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モービルわん海戦かいせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
モービルわん海戦かいせん
Battle of Mobile Bay
南北戦争なんぼくせんそうなか

「モービルわん海戦かいせん」、ルイ・プラン
とき1864ねん8がつ2にち-23にち[1]
場所ばしょアラバマしゅう海岸かいがんおきモービル湾口わんこう
結果けっか きたぐん勝利しょうり
衝突しょうとつした勢力せいりょく
アメリカ合衆国の旗 きたぐん アメリカ連合国みなみぐん
指揮しきかん
デヴィッド・ファラガット(海軍かいぐん)
ゴードン・グレンジャー(陸軍りくぐん)
フランクリン・ブキャナン(海軍かいぐん)
リチャード・L・ペイジ(陸軍りくぐん)
戦力せんりょく
  • 砲艦ほうかん3せき
  • てつ装甲そうこうかん1せき
  • モーガンとりで600めい
  • ゲインズとりで818めい
被害ひがいしゃすう
  • 戦死せんし151めい
  • 負傷ふしょう177めい
  • てつ装甲そうこうかん1せき沈没ちんぼつ
  • 陸軍りくぐん負傷ふしょう7めい
  • 戦死せんし13めい
  • 負傷ふしょう23めい
  • 捕虜ほりょ1,587めい
  • 砲艦ほうかん1せき捕獲ほかく、1せき破壊はかい
  • てつ装甲そうこうかん1せき捕獲ほかく

モーガンとりで

  • 戦死せんし1めい
  • 負傷ふしょう3めい

モービルわん海戦かいせん(モービルわんのかいせん、えい:Battle of Mobile Bay)は、南北戦争なんぼくせんそうなか1864ねん8がつ5にちおこなわれた海戦かいせんである。デヴィッド・ファラガット海軍かいぐん少将しょうしょう指揮しきするきたぐん艦隊かんたいが、陸軍りくぐん支援しえんけて、フランクリン・ブキャナン提督ていとく指揮しきするちいさなみなみぐん艦隊かんたいと、モービル湾入わんにゅうこうまもっていた3つのとりで攻撃こうげきした。

この戦闘せんとうはファラガットの無謀むぼうともえる機雷きらいはら突入とつにゅうするという決断けつだん様相ようそうわった。その機雷きらいによっててつ装甲そうこうモニターかんが1せき沈没ちんぼつさせられたばかりの決断けつだんだった。きたぐん艦隊かんたい機雷きらいばら通過つうかし、海岸かいがんにあるみなみぐんとりで大砲たいほう射程しゃてい範囲はんいからものがれた。そのみなみぐん艦隊かんたい装甲そうこうかんのCSSテネシー1かんまでらした。しかしテネシー退却たいきゃくせず、きたぐん艦隊かんたい全部ぜんぶ相手あいてたたかった。テネシー装甲そうこうすぐれたものであり、けた砲弾ほうだんによるよりも敵艦てきかんあたえた損害そんがいほうおおかったが、かず不利ふりまではくつがえせなかった。

テネシー最終さいしゅうてきうごけない船体せんたいとなり、きたぐん艦隊かんたい反撃はんげきすることもできなくなった。その艦長かんちょう降伏ごうぶくして戦闘せんとうわった。海軍かいぐん支援しえんくなった陸上りくじょうの3つのとりで数日すうじつちゅう降伏ごうぶくした。モービルわん下流かりゅう全体ぜんたい支配しはいけんきたぐんうつった。

モービルミシシッピがわよりひがしメキシコわんきしみなみぐん支配しはいしていた最後さいごじゅう要港ようこうであり、それが閉鎖へいさされたことで、きたぐんによる海上かいじょう封鎖ふうさ最終さいしゅう仕上しあげとなった。

きたぐんはこのたたかいに勝利しょうりすることで、アメリカ連合れんごうこくのこされた3つの海港かいこうの2つはジョージアしゅうサバンナノースカロライナしゅうウィルミントン)のうちの1つを封鎖ふうさしたことにくわえ、陸上りくじょうではどう時期じきアトランタ占領せんりょうしており、北側きたがわ新聞しんぶん大々的だいだいてきあつかわれ、3かげつ予定よていされたエイブラハム・リンカーン再選さいせんおおきなはずみがいた。

モービルとモービルわん

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1861ねんのモービルわんしもひだりにドーフィンとうのゲインズとりで湾入わんにゅうこう東岸とうがんにモーガンとりでられる

モービルはモービルわん最奥さいおうちかくにあり、モービルがわとテンソーがわ合流ごうりゅうしてメキシコわんそそぐ、天然てんねん良港りょうこうだった。わんながさはやく33マイル (53 km)、下流かりゅう最大さいだいはばやく23マイル (37 km) である。下流かりゅう浚渫しゅんせつおこなわなくても外洋がいようせんとおることのできる水深すいしんがあったが、ドッグがわ河口かこうより上流じょうりゅうあさくなって、喫水きっすいふか船舶せんぱくはモービルちかづけなかった。

湾口わんこうひがし細長ほそなが砂州さすのモービル・ポイントがあり、ボンセカーわんとメキシコわんけ、ボンセカーがわそそいでいる。この陸地りくちはモービルわんはい海峡かいきょうわっており、平和へいわ時代じだい外敵がいてきからモービルをまもるためにアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふとりできずいていた。

海峡かいきょうはさんで西側にしがわは、ドーフィンとう[2]はじまる一連いちれんバリア諸島しょとうつづいている。ドーフィンとう北西ほくせいにリトルドーフィンとうがあり、一連いちれんちいさなしまあいだにモービルわんはいる2つめの海峡かいきょう、グラントの海峡かいきょうがある[3]。ドーフィンとうみなみにもいくつかの小島こじま浅瀬あさせがあり、モービル湾入わんにゅうこうよりみなみ10マイル (16 km) ほどのしゅ水路すいろとなっている[4]

開戦かいせん初期しょきアメリカ連合れんごうこく政府せいふ海岸かいがん全体ぜんたいまもることはしないことにめたが、守備しゅびもっと重要じゅうようみなと港湾こうわんいくつかに集中しゅうちゅうさせることにした[5]。1862ねん4がつニューオーリンズみなとうしなったのちは、メキシコわん東部とうぶでモービルが唯一ゆいいつまもるべきしゅ要港ようこうとなった[6]

モービルはその、メキシコわんにおける封鎖ふうさやぶ中心ちゅうしんになった。アメリカ連合れんごうこくハバナなどカリブ海かりぶかいみなととの貿易ぼうえき大半たいはんはモービルをつうじておこなわれた[7]封鎖ふうさやぶこころみがすうかいおこなわれたが、その効果こうか継続けいぞくさせられるほとおおきなものではかった[8]。この戦争せんそうきたぐん海軍かいぐんもっと当惑とうわくさせた出来事できごとは、1862ねん9がつ4にち襲撃しゅうげきていCSSフロリダ封鎖ふうさやぶってモービルわんはいったことであり、さらに1863ねん1がつ15にちにはフロリダわんからの脱出だっしゅつゆるしていた[9]

