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シャイローの戦 たたか い Battle of Shiloh 南北戦争 なんぼくせんそう 中 なか シャイローの戦 たたか い 衝突 しょうとつ した勢力 せいりょく
北 きた 軍 ぐん
南 みなみ 軍 ぐん 指揮 しき 官 かん
ユリシーズ・グラント ドン・カルロス・ビューエル
アルバート・ジョンストン P・G・T・ボーリガード 戦力 せんりょく
テネシー軍 ぐん *48,894オハイオ軍 ぐん *17,918[1]
ミシシッピ軍 ぐん *44,699[1] 被害 ひがい 者 しゃ 数 すう
13,047 [2] (戦死 せんし 1,754負傷 ふしょう 8,408捕虜 ほりょ ・不明 ふめい 2,885)
10,699 [3] (戦死 せんし 1,728負傷 ふしょう 8,012捕虜 ほりょ ・不明 ふめい 959)
シャイローの戦 たたか い (シャイローのたたかい、英 えい :Battle of Shiloh、またはBattle of Pittsburg Landing)は、南北戦争 なんぼくせんそう 初期 しょき の1862年 ねん 4月 がつ 6日 にち から7日 にち に、西部 せいぶ 戦線 せんせん テネシー州 しゅう 南西 なんせい 部 ぶ で行 おこな われた大 おお きな戦 たたか いである。アルバート・ジョンストン 将軍 しょうぐん とP・G・T・ボーリガード 将軍 しょうぐん が指揮 しき する南 みなみ 軍 ぐん が、ユリシーズ・グラント 少将 しょうしょう の指揮 しき する北 きた 軍 ぐん に急襲 きゅうしゅう を掛 か け、敗北 はいぼく 寸前 すんぜん まで追 お い込 こ んだ。
戦闘 せんとう の1日 にち 目 め 、南 みなみ 軍 ぐん はグラントのテネシー軍 ぐん がドン・カルロス・ビューエル 少将 しょうしょう のオハイオ軍 ぐん と合流 ごうりゅう する前 まえ に叩 たた いてしまうことを期待 きたい して、テネシー川 がわ から北 きた 軍 ぐん の守備 しゅび 隊 たい を遠 とお ざけ西 にし のオウル・クリークの沼地 ぬまち に追 お い遣 や ろうという意図 いと で攻撃 こうげき を仕掛 しか けた。南 みなみ 軍 ぐん の前線 ぜんせん が激 はげ しい戦闘 せんとう の間 あいだ に混乱 こんらん し、その間 あいだ にグラントの兵士 へいし は北東 ほくとう のピッツバーグ・ランディングの方向 ほうこう に後退 こうたい した。「ホーネッツネスト」と渾名 あだな されるやや窪 くぼ んだ道路 どうろ に陣取 じんど ったベンジャミン・M・プレンティスとW・H・L・ウォレス各 かく 准 じゅん 将 しょう の師団 しだん が防御 ぼうぎょ し、北 きた 軍 ぐん が数多 かずおお い大砲 たいほう 列 れつ の保護 ほご の下 した に安定 あんてい を取 と り戻 もど す貴重 きちょう な時間 じかん を得 え た。ジョンストン将軍 しょうぐん は1日 にち 目 め の戦闘 せんとう 中 ちゅう に戦死 せんし し、副 ふく 司令 しれい だったボーリガードがその夜 よる に北 きた 軍 ぐん 最後 さいご の陣地 じんち に対 たい する攻撃 こうげき を決断 けつだん した。
その夜 よる にビューエル将軍 しょうぐん の援軍 えんぐん が到着 とうちゃく し翌朝 よくあさ には流 なが れが変 か わった。ビューエルとグラントは全線 ぜんせん にわたる反撃 はんげき に転 てん じた。この時 とき までのアメリカ史 し で最 もっと も流血 りゅうけつ の多 おお い戦闘 せんとう の後 のち で南 みなみ 軍 ぐん は退却 たいきゃく を強 し いられ、ミシシッピ州 しゅう 北部 ほくぶ への北 きた 軍 ぐん 侵入 しんにゅう を食 く い止 と めるという望 のぞ みが絶 た たれた。
背景 はいけい と対戦 たいせん した戦力 せんりょく [ 編集 へんしゅう ]
南 みなみ 軍 ぐん は1862年 ねん 2月 がつ にヘンリー砦 とりで とドネルソン砦 とりで を失 うしな った後 のち で、アルバート・ジョンストン将軍 しょうぐん はその軍 ぐん を再編 さいへん するためにテネシー州 しゅう 西部 せいぶ 、ミシシッピ州 しゅう 北部 ほくぶ およびアラバマ州 しゅう に退 しりぞ いた。3月 がつ 初 はじ め、これに反応 はんのう した北 きた 軍 ぐん の西部 せいぶ 戦線 せんせん 司令 しれい 官 かん ヘンリー・ハレック 少将 しょうしょう は、グラントとその西 にし テネシー軍 ぐん (この戦闘 せんとう 後 ご 間 あいだ もなく、そのより有名 ゆうめい な名前 なまえ であるテネシー軍 ぐん と呼 よ ばれる)にテネシー川 がわ を上 のぼ って侵略 しんりゃく するよう命 めい じた(ハレックはグラントに対 たい する職業 しょくぎょう 的 てき また個人 こじん 的 てき な敵意 てきい のために、当初 とうしょ グラントの部下 ぶか であるチャールズ・F・スミス 少将 しょうしょう にその遠征 えんせい を率 ひき いさせ、グラントはヘンリー砦 とりで で待機 たいき しているはずだった。エイブラハム・リンカーン 大統領 だいとうりょう が干渉 かんしょう し、またスミスが負傷 ふしょう したので、グラントが全 ぜん 軍 ぐん 指揮 しき に戻 もど った)[4] 。グラントがハレックから受 う けた命令 めいれい では、ナッシュビル から進軍 しんぐん してくるビューエルのオハイオ軍 ぐん と合流 ごうりゅう し、南 みなみ に進 すす んで南 みなみ 軍 ぐん の生命 せいめい 線 せん であるミシシッピ川 がわ 流域 りゅういき 、テネシー州 しゅう メンフィス およびバージニア州 しゅう リッチモンド を結 むす ぶメンフィス・アンド・チャールストン鉄道 てつどう を掴 つか むための協 きょう 働 はたらけ 攻撃 こうげき を掛 か けるというものだった[5] 。
グラント軍 ぐん は6個 こ 師団 しだん からなる総勢 そうぜい 48,894名 めい だった。師団 しだん 指揮 しき 官 かん はジョン・A・マクラーナンド とルー・ウォーレス 各 かく 少将 しょうしょう 、W・H・L・ウォレス 、スティーブン・A・ハールバット、ウィリアム・シャーマン およびベンジャミン・M・プレンティス 各 かく 准 じゅん 将 しょう だった[1] 。師団 しだん のうち5個 こ 師団 しだん はテネシー川西 かわにし の尾根 おね に宿営 しゅくえい した。グラントはこの戦争 せんそう の間 あいだ 、敵 てき の作戦 さくせん よりも自分 じぶん の作戦 さくせん に強 つよ い関心 かんしん があるという評判 ひょうばん が出来 でき ていた[6] 。ピッツバーグ・ランディングにあるその宿営 しゅくえい は、そのような関心 かんしん の欠如 けつじょ を最 もっと も象徴 しょうちょう するものを示 しめ していた。その部隊 ぶたい は野営 やえい の形 かたち に、多 おお くはシャイロー(ヘブライ語 ご で「平和 へいわ の場所 ばしょ 」の意味 いみ )[7] という木製 もくせい の小 ちい さな教会 きょうかい の周 まわ りで拡 ひろ がり、ビューエル軍 ぐん を待 ま ちながら多 おお くの未熟 みじゅく な兵士 へいし に訓練 くんれん を施 ほどこ して時 とき を過 す ごし、塹壕 ざんごう やその他 た 防御 ぼうぎょ のための手段 しゅだん に気付 きづ いてもいない様子 ようす だった。グラントはその自叙伝 じじょでん で、塹壕 ざんごう に考 かんが えが及 およ ばないことに対 たい する批判 ひはん に答 こた えて、「この他 ほか に、私 わたし 、士官 しかん および兵士 へいし の軍隊 ぐんたい はピック、ショベルおよび斧 おの で経験 けいけん するよりも多 おお くの訓練 くんれん ・演習 えんしゅう を必要 ひつよう とした。...これら全 すべ ての状況 じょうきょう の下 した で私 わたし は演習 えんしゅう や訓練 くんれん が防塞 ぼうさい 化 か の作業 さぎょう よりも兵士 へいし に有益 ゆうえき であると結論 けつろん づけた。[8] 」ルー・ウォーレスの師団 しだん は5マイル (8 km)下流 かりゅう (北方 ほっぽう )のクランプズ・ランディングにおり、南 みなみ 軍 ぐん が川 かわ 向 む きの砲台 ほうだい を設置 せっち することを妨害 ぼうがい し、ベスル駅 えき で鉄道 てつどう 線 せん を攻撃 こうげき することを意図 いと した配置 はいち だった[9] 。
