憂鬱ゆううつ戦闘せんとう先立さきだ防御ぼうぎょ過失かしつつぐなってあまりある銃火じゅうか混乱こんらんなかでのきによって、即座そくざ英雄えいゆうとして浮上ふじょうした。しかし今日きょう、グラントはきびしい状況じょうきょう保持ほじ明晰めいせき判断はんだんりょくと、結局けっきょくは2にち勝利しょうりみちびいたおおきな戦術せんじゅつてきさま認識にんしきできる能力のうりょくによって肯定こうていてき評価ひょうかされているday.[52]

それでもグラントの経歴けいれきはシャイローのたたかいののち一時いちじてききずついた。ヘンリー・ハレックはその軍隊ぐんたい結集けっしゅうして再編さいへんし、グラントはふく司令しれいかんという権力けんりょく地位ちいけた。4がつ下旬げじゅんと5がつに、ハレックがみずか指揮しきするきたぐんゆるりとコリンスにかい、それを包囲ほういして占領せんりょうした。一方いっぽうミシシッピがわ水陸すいりくきょうはたらけ部隊ぶたいみなみぐん河川かせん防衛ぼうえい船隊せんたい破壊はかいし、テネシーしゅうメンフィスを占領せんりょうした。ハレックはぜんきたぐんそう司令しれいかん昇進しょうしんし、東部とうぶ出発しゅっぱつするとともに、グラントが指揮しきもどった。グラントはミシシッピがわくだってぐんすすビックスバーグ包囲ほういした。1863ねんなつビックスバーグの降伏ごうぶくとポートハドソンの陥落かんらくのちは、ミシシッピがわきたぐん支配しはいになり、みなみぐんは2つに分断ぶんだんされた。ミシシッピぐん指揮しきはブラクストン・ブラッグにまかされ、ブラッグは4がつ6にちけで大将たいしょう昇進しょうしんした。1862ねんあきに、ブラッグはケンタッキーしゅう侵略しんりゃくぐんひきい、ペリービルのたたかのち撤退てったいするという結果けっかになって失敗しっぱいした[53]

シャイロー教会きょうかい、シャイロー国立こくりつ軍事ぐんじ公園こうえん、2006ねん撮影さつえい

シャイローの2日間にちかんたたかいはそれまでのアメリカもっと損失そんしつおおいものとなり、みなみぐん敗北はいぼくと、ジョンストンがえがいたきたぐんの2つの軍隊ぐんたいがテネシーしゅう合流ごうりゅうするのをさまたげるという作戦さくせん挫折ざせつする結果けっかになった。きたぐん損失そんしつは13,047めい戦死せんし1,754めい負傷ふしょう8,408めい捕虜ほりょまたは不明ふめい2,885めい)だった。グラントぐんは2日間にちかんにわたるたたかいの鉾先ほこさきとなり、グラントぐんだけで戦死せんし1,513めい負傷ふしょう6,601めい捕虜ほりょまたは不明ふめい2,830めいとなった。みなみぐん損失そんしつは10,699めい戦死せんし1,728めい負傷ふしょう8,012めい捕虜ほりょまたは不明ふめい959めい)だった[54]りょうぐん損失そんしつ合計ごうけい23,746めいという数字すうじは、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうべいえい戦争せんそうおよびべいぼく戦争せんそう戦闘せんとうからむアメリカぐん損失そんしつ合計ごうけいよりもおおきかった[55]死者ししゃにはみなみぐん将軍しょうぐんアルバート・ジョンストンがふくまれている。きたぐんくらいたか死者ししゃにはW・H・L・ウォレスがいた。りょうぐんともにこのおおきな損失そんしつ衝撃しょうげきけた。このような流血りゅうけつ沙汰ざたがあと3年間ねんかんつづき、さらにおおきな損失そんしつ戦闘せんとうが8こるとは、だれ予測よそくできなかった[56]。グラントは、ひとつのおおきなたたかいが戦争せんそうわらせるという予測よそくはおそらく実現じつげんできないと理解りかいするようになった。戦争せんそうは、おおきな損失そんしつ資源しげん使つかいはたしてみなみぐん屈服くっぷくするか、みなみぐん勝利しょうりして合衆国がっしゅうこく分裂ぶんれつするか、どちらかまで継続けいぞくすることになる。グラントは戦争せんそうのこ期間きかん役立やくだつことになるそなえについて貴重きちょう教訓きょうくんまなんだ[57]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d Eicher, p. 222.