西にしメキシコわん封鎖ふうさ戦隊せんたい戦隊せんたいちょうデヴィッド・ファラガットはその指揮しきまかされたときに、モービルとニューオーリンズ占領せんりょうする指示しじふくめた命令めいれいけていたが、初期しょきミシシッピがわ下流かりゅうへの作戦さくせん忙殺ぼうさつされ、モービルみなと注目ちゅうもくされていなかった。それがわったのは1863ねんヴィックスバーグ陥落かんらくしてからだった。

きたぐん戦略せんりゃく遅延ちえんじょうじて、みなみぐん湾入わんにゅうこうのモーガンとりでとゲインズとりで強化きょうかすることで、モービルわんまもりをかためた。さらによりちいさなパウエルとりで建設けんせつしてグラントの海峡かいきょう水路すいろまもった[10]。グラントの海峡かいきょうはしらなど障害しょうがいぶつでもまもられ、それが潮流ちょうりゅうをヘロン海峡かいきょうらせる効果こうかがあった[11]

参加さんかした戦力せんりょく

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みなみぐんまも

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ゲインズとりで

陸軍りくぐん

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  • アラバマ・ミシシッピ・ひがしルイジアナぐん管区かんく、ダブニー・モーリー少将しょうしょう
    • モーガンとりで、リチャード・ペイジじゅんしょう
    • ゲインズとりで、チャールズ・D・アンダーソン大佐たいさ
    • パウェルとりで、ジェイムズ・M・ウィリアムズ中佐ちゅうさ

モービルとモービルわんはダブニー・モーリー少将しょうしょう指揮しきするアラバマ・ミシシッピ・ひがしルイジアナぐん管区かんくはいっていた。モービルにはぐん管区かんく本部ほんぶがあったが、モーリーは湾口わんこうにあるとりで直接ちょくせつ指揮しきらず、この海戦かいせんやそれにつづ包囲ほういせんのときもモービルになかった。指揮しきかん代理だいりはリチャード・L・ペイジじゅんしょうゆだねられていた。

モービルわんまもみなみぐん主要しゅようなものは3つのとりでだった。モーガンとりでは1834ねん建設けんせつされた石造いしづく構造こうぞうだった[12]。46もん大砲たいほうかれ、そのうち11もんほどこせじょうほうだった。守備しゅびへいやく600にんだった[13]

モーガンとりでから海峡かいきょうへだてたドーフィンとうにはゲインズとりでがあり、大砲たいほうは26もん守備しゅびへいやく600にんだった。ペイジがないときはチャールズ・D・アンダーソン大佐たいさ指揮しきした[14]

わん西端せいたんにはパウェルとりでがあり、3つのとりでなかでは一番いちばんちいさく、大砲たいほうは18もん守備しゅびへいやく140にんだった。ペイジがないときはジェイムズ・M・ウィリアムズ中佐ちゅうさ指揮しきした[15]。3つのとりですべ後方こうほうからの攻撃こうげきには大砲たいほうまもられていないという欠陥けっかんがあり、さらにパウェルとりでとゲインズとりでには適切てきせつしがらみかった[16]

守備しゅびへいかずは、実際じっさい戦闘せんとう可能かのうだった数字すうじしめしているわけではない。戦況せんきょう下降かこうせん辿たどっており、兵士へいしたち士気しきわるいという報告ほうこくがなされていた。そのしつ判断はんだんするのはむずかしいが、すくなくともこの海戦かいせんにおける守備しゅびへいのお粗末そまつ対応たいおう一部いちぶ説明せつめいできる[17]

みなみぐんのガブリエル・J・レインズが指揮しきする機雷きらい管理かんりきょくは、この受動じゅどうてき武器ぶき使つかって防御ぼうぎょとしていた。機雷きらい管理かんりきょく兵士へいし湾口わんこうに67の機雷きらい配置はいちした。海峡かいきょう東側ひがしがわ機雷きらい隙間すきまがあり、封鎖ふうさやぶりやその友好ゆうこうてき船舶せんぱくみなと出入でいりできるようにしていた[18]機雷きらいばらはブイで表示ひょうじされており、きたぐん指揮しきかんのファラガットはそれをっていた[19]機雷きらい目的もくてきかならずしも敵艦てきかんしずめるためだけではなく、てきせんがモーガンとりでとその砲台ほうだい方向ほうこうかじるよう仕向しむけることが重要じゅうようだった。

海軍かいぐん

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フランクリン・ブキャナン提督ていとく
てつ装甲そうこうかん1せき
  • CSSテネシー、1273トン、てつ装甲そうこう衝角かん、ブキャナンの旗艦きかん
砲艦ほうかん3せき
  • CSSモーガン、863トンがわ外車がいしゃ砲艦ほうかん大砲たいほう6もん搭載とうさい
  • CSSゲインズ、863トンがわ外車がいしゃ砲艦ほうかん大砲たいほう6もん搭載とうさい
  • CSSセルマ、320トンがわ外車がいしゃ砲艦ほうかん大砲たいほう4もん搭載とうさい

みなみぐん海軍かいぐんあたえられた時間じかん防御ぼうぎょ改善かいぜんのために使つかった。湾内わんないには伝統でんとうてきたねちいさながわ外車がいしゃ砲艦ほうかん3かんがいた。これにくわえててつ装甲そうこう衝角かんCSSテネシーがおり、搭載とうさい大砲たいほうは6もんだけだが、その装甲そうこうによってはるかに強力きょうりょく戦闘せんとうかんだった[20]

テネシーアラバマがわ沿い、セルマまちちかくで建造けんぞうされた。その大砲たいほうはケイツビー・アップ・ロジャー・ジョーンズ海軍かいぐん中佐ちゅうさ指示しじつくられていた。ロジャーズは1862ねん3がつ9にち有名ゆうめいハンプトン・ローズ海戦かいせんで、きたぐんのUSSモニターたたかったみなみぐん装甲そうこうかんCSSバージニア指揮しきしていた[21]。ハンプトン・ローズ海戦かいせん初日しょにち、フランクリン・ブキャナン提督ていとくバージニア指揮しきしていたが負傷ふしょうした。ブキャナンはそのはたらきでみなみぐんでははつ提督ていとく昇進しょうしんした。そのブキャナンがこのモービルわんちいさな戦隊せんたい指揮しきした[22]

テネシーはその機械きかいるい大砲たいほう装備そうびするまえにモービルわん進水しんすいし、その完成かんせいされた。完工かんこうしてからは、ドッグがわ砂州さす横切よこぎりモービルわん下流かりゅうはい必要ひつようがあった。テネシー喫水きっすいは13フィート (4 m) あり、砂州さす水深すいしん満潮まんちょうでも9フィート (3 m) だったので、砂州さすとおすためには造船ぞうせんしょで「キャメル」とばれたいちくみのケーソンをつく必要ひつようがあった。これらのケーソンを船腹せんぷくけてみずき、かろうじて砂州さす通過つうかするだけがらせた。1864ねん5がつ18にちテネシー無事ぶじモービルわん下流かりゅうはいった[23]