ビューエル軍 ぐん の総勢 そうぜい は17,918名 めい であり戦闘 せんとう の夜 よる にはシャイローへの長 なが い行程 こうてい にあった。その4個 こ 師団 しだん はアレクサンダー・マクック 、ウィリアム・"ブル"・ネルソン、トマス・L・クリッテンデン およびトマス・J・ウッド各 かく 准 じゅん 将 しょう が率 ひき いた[10] 。
1862年 ねん 初期 しょき の西部 せいぶ 戦線 せんせん 南 みなみ 軍 ぐん
北 きた 軍 ぐん
南 みなみ 軍 ぐん 側 がわ では、ジョンストンがその新 あたら しく結成 けっせい した軍隊 ぐんたい をミシシッピ軍 ぐん と名付 なづ けた[11] 。ジョンストンはグラントの陣地 じんち から約 やく 20マイル (30 km)南西 なんせい のミシシッピ州 しゅう コリンス 周辺 しゅうへん におよそ55,000名 めい の部隊 ぶたい を集結 しゅうけつ させた。この中 なか で、44,699名 めい [1] が4月 がつ 3日 にち にコリンスを発 た ち、ビューエル軍 ぐん が参入 さんにゅう する前 まえ にグラント軍 ぐん を急襲 きゅうしゅう することを期待 きたい していた。この軍隊 ぐんたい は大 おお きく4個 こ 軍団 ぐんだん に編成 へんせい された。指揮 しき 官 かん は以下 いか の通 とお りだった。
レオニダス・ポーク 少将 しょうしょう 指揮 しき 、チャールズ・クラークとベンジャミン・F・チーザム各 かく 准 じゅん 将 しょう の師団 しだん
ブラクストン・ブラッグ 少将 しょうしょう 指揮 しき 、ダニエル・ラッグルズとジョーンズ・M・ウィザーズ各 かく 准 じゅん 将 しょう の師団 しだん
ウィリアム・J・ハーディ 少将 しょうしょう 指揮 しき 、トマス・C・ヒンドマン、パトリック・クリバーン およびスターリング・A・M・ウッド各 かく 准 じゅん 将 しょう の師団 しだん
ジョン・ブレッキンリッジ 准 じゅん 将 しょう 指揮 しき 、予備 よび 隊 たい 、ロバート・トラビューとウィンフィールド・S・ストラザム各 かく 大佐 たいさ とジョン・S・ボウェン准 じゅん 将 しょう の旅団 りょだん 、および付設 ふせつ 騎兵隊 きへいたい [12]
戦闘 せんとう の前夜 ぜんや 、グラント軍 ぐん とジョンストン軍 ぐん はほぼ拮抗 きっこう する勢力 せいりょく だったが、南 みなみ 軍 ぐん は散弾 さんだん 銃 じゅう 、古 ふる い型 かた の滑 すべり 腔マスケット銃 じゅう 、さらにはヤリ まであるという古 ふる い武器 ぶき で装備 そうび しているに過 す ぎなかった。彼 かれ らはほとんど戦闘 せんとう の経験 けいけん も無 な いままに戦場 せんじょう に到着 とうちゃく した。ペンサコーラ やモービル から来 き たブラクストン・ブラッグの兵士 へいし が最 もっと も訓練 くんれん されていた。グラント軍 ぐん にはドネルソン砦 とりで で戦闘 せんとう を経験 けいけん した歩兵 ほへい 連隊 れんたい が62個 こ のうち32個 こ あった。その砲兵 ほうへい 隊 たい の半分 はんぶん や騎兵隊 きへいたい の大半 たいはん は戦闘 せんとう の古参 こさん 兵 へい だった[13] 。
ジョンストン軍 ぐん の副 ふく 司令 しれい はボーリガードだった。ボーリガードはグラント軍 ぐん を攻撃 こうげき しないよう奨 すす めた。行軍 こうぐん の音 おと や南 みなみ 軍兵 ぐんびょう が2日 にち 続 つづ きの雨 あめ の後 のち でライフルを試射 ししゃ する音 おと が、急襲 きゅうしゅう の価値 かち を下 さ げるのではないかと心配 しんぱい した。ジョンストンはボーリガードの忠告 ちゅうこく を拒 こば み、「敵 てき が100万 まん でも攻撃 こうげき 」すると伝 つた えた。ボーリガードの根拠 こんきょ のある心配 しんぱい にも拘 かか わらず、北 きた 軍 ぐん は南 みなみ 軍 ぐん が近付 ちかづ いている音 おと をき取 きと ることが無 な く、3マイル (5 km)離 はな れた敵 てき の宿営 しゅくえい 地 ち の動 うご きを何 なん の気 き もなく気付 きづ かないままだった[14] 。
明日 あした の戦闘 せんとう では武器 ぶき の使 つか い方 かた を知 し っている我々 われわれ と同 おな じ血 ち の西部 せいぶ の男 おとこ 達 たち と戦 たたか うことになる。戦 たたか いは捨 す て身 み のものになるだろう。
P・G・T・ボーリガード[15]
ジョンストンの作戦 さくせん はグラント軍 ぐん の左翼 さよく を襲 おそ い、北 きた 軍 ぐん の陸軍 りくぐん とテネシー川 がわ の砲艦 ほうかん の支援 しえん (さらに退却 たいきゃく 路 ろ )とを分離 ぶんり し、西 にし のスネーク・クリークやオウル・クリークの沼地 ぬまち に追 お い込 こ んで、そこで全滅 ぜんめつ させるというものだった。ジョンストンのグラントに対 たい する攻撃 こうげき は当初 とうしょ 4月 がつ 4日 にち に予定 よてい されていたが、48時 じ 間 あいだ 遅 おく れた。その結果 けっか 、再度 さいど ボーリガードは急襲 きゅうしゅう の効果 こうか が失 うしな われるのを怖 こわ れ、コリンスへの後退 こうたい を奨 すす めた。しかし、ジョンストンはこの時 とき も撤退 てったい を考 かんが えることを拒 こば んだ[16] 。
4月 がつ 6日 にち の戦闘 せんとう [ 編集 へんしゅう ]
シャイローの戦 たたか いの地図 ちず 、4月 がつ 6日 にち 朝 あさ
早朝 そうちょう の攻撃 こうげき [ 編集 へんしゅう ]
4月 がつ 6日 にち 午前 ごぜん 6時 じ 、ジョンストン軍 ぐん はコリンス道路 どうろ に跨 またが って戦闘 せんとう 配置 はいち に就 つ いた。実際 じっさい にこの軍隊 ぐんたい は北 きた 軍 ぐん 宿営 しゅくえい 地 ち からちょうど2マイル (3 km)離 はな れて夜通 よどお し見破 みやぶ られないように戦闘 せんとう 隊形 たいけい で露営 ろえい して過 す ごした。その接近 せっきん と夜明 よあ けの突撃 とつげき はほとんどありとある戦略 せんりゃく と戦術 せんじゅつ の急襲 きゅうしゅう を成功 せいこう させた。北 きた 軍 ぐん は早期 そうき 警戒 けいかい のための歩哨 ほしょう を事実 じじつ 上 じょう 立 た てていなかった。グラントは4月 がつ 5日 にち の夜 よる にハレックに宛 あ てて電報 でんぽう を打 う ち、「私 わたし は我 わ が軍 ぐん が攻撃 こうげき (一般 いっぱん 的 てき な攻撃 こうげき )されるという考 かんが えはほんの少 すこ しも無 な いが、そのような事 こと が起 お こった場合 ばあい に備 そな えておくだろう。」と伝 つた えた。グラントの準備 じゅんび の程度 ていど は言 い っていた程 ほど ではないことが分 わ かった。シャーマンは南 みなみ からの攻撃 こうげき 可能 かのう 性 せい を軽視 けいし し、ジョンストン軍 ぐん は西 にし のテネシー州 しゅう パーディの方角 ほうがく から攻撃 こうげき を掛 か けてくると予測 よそく した。その朝 あさ 早 はや く、ベンジャミン・M・プレンティス配下 はいか のピーボディ大佐 たいさ は偵察 ていさつ のために第 だい 25ミズーリ歩兵 ほへい 連隊 れんたい を無断 むだん で派遣 はけん しており、午前 ごぜん 5時 じ 15分 ふん に南 みなみ 軍 ぐん の前哨 ぜんしょう 部隊 ぶたい と交戦 こうせん した。活発 かっぱつ な戦 たたか いで北 きた 軍 ぐん がいくらか良 よ い配置 はいち に就 つ くことの助 たす けにはなったが、北 きた 軍 ぐん の指揮 しき 官 かん 層 そう は適切 てきせつ な備 そな えができていなかった[17] 。
