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第二次ブルランの戦い - Wikipedia コンテンツにスキップ

だいブルランのたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
だいブルランのたたか
(だいマナサスのたたかい)
南北戦争なんぼくせんそうなか

バージニアしゅうマナサスのブルラン・クリークにある石橋いしばし廃墟はいきょ。1862ねん3がつ撮影さつえい
とき1862ねん8がつ28にち - 8がつ30にち, [1]
場所ばしょバージニアしゅうプリンスウィリアムぐん
結果けっか みなみぐん勝利しょうり
衝突しょうとつした勢力せいりょく
アメリカ合衆国の旗 きたぐん みなみぐん
指揮しきかん
ジョン・ポープ ロバート・E・リー
ジェイムズ・ロングストリート
ストーンウォール・ジャクソン
戦力せんりょく
62,000[2] 50,000[2]
被害ひがいしゃすう
戦傷せんしょうしゃ10,000[3] 戦死せんし1,300
負傷ふしょう7,000[3]

だいブルランのたたか(だいにじブルランのたたかい, えい: Second Battle of Bull Run, 南部なんぶでの呼称こしょうだいマナサスのたたか, えい: Battle of Second Manassas)は、南北戦争なんぼくせんそう東部とうぶ戦線せんせん一部いちぶであり、1862ねん8がつ28にちから8がつ30にち[1]たたかわれた。みなみぐん将軍しょうぐんロバート・E・リーきたバージニアぐんによって、きたぐんジョン・ポープ少将しょうしょうバージニアぐん対抗たいこうして遂行すいこうされた攻撃こうげきてき作戦さくせん頂点ちょうてんをなすものであり、1861ねんおな場所ばしょたたかわれただいいちブルランのたたかだいいちマナサスのたたかい)よりもはるかにおおきな規模きぼ戦力せんりょくたたかわれた。

みなみぐんストーンウォール・ジャクソン少将しょうしょう広範囲こうはんいおよてき側面そくめんまわ行軍こうぐんつづいて、バージニアしゅうマナサス鉄道てつどう結節けっせつてんにあったきたぐん補給ほきゅう占領せんりょうし、きたぐんポープ将軍しょうぐんワシントンD.C.との通信つうしんせんおどかした。ジャクソンは北西ほくせいすうマイル後退こうたいし、ストーニー・リッジで防御ぼうぎょてき布陣ふじんおこなった。1862ねん8がつ28にち、ジャクソンはグラブトンちかくのブローナー農園のうえんきたぐんの1たい攻撃こうげきしたが、けにわった。おなジェイムズ・ロングストリート少将しょうしょう指揮しきするリーぐんの1つばさがサラフェアギャップのたたかいできたぐんかる抵抗ていこう突破とっぱし、戦場せんじょう近付ちかづいた。

ポープはジャクソンがわなはまったと確信かくしんするようになり、そのぐん主力しゅりょくをジャクソンに集中しゅうちゅうさせた。8がつ29にち、ポープは工事こうじちゅう鉄道てつどう路盤ろばん沿って陣取じんどったジャクソンぐんかえ攻撃こうげきけさせた。この攻撃こうげきりょうぐんおおきな損失そんしつあたえたがきたぐん撃退げきたいされた。正午しょうご、ロングストリートぐんがサラフェアギャップから戦場せんじょう到着とうちゃくし、ジャクソンぐん右翼うよく陣取じんどった。8月30にち、ポープはあらためて攻撃こうげきけさせたが、ロングストリートが戦場せんじょう到着とうちゃくしたことをらないようであった。きたぐんフィッツ・ジョン・ポーターだい5軍団ぐんだんによる攻撃こうげきたいしてみなみぐん集中しゅうちゅう砲火ほうかびせて打撃だげきあたえ、ロングストリートの5師団しだん25,000めいからなる右翼うよく反撃はんげきおこなったが、これは南北戦争なんぼくせんそうなかでも最大さいだい同時どうじ集中しゅうちゅう攻撃こうげきになった[4]きたぐん左翼さよく崩壊ほうかいし、ブルランがわ後方こうほう撤退てったいした。きたぐん後詰ごづ部隊ぶたい効果こうかてき行動こうどうにより、だいいちマナサスのたたかいのような惨事さんじ再現さいげんだけはまぬかれた。それでもポープぐんのセンタービルへけた撤退てったいあわただしいものだった[5]

背景はいけいおよび対戦たいせんした勢力せいりょく[編集へんしゅう]

1862ねん6がつなな日間にちかんたたかジョージ・マクレラン少将しょうしょう半島はんとう方面ほうめん作戦さくせん瓦解がかいしたのちで、エイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょうあたらしく結成けっせいしたバージニアぐん指揮しきかんジョン・ポープ指名しめいした。ポープは西部せいぶ戦線せんせんいくらかの成功せいこうおさめており、リンカーンはマクレランよりもより攻撃こうげき姿勢しせいのある将軍しょうぐんもとめた[6]

きたぐんのバージニアぐん総勢そうぜい51,000めいで3軍団ぐんだんかれた。フランツ・シーゲル少将しょうしょうだい1軍団ぐんだんのポトマックぐんだい11軍団ぐんだん)、ナサニエル・バンクス少将しょうしょうだい2軍団ぐんだんのポトマックぐんだい12軍団ぐんだん)、およびだいいちブルランのたたかいで敗北はいぼくしたときの指揮しきかんアービン・マクドウェル少将しょうしょうだい3軍団ぐんだんもとポトマックぐんだい1軍団ぐんだんのちにポトマックぐん復帰ふっき)だった。マクレランのポトマックぐんから3軍団ぐんだんだい3軍団ぐんだんだい5軍団ぐんだんおよびだい6軍団ぐんだん)の一部いちぶと、アンブローズ・バーンサイド少将しょうしょうだい9軍団ぐんだんジェシー・リー・リノ少将しょうしょう指揮しき)がこの戦闘せんとう参戦さんせんし、結果けっかてき総勢そうぜいは77,000めいとなった[7]

みなみぐんほうでは、ロバート・E・リー将軍しょうぐんきたバージニアぐん総勢そうぜい55,000めいを2つの「つばさ」あるいは「指揮しき」にけられた。「右翼うよく」はジェイムズ・ロングストリート少将しょうしょうが、「左翼さよく」はストーンウォール・ジャクソン少将しょうしょう指揮しきした。J・E・B・スチュアート少将しょうしょう指揮しき騎兵きへい師団しだんがジャクソンのつばさけられた[8]

ポープの任務にんむいくつかの目的もくてきたすことだった。ワシントンとシェナンドー渓谷けいこくまもり、ゴードンスビルの方向ほうこううごいてマクレランぐんからみなみぐんはなことだった[9]なな日間にちかんたたかいでマクレランぐん対戦たいせんしたリーの経験けいけんもとづけば、マクレランはもはやバージニア半島はんとうにあっても脅威きょういではないと認識にんしきし、自軍じぐんぜんぐんをリッチモンドのまもりにけておく理由りゆういとかんじていた。このことで、ジャクソンぐんをゴードンスビルに配置はいちしてポープぐんめ、バージニア中央ちゅうおう鉄道てつどうまもらせることができた[10]

リーはむねうちおおきな作戦さくせんえがいていた。きたぐんはマクレランぐんとポープぐんとにかれており、その位置いちおおきくへだたっているので、マクレランぐん注意ちゅういもどまえにポープぐんたたつぶ機会きかいだととらえた。A・P・ヒル少将しょうしょうに12,000めい部隊ぶたいをつけて、ジャクソンぐん合流ごうりゅうさせた。8がつ3にちきたぐんそう司令しれいかんヘンリー・ハレックはマクレランに半島はんとうからの撤退てったい完了かんりょうさせ、ポープぐん支援しえんするためにきたバージニアにもどるよう指示しじした。マクレランは抗議こうぎし、8がつ14にちまで部隊ぶたい移動いどうはじめなかった[11]