テネシーみなみぐんがモービルわん下流かりゅう投入とうにゅうした唯一ゆいいつ装甲そうこうかんだったが[24]ほかにもけんかん計画けいかくはあった。ブキャナンは8かんしいとおもった。そのなかには1ついうわ砲台ほうだいがあり、それできたぐん海上かいじょう封鎖ふうさやぶり、ペンサコーラ攻撃こうげきし、さらにはニューオーリンズこう奪還だっかんまでかんがえていた[25]。しかし、南部なんぶ製造せいぞう輸送ゆそう施設しせつではこのおおがかりな計画けいかく対応たいおうできなかった。計画けいかくされていた艦隊かんたい一部いちぶは、モービルわん下流かりゅううばわれたのちにモービルまもるべく完成かんせいしたが、もっと必要ひつようときにはそこになかった。それでもファラガットが海上かいじょう封鎖ふうさ維持いじしようという作戦さくせん緊急きんきゅうせいあたえることになった[26]

きたぐん

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海軍かいぐん

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木造もくぞうかん14せき

  • USSイタスカ砲艦ほうかん
  • USSケネベック砲艦ほうかん
  • USSオナイダ、スクリュー推進すいしんスループ
  • USSセミノール、スクリュー推進すいしんスループ
  • USSオクトララ、981トン、両頭りょうとうせんがわ外車がいしゃ砲艦ほうかん
  • USSラッカワナ、1240トン、蒸気じょうきスクリュー推進すいしんスループ・オブ・ウォー
  • USSポートロイヤル両頭りょうとうせんがわ外車がいしゃ砲艦ほうかん

てつ装甲そうこうモニターかん4せき

  • USSウィニベイゴ、1300トン、ミルウォーキーきゅうてつ装甲そうこうかわようモニターかん砲塔ほうとう2
デヴィッド・ファラガット当時とうじ少将しょうしょう

モービルわんきたぐん艦隊かんたいひきいたのはデヴィッド・ファラガット少将しょうしょうだった。アメリカ海軍かいぐんはこの戦争せんそうの2ねん組織そしき変更へんこうおこない、その1つが少将しょうしょう創設そうせつしたことだった。このあたらしい階級かいきゅうは、海軍かいぐん艦船かんせん艦隊かんたい一員いちいんとして配属はいぞくされるのであり、たん共通きょうつう目的もくてきった艦船かんせんあつまりではなくなったことを意味いみしていた。

この攻撃こうげき艦隊かんたい構成こうせいする艦船かんせんにはいくつか特徴とくちょうがあった。艦船かんせんいくせきかは戦争せんそうはじまったときに存在そんざいすらしていなかった。選別せんべつされた18かんなかで、8かんむかしから木造もくぞうせんからかんであり、その舷側げんそくおおくの大砲たいほう搭載とうさいしていた。そのうちの4かん、すなわちUSSハートフォード、USSブルックリン、USSリッチモンド、USSオナイダ戦争せんそうはじまりから西にしメキシコわん封鎖ふうさ戦隊せんたいぞくしており、ミシシッピがわでの戦闘せんとう参加さんかしてきた。USSケネベックとUSSイタスカというちいさな砲艦ほうかん2せきもニューオーリンズ占領せんりょう以来いらいファラガットにしたがってきていた[27]

USSガリーナはこのときかん同様どうよう外観がいかんだったが、もと実験じっけんてき装甲そうこうかんとしてはじまっていた。その装甲そうこうたすけになるよりも邪魔じゃまになることがかり、はずされていた[28]。USSオクトララ、USSメタコメット、USSポートロイヤルの3かん両頭りょうとうせんであり、内陸ないりく河川かせんがりくねった水路すいろ航行こうこうするために戦中せんちゅう開発かいはつされた。最後さいごの4かんあたらしい海軍かいぐん代表だいひょうであるてつ装甲そうこうモニターかんだった。このうちUSSマンハッタンとUSSテクムセ最初さいしょのUSSモニター改良かいりょうしたものであり、単一たんいつ砲塔ほうとうに2もん大砲たいほうがあった。USSチカソーとUSSウィニベイゴの2かん喫水きっすいあさかわようのもので砲塔ほうとうが2あった。それぞれ大砲たいほうを4もん搭載とうさいしたが、マンハッタンなどとくらべてしょう口径こうけいのものだった[29]

陸軍りくぐん

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モービルわん陸戦りくせんたい、ゴードン・グレンジャー少将しょうしょう指揮しき

  • クラーク旅団りょだん、ジョージ・ワシントン・クラーク大佐たいさ
  • だい2旅団りょだん、ヘンリー・バートラム大佐たいさ
  • だい3旅団りょだんだい19軍団ぐんだんだい2師団しだん)、ジョシュア・J・グッピー大佐たいさ
  • 工兵こうへい旅団りょだん(アフリカ軍団ぐんだん)、ジョージ・D・ロビンソン大佐たいさ
  • 工兵こうへい旅団りょだんだい19軍団ぐんだん)、ジョセフ・ベイリー名誉めいよじゅんしょう
  • 砲兵ほうへいたいだい19軍団ぐんだん)、リチャード・アーノルドじゅんしょう

みなみぐんとりで占領せんりょう保持ほじするためには陸軍りくぐん協力きょうりょく必要ひつようだった。西にしミシシッピぐん管区かんく指揮しきしており、ファラガットがモービル攻撃こうげき作戦さくせんきょうはたらかしようとしていたのは、経験けいけんのあるエドワード・リチャード・スプリッグ・キャンビー少将しょうしょうだった。ぐん管区かんくほか部隊ぶたいから5,000めい調達ちょうたつすれば、モーガンとりで背後はいご上陸じょうりくしてモービルとの連絡れんらくつことができると計算けいさんしていた。しかし、その計画けいかく縮小しゅくしょうされた。陸軍りくぐんそう司令しれいかんユリシーズ・グラント将軍しょうぐんが、当時とうじ重要じゅうよう段階だんかいかっていたバージニアの戦線せんせんおくるべく部隊ぶたい緊急きんきゅう招集しょうしゅうけたからだった。

キャンビーは2,000めいえては動員どういんできないとかんがえ、それではおおきなとりでめるには十分じゅうぶんでなかったが、ドーフィンとうとりでならば占領せんりょうでき、それによって湾内わんない艦隊かんたいやメキシコわん支援しえん部隊ぶたいとの接触せっしょくたもてるとかんがえた。キャンビーとファラガットはモービルおびやかすことはできないかもしれないが、モービルわん下流かりゅう支配しはいすることで封鎖ふうさ艦隊かんたい利用りようにはおおきな方便ほうべんとなるので、攻撃こうげき作戦さくせんめるべきではないと判断はんだんした[30]

艦隊かんたい上陸じょうりく部隊ぶたい通信つうしん必要ひつようとなるので、キャンビーはその信号しんごう部隊ぶたい兵士へいしをファラガットの攻撃こうげき部隊ぶたい主要しゅよう艦船かんせん配置はいちすることを提案ていあんした。ファラガットはこの提案ていあん了承りょうしょうした。この一時いちじてき任務にんむことなる兵士へいしわせることが、戦闘せんとうちゅうきわめて有用ゆうようであることがかった[31]