  2. ^ Cunningham, pp. 422-24.
  3. ^ Cunningham, p. 422.
  4. ^ Nevin, p. 104; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 128-?31, 141-42; Smith, pp. 173-79; Cunningham, pp. 72-74.
  5. ^ Smith, p. 179; Woodworth, Nothing but Victory, p. 136.
  6. ^ Smith, p. 185; Eicher, p. 223.
  7. ^ Daniel, p. 131. この教会きょうかい南部なんぶメソジスト監督かんとく教会きょうかいによって1854ねんてられた。「シャイロー」(ヘブライでシロ)という名前なまえ旧約きゅうやく聖書せいしょのサムエルじょうからており、ヘブライじん毎年まいとし巡礼じゅんれいする宗教しゅうきょうてき中心ちゅうしんあらわした。おおまかに「平和へいわ」とやくされたが、戦闘せんとうニューヨークしゅう出身しゅっしんユダヤじん兵士へいしがそれを「解放かいほう」とやくした。
  8. ^ Grant, pp. 211-12.
  9. ^ Daniel, p. 139; Nevin, p. 105.
  10. ^ Eicher, pp. 222, 230.
  11. ^ 戦闘せんとうちゅう通信つうしんぶんには定冠詞ていかんしきのミシシッピ(かわ名前なまえぐんとされていた。これはきたぐんのみがかわ名前なまえ軍隊ぐんたい名前なまえとした一般いっぱんてき規則きそく逸脱いつだつしていた。たとえばNPS website参照さんしょう。またこれはときには西部せいぶ軍隊ぐんたいすときに使つかわれた。この軍隊ぐんたいは1862ねん3月5にち始動しどうし、11月にはブラクストン・ブラッグによってテネシーぐん改名かいめいされた。en:Army of Mississippiこう参照さんしょう
  12. ^ Eicher, p. 223.
  13. ^ Cunningham, pp. 93, 98-101, 120.
  14. ^ Daniel, pp. 127-28.
  15. ^ Cunningham, p. 125.
  16. ^ Daniel, pp. 119, 121-23; Cunningham, pp. 128-29, 137-40; Woodworth, Nothing but Victory, p. 108; Eicher, p. 223.
  17. ^ Woodworth, Nothing but Victory, pp. 150-54; Nevin, pp. 110-11; Eicher, p. 224; Daniel, pp. 141-42; Smith, p. 185; McPherson, p. 408.
  18. ^ Cunningham, p. 140.
  19. ^ Nevin, p. 113. Daniel, p. 145. Esposito, text for Map 34, では、ボーリガードとのこの配置はいちきびしく批判ひはんされたが、ジョンストンが、その部隊ぶたいおおくの未経験みけいけん新兵しんぺいかかえており、前線ぜんせんみずか気合きあいをれる必要ひつようがあったので正当せいとうされる。
  20. ^ Cunningham, p. 200.
  21. ^ Smith, p. 187; Esposito, map 34; Eicher pp. 224-26.
  22. ^ McPherson, p. 409.
  23. ^ Daniel, pp. 143-64; Eicher, p. 226; Esposito, map 34.
  24. ^ Daniel, p. 139; Cunningham, p. 133.
  25. ^ Daniel, pp. 143-64; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 164-66; Cunningham, pp. 157-58; Eicher, p. 226.
  26. ^ Woodworth, Grant's Lieutenants, p. 77; Cunningham, p. 339.
  27. ^ Woodworth, Grant's Lieutenants, p. 72-82; Daniel, pp. 256-61; Sword, pp. 439-40; Cunningham, pp. 338-39; Smith, p. 196.
  28. ^ Cunningham, pp. 241-42.
  29. ^ Cunningham, p. 298.