8がつ9にち、ナサニエル・バンクスの軍団ぐんだんシーダーさんたたかでジャクソンぐん攻撃こうげきし、はじめは調子ちょうしかったが、A・P・ヒルにひきいられたみなみぐん反撃はんげきしてバンクスぐんをシーダー・クリークの背後はいごまで後退こうたいさせた。しかし、ジャクソンぐん前進ぜんしんきたぐんジェイムズ・B・リケッツじゅんしょう師団しだんによってさえぎられた。このときまでにジャクソンはポークのかく軍団ぐんだん集結しゅうけつしており、個別こべつ撃破げきはしようという作戦さくせんむずかしくしたことをった。ジャクソンは8がつ12にちまでその陣地じんちまり、そのゴードンスビルまで後退こうたいした[12]8がつ13にち、リーはロングストリートぐんをジャクソンの補強ほきょう派遣はけんした。

8がつ22にちから25にちまで、りょうぐんはラッパハノックかわ沿いでちいさな戦闘せんとうかえした。はげしいあめかわすいふくがり、リーは自軍じぐんかわさせることができなかった。このときまでに半島はんとうからポトマックぐんからの増援ぞうえん到着とうちゃくしつつあった。リーはきたぐんがこれらの追加ついかぐんみなみぐん勢力せいりょくてき上回うわまわった事態じたい直面ちょくめんし、そのあたらしい作戦さくせんはジャクソンとスチュアートにぜんぐん半分はんぶん兵力へいりょくけて、ポープの通信つうしんせんであるオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道てつどう切断せつだんするためにまわみをおこなわせることだった。ポープぐん撤退てったいいられ、うごいて脆弱ぜいじゃくになったときやぶられるはずだった。ジャクソンは8がつ25にち出発しゅっぱつし、そのよるにセイラム(現在げんざいではマーシャル)に到着とうちゃくした[13]

8がつ26にち夕刻ゆうこく、ジャクソンのつばさはサラフェアギャップを経由けいゆしてポープぐん右翼うよくまわんだのちで、ブリストーでオレンジ・アレクサンドリア鉄道てつどう攻撃こうげきし、8がつ27にち夜明よあまえにマナサス鉄道てつどう結節けっせつてんにあったきたぐんだい規模きぼ補給ほきゅう占領せんりょう破壊はかいした。この急襲きゅうしゅうで、ポープはラッパハノックかわ沿いの防御ぼうぎょてき戦列せんれつから急速きゅうそく後退こうたいいられた。8月27にちから28にちけてのよるあいだ、ジャクソンはそのかく師団しだんきたにあるだいいちブルランの戦場せんじょうまで行軍こうぐんさせ、ストーニー・リッジにある完成かんせい鉄道てつどう路盤ろばん背後はいごじんかまえた[14]。この防御ぼうぎょじんいものであった。ふかもりみなみぐん部隊ぶたいかくし、みなみすうひゃくヤードにぎないきたぐん行軍こうぐん想定そうていされるウォーレントン・ターンパイクは見通みとおすことができた。ロングストリートぐんがジャクソンぐんくわわるとしても進入しんにゅうがあり、このことはもし時間じかんどおりに援軍えんぐんられない場合ばあいでも、ブルランやまかってジャクソンぐん後退こうたいすることも可能かのうにしていた。また完成かんせい鉄道てつどう路盤ろばん凸凹おうとつがあって、あつらえの塹壕ざんごう役目やくめたせた[15]

8がつ28にちのサラフェアギャップのたたかいでは、ロングストリートのつばさきたぐんのわずかな抵抗ていこう突破とっぱし、渓谷けいこくとおってジャクソンぐん合流ごうりゅうした。この一見いっけん些細ささいえる行動こうどうで、リーぐんの2つのつばさがマナサスの戦場せんじょう合流ごうりゅうできたので、きたるべきたたかいでポープぐんやぶれることを事実じじつじょう確実かくじつにした[16]

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

8がつ28にち:ブローナー農園のうえん[編集へんしゅう]

8がつ28にち、ジョン・ブローナー農園のうえんちかくでジャクソンぐん監視かんししているなかきたぐん縦隊じゅうたいがウォーレントン・ターンパイクに沿ってうごいたときにだいブルランのたたかいがはじまった。この部隊ぶたいはルーファス・キングじゅんしょう師団しだんぞくする部隊ぶたいだった。ジョン・P・ハッチ、ジョン・ギボンアブナー・ダブルデイおよびマーセナ・R・パトリックかくじゅんしょう旅団りょだんがセンタービルにいるポープぐんのこりに集結しゅうけつするために東方とうほう移動いどうしていた。キングはそのはやくにおもいてんかんせい発作ほっさこしていたので、自分じぶん師団しだんには同行どうこうしていなかった[17]

ジャクソンは、ロングストリートぐん合流ごうりゅうするために進行しんこうちゅうであることをらされていたので安心あんしんして、きたぐん自分じぶん自身じしん姿すがたさせるようにしたが、その存在そんざい無視むしされた。ポープがぐんをブルランがわ背後はいご退しりぞいてマクレランの到着とうちゃくしつつある軍隊ぐんたい合流ごうりゅうするのではないかと心配しんぱいし、攻撃こうげきはじめることを決断けつだんした。樹木じゅもくなら前線ぜんせん背後はいごもどってから部下ぶかに、「兵士へいしたちひょうせ、紳士しんし諸君しょくん」とつたえた。午後ごご6時半じはんごろみなみぐん大砲たいほう前面ぜんめんにいるてき部隊ぶたい、ジョン・ギボンのくろ帽子ぼうし旅団りょだんのちてつ旅団りょだん名付なづけられた)にかって砲撃ほうげき開始かいしした。もと砲兵ほうへいであったギボンは、だい4アメリカほう兵隊へいたいB大隊だいたいからの応射おうしゃこたえた。砲撃ほうげき開始かいしでキングの縦隊じゅうたいまった。ハッチの旅団りょだんはその場所ばしょとおぎており、後方こうほうにいたパトリックの旅団りょだんかく場所ばしょもとめ、ギボンとダブルデイの旅団りょだんだけがジャクソンの攻撃こうげきおうじた。ギボンは、(ポープの情報じょうほうれば)ジャクソンはセンタービルにいると想像そうぞうされていたので、この砲撃ほうげきたんにJ・E・B・スチュアートの騎馬きばほう兵隊へいたい大砲たいほうからのものだとおもっていた。ダブルデイと協議きょうぎしたのちで、だい2ウィスコンシン歩兵ほへい連隊れんたい古参こさんへいおかうえおくって、うるさい大砲たいほうらさせることを提案ていあんした[18]

左翼さよくにいた我々われわれ部隊ぶたい狂人きょうじんのエネルギーとしん驚嘆きょうたんすべきかえりみない無謀むぼうさでたま発砲はっぽうしたが、人間にんげん性質せいしつとしてそのようなおそろしく浪費ろうひてき砲火ほうかをいつまでも辛抱しんぼうしていることができなかった。前線ぜんせんにおけるおおきな隙間すきま文字通もじどおっていったが、孤立こりつした部隊ぶたいともあつまり、まさにかってんでいった。
だい6ウィスコンシン歩兵ほへい連隊れんたいのルーファス・R・ドーズ少佐しょうさ[19]