1864ねん8がつ3にち、ゲインズとりで包囲ほういせんそなえて、1,500めいとりで西にしやく15マイル (24 km) で、ファラガット戦隊せんたいの1かんから保護ほごされながら上陸じょうりくした。この部隊ぶたいはイリノイだい77志願しがん歩兵ほへい連隊れんたい、アイオワだい34志願しがん歩兵ほへい連隊れんたい、オハイオだい96連隊れんたいから抽出ちゅうしゅつした歩兵ほへい部隊ぶたいであり、またメリーランドだい3志願しがん騎兵きへい連隊れんたいからの騎兵きへいもいた。ゴードン・グレンジャー少将しょうしょうがこの分遣ぶんけんたいそう指揮しきかんとなり、8がつ4にち夕方ゆうがたまで行軍こうぐんして、ゲインズとりでからはんマイル (800 m) らずの位置いち塹壕ざんごうり、へいせん形成けいせいした。

海戦かいせん包囲ほういせん

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戦闘せんとうのスケッチ、1864ねん8がつ5にち

ゴードン・グレンジャー少将しょうしょう指揮しき上陸じょうりく部隊ぶたいは8がつ3にち攻撃こうげき開始かいしできる状態じょうたいだったが、ファラガットは4番目ばんめ装甲そうこうかんであるUSSテクムセ到着とうちゃくとうとした。USSテクムセはすぐにも到着とうちゃくする予定よていだったが、ペンサコーラ出港しゅっこうおくれていた。ファラガットは装甲そうこうかん3かん陸軍りくぐんだけで進行しんこうする決断けつだんをするところだった。陸軍りくぐん海軍かいぐん意図いと誤解ごかいしたままドーフィンとうきしがっていた。艦隊かんたいはまだうご準備じゅんびができていなかったので、守備しゅびたいはゲインズとりで援軍えんぐんはしらせることができた。戦闘せんとうわったのちで、ファラガットはこのおくれが実際じっさいにはきたぐん有利ゆうりはたらいたと判断はんだんした。この援軍えんぐんはそれほどおおきなものではなかったので、戦闘せんとうにさほど影響えいきょうあたえず、降伏ごうぶくしたなかふくまれることになったからだった[32]

陸軍りくぐん上陸じょうりくするなかおくればせながらテクムセ到着とうちゃくし、ファラガットはその艦隊かんたい最終さいしゅうてき配置はいちめた。木造もくぞうせんからかん14かんは2かんずつロープでむすばれた。これはルイジアナしゅうポートハドソンでファラガットが使つかった戦術せんじゅつ再現さいげんだった[33]。その意図いとは、もし1かん機関きかん損傷そんしょうけてうごけなくなったとしても、他方たほうがそのままいてけるというものだった。

装甲そうこうかんが1れつ縦隊じゅうたいをなし、海峡かいきょう右側みぎがわ、モーガンとりでちかほうとおってわんはいることとされた。その艦船かんせんべつに2れつ縦隊じゅうたい形成けいせいし、装甲そうこうかん左舷さげんがわとおり、とりでからの攻撃こうげきから装甲そうこうかん遮蔽しゃへいとなってまもってもらうものとしていた。みなみぐん艦隊かんたい予想よそうどおあらわれたときは、装甲そうこうかんみなみぐん装甲そうこうかんCSSテネシー攻撃こうげきうごき、のこりのかんあしはや砲艦ほうかんたたかうこととされていた[34]

とりで通過つうか

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ワシントンD.C.のアメリカ海軍かいぐん記念きねんかんにあるこの海戦かいせん記念きねん銘板めいばん

8がつ5にち夜明よあけ、条件じょうけん攻撃こうげきのために理想りそうてきちかいものとなった。潮流ちょうりゅう湾内わんないはい方向ほうこうだったので、ファラガットは蒸気じょうきあつらさせ、ボイラーが損傷そんしょうけた場合ばあい被害ひがい最小さいしょうにしようとした。速度そくど潮流ちょうりゅうまかせることにした。南西なんせい微風びふうがあり、艦隊かんたい大砲たいほうからけむりをモーガンとりで砲兵ほうへい正面しょうめんせる状態じょうたいだった。装甲そうこうかんテクムセ先頭せんとうマンハッタンウィニベイゴチカソーつづき、艦隊かんたいとりで接近せっきんした。

テクムセ沈没ちんぼつ

だい2れつ先頭せんとうブルックリンであり、オクタララつなぎさくされていた。ブルックリン前向まえむきに砲撃ほうげきできる前面ぜんめんほうを4もん搭載とうさいしており、大型おおがた艦船かんせんは2もんだけだったので、ブルックリン先頭せんとうった。さらにファラガットがその報告ほうこくしょで「はいさわうつわ」とんだ機雷きらい排除はいじょする装置そうちけてもいた[35]。それにつづくのはハートフォードと'メタコメットリッチモンドポートロイヤルラッカワナセミノールモノンガヘラケネベックオシピーイタスカオナイダガリーナというわせだった[36]

みなみぐん艦船かんせん攻撃こうげき用意よういができており、機雷きらいばらきたぐん艦隊かんたい通過つうかするのを阻止そしできる位置いちうごいた。午前ごぜん647ふんテクムセ最初さいしょ砲弾ほうだんはなち、とりでがこれにこたえて戦闘せんとうはじまった[37]ブルックリンのぞだい2れつ艦船かんせんみなみぐん艦船かんせん砲撃ほうげき対抗たいこうできなかったので、とりでへの砲撃ほうげき集中しゅうちゅうした。おそらくとりでからの砲撃ほうげき鎮圧ちんあつされたので、きたぐん艦隊かんたいけた損傷そんしょう大半たいはんみなみぐん艦船かんせんからのものだった[38]

戦闘せんとう開始かいしからあいだもなく、テクムセとりでしたぎ、テネシーかった。あきらかにそれがけていた命令めいれい一部いちぶしたがったものだった。艦長かんちょうのチュニス・A・M・クレイブン海軍かいぐん中佐ちゅうさは、機雷きらいばらひがしまるよう指示しじけていたのを無視むししたかわすれており、直接ちょくせつ機雷きらいばら横切よこぎ方向ほうこうってった。ほぼその直後ちょくご機雷きらいテクムセふねから爆発ばくはつし、かん浸水しんすいし、2、3ぶんないしずんだ。114にん乗組のりくみいんのうち21にんのみが救助きゅうじょされた。クレイブンもたすからなかったほうふくまれており、その決断けつだんについていいわけする機会きかいかった[39]

