(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ブリストー方面作戦 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ブリストー方面ほうめん作戦さくせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
りょうぐん指揮しきかん、ミード(ひだり)とリー

ブリストー方面ほうめん作戦さくせん(ブリストーほうめんさくせん、えい:Bristoe Campaign)は、1863ねん10月と11月に、南北戦争なんぼくせんそう東部とうぶ戦線せんせんバージニアしゅうたたかわれた一連いちれん戦闘せんとうである。きたぐんポトマックぐん指揮しきかんジョージ・ミード少将しょうしょうは、みなみぐんロバート・E・リー将軍しょうぐんきたバージニアぐんやぶろうとして成功せいこうわった。ポトマックぐん遂行すいこうしたすべての方面ほうめん作戦さくせんなかで、この作戦さくせんもっと目立めだたないものである。

背景はいけい[編集へんしゅう]

7がつゲティスバーグのたたか、リーはポトマックがわえてバージニアしゅう撤退てったいし、オレンジぐんのラピダンがわ背後はいごぐん集結しゅうけつさせた。ミードはリーぐん攻撃こうげきてき追撃ついげきせずやぶることができなかったためにおおくのものから批判ひはんされた。これをただすためにバージニアでのあたらしい攻撃こうげき作戦さくせんかんがえた。

9がつ初旬しょじゅん、リーはジェイムズ・ロングストリート軍団ぐんだんの2師団しだんジョージアしゅうみなみぐん補強ほきょうするために派遣はけんした。ミードはロングストリートがいなくなってリーぐん戦力せんりょくよわまったことをり、この機会きかいとらえようとした。8月にはラッパハノックかわまで進軍しんぐんし、9月13にちつよ部隊ぶたいしてラピダンがわ沿うリーぐん対決たいけつさせ、カルペパー・コートハウスのたたかいにつづいてカルペパー占領せんりょうした。ミードはその勢力せいりょくてき優位ゆういさを利用りようして、そのとしはるチャンセラーズヴィルのたたかジョセフ・フッカー少将しょうしょうてた作戦さくせん類似るいじするひろまわ作戦さくせんてた。しかし、9月24にちきたぐん西部せいぶ戦線せんせんチカマウガのたたかでの敗北はいぼくのためにだい11軍団ぐんだんだい12軍団ぐんだんテネシーしゅうチャタヌーガ派遣はけんしなければならなくなり、みなみぐん同様どうよう戦力せんりょくった。

リーはきたぐん軍団ぐんだんったことをり、10がつはじめにのこされた2軍団ぐんだんでシーダーやままわりこむ攻撃こうげきてきうごきをはじめ、ミードぐん右翼うよくめぐろうとした。ミードはまだ勢力せいりょくてきっていたにもかかわらず、そのポトマックぐんオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道てつどう路線ろせんまで後退こうたいすることをめいじた。

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

ブリストー方面ほうめん作戦さくせんではつぎ戦闘せんとうおこなわれた。

だいいちオーバーンのたたかい(1863ねん10がつ13にち[編集へんしゅう]

J・E・B・スチュアート少将しょうしょうはいつものごとく、輜重しちょうたいつかまえるための襲撃しゅうげきおこない、ウォーレントンのちかくできたぐんだい3軍団ぐんだん後衛こうえいまよんだ。リチャード・イーウェル中将ちゅうじょう軍団ぐんだんがスチュアートたい救援きゅうえんおくられたが、スチュアートはだい3軍団ぐんだん気付きづかずにるまで樹木じゅもくおお峡谷きょうこくにその騎馬きばへいかくし、支援しえん不要ふようになった。

だいオーバーンのたたかい(10がつ14にち[編集へんしゅう]

きたぐんがマナサスの鉄道てつどう結節けっせつてんまで退しりぞいたので、ミードはこの地域ちいきであった以前いぜん戦闘せんとうジョン・ポープやジョセフ・フッカーがおちいった性質せいしつ包囲ほういされることをけるために西側にしがわ側面そくめん注意深ちゅういぶかまもった。ガバヌーア・ウォーレン少将しょうしょうだい2軍団ぐんだん所属しょぞくする複数ふくすう旅団りょだんがスチュアートの騎兵隊きへいたいとハリー・ヘイズじゅんはた師団しだん歩兵ほへいたいとオーバーンのちかくで後衛こうえいせんおこなった。スチュアートの騎兵隊きへいたい大胆だいたんにウォーレンの歩兵ほへいたい翻弄ほんろう惨劇さんげきけられた。だい2軍団ぐんだんはオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道てつどうのカトレットえきまでした。