エドガー・オコーナー大佐たいさ指揮しきするだい2ウィスコンシン歩兵ほへい連隊れんたいはブローナーのもりけて前進ぜんしんした。430めい部隊ぶたい農家のうか南東なんとう到着とうちゃくしたとき、みなみぐんでももっと名高なだか部隊ぶたいであるウィリアム・S・ベイラー大佐たいさ指揮しきするストーンウォール旅団りょだん遭遇そうぐうした。このときおおくのたたかいで消耗しょうもうし800めいぎなかった。150ヤード (140 m)の距離きょりいて、ウィスコンシン連隊れんたいはこのバージニアじん破壊はかいてきいち斉射せいしゃげきおこなった。みなみぐんりょうぐん距離きょりが80ヤード (73 m)まで接近せっきんしたときに反撃はんげきした。りょうぐん応援おうえん追加ついかされ、たがいを至近しきん距離きょりきながら、ほとんどさえぎるものもないままに、2時間じかん以上いじょう一斉いっせい射撃しゃげきわしつづけた。ジャクソンはこの戦闘せんとうを「はげしくてっけつえた」と表現ひょうげんした。ギボンはだい19インディアナ連隊れんたい追加ついかした。ジャクソンは、師団しだん指揮しきかんリチャード・イーウェル少将しょうしょう命令めいれいわりに、直接ちょくせつその連隊れんたい指示しじしており、アレクサンダー・R・ロートンじゅんしょう旅団りょだんぞくする3ジョージア連隊れんたい投入とうにゅうした。ギボンはこの攻勢こうせいだい7ウィスコンシン歩兵ほへい連隊れんたい投入とうにゅうして対抗たいこうした。ジャクソンは、アイザック・R・トリンブルじゅんしょう旅団りょだんにロートン旅団りょだんささえるようにめいじ、これがギボンの最後さいご連隊れんたいであるだい6ウィスコンシン歩兵ほへい連隊れんたい対応たいおうした[20]

トリンブル旅団りょだん投入とうにゅうされたのちは、ギボンの部隊ぶたいはなはだしい劣勢れっせいになり、ダブルデイに援軍えんぐん要請ようせいした。ダブルデイはだい56ペンシルベニア連隊れんたいだい76ニューヨーク連隊れんたいおくって、だい6とだい7ウィスコンシン連隊れんたいあいだ隙間すきまめた。これらの部隊ぶたいくらくなってから戦場せんじょう到着とうちゃくしており、トリンブルもロートンも連携れんけいれないままに攻撃こうげきはじめていた。ジョン・ペルハム大尉たいい指揮しきする騎兵きへいほう兵隊へいたいがジャクソンに前進ぜんしんめいじられ、100ヤード (91 m)も距離きょりからだい19インディアナ連隊れんたい砲撃ほうげきした。たたかいは午後ごご9ごろ終了しゅうりょうし、ギボンとダブルデイは連絡れんらくれないままに、整然せいぜんとターンパイクまで後退こうたいした。みなみぐんつかてており追撃ついげきできなかった。この戦闘せんとう実質じっしつてきけだったが、損失そんしつおおきく、きたぐんは1,150めいみなみぐんは1,250めいとなった。だい2ウィスコンシン連隊れんたい参加さんかした430めいのうち276めいうしなった。ストーンウォール旅団りょだんは800めいうち340めいうしなった。ジョージアの2連隊れんたい、トリンブルのだい21連隊れんたいとロートンのだい26連隊れんたいは、それぞれその70%以上いじょううしなった。全体ぜんたいでは、戦闘せんとう参加さんかした3にん1人ひとりたれた。みなみぐんのウィリアム・B・タリアフェーロじゅんしょうは、「この戦闘せんとうにはみさおぐんく、戦術せんじゅつもほとんどかった。忍耐にんたい問題もんだいであり、りょうぐんどもえた。」ときした。タリアフェーロやイーウェルは負傷ふしょうし、イーウェルの右足みぎあし切断せつだんされた[21]

かず呼吸こきゅうあいだ我々われわれぜん戦列せんれつてきとのはげしくてっけつえた戦闘せんとう突入とつにゅうした。1つの戦列せんれつ撃退げきたいされるともう1つがそれにってわり、多数たすうを恃んでめられているかのように前進ぜんしんし、戦闘せんとうはげしさで我々われわれ陣地じんちからされた。
ストーンウォール・ジャクソン少将しょうしょう[22]

ジャクソンは勢力せいりょくてきっていた(みなみぐん6,200めいたいしギボンの部隊ぶたいは2,100めい)にもかかわらず、決定的けっていてき勝利しょうりられなかった[23]。これは、暗闇くらやみと、部隊ぶたいをバラバラに投入とうにゅうしたこと、および中心ちゅうしんになる2人ふたり将軍しょうぐん負傷ふしょうしたことによっていた。しかし、ジョン・ポープのくという戦略せんりゃくてき目論見もくろみたせた。ポープは、ブローナー農園のうえん戦闘せんとうはジャクソンがセンタービルから退こうとしているときにこったと、あやまった解釈かいしゃくをした。ポープはジャクソンを「めた」とおもっており、ロングストリートの援軍えんぐん到着とうちゃくするまえにジャクソンをつかまえてしまいたかった。そのよる。ポープがフィリップ・カーニー少将しょうしょうおくった伝言でんごんには、「マクドウェル将軍しょうぐんてき後退こうたいさえぎり、いまはその前面ぜんめんにいる。...かれ今夜こんやきたくことのできる間道かんどうのがれられなければ、きっとつかまるにちがいない。」とかれていた[24]

ポープは部下ぶかたいして、ジャクソンをかこ明朝みょうちょう攻撃こうげきせよという命令めいれいしたが、いくつかのあやまりをおかしていた。マクドウェルとシーゲルはブルランさんかうジャクソンの退路たいろふさいでいるとおもっていたが、このりょうたい大半たいはんはマナサス・サドリー道路どうろ沿ってジャクソンの南東なんとうにいた。ジャクソンが撤退てったいしようとしているというおもいこみは完全かんぜん間違まちがっていた。ジャクソンは絶好ぜっこう防衛ぼうえい陣地じんちにおり、ロングストリートの到着とうちゃくって、ポープぐん攻撃こうげきしようとしていた。ロングストリートぐんうごきにかんする情報じょうほうはいっていたが、ポープは不可解ふかかいにもその到着とうちゃく戦闘せんとうあたえる効果こうか計算けいさんれていなかった[25]

8がつ29にち:ジャクソンがストーニー・リッジを防衛ぼうえい[編集へんしゅう]

ジャクソンはロングストリートがきたバージニアぐんのこりをれて到着とうちゃくするまでポープぐんけておくために、ブローナー農園のうえん戦闘せんとうはじめた。ロングストリートぐん25,000めいは8がつ29にち午前ごぜん6にサラフェアギャップからの行軍こうぐん開始かいしした。ジャクソンはスチュアートを派遣はけんして、ロングストリートぐん最初さいしょ部隊ぶたい誘導ゆうどうし、ジャクソンがあらかじえらんでおいた陣地じんちかせるようにした。ジャクソンは到着とうちゃくあいだに、ポープぐんがそのあさ攻撃こうげきしてきた場合ばあい防御ぼうぎょじんさい配置はいちさせ、ストーニーリッジのみなみに3,000ヤード (2,700 m)のながさにわたって20,000めい配置はいちえた。きたぐんシーゲルのだい1軍団ぐんだんがマナサス・サドリー道路どうろ沿って展開てんかいしているのに気付きづき、A・P・ヒルの旅団りょだんには左翼さよくのサドリー教会きょうかいちかくの鉄道てつどう路盤ろばん背後はいごくようにめいじた。ヒルはその陣地じんち地形ちけいてきよわい(ふかもりのために大砲たいほう効果こうかてき配置はいちむずかしかった)ことに気付きづき、所属しょぞくする旅団りょだん、マクしー・グレッグじゅんしょうのサウスカロライナ旅団りょだんとエドワード・L・トーマスじゅんしょうのジョージア旅団りょだんまえに2れつ配置はいちした。ジャクソンはその戦列せんれつ中央ちゅうおうで、イーウェル師団しだんの2旅団りょだん(イーウェルがあし切断せつだんしたので、アレクサンダー・ロートンじゅんしょう指揮しきっていた)をき、右翼うよくにはウィリアム・B・タリアフェーロじゅんはた、そのときはウィリアム・E・スタークじゅんしょう指揮しきする師団しだんいた[26]