ジョンストンとボーリガードが統一 とういつ された戦闘 せんとう 計画 けいかく を持 も っていなかったので、南 みなみ 軍 ぐん 部隊 ぶたい の混乱 こんらん した並 なら びが攻撃 こうげき の効果 こうか を減 へ らすことになった。ジョンストンはアメリカ連合 れんごう 国 こく 大統領 だいとうりょう ジェファーソン・デイヴィス に宛 あ てて、攻撃 こうげき は次 つぎ のようになると電報 でんぽう を打 う った。「ポークが左翼 さよく 、ブラッグが中央 ちゅうおう 、ハーディが右翼 うよく で、ブレッキンリッジが予備 よび 隊 たい となる。[18] 」その戦略 せんりゃく は、北 きた 軍 ぐん が供給 きょうきゅう 線 せん と退路 たいろ でもあるテネシー川 がわ に達 たっ するのを防 ふせ ぐためにその右翼 うよく から攻撃 こうげき させることだった。ジョンストンはボーリガードに後方 こうほう に残 のこ って兵士 へいし や必要 ひつよう になる物資 ぶっし を指導 しどう するよう指示 しじ し、自分 じぶん は馬 うま に乗 の って前線 ぜんせん に行 い き、戦 たたか う兵士 へいし を指揮 しき した。このことは実質 じっしつ 的 てき に戦闘 せんとう 全体 ぜんたい の指揮 しき を考 かんが え方 かた の異 こと なるボーリガードに譲 ゆず ったことになり、ボーリガードは単純 たんじゅん に3波 は で攻撃 こうげき して北 きた 軍 ぐん を真 ま っ直 す ぐテネシー川 がわ に押 お し込 こ むと考 かんが えていた[19] 。ハーディとブラッグの軍団 ぐんだん はその師団 しだん を横 よこ 一 いち 列 れつ で、約 やく 3マイル (5 km)の幅 はば で攻撃 こうげき を始 はじ めた[20] 。これらの部隊 ぶたい が前進 ぜんしん すると、混 ま ざり合 あ い制御 せいぎょ が難 むずか しくなった。軍団 ぐんだん 指揮 しき 官 かん 達 たち が予備 よび 隊 たい 無 な くして横隊 おうたい で攻撃 こうげき した。大砲 たいほう は突破 とっぱ を効果 こうか 的 てき にするための集中 しゅうちゅう ができなかった。午前 ごぜん 7時半 じはん 頃 ごろ 、ボーリガードは後方 こうほう にいるその位置 いち からポークとブレッキンリッジの軍団 ぐんだん に右翼 うよく と左翼 さよく からの前進 ぜんしん を命 めい じ、その効果 こうか を薄 うす めさせた。このためにその攻撃 こうげき は横 よこ 一線 いっせん 隊形 たいけい による正面 しょうめん 攻撃 こうげき の様相 ようそう になり、成功 せいこう するために必要 ひつよう な厚 あつ みも重 おも みも欠 か けていた。現代 げんだい の意味 いみ での指揮 しき と制御 せいぎょ は最初 さいしょ の攻撃 こうげき の開始 かいし 時点 じてん から失 うしな われた[21] 。
グラントとシャーマンの反撃 はんげき [ 編集 へんしゅう ]
南 みなみ 軍 ぐん の攻撃 こうげき は多少 たしょう の欠点 けってん はあったものの恐 おそ ろしいものであり、グラントの新 あたら しい軍隊 ぐんたい で経験 けいけん の無 な い多 おお くの兵士 へいし は逃 に げ場 ば を求 もと めてテネシー川 がわ まで逃亡 とうぼう した。他 た の者 もの はよく戦 たたか ったが、強 つよ い圧力 あつりょく で後退 こうたい を強 し いられ、新 あたら しい防御 ぼうぎょ 戦 せん を造 つく ろうと試 こころ みた。多 おお くの連隊 れんたい は完全 かんぜん にバラバラにされた。戦場 せんじょう に残 のこ された中隊 ちゅうたい や班 はん は自 みずか ら他 た の指揮 しき の下 した に入 はい った。この時間 じかん 帯 たい に戦闘 せんとう に対 たい する備 そな えを無視 むし してきていたシャーマンが戦闘 せんとう の最 もっと も重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たすようになった。シャーマンはその前線 ぜんせん の何処 どこ にでも現 あらわ れて、最初 さいしょ の攻撃 こうげき で両 りょう 軍 ぐん に驚 おどろ くべき損失 そんしつ が出 で ていたにも拘 かか わらず、敵 てき の攻撃 こうげき に抵抗 ていこう するよう未熟 みじゅく な新兵 しんぺい 達 たち を鼓舞 こぶ し続 つづ けた。2箇所 かしょ に軽 かる い傷 きず を受 う け、乗 の っていた馬 うま は3頭 とう も銃 じゅう で撃 う たれた。歴史 れきし 家 か のジェイムズ・M・マクファーソンは、この戦闘 せんとう がシャーマンの人生 じんせい にとって転回 てんかい 点 てん となり、北 きた 軍 ぐん でも傑出 けっしゅつ した将軍 しょうぐん の一人 ひとり になることになったと言 い っている[22] 。シャーマンの師団 しだん は最初 さいしょ の攻撃 こうげき の鉾先 ほこさき となり、その陣地 じんち に激 はげ しい砲火 ほうか が及 およ び、右翼 うよく は崩壊 ほうかい していたにも拘 かか わらず、頑 がん として戦 たたか い続 つづ けた。北 きた 軍 ぐん は徐々 じょじょ に地歩 ちほ を失 うしな いシャイロー教会 きょうかい の後 のち に後退 こうたい した。マクラーナンドの師団 しだん は一時 いちじ 的 てき にその陣地 じんち を安定 あんてい させた。しかし、全体 ぜんたい 的 てき にジョンストン軍 ぐん が正午 しょうご まで着実 ちゃくじつ に前進 ぜんしん を続 つづ け、北 きた 軍 ぐん の陣地 じんち を一 ひと つずつ剥 は がしていった[23] 。
グラント将軍 しょうぐん はその朝 あさ 、約 やく 10マイル (16 km)下流 かりゅう のテネシー州 しゅう サバンナにいた砲艦 ほうかん に乗 の っていた。4月4日 にち に乗 の っていた馬 うま が倒 たお れ彼 かれ の体 からだ を下敷 したじ きにしたために怪我 けが をしていた。戦闘 せんとう の日 ひ は回復 かいふく しつつあったが、松葉杖 まつばづえ がなければ動 うご けなかった[24] 。グラントは砲声 ほうせい を聞 き くと戦場 せんじょう に駆 か け付 つ け、午前 ごぜん 8時半 じはん 頃 ごろ に到着 とうちゃく した。グラントは夢中 むちゅう になって近 ちか くにいた援軍 えんぐん を寄 よ せ集 あつ めた。川向 かわむ こうの上陸 じょうりく 点 てん にいたブル・ネルソンの師団 しだん 、クランプズ・ランディングにいたルー・ウォーレスの師団 しだん などだった。しかし、これら予備 よび 隊 たい が急速 きゅうそく に戦場 せんじょう に到着 とうちゃく することはなかった。これはウォーレスの判断 はんだん のためだったと言 い われている[25] 。
ルー・ウォーレスの迷 まよ った師団 しだん [ 編集 へんしゅう ]
ウォーレスの部隊 ぶたい は北 きた 軍 ぐん 前線 ぜんせん の後方 こうほう 、ストーニー・ロンサムと呼 よ ばれる場所 ばしょ にあるクランプズ・ランディング近 ちか くに予備 よび 隊 たい として置 お かれていた。南 みなみ 軍 ぐん の出現 しゅつげん に、グラントはウォーレスに対 たい してシャーマンを支援 しえん するよう部隊 ぶたい を動 うご かせと命令 めいれい を送 おく った。ウォーレスはグラントが意図 いと した行路 こうろ とは異 こと なる道 みち を選 えら んだ(後 のち にグラントの命令 めいれい には曖昧 あいまい さがあったと主張 しゅちょう した)。ウォーレスはその行軍 こうぐん の目的 もくてき 地 ち に到着 とうちゃく して、シャーマン軍 ぐん が後退 こうたい を強 し いられ、ウォーレスが考 かんが えていた場所 ばしょ にはもはやいないという事実 じじつ を見出 みいだ した。さらに戦線 せんせん が遙 はる か向 む こうに動 うご いて、ウォーレス隊 たい は前進 ぜんしん する南 みなみ 軍 ぐん の後方 こうほう に出 で てしまったことが分 わ かった。グラントからウォーレス隊 たい はどこにいて、何故 なぜ 北 きた 軍 ぐん が陣 じん を構 かま えているピッツバーグ・ランディングに来 こ ないのか不思議 ふしぎ がっているという伝令 でんれい が届 とど いた。ウォーレスは混乱 こんらん した。ウォーレスは彼 かれ がその時 とき いた場所 ばしょ から攻撃 こうげき を掛 か けることができ、南 みなみ 軍 ぐん を後 ご から叩 はた けると考 かんが えた。戦後 せんご 、ウォーレスはもしその部隊 ぶたい の前進 ぜんしん が妨害 ぼうがい されなければ攻撃 こうげき に移 うつ って南 みなみ 軍 ぐん を破 やぶ っていたかも知 し れないと主張 しゅちょう した[26] 。それでもウォーレスは部隊 ぶたい を迂回 うかい させストーニー・ロンサムに戻 もど った。戻 もど るとすれば隊列 たいれつ の後衛 こうえい が先頭 せんとう になるはずだったが、ウォーレスは部隊 ぶたい の当初 とうしょ の隊形 たいけい を維持 いじ させるために部隊 ぶたい をぐるっと回 まわ らせて行軍 こうぐん させるやり方 かた を選 えら んだ。ウォーレス部隊 ぶたい はストーニー・ロンサムに戻 もど り、続 つづ いてピッツバーグ・ランディングに向 む かい午後 ごご 6時半 じはん から7時 じ の間 あいだ にグラントがいる場所 ばしょ に到着 とうちゃく した。この日 ひ の戦闘 せんとう は事実 じじつ 上 じょう 終 お わっていた。グラントは不機嫌 ふきげん であり、ウォーレスの戦闘 せんとう 報告 ほうこく 書 しょ に対 たい する所見 しょけん は、ウォーレスの軍 ぐん 歴 れき をひどく傷 きず つけるだけの否定 ひてい 的 てき なものだった[27] 。