ブリストーえきたたかい(10がつ14にち[編集へんしゅう]

A・P・ヒルちゅう将軍しょうぐんだんはブリストーえき撤退てったいするきたぐんの2軍団ぐんだん遭遇そうぐうし、適当てきとう偵察ていさつもないままに攻撃こうげきけた。きたぐんだい2軍団ぐんだん兵士へいしはオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道てつどうつち背後はいご陣取じんどり、ハリー・ヘイズじゅんはた師団しだんの2旅団りょだんつぶし、砲兵ほうへい1個いっこ大隊だいたい捕獲ほかくした。ヒルは戦線せんせん補強ほきょうしたが決死けっし防御ぼうぎょおこなっているきた軍兵ぐんびょうたいしてほとんど前進ぜんしんできなかった。ミードはこの勝利しょうりのちで、妨害ぼうがいくセンタービルまでの撤退てったいつづけた。リーぐんのブリストーでの攻勢こうせいはやぎる中断ちゅうだんになってしまった。ミードは防御ぼうぎょかため、リーぐん物資ぶっしけていた。マナサスとセンタービルでの小競こぜいののちで、みなみぐんはオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道てつどう破壊はかいしながら、ゆるりとラッパハノックかわまで退しりぞいた。ミードはそう司令しれいかんヘンリー・ハレックからリーぐん追撃ついげきするよう圧力あつりょくけられていたが、ぐん背後はいごにある鉄道てつどう路線ろせんなおすためにおよそ1ヶ月かげつようした。

バックランドミルズのたたかい(10がつ19にち[編集へんしゅう]

ブリストーえきでの敗北はいぼく頓挫とんざしたセンタービルでの行軍こうぐんのちで、スチュアートの騎兵隊きへいたいはマナサスの鉄道てつどう結節けっせつてん近辺きんぺんからリーぐん撤退てったいするのを遮蔽しゃへいした。きたぐんジャドソン・キルパトリックじゅんしょう騎兵隊きへいたいがウォーレントン・ターンパイクに沿ってスチュアートの騎兵隊きへいたい追撃ついげきしたが、チェストナットヒルちかくでせにい、撃退げきたいされた。きたぐん騎兵きへいりになって5マイル (8 km)もいかけられ、このときのことはのちに「バックランド・レイシズ」とばれるようになった。

だいラッパハノックえきたたかい(11月7にち[編集へんしゅう]

リーぐんはラッパハノックがわ背後はいごもと場所ばしょもどったが、北岸ほくがん要塞ようさいされた橋頭堡きょうとうほのこし、ケリーの浅瀬あさせへの接近せっきんからまもっていた。11月7にち、ミードは2箇所かしょでラッパハノックがわわたろうとした。ジョン・セジウィック少将しょうしょうだい6軍団ぐんだんによる夕暮ゆうぐれの急襲きゅうしゅうみなみぐんラッパハノックえき橋頭堡きょうとうほ圧倒あっとうし、ジュバル・アーリー少将しょうしょう師団しだんから2旅団りょだん(1,600めい以上いじょう)を捕虜ほりょにした。ケリーの浅瀬あさせでの戦闘せんとうきびしいものではなかったが、みなみぐん撤退てったいし、きたぐんちから渡河とかすることをゆるした。

たたかいののち[編集へんしゅう]

リーぐんはカルペパー周辺しゅうへん冬季とうき宿営しゅくえいこうとしていたが、そのわりにラピダンがわみなみオレンジぐん撤退てったいした。ポトマックぐんはブランディえきカルペパーぐん近辺きんぺん占領せんりょうした。リーとその士官しかんたち成功せいこうできなかったことで嫌気いやけした。

ブリストー方面ほうめん作戦さくせんの5つのたたかいの結果けっかりょうぐんわせて3,910めい損失そんしつたが、これにはみなみぐん捕虜ほりょにされた1,600めいはいっている。この方面ほうめん作戦さくせんのち、11月おそくにマイン・ランのたたかがあり、やはり決着けっちゃくかなかった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]