ポープの作戦さくせんはジャクソンぐん両翼りょうよくたいしてうごくことだった。フィッツ・ジョン・ポーターにはゲインズビルにかってうごき、みなみぐん右翼うよくかんがえられるものに攻撃こうげきする司令しれいした。シーゲルには夜明よあけとともにジャクソンの左翼さよくめるように命令めいれいした。シーゲルは、ジャクソンがさい配置はいちしたことをらず、ロバート・C・シェンク師団しだんひろ展開てんかいさせて前進ぜんしんさせ、ジョン・F・レイノルズじゅんしょう師団しだん(ハインツェルマンのだい3軍団ぐんだん)を左翼さよくに、ロバート・H・ミルロイじゅんしょう独立どくりつ旅団りょだん中央ちゅうおうに、カール・シュルツじゅんしょう師団しだん右翼うよく配置はいちして支援しえんさせた。シュルツの2旅団りょだんがマナサス・サドリー道路どうろきたうごき、午前ごぜん7ごろはじめてジャクソンの部隊ぶたい遭遇そうぐうした[27]

シーゲルのA・P・ヒル師団しだんたいする攻撃こうげきはそののストーニーリッジちかくでのすべての戦闘せんとう共通きょうつうするやりかたおこなわれた。完成かんせい鉄道てつどう路盤ろばんいくつかの場所ばしょ自然しぜん防御ぼうぎょ陣地じんちになっていたが、がいしてみなみぐん固定こていてき防御ぼうぎょけ、きたぐん攻撃こうげき吸収きゅうしゅうしてはつづいて活発かっぱつ反撃はんげきおこなった(これはジャクソンがすう週間しゅうかんアンティータムのたたかった戦術せんじゅつおなじだった)。シュルツの2旅団りょだん(アレクサンダー・シンメルフェニングじゅんしょうとヴラジミエシュ・クルチザノーフスキー大佐たいさ指揮しき)がグレッグとトーマスの部隊ぶたいはげしく衝突しょうとつし、りょうぐんどもにバラバラなたたかかたとなった。ミルロイがたい右手みぎてこった戦闘せんとうおとき、その2連隊れんたいにシュルツぐん支援しえんおこなうようめいじた。かれらはいくらかは成功せいこうし、だい82オハイオ連隊れんたいがダンプとばれる窪地くぼちみなみぐん前線ぜんせん突破とっぱしたが、結局けっきょく撃退げきたいされた。シェンクとレイノルズははげしい砲火ほうかびて、大砲たいほう反撃はんげきしたが、歩兵ほへいまえすすめなかった[28]

シュルツはだい3軍団ぐんだんカーニーの師団しだんたい支援しえん準備じゅんびをしているとかんがえ、午前ごぜん10ごろ再度さいどヒルぐんへの攻撃こうげきめいじた。しかし、カーニーの部隊ぶたい前進ぜんしんせず、2かい攻撃こうげき失敗しっぱいした。歴史れきしたちはカーニーのこの行動こうどうめて、カーニーがシーゲルにたいしていていた個人こじんてき悪意あくいせいとしている[29]

午後ごご1までに、シーゲルの部隊ぶたいジョセフ・フッカー少将しょうしょう師団しだんだい3軍団ぐんだん)とアイザック・スティーブンスじゅんしょう旅団りょだんだい9軍団ぐんだん)の増援ぞうえんけた。ポープも戦場せんじょう到着とうちゃくしその勝利しょうり最高さいこうられるものと期待きたいしていた。しかし、このときまでにロングストリートの最初さいしょ部隊ぶたいがジャクソンの右翼うよく配置はいちされた。ジョン・ベル・フッドじゅんしょう師団しだんがターンパイクをまたいでジャクソンの右翼うよくおおまかに連接れんせつすることになった。フッドたいみぎにはジェイムズ・L・ケンパーじゅんしょうとデイビッド・R・"ニーバー"・ジョーンズじゅんしょうかく師団しだんいた。カドマス・M・ウィルコックスじゅんしょう師団しだん最後さいご到着とうちゃくし、予備よびたいとされた[30]

スチュアートの騎兵隊きへいたいはマナサス・ゲインズビル道路どうろ移動いどうちゅうのポーター、ハッチおよびマクドウェルの部隊ぶたい遭遇そうぐうし、短時間たんじかん銃撃じゅうげきせんきたぐんうごきをめた。このとき、ポーターとマクドウェルに伝言でんごんった伝令でんれい到着とうちゃくし、「連合れんごう命令めいれい」とばれることになるポープからの議論ぎろんおお命令めいれいしょわたした。歴史れきしのジョン・J・ヘネシーは、この命令めいれいを「なんじゅうねんもの論争ろんそう焦点しょうてんとなった矛盾むじゅん錯乱さくらん傑作けっさく」と表現ひょうげんした。それにはすで進行しんこうちゅうだったジャクソンぐん左翼さよくへの攻撃こうげきかれていたが、ポーターとマクドウェルがなにをすべきかが不明ふめいだった。ゲインズビル「に」移動いどうしジャクソンぐん無防備むぼうびかんがえられる右翼うよく攻撃こうげきするわりに、ゲインズビル「へかって」うごき、(師団しだんとの)通信つうしん確立かくりつされ次第しだいぜんぐん停止ていしすべきこと。今夜こんやブルランがわ背後はいごにあるセンタービルまで後退こうたいする必要ひつようがあるかもしれない」とかれていた。この命令めいれいしょ何処どこにも、ポープはポーターとマクドウェルに明白めいはく攻撃こうげき指示しじしていないし、さらに「この命令めいれいから逸脱いつだつすることで、もしかなりの利点りてんられるならば、厳密げんみつしたがわなくともよい」という言葉ことばくくられており、軍事ぐんじ命令めいれいとしては事実じじつじょう使つかいようのいものになっていた[31]

一方いっぽう、スチュアートの配下はいかトマス・ロッサー大佐たいさ騎兵隊きへいたいが、えだ1個いっこ連隊れんたいうまることで、だい部隊ぶたい兵士へいし行軍こうぐんちゅうげる砂塵さじんせ、きたぐん将軍しょうぐんたちあざむいた。このとき、マクドウェルは騎兵隊きへいたい指揮しきかんジョン・ビュフォードじゅんしょうから報告ほうこくしょっており、17歩兵ほへい連隊れんたい1個いっこ砲兵ほうへい大隊だいたいおよび500騎兵きへいが、午前ごぜん815ふんにゲインズビルを通過つうかしたというものだった。これはサラフェアギャップから移動いどうするロングストリートの部隊ぶたいであり、2人ふたりきたぐん将軍しょうぐんにこのさき困難こんなんさがけていると警告けいこくした。きたぐん前進ぜんしんふたたまった。なんらかの理由りゆうでマクドウェルはこの報告ほうこくしょをポープに回送かいそうすることをおこたり、ポープにわたったのは午後ごご7ごろとなって、そうぐん指揮しきかんは2つのはなはだしくあやまった認識にんしきしたうごいていた。つまりロングストリートは戦場せんじょうからはなれたところにおり、ポーターとマクドウェルはジャクソンの右翼うよく攻撃こうげきかっているという認識にんしきだった[32]