シャイローの戦 たたか い、4月 がつ 6日 にち
北 きた 軍 ぐん 主力 しゅりょく の防衛 ぼうえい 線 せん では、午前 ごぜん 9時 じ 頃 ごろ から、プレンティスとW・H・L・ウォレスの師団 しだん が「ホーネッツネスト」と渾名 あだな される陣地 じんち を構築 こうちく し守 まも った。そこは今 いま では「サンクンロード」(窪 くぼ んだ道 みち )と一般 いっぱん に呼 よ ばれる道路 どうろ 沿 ぞ いだったが、その名前 なまえ を正当 せいとう 化 か する痕跡 こんせき はほとんど残 のこ っていない[28] 。南 みなみ 軍 ぐん は単純 たんじゅん にその陣地 じんち を迂回 うかい せずに数時間 すうじかん も攻撃 こうげき し、この攻撃 こうげき 中 ちゅう に大 おお きな損失 そんしつ を蒙 こうむ った。ホーネッツネストの右翼 うよく と左翼 さよく の北 きた 軍 ぐん は後退 こうたい を強 し いられ、プレンティスの陣地 じんち は前線 ぜんせん の中 なか で突出 とっしゅつ したようになった。部隊 ぶたい 間 あいだ の連携 れんけい がお粗末 そまつ であり、個別 こべつ の指揮 しき 官 かん の決断 けつだん だけで部隊 ぶたい が後退 こうたい した。南 みなみ 軍 ぐん の圧力 あつりょく は、その陣地 じんち で一番 いちばん 大 おお きな部隊 ぶたい を指揮 しき していたウォレスが致命傷 ちめいしょう を負 お ったことで増加 ぞうか した[29] 。連隊 れんたい が解体 かいたい され、中隊 ちゅうたい は分解 ぶんかい した。しかし、攻撃 こうげき 側 がわ が50門 もん 以上 いじょう の大砲 たいほう を集 あつ め陣地 じんち を囲 かこ むようにしてできた砲撃 ほうげき を加 くわ えてやっと、7時 じ 間 あいだ 死守 ししゅ されたホーネッツネストが落 お ちた[30] 。北 きた 軍 ぐん の残 ざん 兵 へい にとって大 おお きな陣地 じんち が占領 せんりょう されたが、その犠牲 ぎせい によってグラントにはピッツバーグ・ランディングで最後 さいご の防衛 ぼうえい 線 せん を布 し く余裕 よゆう ができた[31] 。
ホーネッツネストを奪 うば ったときに起 お きた問題 もんだい の一部 いちぶ は、南 みなみ 軍 ぐん にとって別 べつ の痛手 いたで があったことだった。ジョンストン将軍 しょうぐん が北 きた 軍 ぐん の左翼 さよく 攻撃 こうげき を指揮 しき しているときの午後 ごご 2時半 じはん 頃 ごろ に致命傷 ちめいしょう を負 お った。ジョンストンは自分 じぶん の足 あし の傷 きず が重傷 じゅうしょう ではないと考 かんが え、その個人 こじん 的 てき な軍医 ぐんい を他 た の負傷 ふしょう 兵 へい の手当 てあて に行 い かせたが、その軍医 ぐんい のいない間 あいだ に、ジョンストンは出血 しゅっけつ 多量 たりょう で死 し んだ。その長靴 ながぐつ は出血 しゅっけつ で溢 あふ れていた[32] 。実際 じっさい に銃弾 じゅうだん は膝 ひざ 窩動脈 みゃく を切断 せつだん していた。このことは南 みなみ 軍 ぐん にとって深刻 しんこく な損失 そんしつ だった。ジェファーソン・デイヴィスは、自分 じぶん の手 て の内 うち でアルバート・ジョンストンが最 もっと も効果 こうか 的 てき な将軍 しょうぐん だと考 かんが えた(この時点 じてん はロバート・E・リー が南 みなみ 軍 ぐん の傑出 けっしゅつ した将軍 しょうぐん として浮上 ふじょう する2ヶ月 かげつ 前 まえ だった)。ボーリガードが指揮 しき を引 ひ き継 つ いだが、後方 こうほう にいるその場所 ばしょ からは戦線 せんせん の配置 はいち についてほんのぼんやりとした考 かんが えしか持 も ち得 え なかったと思 おも われる[33] 。ボーリガードは軍隊 ぐんたい の士気 しき を失 うしな うことを避 さ けるためにジョンストンの死 し を秘密 ひみつ にしておくことにしてその死骸 しがい を包 つつ んでおく様 よう に命 めい じ、続 つづ いてホーネッツネストに対 たい する攻撃 こうげき を再開 さいかい させた。これは戦術 せんじゅつ 的 てき な誤 あやま りだったと思 おも われる。北 きた 軍 ぐん の両翼 りょうよく はゆっくりと退 しりぞ いてピッツバーグ・ランディングの周 まわ りに半円 はんえん を描 えが くようになっており、もしボーリガードが部隊 ぶたい を北 きた 軍 ぐん の側面 そくめん に集中 しゅうちゅう させておれば、北 きた 軍 ぐん を打 う ち破 やぶ ることができ、ホーネッツネストの突出 とっしゅつ 部 ぶ は思 おも いのままだったかもしれない[34] 。
ピッツバーグ・ランディングの防御 ぼうぎょ [ 編集 へんしゅう ]
北 きた 軍 ぐん 側面 そくめん は押 お されっぱなしだったが、まだ決着 けっちゃく が着 つ くところまでは行 おこな っていなかった。南 みなみ 軍 ぐん ハーディとポークの部隊 ぶたい が北 きた 軍 ぐん 右翼 うよく のシャーマンとマクナーランドの部隊 ぶたい をピッツバーグ・ランディングの方向 ほうこう に後退 こうたい させ、ホーネッツネストの右翼 うよく は開 ひら いたままになった。ジョンストンの死 し の直後 ちょくご に、南 みなみ 軍 ぐん 予備 よび 隊 たい だったブレッキンリッジの軍団 ぐんだん が北 きた 軍 ぐん 前線 ぜんせん の最 さい 左翼 さよく を攻撃 こうげき し、戦力 せんりょく に劣 おと るデイビッド・スチュアートの旅団 りょだん を後退 こうたい させ、北 きた 軍 ぐん 後部 こうぶ とテネシー川 がわ への道 みち が開 あ けることになった。しかし、ブレッキンリッジ隊 たい は再 さい 結集 けっしゅう と、疲 つか れや混乱 こんらん からの回復 かいふく のために停止 ていし し、続 つづ いてホーネッツネストに向 む けた砲声 ほうせい の方向 ほうこう に進 すす むことを選 えら んだので機会 きかい が失 うしな われた。ホーネッツネストが落 お ちた後 のち 、北 きた 軍 ぐん の残 のこ っている部隊 ぶたい は、ピッツバーグ・ランディングの周 まわ りにテネシー川 がわ から西 にし にさらに北 きた の川道 かわみち に伸 の びる3マイル (5 km)の固 かた い前線 ぜんせん を確立 かくりつ し、遅 おく れているルー・ウォーレス師団 しだん の到着 とうちゃく を期待 きたい して接近 せっきん 路 ろ を明 あ けたままにしていた。シャーマンが前線 ぜんせん の右翼 うよく を指揮 しき し、マクラーナンドが中央 ちゅうおう 、左翼 さよく はW・H・L・ウォレス、ハールバットおよびスチュアートの残 ざん 兵 へい がピッツバーグ・ランディングの上 うえ の崖 がけ に混 こ み合 あ っていた何 なん 千 せん ものはぐれ兵 へい [35] と混合 こんごう して守 まも った。ビューエル軍 ぐん の1個 いっこ 旅団 りょだん 、ブル・ネルソン師団 しだん のジェイコブ・アメン准 じゅん 将 しょう の旅団 りょだん が舟 ふね で到着 とうちゃく して間 ま に合 あ い前線 ぜんせん の左端 ひだりはし に加 くわ わった[36] 。防御 ぼうぎょ 線 せん には50門 もん 以上 いじょう の大砲 たいほう の環 たまき があった[37] 。また川 かわ には砲艦 ほうかん (USSレキシントンとUSSタイラー)の大砲 たいほう があった[38] 。南 みなみ 軍 ぐん ウィザーズ准 じゅん 将 しょう に率 ひき いられた2個 こ 旅団 りょだん による最後 さいご の攻撃 こうげき は、戦線 せんせん の突破 とっぱ を試 こころ みたが撃退 げきたい された。ボーリガードは日没 にちぼつ の午後 ごご 6時 じ 以後 いご に2回 かい 目 め の試 こころ みを中止 ちゅうし させた[39] 。南 みなみ 軍 ぐん の作戦 さくせん は潰 つい えた。南 みなみ 軍 ぐん はグラント軍 ぐん を川 かわ 沿 ぞ いの防御 ぼうぎょ 的 てき 陣地 じんち に押 お し込 こ んだが、計画 けいかく した西 にし の沼地 ぬまち へではなかった[40] 。