ブルックリン艦長かんちょうのジェイムズ・アルデン海軍かいぐん大佐たいさあきらかに矛盾むじゅんする命令めいれい混乱こんらんしていた。命令めいれい装甲そうこうかん左舷さげんまり、また機雷きらいばら右手みぎてまることになっており、右舷うげん装甲そうこうかんくなったいま矛盾むじゅんしょうじていた。アルデンは自艦じかん停船ていせんさせてファラガットに指示しじもとめる信号しんごうおくった。ファラガットはその旗艦きかん停船ていせんさせなかった。艦長かんちょうのパーシバル・ドレイトンにブルックリンまわんでハートフォードれつ先頭せんとうにつけるようめいじた。このことで、いまテクムセしずめたばかりの機雷きらいばらすすむことになったが、ファラガットは機雷きらい大半たいはんがあまりになが水中すいちゅうにあったので、機能きのうしないという確信かくしんがあった。その成功せいこうし、14かん全体ぜんたい無傷むきず機雷きらいばらとおぎた[40]

テネシーきたぐん艦船かんせんとおぎるときに衝角攻撃こうげきおこなうには速度そくどなかった。ファラガットは艦隊かんたいちいさく速度そくどはや砲艦ほうかんみなみぐん砲艦ほうかん3かん攻撃こうげきめいじた。ハートフォードつないでいたロープをいたメタコメット敵艦てきかんセルマ捕獲ほかくした。砲艦ほうかんからの砲撃ほうげきゲインズ命中めいちゅうしたので、海岸かいがん座礁ざしょうしていなければ沈没ちんぼつしたものとられた。その乗組のりくみいんけてやした。モーガンなん抵抗ていこうもできず、モーガンとりで大砲たいほうから保護ほごされる水域すいいき逃亡とうぼうした。つぎよる碇泊ていはくするきたぐん艦隊かんたいよこをすりけて、モービルまでげていった[41]

CSSテネシーとの対決たいけつ

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ファラガットはCSSテネシーがモーガンとりで大砲たいほうから保護ほごされる水域すいいきくと予想よそうしており、そのあいだ自艦じかんめてわん中央ちゅうおうけた損傷そんしょう具合ぐあいようとかんがえていたが、ブキャナンはただ1かんきたぐん艦隊かんたいぜんかん対抗たいこうすることを決断けつだんした。2ねんまえのハンプトン・ローズの海戦かいせんでは衝角攻撃こうげき成功せいこうしていたので、それをかえすつもりだった可能かのうせいがある。ブキャナン自身じしんはその決断けつだんについて説明せつめいしなかった。

このときテネシーめんしている艦船かんせんうごいており、1かんではなく3かん装甲そうこうかんたたか必要ひつようがあった。テネシー速度そくど敵艦てきかんよりもにぶかったのでむしろ衝角攻撃こうげき目標もくひょうにされた。きたぐん艦船かんせんかずかんが衝角攻撃こうげきこころみた。そのうちの1かんモノンガヘラはそのために船首せんしゅ鉄製てつせい保護ほごぶつけていた。しかしその衝角攻撃こうげきのどれもテネシーきずつけられなかった。どの場合ばあい攻撃こうげきしたかん損傷そんしょうおおきかった。ファラガット艦隊かんたいからの砲弾ほうだんテネシー装甲そうこうがえされたが、テネシーからのはんげき性能せいのうおとった火薬かやくおおくの失火しっかのためにその効果こうかられなかった[42]

最後さいごは2かん装甲そうこうかん接近せっきんしたときに形勢けいせいがはっきりしてきた。テネシーすでにほとんどうごけなくなっていた。煙突えんとつばされ、ボイラーの圧力あつりょくげられなくなっていた。かじくさりはずれて舵取かじとりもできなかった。さらに砲門ほうもんとびらいくつかがこわされ、その背後はいご大砲たいほう使つかえなくなった。チカソーテネシー船尾せんびにつき、マンハッタンがその15インチ (38 cm) ほうで衝角をこわはじめた。砲弾ほうだんてつ装甲そうこうげ、背面はいめんのオークざい破壊はかいしていた。

砲弾ほうだん破片はへん乗組のりくみいん何人なんにんかをころし、また負傷ふしょうさせた。その犠牲ぎせいしゃなかにはブキャナン提督ていとく自身じしんはいっており、あし重傷じゅうしょうっていた。もはやたたかえなくなったテネシー艦長かんちょうのジェイムズ・D・ジョンストン中佐ちゅうさ負傷ふしょうしたブキャナンに降伏ごうぶく許可きょかもと了承りょうしょうされた[43]テクムセ最初さいしょ砲弾ほうだんはなってから3時間じかん以上いじょう経過けいかしていた。

パウェルとりでとゲインズとりで

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みなみぐん艦隊かんたい抵抗ていこうくなったので、ファラガットはとりで注意ちゅういもどすことができた。装甲そうこうかんチカソーおくってパウェルにすうはつ砲弾ほうだんはなたせ、つづいてゲインズとりでかった陸軍りくぐん支援しえんかわせた。どちらのとりでたいした損失そんしつ損傷そんしょうもなかったが、砲撃ほうげきはそれらが後方こうほうから攻撃こうげきされたときによわいことをあきらかにするには十分じゅうぶんだった。

パウェルとりでではウィリアムズ中佐ちゅうさがペイジじゅんしょう指示しじもとめていた。ペイジの回答かいとう曖昧あいまいなものであり気概きがいのある部隊ぶたいあつかうものであれば正当せいとうされたかもしれないが、パウェルとりで兵士へいしのように士気しきちた部隊ぶたいはっせられたときは悲惨ひさんなものだった。その命令めいれいは「もはやえられなくなれば守備しゅびへいすくえ。できるかぎなが死守ししゅしろ」となっていた。ウィリアムズ中佐ちゅうさ抵抗ていこうしても無益むえきだと確信かくしんしたので、大砲たいほうくぎめにし、弾薬だんやく爆破ばくはさせた。ウィリアムズと守備しゅびへい水中すいちゅうあるいて本土ほんどわたり、モービルかった[44]

ゲインズとりでのアンダーソン大佐たいさはすこしながこたえたが、よりおそろしいてき直面ちょくめんすることになった。グレンジャーたい勢力せいりょくはるかに上回うわまわっており、守備しゅびたいだれても対抗たいこうできないものだった。きた軍兵ぐんびょうとりでまで十分じゅうぶんちかところまで大砲たいほうはこんできており、しかもドーフィンとう砂丘さきゅうかげかくれて部隊ぶたい攻撃こうげきされがた位置いちにあった。ファラガットの艦隊かんたいわんはいってきたとき発砲はっぽうしたてき大砲たいほう2もんれ、それを反対はんたいかせることもできた。

きたぐんとりで占領せんりょうしたのちで、これを検査けんさした工兵こうへい士官しかん判断はんだんでは、「我々われわれの(海陸かいりくの)攻撃こうげきたいしてまったよわ効果こうかてきでない。その前面ぜんめん側面そくめんこうめんすべてを相手あいてにしなければならない。」としていた[45]事態じたい絶望ぜつぼうてきだと判断はんだんしたアンダーソン大佐たいさ休戦きゅうせんはたしたに、グレンジャーやファラガットとの交渉こうしょうはじめた。ペイジからは降伏ごうぶくすることをきんじる命令めいれいけていたが、これを無視むしし、最終さいしゅうてき指揮しきかんからりて、8がつ8にちとりで共々ともども降伏ごうぶくした[46]