ロングストリートの部隊ぶたい最終さいしゅう配置はいちくと、リー将軍しょうぐんきたぐん左翼さよくたいする攻勢こうせいめいじた(ロングストリートはのちに、リーが実行じっこうできればできるだけすみやかにたたかわせたいとかんがえていたが命令めいれいはしなかったことをおもした)。しかし、ロングストリートはきたぐんレイノルズとシェンクの師団しだん自軍じぐん前線ぜんせん半分はんぶんつつむようにウォーレントン・ターンパイクのみなみひろがっているのをにして、このとき攻撃こうげきけることに反対はんたい表明ひょうめいした。リーは、J・E・B・スチュアートがゲインズビル・マナサス道路どうろ部隊ぶたいは(ポーターとマクドウェルぐん)は手強てごわいと報告ほうこくしたときに、最終さいしゅうてきれた[33]

ポープは、かれ命令めいれいしたとおもっていたとおりにジャクソンぐん右翼うよくたいする攻撃こうげきすすんでいるとおもっており、ポーターが最後さいご痛撃つうげきあたえるまでみなみぐん注意ちゅういをそらせる意図いとで、ジャクソンぐん正面しょうめんに4別々べつべつ攻撃こうげき承認しょうにんした。キュビエ・グロバーじゅんしょう旅団りょだんがカーニー師団しだん支援しえんがあることを期待きたいしながら、午後ごご3ころに攻撃こうげきした。グロバーは幸運こううんにもトーマスとグレッグの部隊ぶたいあいだひらいた隙間すきま偶然ぐうぜんくことができた。その猛烈もうれつ銃剣じゅうけん攻撃こうげき一時いちじてき成功せいこうしたが、カーニーは今回こんかい命令めいれいされたように前進ぜんしんせず、ポープはしゅ攻撃こうげき支援しえんする意図いとかった。ドーシー・ペンダーじゅんしょう旅団りょだん痛撃つうげきくわえて撃退げきたいした[34]

レイノルズはターンパイクのみなみ妨害ぼうがい攻撃こうげきおこなうよう命令めいれいされており、ロングストリート部隊ぶたい出逢であい、その示威じい行動こうどう中止ちゅうしすることになった。ポープはレイノルズの心配しんぱいあやまった認識にんしきとして片付かたづけ、ジャクソンぐん側面そくめん攻撃こうげきそなえていたポーターのだい5軍団ぐんだんはいっただけだと主張しゅちょうした。ジェシー・レノはだい9軍団ぐんだんのジェイムズ・ネイグル大佐たいさ旅団りょだんに、再度さいどジャクソンぐん前線ぜんせん中央ちゅうおう攻撃こうげきするようめいじた。このときは、アイザック・R・トリンブルの旅団りょだん鉄道てつどうつちから後退こうたいさせられたが、みなみぐん反撃はんげき前線ぜんせん回復かいふくし、さらにきたぐん砲兵ほうへいたいがその前進ぜんしんめるまでネイグルの部隊ぶたいけた戦場せんじょうまでかえした[35]

午後ごご4時半じはん、ポープは最終さいしゅうてきにポーターに明白めいはく攻撃こうげき命令めいれいおくったが、ポープの副官ふっかん(かつそのおい)はみちあやまり、午後ごご6時半じはんまで伝言でんごんとどけられなかった。いずれにしても、ポーターはそのとき、そのはやくに場所ばしょよりも攻撃こうげきてきした位置いちにはいなかった。しかし、ポープはおそってくることのない攻撃こうげき予測よそくして、カーニーにジャクソンぐんさい左翼さよく攻撃こうげきするようめいじ、前線ぜんせんりょうはしつよ圧力あつりょくけようとした。午後ごご5、この戦闘せんとうでははじめて、カーニーのはげしい攻撃こうげきてき性格せいかく現実げんじつてきて、10連隊れんたい使つかってせ、A・P・ヒルの消耗しょうもうした師団しだんおそった。このもっとはげしい戦闘せんとうなかで、ローレンス・オブライアン・ブランチとジュバル・アーリーかくじゅんしょう旅団りょだんによる反撃はんげきで、きたぐん前進ぜんしん撃退げきたいされた[36]

みなみぐん右翼うよくでは、ロングストリートがその前線ぜんせんから距離きょりいたマクドウェルぐんうごきを観察かんさつしていた。だい1軍団ぐんだんはレイノルズを支援しえんするためにヘンリー・ハウス・ヒルに師団しだん師団しだんうごかした。この報告ほうこくけたリーはその地域ちいき攻勢こうせい作戦さくせん復活ふっかつさせた。ロングストリートは再度さいどその作戦さくせん反対はんたい表明ひょうめいしたが、このときは薄暮はくぼまえ不適切ふてきせつ時間じかんたい理由りゆうだった。ロングストリートはそのわりに、てきぐん配置はいちさぐり、翌朝よくあさ攻撃こうげきそなえるために、威力いりょく偵察ていさつ提案ていあんした。リーは同意どういし、フッドの師団しだんまえさせた。これと同時どうじに、ポープは、このときみなみぐん退却たいきゃくしているというおもいこみにとらわれており、ジョン・P・ハッチの師団しだんをターンパイクの西方せいほうおくって追求ついきゅうさせた。フッドたいとハッチたいはグラブトンの交差点こうさてん短時間たんじかん衝突しょうとつしたが、みじかくもはげしい対決たいけつ暗闇くらやみともわり、りょうぐんともかえした。ロングストリートとその部下ぶかたち再度さいどリーにたいして、強固きょうこ防御ぼうぎょじんいているとかんがえられるてきぐん攻撃こうげき仕掛しかけるべきではないと主張しゅちょうし、リーはその攻撃こうげき作戦さくせん撤回てっかいしたが、撤回てっかいはこれで3度目どめとなった[37]

ポープがマクドウェルからビュフォードの報告ほうこくについてらされたとき、やっとロングストリートぐん戦場せんじょうにいることを認識にんしきしたが、みなみぐん全体ぜんたい撤退てったいするときにロングストリートぐんはジャクソンぐん支援しえんするためにそこにいる、という楽観らっかんてきおもいこみをしていた。実際じっさいにフッドの師団しだん後退こうたいした。ポープはポーターのだい5軍団ぐんだん本隊ほんたいとの合流ごうりゅうめいじ、8がつ30にち攻撃こうげきについて作戦さくせんった。歴史れきしのA・ウィルソン・グリーンはこのポープの判断はんだんがこの戦闘せんとうなかでも最悪さいあくのものだとした。このとききたぐんみなみぐんにたいして勢力せいりょくてき優位ゆういっておらず、地形ちけいてき利点りてんかったので、もっと分別ふんべつのあるやりかたはブルランがわ後方こうほうまで退しりぞいて、ちかくにいた25,000めいようするマクレランのポトマックぐん合流ごうりゅうすることだった[38]

この戦闘せんとうかんする歴史れきしあいだ議論ぎろんひとつは、ジョージ・マクレランのポープとの連携れんけいかんするものである。8月おそくに、ポトマックぐんの2軍団ぐんだんウィリアム・B・フランクリンだい6軍団ぐんだんエドウィン・V・サムナーだい2軍団ぐんだん)がアレクサンドリア到着とうちゃくしていたが、マクレランは砲兵ほうへい騎兵きへいおよび輸送ゆそう支援しえん部隊ぶたい不適切ふてきせつかんがえたために、マナサスへの進軍しんぐんみとめなかった。マクレランは、ポープの立場たちばよわらせようとはかったとして政敵せいてき非難ひなんされ、8がつ10日とおかにそのつまてた手紙てがみなかで「ポープは2にちのうちにひどくちのめされるだろう。...かれらはその窮状きゅうじょう救済きゅうさいわたししつけてよろこぶことだろう。わたしぜんぐん支配しはいあたえられなければ、それをけない」といたとき歴史れきしにおけるその立場たちばをあやうくした。マクレランは8がつ29にちにエイブラハム・リンカーンにたいして、「ポープをその窮地きゅうちからしてやって、あらゆる手段しゅだんくして首都しゅと完全かんぜん安全あんぜんまもること」が賢明けんめいだろうとつたえた[39]