4月 がつ 6日 にち の夜 よる 、アメリカ史 し の中 なか でも最 もっと も流血 りゅうけつ の多 おお い戦闘 せんとう の一 ひと つの第 だい 1日 にち 目 め には気落 きお ちさせる結末 けつまつ だった。両 りょう 軍 ぐん 間 あいだ の戦場 せんじょう で死 し んでいく兵士 へいし の絶望 ぜつぼう 的 てき な叫 さけ びが夜通 よどお し北 きた 軍 ぐん 、南 みなみ 軍 ぐん の宿営 しゅくえい 地 ち に聞 き こえた。雷雨 らいう がその地域 ちいき を通 とお り過 す ぎ、北 きた 軍 ぐん の砲艦 ほうかん からの周期 しゅうき 的 てき な砲撃 ほうげき が両 りょう 軍 ぐん 共 ども にその夜 よる を惨 みじ めな経験 けいけん にさせた。グラントの一時 いちじ 的 てき な挫折 ざせつ にも怯 ひる まない態度 たいど と攻撃 こうげき 的 てき な姿勢 しせい を貫 つらぬ く傾向 けいこう を要約 ようやく する有名 ゆうめい な逸話 いつわ がある。疲 つか れ切 き った南 みなみ 軍 ぐん 兵士 へいし が放棄 ほうき された北 きた 軍 ぐん 宿営 しゅくえい 地 ち で寝 ね に就 つ いたとき、シャーマンは降 ふ り注 そそ ぐ雨 あめ を避 さ けている木 こ の下 した でグラントに出逢 であ った。グラントは葉巻 はまき を吸 す いながらその日 ひ の損失 そんしつ と翌日 よくじつ の作戦 さくせん を考 かんが えていた。シャーマンが「ところでグラント、今日 きょう は悪魔 あくま の日 ひ だったとは思 おも わないか?」と言 い うと、グラントは見上 みあ げて、「そうだな」と答 こた え、1服 ふく した後 のち 、「そうだ、だが明日 あした は奴 やつ らに目 め に物 もの 見 み せよう」と言 い った[41] 。
もし明日 あした の朝 あさ 、敵 てき がやってくれば、地獄 じごく のようにひっぱたいてやろう。
ネイサン・ベッドフォード・フォレストからパトリック・R・クレバーンに[42]
ボーリガードはデイヴィス大統領 だいとうりょう に「完璧 かんぺき な勝利 しょうり 」と電報 でんぽう を打 う ち、後 のち に「私 わたし はグラント将軍 しょうぐん をまさに望 のぞ んでいた場所 ばしょ においていたので、明日 あした の朝 あさ には終 お わらせることができると考 かんが えた」ことを認 みと めた。その部下 ぶか の多 おお くも、北 きた 軍 ぐん の宿営 しゅくえい 地 ち を取 と り、何 なん 千 せん もの捕虜 ほりょ と数 すう トンもの物資 ぶっし を捕獲 ほかく したことで喜 よろこ び勇 いさ んでいた。しかし、グラントには楽観 らっかん 的 てき になる理由 りゆう があった。ルー・ウォーレス師団 しだん と、ドン・カルロス・ビューエルの15,000名 めい の軍隊 ぐんたい がその夜 よる に到着 とうちゃく しつつあり、ビューエルの全 ぜん 軍 ぐん は午前 ごぜん 4時 じ までに到着 とうちゃく して、翌日 よくじつ の流 なが れを変 か えるのに間 ま に合 あ った[43] 。ボーリガードの夕暮 ゆうぐ れでその攻撃 こうげき を停止 ていし させた決断 けつだん については、かなりの歴史 れきし 的 てき な議論 ぎろん を呼 よ んだ。ブラクストン・ブラッグとアルバート・ジョンストンの息子 むすこ 、ウィリアム・プレストン・ジョンストン大佐 たいさ は、いわゆる「シャイローの失 うしな われた機会 きかい 」を嘆 なげ いた者 もの 達 たち の中 なか にいた。ボーリガードは北 きた 軍 ぐん 前線 ぜんせん の強 つよ さを見 み るために前線 ぜんせん に出 で てこないで、シャイロー教会 きょうかい に留 とど まっていた。ネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐 たいさ からのビューエル軍 ぐん がグラント軍 ぐん の補強 ほきょう のために川 かわ を渉 わたる ろうとしているという情報 じょうほう (さらに戦争 せんそう 捕虜 ほりょ プレンティスの空威張 からいば り[44] ))も軽視 けいし した。ボーリガードはその決断 けつだん のい訳 いわけ で、部隊 ぶたい は単 たん に疲 つか れており、昼 ひる の光 こう は1時 じ 間 あいだ も残 のこ っておらず、グラント軍 ぐん の大砲 たいほう の優位 ゆうい が手強 てごわ いものだったとしていた。またアラバマ州 しゅう 北部 ほくぶ にいるベンジャミン・ハーディン・ヘルム 准 じゅん 将 しょう から、ビューエル軍 ぐん はアラバマ州 しゅう ジケーターに向 む かっており、ピッツバーグ・ランディングに向 む けてではないという伝言 でんごん を受 う け取 と っていた[45] 。
4月 がつ 7日 にち の戦闘 せんとう [ 編集 へんしゅう ]
シャイローの戦 たたか い、4月 がつ 7日 にち
4月 がつ 7日 にち 、北 きた 軍 ぐん は2軍 ぐん が合流 ごうりゅう して総勢 そうぜい 45,000名 めい となった。南 みなみ 軍 ぐん は1日 にち 目 め に大 おお きな損失 そんしつ を受 う けて、その数 かず は8,500名 めい とされたが、落 お ちこぼれや脱走 だっそう のために、その指揮 しき 官 かん 達 たち の報告 ほうこく では残 のこ り実質 じっしつ 20,000名 めい に過 す ぎなかった。ビューエルは戦後 せんご その数字 すうじ に反論 はんろん し、28,000名 めい はいたと主張 しゅちょう した。南 みなみ 軍兵 ぐんびょう は南 みなみ のプレンティスとシャーマンが宿営 しゅくえい 地 ち に使 つか っていた場所 ばしょ に引 ひ き返 かえ し、ポークの軍団 ぐんだん はピッツバーグ・ランディングの南西 なんせい 4マイル (6.5 km)、4月 がつ 5日 にち に露営 ろえい した所 ところ まで戻 もど った。戦線 せんせん は築 きず かれておらず、いたとしても弾薬 だんやく の補給 ほきゅう はほとんど無 な かった。兵士 へいし 達 たち は食料 しょくりょう 、水 みず および最 もっと も必要 ひつよう とする夜 よる の休息 きゅうそく のための待避 たいひ 所 しょ を探 さが す必要 ひつよう 性 せい で消耗 しょうもう していた。