  30. ^ 歴史れきしたちはホーネッツネストにたいしてみなみぐん集中しゅうちゅうさせた大砲たいほうかずについて意見いけん一致いっちていない。Cunningham, p. 290では51もんとしている。Daniel, p. 229は53もんとした。Sword, p. 326, とEicher, p. 228では、戦場せんじょう歴史れきしD・W・リードによって当初とうしょ設定せっていされた伝統でんとうてき数字すうじ62もん報告ほうこくした
  31. ^ Nevin, pp. 121-29, 136-39; Esposito, map 36; Daniel, pp. 207-14; Woodworth, Nothing but Victory, pp. 179-85; Eicher, p. 227.
  32. ^ Cunningham, pp. 275-77.
  33. ^ この戦闘せんとうたいする伝統でんとうてき見方みかたは、ジョンストンのたたかいの一時いちじ停止ていしみ、みなみぐんからその気運きうんうばい、戦闘せんとうにおける敗北はいぼくつながったというものである。Sword, p. 310と Daniel, p. 235はともにこの見解けんかい支持しじしている。Cunningham, pp. 277-78は、そのような一時いちじ停止ていしみなみぐん分裂ぶんれつ要因よういんであるとし、ボーリガードが行動こうどうこさなかったことは要因よういんではなく、ボーリガードは戦場せんじょうでの配置はいち感覚かんかくっていたと主張しゅちょうした。
  34. ^ Nevin, pp. 121-29, 136.
  35. ^ Cunningham, p. 321では、はぐれへい戦闘せんとういんかずやく15,000めい推計すいけいした。
  36. ^ Cunningham, p. 317.
  37. ^ ホーネッツネストと同様どうよう大砲たいほうかず推計すいけいおおきくことなる。グラントはその自叙伝じじょでんで、「20もんかそれ以上いじょう」とした。Daniel, p. 246とGrimsley, p. 109は、41もんとした。Sword, p. 356は、「すくなくとも10もん」とした。Cunningham, p. 307は、42もんから100もん以上いじょうという歴史れきしてき数字すうじ引用いんようした。
  38. ^ Daniel, p. 265.
  39. ^ Cunningham, pp. 323-26.
  40. ^ Eicher, pp. 227-28; Daniel, pp. 235-37; Nevin, pp. 138-39.
  41. ^ Smith, p. 201; Sword, pp. 369-82.
  42. ^ Cunningham, p. 333.
  43. ^ Cunningham, pp. 340-41.
  44. ^ Cunningham, pp. 332-34.プレンティスはかれ捕獲ほかくしゃわらってった「貴方あなたたち今日きょう自分じぶんたちのやりたいようにやった。しかし明日あしたちがうだろう。ごぞんじのように、ビューエルが今夜こんやグラントに合流ごうりゅうして有効ゆうこうになり、明日あしたあさにはほうがあなたかたにテーブルをけるだろう」
  45. ^ Nevin, p. 147; Daniel, pp. 252-56; Cunningham, pp. 323-26, 332; Sword, p. 378.
  46. ^ Daniel, pp. 265, 278.
  47. ^ Daniel, pp. 275-83.
  48. ^ Daniel, pp. 283-87.
  49. ^ Daniel, pp. 289-92.
  50. ^ Daniel, pp. 296-97; Sword, pp. 423-24.
  51. ^ Sword, pp. 425-26; Daniel, pp. 296-97; Cunningham, pp. 373-75. フォレストが1人ひとりきたぐん兵士へいしえりつかんでうまうえげ、だてわりに使つかったという人気にんきのあるはなしは、おそらくつくばなしである。参考さんこう文献ぶんけんにこのはなしふくむものはい。
  52. ^ Woodworth, Nothing but Victory, pp. 198-201; Smith, pp. 204-05; Cunningham, pp. 382-83.
  53. ^ Cunningham, pp. 384-96.
  54. ^ Eicher, p. 230; Cunningham, pp. 421-24.
  55. ^ Smith, p. 204.
  56. ^ List of battles参照さんしょう。シャイローのたたかいより損失そんしつおおきい8戦闘せんとうとは、ゲティスバーグのたたかチカマウガのたたかチャンセラーズヴィルのたたかスポットシルバニア・コートハウスのたたかアンティータムのたたか荒野あらのたたかだいブルランのたたかおよびストーンズリバーのたたかである。
  57. ^ McDonough, p. 1775.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]