8がつ30にち:ロングストリートの反撃はんげききたぐん撤退てったい[編集へんしゅう]

ロングストリートぐん最後さいご部隊ぶたいであるリチャード・H・アンダーソン少将しょうしょう師団しだんが、17マイル (27 km)を行軍こうぐんして、8がつ30にち午前ごぜん3戦場せんじょう到着とうちゃくした。かれらはつかれており地域ちいき不案内ふあんないだったのでグラブトンのひがし尾根おね停止ていしした。夜明よあけにその場所ばしょ孤立こりつしており、てきぐんともちかすぎることを認識にんしきして、後退こうたいした。ポープのみなみぐん撤退てったいしつつあるというかんがえは、前夜ぜんやのフッドたい後退こうたいつづいてこったこのうごきで補強ほきょうされた。午前ごぜん8、ポープ本部ほんぶ作戦さくせん会議かいぎで、ポープの部下ぶかたちはその指揮しきかん慎重しんちょう行動こうどうするよう説得せっとくこころみた。午前ごぜん10ごろにストーニーリッジのみなみぐん前線ぜんせんさぐると、ジャクソンぐん依然いぜんとして強固きょうこ防御ぼうぎょじんいていることがかった。ジョン・F・レイノルズはターンパイクのみなみみなみぐん勢力せいりょくおおきいと報告ほうこくした。フィッツ・ジョン・ポーターはおなじような情報じょうほうってその到着とうちゃくした。しかし、ハインツェルマンとマクドウェルはそれぞれの偵察ていさつおこない、ジャクソンぐん防御ぼうぎょせん見出みいだすことが出来できなかったので、ポープは最終さいしゅうてき撤退てったいしつつあるみなみぐん攻撃こうげきける決断けつだんをした[40]

正午しょうごすこぎに、ポープはポーターのだい5軍団ぐんだんに、ハッチとレイノルズによる支援しえんけて、ターンパイクに沿って西にし進軍しんぐんする命令めいれいはっした。これと同時どうじに、リケッツ、カーニーおよびフッカーはきたぐん右翼うよく前進ぜんしんした。この2つのうごきが撤退てったいしつつあるみなみぐんつぶすだろうというものだった。しかし、みなみぐん撤退てったいしてはおらず、実際じっさいには攻撃こうげきっていた。リーは依然いぜんとしてロングストリートぐんによる反撃はんげき機会きかいっていた。ポープがこの攻撃こうげきしてくるかどうか確信かくしんいていなかったが、スティーブン・D・リー大佐たいさ大砲たいほう18もんをブローナー農園のうえん北東ほくとう高台たかだいえさせた。そこはジャクソン軍陣ぐんじんまえけた戦場せんじょうへの砲撃ほうげきてきした場所ばしょだった[41]

ポーターの軍団ぐんだん実際じっさいにはターンパイクを西にしすすめる位置いちではなく、グラブトンちかくのターンパイクきたもりにいた。その前面ぜんめんにあるジャクソンぐんたいする攻撃こうげきのために、10,000めい部隊ぶたい配列はいれつするにはやく2あいだようした。目標もくひょうは、そのときウィリアム・E・スタークじゅんしょう指揮しきするジャクソンのふる師団しだんだった。きたぐん攻撃こうげき先導せんどうする師団しだんはジョージ・W・モレル少将しょうしょうわったダニエル・バターフィールドじゅんしょう指揮しきされ、ヘンリー・ウィークス大佐たいさ旅団りょだん左翼さよくに、チャールズ・W・ロバーツ大佐たいさ旅団りょだん中央ちゅうおうかれた。ハッチの師団しだん軍団ぐんだん右翼うよくいた。ジョージ・サイクスじゅんしょう指揮しき正規せいきへい2旅団りょだん予備よびたいとされた[42]

きたぐん大変たいへん任務にんむ直面ちょくめんしていた。バターフィールドの師団しだんは、未亡人みぼうじんルシンダ・ドーガンが所有しょゆうする600ヤード (550 m)のけた牧草ぼくそう横切よこぎらねばならず、最後さいごの150ヤード (140 m)はけわしいのぼざかであり、完成かんせい鉄道てつどうかげ強固きょうこ陣地じんち攻撃こうげきしなければならなかった。ハッチの師団しだんは300ヤード (270 m)だけだったが、みなみぐん正面しょうめんからたたくためには銃火じゅうかなか複雑ふくざつみぎまわりの行軍こうぐんおこな必要ひつようがあった。かれらはスティーブン・D・リーの砲兵ほうへいたいから破壊はかいてき砲火ほうかび、つづいて前線ぜんせんなら歩兵ほへいからの容赦ようしゃのない一斉いっせい射撃しゃげきびた。それでもみなみぐん前線ぜんせん突破とっぱし、だい48バージニア歩兵ほへい連隊れんたい崩壊ほうかいさせた。ストーンウォール旅団りょだん前線ぜんせんたもつために突入とつにゅうし、その指揮しきかんベイラー大佐たいさふくおおきな損失そんしつした。この戦闘せんとうなかうたがいもなくもっと有名ゆうめい出来事できごととなったものは、ブラドリー・T・ジョンソン大佐たいさとレロイ・オーガスタス・スタフォード大佐たいさ旅団りょだんはげしく発砲はっぽうしたので、たま使つかたし、おおきないわだい24ニューヨーク連隊れんたいげつける手段しゅだんうったえて損傷そんしょうあたえ、おどろいたニューヨークへいたちはそれをがえした。ジャクソンぐんつかった防御ぼうぎょじん支援しえんするため、ロングストリートの砲兵ほうへいたい戦闘せんとうにゅうろうとしたきたぐん増援ぞうえんたい砲弾ほうだんびせ、部隊ぶたいをバラバラにした[43]

ポーターぐん相当そうとうすう損失そんしつけていたが、サイクスの予備よび師団しだん投入とうにゅうおこなわず、その攻撃こうげきめ、実質じっしつてき先導せんどうやくをしていた旅団りょだん支援しえんもないままに脱出だっしゅつするにまかせた。この撤退てったいはさらに損失そんしつ行動こうどうになった。スタークの旅団りょだんみなみ軍兵ぐんびょうよろこんで追撃ついげきかったが、グラブトン・サドリー道路どうろひかえていたきたぐん予備よびたい撃退げきたいされた。結局けっきょくジャクソンぐん消耗しょうもうはげしく反撃はんげきできず、ポーターぐんはターンパイクのきたなおた。しかし、ポーターぐん状態じょうたい心配しんぱいしたアービン・マクドウェルはレイノルズの師団しだんにチンリッジのはなれポーターの支援しえんまわるようめいじた。この判断はんだんはこの最悪さいあく戦術せんじゅつてき決断けつだんだったとってもい。ターンパイクのみなみにいたわずか2,200めいきた軍兵ぐんびょうがその10ばいみなみぐんうことになった[44]