ボーリガードはこのとき勢力 せいりょく で負 ま けていることに気付 きづ いておらず、攻撃 こうげき を続行 ぞっこう してグラント軍 ぐん を川 かわ に追 お い落 お とす作戦 さくせん を立 た てた。彼 かれ が驚 おどろ かされたことに、北 きた 軍 ぐん は夜明 よあ けと共 とも に行動 こうどう を開始 かいし し大挙 たいきょ して反撃 はんげき を始 はじ めた。グラントとビューエルはその攻撃 こうげき を別々 べつべつ に始 はじ めた。協 きょう 働 はたらけ 行動 こうどう は師団 しだん レベルでのみ起 お こった。ルー・ウォーレス師団 しだん が北 きた 軍 ぐん 前線 ぜんせん の最右翼 さいうよく で午前 ごぜん 7時 じ 頃 ごろ にティルマン・ブランチを渉 わたる って最初 さいしょ に戦闘 せんとう に突入 とつにゅう し、プレストン・ポンド大佐 たいさ の旅団 りょだん を追 お い返 かえ した。ウォーレス師団 しだん の左翼 さよく はシャーマン師団 しだん の生 い き残 のこ りであり、マクラーナンドやW・H・L・ウォレス(この時 とき はジェイムズ・タトル大佐 たいさ が指揮 しき を引 ひ き継 つ いでいた)の残存 ざんそん 兵 へい も加 くわ わった。ビューエル軍 ぐん のブル・ネルソン、クリッテンデンおよびマクックの各 かく 師団 しだん は左翼 さよく に就 つ いた。南 みなみ 軍 ぐん の防御 ぼうぎょ 陣 じん はひどく混 ま じり合 あ っており、部隊 ぶたい の結束 けっそく は旅団 りょだん を越 こ えてはほとんど無 な かった。ポーク少将 しょうしょう の師団 しだん を露営 ろえい 地 ち から南西 なんせい に動 うご かして配置 はいち に付 つ けるまで2時間 じかん 以上 いじょう を要 よう した。午前 ごぜん 10時 じ までに、ボーリガードはその前線 ぜんせん を安定 あんてい させ、左翼 さよく からブラッグ、ポーク、ブレッキンリッジおよびハーディの順 じゅん で並 なら んだ[46] 。
北 きた 軍 ぐん の左翼 さよく はネルソンの師団 しだん が前進 ぜんしん を誘導 ゆうどう し、密接 みっせつ してクリッテンデンおよびマクックの各 かく 師団 しだん が続 つづ き、コリンス道路 どうろ とハンバーグ・サバンナ道路 どうろ を下 くだ った。激 はげ しい戦闘 せんとう の後 のち でクリッテンデンの師団 しだん が朝 あさ 遅 おそ くまでにホーネッツネスト地域 ちいき を取 と り戻 もど したが、クリッテンデンとネルソンはどちらもブレッキンリッジによる決死 けっし の反撃 はんげき で撃退 げきたい された。北 きた 軍 ぐん の右翼 うよく は着実 ちゃくじつ に前進 ぜんしん し、ブラッグとポークを南 みなみ に後退 こうたい させた。クリッテンデンおよびマクックの各 かく 師団 しだん がその攻撃 こうげき を再開 さいかい し、ブレッキンリッジは後退 こうたい を強 し いられ、昼 ひる までにボーリガード軍 ぐん の前線 ぜんせん はハンバーグ・パーディ道路 どうろ に沿 そ うようになった[47] 。
午後 ごご 早 はや く、ボーリガードはシャイロー教会 きょうかい 地域 ちいき から一連 いちれん の反撃 はんげき を掛 か けさせ、コリンス道路 どうろ の制圧 せいあつ を狙 ねら った。北 きた 軍 ぐん の右翼 うよく はウォーターオークス・ポンドでのこれら攻撃 こうげき によって一時 いちじ 的 てき に後退 こうたい させられた。クリッテンデンはタトルの支援 しえん を受 う けてハンバーグ・パーディ道路 どうろ と東 ひがし コリンス道路 どうろ の交差点 こうさてん を占拠 せんきょ し、南 みなみ 軍 ぐん をプレンティスが使 つか っていた宿営 しゅくえい 地 ち に追 お い込 こ んだ。ネルソンはその攻撃 こうげき を再開 さいかい し、午後 ごご 遅 おそ くまでにロカストグラブ・ブランチを見下 みお ろす高台 たかだい を占領 せんりょう した。ボーリガードの最後 さいご の反撃 はんげき は側面 そくめん 攻撃 こうげき を受 う け、グラントがジェイムズ・C・ビーチ大佐 たいさ の旅団 りょだん を前進 ぜんしん させたときに撃退 げきたい された[48] 。
ボーリガードは主導 しゅどう 権 けん を失 うしな い、弾薬 だんやく や食料 しょくりょう も尽 つ きかけ10,000名 めい 以上 いじょう の兵士 へいし が戦死 せんし し、負傷 ふしょう し、不明 ふめい になっていることを認識 にんしき し、もはやこれ以上 いじょう は進 すす めないと分 わ かった。ブレッキンリッジの5,000名 めい を殿軍 でんぐん に使 つか い、教会 きょうかい とシャイロー・ブランチの南 みなみ の尾根 おね にあった大砲 たいほう を集中 しゅうちゅう させて軍 ぐん をシャイロー教会 きょうかい の後 のち に退 しりぞ かせた。これらの部隊 ぶたい が午後 ごご 5時 じ まで北 きた 軍 ぐん をコリンス道路 どうろ の陣地 じんち に留 と めさせ、その後 ご 南 みなみ 軍 ぐん はコリンスに向 む けて秩序 ちつじょ ある撤退 てったい を開始 かいし した。疲 つか れ切 き った北 きた 軍 ぐん は、以前 いぜん のシャーマンやプレンティスの宿営 しゅくえい 地 ち まで追撃 ついげき するのがやっとだった。ルー・ウォーレスの師団 しだん はシャイロー・ブランチを越 こ えて前進 ぜんしん したが、他 た の部隊 ぶたい の支援 しえん がなかったので、闇 やみ が訪 おとず れると共 とも に停止 ていし し、シャーマンの宿営 しゅくえい 地 ち に戻 もど った。戦闘 せんとう は終 お わった。その後 ご 長 なが い間 あいだ 、グラントとビューエルは、まだ明 あか るさが残 のこ っている時間 じかん を利用 りよう してでも即座 そくざ の追撃 ついげき を掛 か けないとグラントが決断 けつだん した事 こと について口 くち 喧嘩 げんか した。グラントは、兵士 へいし が疲 つか れ切 き っていることを挙 あ げていたが、南 みなみ 軍 ぐん も同 おな じように疲 つか れ切 き っていたことも事実 じじつ だった。グラントが躊躇 ちゅうちょ したことの一端 いったん は、ビューエルと普通 ふつう ではない指揮 しき の関係 かんけい を持 も ったことでもあった。グラントが上級 じょうきゅう 士官 しかん であり、事実 じじつ 上 じょう 両 りょう 軍 ぐん を指揮 しき したが、ビューエルは2日間 にちかん の戦 たたか いを通 つう じて独立 どくりつ して行動 こうどう することを明確 めいかく にしていた[49] 。
フォールン・ティンバーズ、4月 がつ 8日 にち [ 編集 へんしゅう ]
4月 がつ 8日 にち 、シャーマンをコリンス道路 どうろ に沿 そ って威力 いりょく 偵察 ていさつ に派遣 はけん し、南 みなみ 軍 ぐん が撤退 てったい したかあるいは再 さい 結集 けっしゅう して攻撃 こうげき を再開 さいかい するつもりかを確認 かくにん させた。グラント軍 ぐん には、偵察 ていさつ 行動 こうどう に最 もっと も適 てき し、退却 たいきゃく する敵 てき を活発 かっぱつ に追撃 ついげき することに適 てき した大 おお きな組織 そしき された騎兵隊 きへいたい が無 な かった。シャーマンはその師団 しだん から2個 こ 旅団 りょだん と2個 こ 騎兵 きへい 大隊 だいたい を選 えら んで前進 ぜんしん させ、ビューエル軍 ぐん のトマス・J・ウッド准 じゅん 将 しょう の師団 しだん に遭遇 そうぐう した。ピッツバーグ・ランディングから6マイル(10 km)南西 なんせい で、シャーマン隊 たい が開 あ けた平原 へいげん に出 で てきて、そこに南 みなみ 軍 ぐん の野戦 やせん 病院 びょういん を含 ふく む広範 こうはん な宿営 しゅくえい 地 ち があった。その地 ち は南 みなみ 軍 ぐん のフォレスト大佐 たいさ が指揮 しき する300名 めい の騎兵 きへい が守 まも っていた。その平原 へいげん に近 ちか づく道 みち には200ヤード (180 m)以上 いじょう にわたって倒木 とうぼく が置 お かれていた[50] 。