モーガンとりで包囲ほういせん

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モーガンとりで城砦じょうさい、モービルわん海戦かいせんつづ降伏ごうぶく存在そんざいかった
2008ねんのモーガンとりで城砦じょうさい再建さいけんせずにこわした、一部いちぶはエンディコット砲台ほうだいになっている

ゲインズとりで降伏ごうぶくしてからあいだもなく、グレンジャーは部隊ぶたいをドーフィンとうからモーガンとりで背後はいご本土ほんどつなほそ陸地りくちうつした。モーガンとりで大砲たいほう射程しゃていはいらないやく4マイル (6.4 km) はなれた地点ちてん抵抗ていこう上陸じょうりくした。即座そくざとりで状態じょうたい調査ちょうさされ、モービルとの通信つうしん手段しゅだんすべ遮断しゃだんされた。

グレンジャーはとりでたいして通常つうじょうおさむしろほうりかかった。すなわち塹壕ざんごうあるいはその防御ぼうぎょせん構築こうちくして対象たいしょう近付ちかづいていき、最後さいごはそのかべやぶって突撃とつげきうばうというものだった。最初さいしょ防御ぼうぎょせんすでにあった。とりで守備しゅびたい準備じゅんびしていた塹壕ざんごうせんであり、なんらかの理由りゆう放棄ほうきされていた。とりでから1,400ヤード (1,300 m) の位置いちにあり、すことおかったが十分じゅうぶんやくにはった。さらに並行へいこうした防御ぼうぎょせんたいした障害しょうがいつくられた。工作こうさくしゃ砂丘さきゅうかげはたらくことができた。

この工作こうさくすすんでいるあいだに、ウィニベイゴチカソーマンハッタン装甲そうこうかん3かん時折ときおりかんほう射撃しゃげきおこなっていた。これには8がつ5にち捕獲ほかくしたテネシー修繕しゅうぜんされ、USSテネシー改名かいめいされてくわわった。この期間きかん進行しんこうもっと障害しょうがいになったのは天候てんこうだった。8がつ20日はつか防風ぼうふうしばらくのあいだ作業さぎょうめ、低地ていちには水溜みずたまりができた。8月22にちにはおさむしろよう迫撃はくげきほう16もん様々さまざまおおきさの大砲たいほう18もん、および艦隊かんたいからとりでが1にちちゅう砲撃ほうげきされた。装甲そうこうかんテネシーみじか射程しゃていから、そのかんとお射程しゃていから発砲はっぽうした[47]

とりでなかではペイジじゅんしょうが、砲撃ほうげきによって火薬かやく危険きけんさらされることをこわれていた。そこには8まんポンド (36 トン)の火薬かやくがあった。この危険きけんせいけるために火薬かやくし、みずけさせた。そのよる城砦じょうさいわく火事かじになって火薬かやく本当ほんとう危険きけん状態じょうたいになった。この火事かじ砲撃ほうげき精度せいどさせ、大変たいへん努力どりょくめられた。

8がつ23にち、ペイジはこれ以上いじょう抵抗ていこう無益むえきだとかんがえ、のこっていた大砲たいほうくぎめさせ、あるいはできるだけ破壊はかいするようめいじた。午前ごぜん6白旗はっきげるよう命令めいれいし、包囲ほういせんわった[48]

逸話いつわ

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索具さくぐからだしばけたファラガット

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この戦闘せんとうかんする逸話いつわいくらか劇的げきてきなものがある。たとえば、ファラガットはモーガンとりで通過つうかするときに、自身じしんからだをマストにしばけた。そのイメージがつたえるものは絶対ぜったいてき決断けつだんである。戦闘せんとうちゅうにその乗艦じょうかんしずはじめたならば、自身じしんとも海中かいちゅうはいったことになる。しかし事実じじつはもっと平凡へいぼんなものである。ファラガットは実際じっさいにメインマストの索具さくぐ自身じしんしばけたが、挑戦ちょうせんというよりも警戒けいかいのための行動こうどうだった。この行動こうどう戦闘せんとうはじまり、大砲たいほう硝煙しょうえんがあたりにただよったときにこった。ファラガットは戦闘せんとう様子ようすをもっとるためにハートフォード索具さくぐのぼり、もなく墜落ついらくすれば不具ふぐになるかんでしまうようなたかさまでた。これをたドレイトン艦長かんちょう水夫すいふにロープをたせて提督ていとくからだしばけさせた。ファラガットは「にするな、大丈夫だいじょうぶだ」とおこなって抵抗ていこうしたが、水夫すいふ艦長かんちょう命令めいれいしたがい、ロープの一端いったんまえよこせいさくしばり、それを提督ていとくからだけ、一端いったんよこせいさくむすんだ[49]

のちにCSSテネシーきたぐん艦隊かんたい単独たんどく攻撃こうげきいどんだとき、ファラガットはこう檣索のぼった。ドレイトン艦長かんちょうはこのときもその安全あんぜんせいになり、艦隊かんたいふく指揮しきかんのJ・クリッテンデン・ワトソンに再度さいどファラガットをしばけさせた[50]。ファラガットはこの戦闘せんとうちゅう索具さくぐに2しばられたことになった。

機雷きらいがなんだ

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だいいち世界せかい大戦たいせん兵役へいえき徴募ちょうぼびかけるポスター、モービルわんのデヴィッド・ファラガットを登場とうじょうさせた

訳注やくちゅうべいにはほん海戦かいせんちな"Damn the torpedoes, full speed ahead"という地口じぐちがある。「機雷きらいなにだ、ぜんそく前進ぜんしん」つまり"リスクにかまわず全力ぜんりょくすすめ"という程度ていど意味いみだが、以下いか記述きじゅつはその由来ゆらい説明せつめいしている。なお、torpedoは現代げんだいでは魚雷ぎょらい意味いみするが、この海戦かいせん当時とうじ機雷きらいした)

ほん海戦かいせんもっと有名ゆうめい逸話いつわとしてつぎのものがある。テクムセまえ横切よこぎったためにブルックリン減速げんそくしたところ、ファラガットは何故なぜ前進ぜんしんしないのかとたずねた。これにたい進路しんろ機雷きらいがあるとこたえたところ、ファラガットは「機雷きらいがなんだ」とったというのである。このはなしはじめて出版しゅっぱんぶつあらわれたのは海戦かいせんからなんねんのことなので、一部いちぶ歴史れきし実話じつわかどうかうたがっている[51]

伝承でんしょうにはなんとおりかあるが、なかにはありそうにないものもある。もっとひろまったはなしブルックリンかって「機雷きらいがなんだ! 前進ぜんしん!」とさけんだというものだが、現場げんば人々ひとびとによれば、大砲たいほう騒音そうおんなかでそのような会話かいわこえたかうたがわしいという。もっとありそうなはなしとしては、もし事実じじつとすれば、ハートフォード艦長かんちょうに「機雷きらいがなんだ。かね4だ、ドレイトン艦長かんちょう」とったというものである[52]。そのファラガットはハートフォード舷側げんそく繋留けいりゅうされたメタコメット艦長かんちょうかい「前進ぜんしんだ、ジュエット英語えいごばんぜんそくだ」とさけんだ。これらの言葉ことばとき変化へんかし「機雷きらいがなんだ、ぜんそく前進ぜんしん」という今日きょうられるかたちになった[53]