リーとロングストリートは、このときこそながあいだっていた攻撃こうげき機会きかいということで合意ごういし、目標もくひょうだいいちブルランのたたかいで重要じゅうよう地点ちてんとなったヘンリー・ハウス・ヒルにさだめた。ここを占領せんりょうできればきたぐん撤退てったいとなる可能かのうせいがあるところ支配しはいできた。ロングストリートぐん5師団しだん25,000めいは、きたのブローナー農園のうえんからみなみマナサスギャップ鉄道てつどうまで1.5マイル (2.4 km)ちかくにわたってびていた。目標もくひょうおか到達とうたつするために、1.5ないし2マイル(2.4ないし3.2 km)の距離きょりを、尾根おね小川おがわふかもりけてすす必要ひつようがあった。ロングストリートはこの地形ちけいひろがる戦列せんれつをうまく連携れんけいらせながらすすませることは出来できないとかっていたので、その師団しだん指揮しきかんたち指導しどうりょく独創どくそうせいまかせることにせざるをなかった。先導せんどうする師団しだん左翼さよくのターンパイクちかくにジョン・ベル・フッドのテキサス部隊ぶたいがネイサン・ジョージ・エバンスじゅんしょうのサウスカロライナ部隊ぶたい支援しえんされてすすんだ。フッドの右手みぎてにはケンパーとジョーンズの師団しだんすすんだ。アンダーソンの師団しだん予備よびたいとされた。攻撃こうげき直前ちょくぜんに、リーはジャクソンに信号しんごうおくった。「ロングストリート将軍しょうぐん前進ぜんしんしている。その左翼さよくまもってくれ[45]。」

ターンパイクみなみきたぐん守備しゅびたいはわずか2旅団りょだんしかおらず、ナサニエル・マクリーン大佐たいさ(シーゲルのだい1軍団ぐんだんシェンクの師団しだん)とガバヌーア・ウォーレン大佐たいさ(ポーターのだい5軍団ぐんだんサイクスの師団しだん)が指揮しきしていた。マクリーンがチンリッジをまもり、ウォーレンはやく800ヤード (730 m)西にしのグラブトンちかくにいた。みなみぐんのフッドたい午後ごご4ごろ攻撃こうげきはじめ、たちまちウォーレンの2連隊れんたいだい5ニューヨーク連隊れんたい(デュリーのズアーブ)とだい10ニューヨーク連隊れんたい(ナショナル・ズアーブ)を圧倒あっとうした。接触せっしょくから10分間ふんかんだい5ニューヨーク連隊れんたい500めいのうちほぼ300めいたれ、そのうち120めい瀕死ひんし重傷じゅうしょうだった。これは南北戦争なんぼくせんそう全体ぜんたいでも単一たんいつ戦闘せんとう歩兵ほへい連隊れんたいけた最大さいだい戦死せんしすうとなった[46]

ポープとマクドウェルは事態じたい危険きけんせい認識にんしきし、その部隊ぶたいにヘンリー・ハウス・ヒルの占領せんりょう命令めいれいしたが、それがこるまでに、マクリーンの旅団りょだんみなみぐん猛攻もうこう唯一ゆいいつ標的ひょうてきにされた。合計ごうけい1,200めいのオハイオの4連隊れんたいはチンリッジに西にしめんして戦列せんれついており、1個いっこ砲兵ほうへい大隊だいたい支援しえんして、まずフッドたいつづいてシャンクス・エバンスの旅団りょだん(ケンパー師団しだん)による2かい攻撃こうげき撃退げきたいした。モンゴメリー・D・コース大佐たいさ旅団りょだん(やはりケンパー師団しだん)による3度目どめ攻撃こうげき成功せいこうした。マクリーンの部隊ぶたいへい尾根おねみなみはしから近付ちかづいてくる部隊ぶたい友軍ゆうぐんあやまり、発砲はっぽうひかえていた。そのあやまりに気付きづいたときに、至近しきん距離きょりでのはげしい銃火じゅうかが10分間ふんかんわされたが、ルイジアナ砲兵ほうへい大隊だいたいから砲撃ほうげきくわわってきたぐん戦列せんれつ崩壊ほうかいさせた。オハイオ旅団りょだん損失そんしつりつは33%にもなったが、これでポープが増援ぞうえんおくるための30分間ふんかんかせいだ[47]

最初さいしょ到着とうちゃくしたきたぐんの2旅団りょだんはリケット師団しだんからのものであり、ジーラス・B・タワーじゅんしょうとロバート・スタイルズ大佐たいさ指揮しきしていた。タワーの旅団りょだんは3ぽうから攻撃こうげきされて崩壊ほうかいした。その砲兵ほうへい大隊だいたい捕獲ほかくされ、タワーも重傷じゅうしょうった。タワーにつづいたスタイルズの旅団りょだんはケンパー師団しだんからあらたに到着とうちゃくした、マイカ・ジェンキンスじゅんしょうエッパ・ハントン大佐たいさ指揮しきする2旅団りょだん餌食えじきになった。このはげしい戦闘せんとうあいだに、だい12マサチューセッツ連隊れんたい指揮しきかんフレッチャー・ウェブスター大佐たいさ政治せいじダニエル・ウェブスター息子むすこ)が致命傷ちめいしょうった。シーゲルのだい1軍団ぐんだんからジョン・コルテス大佐たいさとヴラジミエシュ・クルチザノーフスキー大佐たいさ指揮しきする2旅団りょだんがさらに投入とうにゅうされたが、そのまえ部隊ぶたいくらべてもはなはだしい成功せいこうられなかった。みなみぐんジョーンズ師団しだん先導せんどうたい、ジョージ・T・アンダーソン大佐たいさとヘンリー・L・ベニング大佐たいさ旅団りょだんは、午後ごご6までにチンリッジにおけるきたぐん抵抗ていこうはらってしまった。しかし、みなみぐん攻撃こうげき成功せいこうしても、兵士へいし(フッドとケンパーの師団しだんおおきな損失そんしつこうむすくなくとも一時いちじてきにそれ以上いじょう攻撃こうげき行動こうどうができなかった)においても時間じかんめんでもおおきな損失そんしつがあった。ヘンリー・ハウス・ヒルまではまだすうひゃくヤードこうにあり、ひるひかりはあと1あいだぐらいの余裕よゆうしかなかった[48]

R・H・アンダーソンは、チンリッジでの3あいだ戦闘せんとうもっと重要じゅうよう利点りてんかすことが出来できず、ヘンリー・ヒルはかたまった。それができなかったために、みなみぐんのポープぐん破壊はかいする最後さいご機会きかいにちひかりとともにしぼんだ。
ジョン・J・ヘネシー ブルランへの回帰かいき[49]

みなみぐん攻撃こうげきから最初さいしょの2あいだ、ポープはヘンリー・ハウス・ヒルの防御ぼうぎょに4旅団りょだん配置はいちできた。2旅団りょだんはレイノルズの師団しだんから、1個いっこはサイクスの師団しだんから、最後さいご1個いっこはロバート・H・ミルロイの独立どくりつ旅団りょだんだった。リーはその攻撃こうげき完遂かんすいさせるためには戦闘せんとうりょく追加ついか必要ひつようであることを認識にんしきし、予備よびたいとしていたリチャード・アンダーソンの師団しだん動員どういんめいじた。この部隊ぶたい移動いどうしているあいだに、D・R・ジョーンズがベニングとG・T・アンダーソンの旅団りょだんともおかへの攻撃こうげきはじめた。この部隊ぶたいは3,000めいとなり、この午後ごご最大さいだい集中しゅうちゅう攻撃こうげきとなったが、部隊ぶたいあいだ連携れんけいれず、きたぐんの4旅団りょだんがその陣地じんちまもった。アンダーソンの師団しだんからあらたにウィリアム・マホーンじゅんしょうとアンブローズ・R・ライトじゅんしょうの2旅団りょだん到着とうちゃくして再度さいど圧力あつりょくけられた。サイクスの師団しだんからの正規せいきへい戦列せんれつはしにいて自然しぜん防御ぼうぎょ効果こうかく、ヘンリー・ハウスの方向ほうこう撃退げきたいされた。不可解ふかかいなことにアンダーソンは自分じぶんけたあなむことをめたが、おそらくこれはやみふかくなったためだった。ヘンリー・ハウス・ヒルはきたぐん確保かくほしたままとなった[50]