第 だい 77オハイオ歩兵 ほへい 連隊 れんたい の散 ち 兵 へい が接近 せっきん していったが、倒木 とうぼく を払 はら うために難渋 なんじゅう した。フォレストは突撃 とつげき を命 めい じ、散弾 さんだん 銃 じゅう や拳銃 けんじゅう を放 はな ち、サーベルを振 ふ りかざし、南部 なんぶ 騎兵 きへい の気 き の荒 あら い混戦 こんせん を生 う み出 だ し、シャーマンを捕獲 ほかく する寸前 すんぜん までいった。ジェシー・ヒルデブランド大佐 たいさ の旅団 りょだん が横隊 おうたい を形成 けいせい し始 はじ めると、南 みなみ 軍 ぐん の騎兵 きへい は強力 きょうりょく な敵 てき を見 み て後退 こうたい を始 はじ め、部下 ぶか よりもかなり前 まえ に出 で ていたフォレストは、自分 じぶん が孤立 こりつ していると認識 にんしき する前 まえ に北 きた 軍兵 ぐんびょう からは数 すう ヤードの距離 きょり になっていた。シャーマンの兵士 へいし が「奴 やつ を殺 ころ せ!奴 やつ と馬 うま を殺 ころ せ」と叫 さけ んだ。1人 ひとり の北 きた 軍 ぐん 兵士 へいし がそのマスケット銃 じゅう でフォレストの脇 わき に狙 ねら いを定 さだ めて発砲 はっぽう し、尻 しり の上 うえ に当 あ たり、背骨 せぼね まで通 かよ った。フォレストは重傷 じゅうしょう だったが馬 うま の背 せ に留 と まり続 つづ け逃 に げおおせた。フォレストはその傷 きず も戦争 せんそう 全体 ぜんたい も生 い き残 のこ った。北 きた 軍 ぐん は約 やく 100名 めい を失 うしな い、フォレストの突撃 とつげき であやうく捕獲 ほかく されるところだった。この出来事 できごと は「フォールン・ティンバーズ」(倒木 とうぼく )という名前 なまえ で記憶 きおく されている。シャーマンは南 みなみ 軍 ぐん の野戦 やせん 病院 びょういん を占領 せんりょう した後 のち 、ブレッキンリッジの殿軍 でんぐん のさらに後尾 こうび に遭遇 そうぐう して、敵 てき は新 あら たな攻撃 こうげき を掛 か ける兆候 ちょうこう が無 な いと判断 はんだん し、宿営 しゅくえい 地 ち に戻 もど った[51] 。
この戦闘 せんとう の直後 ちょくご 、北部 ほくぶ の新聞 しんぶん は4月 がつ 6日 にち の戦闘 せんとう でのグラントの行動 こうどう を非難 ひなん した。記者 きしゃ 達 たち の多 おお くは戦場 せんじょう から遠 とお く離 はな れていたが、グラントが酒 さけ に酔 よ っており、このことで防御 ぼうぎょ の備 そな えが無 な かったために兵士 へいし 達 たち がそのテントで銃剣 じゅうけん に刺 さ されることになったという誤 あやま った情報 じょうほう を広 ひろ めた。北 きた 軍 ぐん の勝利 しょうり にも拘 かか わらず、グラントの評判 ひょうばん は北部 ほくぶ 世論 せろん の間 あいだ で悪化 あっか した。多 おお くの者 もの は破壊 はかい された北 きた 軍 ぐん を統制 とうせい し、4月 がつ 7日 にち の勝利 しょうり に導 みちび いたのはビューエルの功績 こうせき だとした。グラント解任 かいにん の要求 ようきゅう がホワイトハウス に吹 ふ き荒 あ れた。エイブラハム・リンカーン大統領 だいとうりょう はグラントに関 かん する最 もっと も有名 ゆうめい な発言 はつげん で答 こた えた。「私 わたし にはこの男 おとこ に換 か えられる者 もの がいない。彼 かれ は戦 たたか う」シャーマンはその前 まえ の憂鬱 ゆううつ や戦闘 せんとう に先立 さきだ つ防御 ぼうぎょ の過失 かしつ を償 つぐな って余 あま りある銃火 じゅうか と混乱 こんらん の中 なか での落 お ち着 つ きによって、即座 そくざ に英雄 えいゆう として浮上 ふじょう した。しかし今日 きょう 、グラントは厳 きび しい状況 じょうきょう 下 か に保持 ほじ し得 え た明晰 めいせき な判断 はんだん 力 りょく と、結局 けっきょく は2日 にち 目 め に勝利 しょうり に導 みちび いた大 おお きな戦術 せんじゅつ 的 てき 有 あ り様 さま を認識 にんしき できる能力 のうりょく によって肯定 こうてい 的 てき に評価 ひょうか されているday.[52] 。
それでもグラントの経歴 けいれき はシャイローの戦 たたか いの後 のち で一時 いちじ 的 てき に傷 きず ついた。ヘンリー・ハレックはその軍隊 ぐんたい を結集 けっしゅう して再編 さいへん し、グラントは副 ふく 司令 しれい 官 かん という権力 けんりょく の無 な い地位 ちい に就 つ けた。4月 がつ 下旬 げじゅん と5月 がつ に、ハレックが自 みずか ら指揮 しき する北 きた 軍 ぐん は緩 ゆる りとコリンスに向 む かい、それを包囲 ほうい して占領 せんりょう した。一方 いっぽう ミシシッピ川 がわ の水陸 すいりく 協 きょう 働 はたらけ 部隊 ぶたい が南 みなみ 軍 ぐん の河川 かせん 防衛 ぼうえい 船隊 せんたい を破壊 はかい し、テネシー州 しゅう メンフィスを占領 せんりょう した。ハレックは全 ぜん 北 きた 軍 ぐん の総 そう 司令 しれい 官 かん に昇進 しょうしん し、東部 とうぶ へ出発 しゅっぱつ すると共 とも に、グラントが指揮 しき に戻 もど った。グラントはミシシッピ川 がわ を下 くだ って軍 ぐん を進 すす めビックスバーグ を包囲 ほうい した。1863年 ねん 夏 なつ のビックスバーグの降伏 ごうぶく とポートハドソンの陥落 かんらく の後 のち は、ミシシッピ川 がわ が北 きた 軍 ぐん の支配 しはい 下 か になり、南 みなみ 軍 ぐん は2つに分断 ぶんだん された。ミシシッピ軍 ぐん の指揮 しき はブラクストン・ブラッグに任 まか され、ブラッグは4月 がつ 6日 にち 付 つ けで大将 たいしょう に昇進 しょうしん した。1862年 ねん の秋 あき に、ブラッグはケンタッキー州 しゅう 侵略 しんりゃく 軍 ぐん を率 ひき い、ペリービルの戦 たたか い の後 のち で撤退 てったい するという結果 けっか になって失敗 しっぱい した[53] 。
シャイロー教会 きょうかい 、シャイロー国立 こくりつ 軍事 ぐんじ 公園 こうえん 、2006年 ねん 撮影 さつえい
シャイローの2日間 にちかん の戦 たたか いはそれまでのアメリカ史 し で最 もっと も損失 そんしつ の多 おお いものとなり、南 みなみ 軍 ぐん の敗北 はいぼく と、ジョンストンが描 えが いた北 きた 軍 ぐん の2つの軍隊 ぐんたい がテネシー州 しゅう で合流 ごうりゅう するのを妨 さまた げるという作戦 さくせん が挫折 ざせつ する結果 けっか になった。北 きた 軍 ぐん の損失 そんしつ は13,047名 めい (戦死 せんし 1,754名 めい 、負傷 ふしょう 8,408名 めい 、捕虜 ほりょ または不明 ふめい 2,885名 めい )だった。グラント軍 ぐん は2日間 にちかん にわたる戦 たたか いの鉾先 ほこさき となり、グラント軍 ぐん だけで戦死 せんし 1,513名 めい 、負傷 ふしょう 6,601名 めい 、捕虜 ほりょ または不明 ふめい 2,830名 めい となった。南 みなみ 軍 ぐん の損失 そんしつ は10,699名 めい (戦死 せんし 1,728名 めい 、負傷 ふしょう 8,012名 めい 、捕虜 ほりょ または不明 ふめい 959名 めい )だった[54] 。両 りょう 軍 ぐん の損失 そんしつ 合計 ごうけい 23,746名 めい という数字 すうじ は、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 、米 べい 英 えい 戦争 せんそう および米 べい 墨 ぼく 戦争 せんそう の戦闘 せんとう に絡 から むアメリカ軍 ぐん の損失 そんしつ 合計 ごうけい よりも大 おお きかった[55] 。死者 ししゃ には南 みなみ 軍 ぐん の将軍 しょうぐん アルバート・ジョンストンが含 ふく まれている。北 きた 軍 ぐん の位 くらい が高 たか い死者 ししゃ にはW・H・L・ウォレスがいた。両 りょう 軍 ぐん ともにこの大 おお きな損失 そんしつ に衝撃 しょうげき を受 う けた。このような流血 りゅうけつ 沙汰 ざた があと3年間 ねんかん 続 つづ き、さらに大 おお きな損失 そんしつ を出 だ す戦闘 せんとう が8度 ど も起 お こるとは、誰 だれ も予測 よそく できなかった[56] 。グラントは、一 ひと つの大 おお きな戦 たたか いが戦争 せんそう を終 お わらせるという予測 よそく はおそらく実現 じつげん できないと理解 りかい するようになった。戦争 せんそう は、大 おお きな損失 そんしつ を出 だ し資源 しげん を使 つか いはたして南 みなみ 軍 ぐん が屈服 くっぷく するか、南 みなみ 軍 ぐん が勝利 しょうり して合衆国 がっしゅうこく が分裂 ぶんれつ するか、どちらかまで継続 けいぞく することになる。グラントは戦争 せんそう の残 のこ り期間 きかん で役立 やくだ つことになる備 そな えについて貴重 きちょう な教訓 きょうくん も学 まな んだ[57] 。
^ a b c d Eicher, p. 222.