陸軍りくぐん信号しんごう

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この戦闘せんとうまえまで陸軍りくぐん海軍かいぐんまったことなる信号しんごう方式ほうしきっていた。海軍かいぐん色付いろづけはた通信つうしんぶん分割ぶんかつ送信そうしんしてから解読かいどくするという面倒めんどう方式ほうしきであり、陸軍りくぐんアルバート・J・マイアー大佐たいさ最近さいきん開発かいはつしたはるかに単純たんじゅんウィグワグばれる手旗てばた信号しんごう実験じっけんしていた。艦隊かんたいがモービルわん安全あんぜん確保かくほしたのちきしにいる陸軍りくぐん通信つうしんする目的もくてきで、設立せつりつあいだもない信号しんごう司令しれいから陸軍りくぐん信号しんごうへい派出はしゅつされ、ファラガット艦隊かんたい主要しゅよう艦船かんせんんだ[54]。この信号しんごうへい必要ひつようとされるまで邪魔じゃまにならないよう待機たいきすることになっており、たとえばハートフォードでは軍医ぐんい助手じょしゅとして甲板かんぱんした配置はいちされた。

ブルックリンテクムセ機雷きらいばら困難こんなん遭遇そうぐうしたとき、ブルックリンのアベリー艦長かんちょう命令めいれい明確めいかくかんして海軍かいぐん信号しんごう伝達でんたつ速度そくど不満ふまんおぼえ、陸軍りくぐん信号しんごうへいたのんで質問しつもん旗艦きかんおくらせた。これを受信じゅしんするためハートフォードがわでも陸軍りくぐんへい甲板かんぱんされ、以後いごたたかいがわるまでそこにとどまった[55]かれらの貢献こうけんのちにファラガットから感謝かんしゃされた[56]

ペイジじゅんしょう軍法ぐんぽう会議かいぎ

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モーガンとりで降伏ごうぶくしたのちきたぐんはそこの大砲たいほうすべくぎめされており、ほう物資ぶっし破壊はかいされていることがかった。その損傷そんしょうおおくは白旗はっきげられているあいだされたとかんがえるものがいた。それは当時とうじ理解りかいされていた戦争せんそうのルールに違背いはいするものだった。この信念しんねんつよかったキャンビー少将しょうしょう正式せいしき告発こくはつおこない、ペイジはニューオーリンズで裁判さいばんけられ、3にん委員いいんかい告発こくはつ内容ないよう検討けんとうした。その証拠しょうこ照査しょうさした裁判所さいばんしょ告発こくはつされた内容ないようでペイジが無罪むざいだと判断はんだんした[57]

戦闘せんとう要約ようやく

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モービルわん海戦かいせん南北戦争なんぼくせんそうにおける陸軍りくぐん標準ひょうじゅんからはそれほど流血りゅうけつおおいものではかったが、海軍かいぐん標準ひょうじゅんからはそうだった。すくなくともニューオーリンズのジャクソンとりでおよびセントフィリップとりでたたかいや、ハンプトン・ローズの海戦かいせんよりは流血りゅうけつすくないものだった。きたぐん艦隊かんたいは150めい戦死せんしし、170めい負傷ふしょうした。一方いっぽうみなみぐんは12めい戦死せんしし、19めい負傷ふしょうしただけだった[58]きたぐん陸軍りくぐん損失そんしつ非常ひじょうかるかった。モーガンとりで包囲ほういせんでは1めいのみが戦死せんしし、7めい負傷ふしょうした[59]みなみぐん損失そんしつ明白めいはくになっていないが、わずかにおお程度ていどかんがえられている[60]

モービルちかくにきたぐんつづけることでみなみぐん最後さいご絶望ぜつぼうてき作戦さくせん影響えいきょうした。モーリーは自軍じぐん対抗たいこうする勢力せいりょく攻撃こうげきには不向ふむきだと理解りかいしたが、モービルうしなうことになれば、大衆たいしゅう士気しきおおきな打撃だげきとなるので、大砲たいほう予備よび部隊ぶたい任務にんむ支援しえんおくろうとはしなかった[61]

このことは、当時とうじアトランタ方面ほうめん作戦さくせん実行じっこうちゅうきたぐんウィリアム・シャーマン少将しょうしょうにとってとく重要じゅうようだった。モービルがまだ征服せいふくされずにのこっているので、ファラガットの勝利しょうり意義いぎ北部ほくぶ世論せろんにそれほどの影響えいきょうあたえていなかった。ぎて、そのきたぐんによる勝利しょうりくわわると、戦争せんそう終息しゅうそくかっており、この戦闘せんとう意義いぎおおきくなっていった。

アトランタが陥落かんらくすると、歴史れきしジェイムズ・M・マクファーソンの言葉ことばでは、「モービルわん勝利しょうりおもかえし、致命ちめいてきなワンツー・パンチの最初さいしょ打撃だげきとして突然とつぜんあらたな重要じゅうようせいびてきた」としている[62]北部ほくぶ暗雲あんうんれ、戦争せんそう継続けいぞく住民じゅうみん投票とうひょうなされていたエイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょう再選さいせんたしかなものにした。

モーガンとりで占領せんりょうしてモービルわん下流かりゅうたいする作戦さくせん完了かんりょうした。キャンビーとファラガットはすでにドーフィンとう上陸じょうりくするまえに、モービル攻撃こうげきできる戦力せんりょくっていないと判断はんだんしていた。さらにテネシー下流かりゅうまでってくるために苦心くしんしたドッグがわ砂州さすがあり、ファラガット艦隊かんたい上流じょうりゅうくことをさまたげていた。実際じっさいにモービル陸海りくかいきょうはたらけ攻撃こうげきくっしたのは1865ねん4がつのことであり、このときファラガットはヘンリー・K・サッチャー少将しょうしょう交替こうたいしていた。モービル戦争せんそう最後さいご日々ひび陥落かんらくした[63]

南北戦争なんぼくせんそう戦闘せんとうとその経過けいかおおくの難船なんせんわんなかいまでものこっている。たとえば、アメリカンダイバー、CSSゲインズ、CSSハンツビル、USSフィリッピ、CSSフェニックス、USSランドルフ、USSテクムセ、CSSタスカルーサである[64]