ジャクソンは、リーからの比較的ひかくてき曖昧あいまい命令めいれいでロングストリートぐん支援しえんしており、午後ごご6にターンパイクのきた攻撃こうげきけたが、このタイミングはおそらくそのつかった部隊ぶたいあつまり次第しだいぐにというかたちだった。歴史れきしのジョン・J・ヘネシーはジャクソンのおくれを「たたかいのおおきななぞひとつ」であり、たたかいの「みなみぐんによるもっと重大じゅうだいあやまりのひとつ」とい、ジャクソンの進軍しんぐん価値かちげたとった[51]。その攻撃こうげきは、ポープがヘンリー・ハウス・ヒル防衛ぼうえい支援しえんのためにターンパイクきた部隊ぶたい後退こうたいめいじたときと一致いっちし、みなみぐんはそのはげしい攻撃こうげきおおくの大砲たいほう歩兵ほへい部隊ぶたい制圧せいあつすることができた。しかし、午後ごご7までにポープぐんはヘンリー・ハウス・ヒルの部隊ぶたいとをつな強固きょうこ防御ぼうぎょせんつくげた。午後ごご8ぜんぐんにセンタービルにつうじるターンパイクでの撤退てったいめいじた。だいいちブルランのたたかいのとき悲惨ひさん退却たいきゃくとはことなり、きたぐん移動いどう静穏せいおん秩序ちつじょっておこなわれた。みなみぐん戦闘せんとうつかれ、弾薬だんやくきかけていたので、暗闇くらやみなか追跡ついせきまではしなかった。リーはおおきな勝利しょうりたが、ポープぐんつぶすという目標もくひょうたせなかった[52]

たたかいののち[編集へんしゅう]

だいブルランのたたかいに参加さんかしたきたぐん損失そんしつは、62,000めいのうち10.000めい戦死せんしまた負傷ふしょうとなった。みなみぐん50,000めいうちやく1,300めい戦死せんし、7,000めい負傷ふしょうした[53]きたぐんはセンタービルに集合しゅうごうしたが、リーはつぎ作戦さくせんてた。ポープぐんとワシントンのあいだにそのぐんませるためにジャクソンぐんをもう一度いちどまわませるうごきをさせた。ポープはこのうごきに反応はんのうし、りょうぐん9月1にちシャンティリーのたたか(オックスヒルのたたかいともわれる)で最後さいご決戦けっせんをした。リーはそのすぐきたバージニアぐん先導せんどうたいポトマックがわえた9月3にちつぎ作戦さくせんはじめ、メリーランド方面ほうめん作戦さくせんにあたったポトマックぐんとの運命うんめいたたかい「アンティータムのたたか」にかうことになった[54]

素晴すばらしい軍隊ぐんたいがほとんど士気しきをくじかれた。おおくの大衆たいしゅう資産しさん放棄ほうきされるか破壊はかいされた。我々われわれ部隊ぶたいおおくの生命せいめい目的もくてき犠牲ぎせいとなった。わたしえてわたしかんおもうようなこのポープという指揮しきかんについてかた自分じぶん信用しんようしない。横柄おうへい傲慢ごうまん無知むち気取きど一人ひとりおとこあつまることはないとえば十分じゅうぶんだ。一番いちばんちいさな太鼓たいこちの少年しょうねんから一番いちばんたか将官しょうかんまで、かれぐん友人ゆうじんなかったと真実しんじつうことができる。
アルフェウス・S・ウィリアムズじゅんはただい2軍団ぐんだん師団しだん指揮しきかん[55]

ポープは1862ねん9月12にち指揮しき官職かんしょく解任かいにんされ、その軍隊ぐんたいはポトマックぐん合流ごうりゅうされて、マクレランの指揮しきでメリーランドにすすんだ。ポープは戦争せんそうのこ期間きかんミネソタしゅう北西ほくせい方面ほうめんぐんごし、ダコタ戦争せんそう対処たいしょした。ポープはその敗北はいぼくせめわせるスケープゴートをさがした。1862ねん11月25にち、フィッツ・ジョン・ポーターが逮捕たいほされ、8がつ29にち行動こうどう軍法ぐんぽう会議かいぎけられた。ポーターは命令めいれい服従ふくじゅう不正ふせい行為こういかど1863ねん1がつ10日とおか有罪ゆうざい宣告せんこくされ、1がつ21にち軍隊ぐんたいから除籍じょせきされた。ポーターはのこりの人生じんせいをこの宣告せんこくたいするたたかいでごした。1878ねんジョン・M・スコフィールド将軍しょうぐんしたでの特別とくべつ委員いいんかいは、ポーターがロングストリートぐんたいする攻撃こうげき躊躇ためらったことでおそらくポープのバージニアぐんをさらにおおきな敗北はいぼくからすくったとして、ポープの容疑ようぎらした。8ねんチェスター・A・アーサー大統領だいとうりょうはポーターにたいする判決はんけつ撤回てっかいした[56]

ロングストリートは戦闘せんとうちゅう功績こうせきについて批判ひはんされ、戦後せんごの「南部なんぶうしなわれた大義たいぎ」の主張しゅちょうしゃかれのろさ、攻撃こうげき躊躇ためらい、および8がつ29にちにリー将軍しょうぐんしたがわなかったことが、1863ねん7がつ2にちゲティスバーグのたたかてきた議論ぎろん行動こうどう前触まえぶれだったと主張しゅちょうした。リーの伝記でんき作者さくしゃダグラス・サウソール・フリーマンは「ゲティスバーグのおおくの悲劇ひげきたねはこの瞬間しゅんかんかれた。リーがロングストリートにくっし、ロングストリートがそうできることを発見はっけんした瞬間しゅんかんである。」といた[57]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b The アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国立こくりつ公園こうえんきょくがこの戦闘せんとう日付ひづけさだめた。その文献ぶんけんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国立こくりつ公園こうえんきょく密接みっせつむすびついている Greene, Hennessy, Salmon, およびKennedyの参考さんこう文献ぶんけんもこの日付ひづけ採用さいようしている。しかし、本稿ほんこうげるほか参考さんこう文献ぶんけんでは、8がつ28にちたたかいはだいブルランのたたかいの序曲じょきょくであってべつのものとしている。これらの著者ちょしゃ何人なんにんかは8がつ28にち戦闘せんとうを「グラブトンのたたかい」または「ブローナーの農園のうえんたたかい」と名付なづけている。
  2. ^ a b Eicher, p. 327.
  3. ^ a b Greene, p. 54. 損失そんしつかんして大半たいはん出版しゅっぱんされた数字すうじきたバージニア方面ほうめん作戦さくせん全体ぜんたいのものであり、シーダーさんとシャンティリーの重要じゅうようたたかいをふくんでいる。Eicher, p. 334に報告ほうこくされた数字すうじは、きたぐん14,462めい戦死せんし1,747めい負傷ふしょう8,452めい捕虜ほりょまたは不明ふめい4,263めいみなみぐんは9,474めい戦死せんし1,553めい負傷ふしょう7,812めい捕虜ほりょまたは不明ふめい109めいとなっている。
  4. ^ National Park Service. ゲインズミルのたたかでは57,000めいによるみなみぐん攻撃こうげきがあったが、これは長時間ちょうじかんにわたる多数たすうかいでバラバラの攻撃こうげきであった。
  5. ^ National Park Service
  6. ^ Eicher, p. 318; Martin, pp. 24, 32-33; Hennessy, p. 12.
  7. ^ Martin, p. 280; Eicher, p. 318; Hennessy, p. 6.
  8. ^ Hennessy, pp. 561-67; Langellier, pp. 90-93.
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]