^ Cunningham, pp. 422-24.
^ Cunningham, p. 422.
^ Nevin, p. 104; Woodworth, Nothing but Victory , pp. 128-?31, 141-42; Smith, pp. 173-79; Cunningham, pp. 72-74.
^ Smith, p. 179; Woodworth, Nothing but Victory , p. 136.
^ Smith, p. 185; Eicher, p. 223.
^ Daniel, p. 131. この教会 きょうかい は南部 なんぶ メソジスト監督 かんとく 教会 きょうかい によって1854年 ねん に建 た てられた。「シャイロー」(ヘブライ語 ご でシロ)という名前 なまえ は旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ のサムエル記 き 上 じょう から来 き ており、ヘブライ人 じん が毎年 まいとし 巡礼 じゅんれい する宗教 しゅうきょう 的 てき 中心 ちゅうしん を表 あらわ した。大 おお まかに「平和 へいわ 」と訳 やく されたが、戦闘 せんとう 後 ご 、ニューヨーク州 しゅう 出身 しゅっしん のユダヤ人 じん 兵士 へいし がそれを「解放 かいほう 」と訳 やく した。
^ Grant, pp. 211-12.
^ Daniel, p. 139; Nevin, p. 105.
^ Eicher, pp. 222, 230.
^ 戦闘 せんとう 中 ちゅう 、通信 つうしん 文 ぶん には定冠詞 ていかんし 付 つ きのミシシッピ(川 かわ の名前 なまえ )軍 ぐん とされていた。これは北 きた 軍 ぐん のみが川 かわ の名前 なまえ を軍隊 ぐんたい の名前 なまえ とした一般 いっぱん 的 てき な規則 きそく と逸脱 いつだつ していた。例 たと えばNPS website を参照 さんしょう 。またこれは時 とき には西部 せいぶ の軍隊 ぐんたい を指 さ すときに使 つか われた。この軍隊 ぐんたい は1862年 ねん 3月5日 にち に始動 しどう し、11月にはブラクストン・ブラッグ によってテネシー軍 ぐん と改名 かいめい された。en:Army of Mississippi の項 こう を参照 さんしょう 。
^ Eicher, p. 223.
^ Cunningham, pp. 93, 98-101, 120.
^ Daniel, pp. 127-28.
^ Cunningham, p. 125.
^ Daniel, pp. 119, 121-23; Cunningham, pp. 128-29, 137-40; Woodworth, Nothing but Victory , p. 108; Eicher, p. 223.
^ Woodworth, Nothing but Victory , pp. 150-54; Nevin, pp. 110-11; Eicher, p. 224; Daniel, pp. 141-42; Smith, p. 185; McPherson, p. 408.
^ Cunningham, p. 140.
^ Nevin, p. 113. Daniel, p. 145. Esposito, text for Map 34, では、ボーリガードとのこの配置 はいち を厳 きび しく批判 ひはん されたが、ジョンストンが、その部隊 ぶたい に多 おお くの未経験 みけいけん な新兵 しんぺい を抱 かか えており、前線 ぜんせん で自 みずか ら気合 きあ いを入 い れる必要 ひつよう があったので正当 せいとう 化 か される。
^ Cunningham, p. 200.
^ Smith, p. 187; Esposito, map 34; Eicher pp. 224-26.
^ McPherson, p. 409.
^ Daniel, pp. 143-64; Eicher, p. 226; Esposito, map 34.
^ Daniel, p. 139; Cunningham, p. 133.
^ Daniel, pp. 143-64; Woodworth, Nothing but Victory , pp. 164-66; Cunningham, pp. 157-58; Eicher, p. 226.
^ Woodworth, Grant's Lieutenants , p. 77; Cunningham, p. 339.
^ Woodworth, Grant's Lieutenants , p. 72-82; Daniel, pp. 256-61; Sword, pp. 439-40; Cunningham, pp. 338-39; Smith, p. 196.
^ Cunningham, pp. 241-42.
^ Cunningham, p. 298.
^ 歴史 れきし 家 か 達 たち はホーネッツネストに対 たい して南 みなみ 軍 ぐん が集中 しゅうちゅう させた大砲 たいほう の数 かず について意見 いけん の一致 いっち を見 み ていない。Cunningham, p. 290では51門 もん としている。Daniel, p. 229は53門 もん とした。Sword, p. 326, とEicher, p. 228では、戦場 せんじょう 歴史 れきし 家 か D・W・リードによって当初 とうしょ 設定 せってい された伝統 でんとう 的 てき な数字 すうじ 62門 もん を報告 ほうこく した
^ Nevin, pp. 121-29, 136-39; Esposito, map 36; Daniel, pp. 207-14; Woodworth, Nothing but Victory , pp. 179-85; Eicher, p. 227.
^ Cunningham, pp. 275-77.
^ この戦闘 せんとう に対 たい する伝統 でんとう 的 てき な見方 みかた は、ジョンストンの死 し が戦 たたか いの一時 いちじ 停止 ていし を生 う み、南 みなみ 軍 ぐん からその気運 きうん を奪 うば い、戦闘 せんとう における敗北 はいぼく に繋 つな がったというものである。Sword, p. 310と Daniel, p. 235は共 とも にこの見解 けんかい を支持 しじ している。Cunningham, pp. 277-78は、そのような一時 いちじ 停止 ていし が南 みなみ 軍 ぐん 分裂 ぶんれつ の要因 よういん であるとし、ボーリガードが行動 こうどう を起 お こさなかったことは要因 よういん ではなく、ボーリガードは戦場 せんじょう での配置 はいち の感覚 かんかく は持 も っていたと主張 しゅちょう した。
^ Nevin, pp. 121-29, 136.
^ Cunningham, p. 321では、はぐれ兵 へい と非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん の数 かず は約 やく 15,000名 めい と推計 すいけい した。
^ Cunningham, p. 317.
^ ホーネッツネストと同様 どうよう 、大砲 たいほう の数 かず の推計 すいけい 値 ち は大 おお きく異 こと なる。グラントはその自叙伝 じじょでん で、「20門 もん かそれ以上 いじょう 」とした。Daniel, p. 246とGrimsley, p. 109は、41門 もん とした。Sword, p. 356は、「少 すく なくとも10門 もん 」とした。Cunningham, p. 307は、42門 もん から100門 もん 以上 いじょう という歴史 れきし 的 てき な数字 すうじ を引用 いんよう した。
^ Daniel, p. 265.
^ Cunningham, pp. 323-26.
^ Eicher, pp. 227-28; Daniel, pp. 235-37; Nevin, pp. 138-39.
^ Smith, p. 201; Sword, pp. 369-82.
^ Cunningham, p. 333.
^ Cunningham, pp. 340-41.
^ Cunningham, pp. 332-34.プレンティスは彼 かれ の捕獲 ほかく 者 しゃ に笑 わら って言 い った「貴方 あなた 達 たち は今日 きょう 自分 じぶん 達 たち のやりたいようにやった。しかし明日 あした は違 ちが うだろう。ご存 ぞん じのように、ビューエルが今夜 こんや グラントに合流 ごうりゅう して有効 ゆうこう になり、明日 あした の朝 あさ には我 わ が方 ほう があなた方 かた にテーブルを向 む けるだろう」
^ Nevin, p. 147; Daniel, pp. 252-56; Cunningham, pp. 323-26, 332; Sword, p. 378.
^ Daniel, pp. 265, 278.
^ Daniel, pp. 275-83.
^ Daniel, pp. 283-87.
^ Daniel, pp. 289-92.
^ Daniel, pp. 296-97; Sword, pp. 423-24.
^ Sword, pp. 425-26; Daniel, pp. 296-97; Cunningham, pp. 373-75. フォレストが1人 ひとり の北 きた 軍 ぐん 兵士 へいし の襟 えり を掴 つか んで馬 うま の上 うえ に引 ひ き上 あ げ、楯 だて の代 か わりに使 つか ったという人気 にんき のある話 はなし は、おそらく作 つく り話 ばなし である。参考 さんこう 文献 ぶんけん にこの話 はなし を含 ふく むものは無 な い。
^ Woodworth, Nothing but Victory , pp. 198-201; Smith, pp. 204-05; Cunningham, pp. 382-83.
^ Cunningham, pp. 384-96.
^ Eicher, p. 230; Cunningham, pp. 421-24.
^ Smith, p. 204.
^ List of battles 参照 さんしょう 。シャイローの戦 たたか いより損失 そんしつ が大 おお きい8度 ど の戦闘 せんとう とは、ゲティスバーグの戦 たたか い 、チカマウガの戦 たたか い 、チャンセラーズヴィルの戦 たたか い 、 スポットシルバニア・コートハウスの戦 たたか い 、アンティータムの戦 たたか い 、荒野 あらの の戦 たたか い 、第 だい 二 に 次 じ ブルランの戦 たたか い およびストーンズリバーの戦 たたか い である。
^ McDonough, p. 1775.
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