注釈ちゅうしゃく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ORA I, v. 39/1, p. 402. The start date is formal; it is the day the landing force went aboard their transports. The first day of contact between opposing forces was August 4.
  2. ^ Sometimes spelled Dauphine in contemporary accounts.
  3. ^ Grant Pass in present-day nomenclature.
  4. ^ Wise, Lifeline of the Confederacy, p. 20. Kinney, Battles and leaders, v. 4, p. 384, map.
  5. ^ Luraghi, History of the Confederate Navy, p. 187. ORA I, v. 6, pp. 398, 826, 835.
  6. ^ The only other remaining port was St. Marks, Florida, which was too small for most steamships, and furthermore lacked rail connections with the interior. See Wise, Lifeline of the Confederacy, pp. 80–81.
  7. ^ Wise, Lifeline of the Confederacy, pp, 168–180; appendices 11–14.
  8. ^ Scharf, History of the Confederate States Navy, pp. 537–549.
  9. ^ Scharf, History of the Confederate States Navy, pp. 790–791.
  10. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 51. Kinney, Battles and leaders, v. 4, p. 385.
  11. ^ ORN I, v. 21, p. 528. The piles also thwarted early CS Navy plans for cooperation between the defenses of Mobile and New Orleans. See Still, Iron afloat, p. 189.
  12. ^ Faust, Encyclopedia of the Civil War, entry for Fort Morgan.
  13. ^ ORA I, v. 39/1, pp. 419–420.
  14. ^ Maury's report, ORA I, v. 39/1, p. 417. Canby asserted in his report (ORA I, v. 39/1, p. 403) that 818 enlisted men and 46 officers were captured with the surrender of Fort Gaines; this number is quoted by Friend, West wind, flood tide, p. 156. The discrepancy may be caused by the failure of Maury to include in his accounting reinforcements he rushed to the fort when he thought that the invaders could be repulsed (ORA I, v. 39/1, p. 417). On the other hand, all such numbers in the Civil War are unreliable.
  15. ^ ORA I, v. 39/1, p. 441.
  16. ^ Friend, West wind, flood tide, pp. 74–75, 120–122. ORA I, v. 39/1, pp. 410, 411.
  17. ^ Friend, West wind, flood tide, pp. 57–58. ORN I, v. 21, p. 364. ORA I, v. 39/1, p. 414.
  18. ^ Friend, West wind, flood tide, pp. 137–139. ORA I, v. 39/1, p. 433.
  19. ^ Friend, West wind, flood tide, pp. 67, 125. ORN I, v. 21, p. 373.
  20. ^ Opposing forces (Confederate), Battles and leaders, v. 4, p. 400.
  21. ^ Johnston, Battles and leaders, v. 4, p. 401. But see Still, Iron afloat, p. 196.
  22. ^ Still, Iron afloat,, p. 190. Another tie between Tennessee and Virginia is that Chief Naval Constructor John L. Porter was active in the design of each. This is not surprising, as most Confederate ironclads were prepared from Porter's basic designs. See Still, p. 94.
  23. ^ Still, Iron afloat, p. 202.
  24. ^ Early in the war, Alabama had acquired steamer Baltic and converted her into an ironclad ram, to serve in and near Mobile Bay. She was never effective, however, and her armor was removed to be used on another vessel, CSS Nashville: Still, Iron afloat, pp. 80–81, 192.
  25. ^ Cahore, Naval campaigns of the Civil War, p. 187.
  26. ^ Still, Iron afloat, pp. 190–196.
  27. ^ Battles and leaders, v. 2, p. 74.
  28. ^ Tucker, Blue and gray navies, p. 37.
  29. ^ Opposing forces (Union), Battles and leaders, v. 4, p. 400
  30. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 76. ORN I, v. 21, pp. 380, 388.
  31. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 76. Kinney, Battles and leaders, v. 4, p. 381.
  32. ^ ORN I, v. 21, p. 416.
  33. ^ Farragut had tried to pass the Confederate works at Port Hudson on March 14, 1863, in support of the Vicksburg campaign. Although only two of his seven ships got through, the attempt was regarded as a success. See Anderson, By sea and by river, p. 145.
  34. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 154. ORN I, v. 21, pp. 416–417.
  35. ^ ORN I, v. 21, p. 403.
  36. ^ Calore, Naval campaigns of the Civil War, p. 189.
  37. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 166. ORN I, v. 21, p. 415–418.
  38. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 168. ORN I, v. 21, p. 418. The disposition of the Confederate ships was in what would come to be known as "crossing the T."
  39. ^ In an early account of the battle, Rear Admiral Foxhall A. Parker speculated that the poor steering of his monitor forced Craven's hand; see Friend, West wind, flood tide, p. 178.
  40. ^ Duffy, Lincoln's admiral, pp. 240–248.
  41. ^ Anderson, By sea and by river, pp. 242–243.
  42. ^ ORN I, v. 21, p. 418.
  43. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 219–221. ORN I, v. 21, p. 419.
  44. ^ Friend, West wind, flood tide, pp. 228–229. ORA I, v. 39/1, p. 436.
  45. ^ ORA I, v. 39/1, p. 410.
  46. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 236. ORA I, v. 39/1, pp. 417–418.
  47. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 239. ORA I, v. 39/1, pp. 411–414.
  48. ^ Page, Battles and leaders, v. 4, pp. 408–410. Friend, West wind, flood tide, pp. 239–240.
  49. ^ Duffy, Lincoln's admiral, p. 243.
  50. ^ Watson, Battles and leaders, v. 4, p. 407.
  51. ^ Anderson, By sea and by river,, p. 242.
  52. ^ "がね4"は機関きかんしつぜんそく要求ようきゅうする合図あいずである. Friend, West wind, flood tide, p. 187.
  53. ^ Duffy, Lincoln's admiral, pp. 247–248.
  54. ^ Friend, West wind, flood tide, pp. 124, 178. ORN I, v. 21, p. 525.
  55. ^ Kinney, Battles and leaders, v. 4, pp. 379–400. Friend, West wind, flood tide, pp. 123–124, 170, 217–218.
  56. ^ ORN I, v. 21, p. 518.
  57. ^ Friend, West wind, flood tide, p. 251. ORA I, v. 39/1, p. 405.
  58. ^ Musicant, Divided waters, p. 324.
  59. ^ ORA I, v. 39/1, p. 404.
  60. ^ Page, Battles and leaders, v. 4, p. 410.
  61. ^ ORA I, v. 39/1, p. 428.
  62. ^ McPherson, Battle cry of freedom, p. 775.
  63. ^ Faust, Encyclopedia of the Civil War, entry "Mobile, Siege of."
  64. ^ Gaines, W. Craig (2008). Encyclopedia of Civil War Shipwrecks. LSU Press. pp. 1–8. ISBN 978-0-8071-3274-6 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Still, William N. Jr. Iron Afloat: The Story of the Confederate Armorclads. Vanderbilt University Press, 1971. Reprint, University of South Carolina Press, 1985. ISBN 0-87249-454-3
  • Tucker, Spencer, Blue & Gray Navies: The Civil War Afloat. Naval Institute Press, 2006. ISBN 1-59114-882-0
  • United States. Naval History Division, Civil War Naval Chronology, 1861–1865. U.S. Government Printing Office, 1961–65.
  • Wise, Stephen R., Lifeline of the Confederacy: Blockade Running During the Civil War. University of South Carolina Press, 1988. ISBN 0-87249-554-X

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3014ふん28びょう 西経せいけい8803ふん11びょう / 北緯ほくい30.240976 西経せいけい88.053017 / 30.240976; -88.053017