モービル湾 わん の海戦 かいせん (モービルわんのかいせん、英 えい :Battle of Mobile Bay)は、南北戦争 なんぼくせんそう 中 なか 1864年 ねん 8月 がつ 5日 にち に行 おこな われた海戦 かいせん である。デヴィッド・ファラガット 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう が指揮 しき する北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい が、陸軍 りくぐん の支援 しえん も受 う けて、フランクリン・ブキャナン 提督 ていとく の指揮 しき する小 ちい さな南 みなみ 軍 ぐん 艦隊 かんたい と、モービル湾入 わんにゅう 口 こう を守 まも っていた3つの砦 とりで を攻撃 こうげき した。
この戦闘 せんとう はファラガットの無謀 むぼう とも言 い える機雷 きらい 原 はら を突入 とつにゅう するという決断 けつだん で様相 ようそう が変 か わった。その機雷 きらい によって鉄 てつ 装甲 そうこう のモニター艦 かん が1隻 せき 沈没 ちんぼつ させられたばかりの決断 けつだん だった。北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい は機雷 きらい 原 ばら を通過 つうか し、海岸 かいがん にある南 みなみ 軍 ぐん 砦 とりで の大砲 たいほう 射程 しゃてい 範囲 はんい からも逃 のが れた。その後 ご 南 みなみ 軍 ぐん 艦隊 かんたい を装甲 そうこう 艦 かん のCSSテネシー 1艦 かん まで減 へ らした。しかしテネシー は退却 たいきゃく せず、北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい 全部 ぜんぶ を相手 あいて に戦 たたか った。テネシー の装甲 そうこう は優 すぐ れたものであり、受 う けた砲弾 ほうだん によるよりも敵艦 てきかん に与 あた えた損害 そんがい の方 ほう が多 おお かったが、数 かず の不利 ふり までは覆 くつがえ せなかった。
テネシー は最終 さいしゅう 的 てき に動 うご けない船体 せんたい となり、北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい に反撃 はんげき することもできなくなった。その後 ご 艦長 かんちょう が降伏 ごうぶく して戦闘 せんとう は終 お わった。海軍 かいぐん の支援 しえん が無 な くなった陸上 りくじょう の3つの砦 とりで も数日 すうじつ 中 ちゅう に降伏 ごうぶく した。モービル湾 わん 下流 かりゅう 部 ぶ 全体 ぜんたい の支配 しはい 権 けん が北 きた 軍 ぐん に移 うつ った。
モービル はミシシッピ川 がわ より東 ひがし のメキシコ湾 わん 岸 きし で南 みなみ 軍 ぐん が支配 しはい していた最後 さいご の重 じゅう 要港 ようこう であり、それが閉鎖 へいさ されたことで、北 きた 軍 ぐん による海上 かいじょう 封鎖 ふうさ の最終 さいしゅう 仕上 しあ げとなった。
北 きた 軍 ぐん はこの戦 たたか いに勝利 しょうり することで、アメリカ連合 れんごう 国 こく に残 のこ された3つの海港 かいこう (他 た の2つはジョージア州 しゅう サバンナ とノースカロライナ州 しゅう ウィルミントン )のうちの1つを封鎖 ふうさ したことに加 くわ え、陸上 りくじょう では同 どう 時期 じき にアトランタ を占領 せんりょう しており、北側 きたがわ の新聞 しんぶん で大々的 だいだいてき に扱 あつか われ、3か月 げつ 後 ご に予定 よてい されたエイブラハム・リンカーン の再選 さいせん に大 おお きな弾 はず みが付 つ いた。
1861年 ねん のモービル湾 わん 図 ず 、下 しも 左 ひだり にドーフィン島 とう のゲインズ砦 とりで 、湾入 わんにゅう 口 こう の東岸 とうがん にモーガン砦 とりで が見 み られる
モービル市 し はモービル湾 わん 最奥 さいおう 部 ぶ 近 ちか くにあり、モービル川 がわ とテンソー川 がわ が合流 ごうりゅう してメキシコ湾 わん に注 そそ ぐ、天然 てんねん の良港 りょうこう だった。湾 わん の長 なが さは約 やく 33マイル (53 km)、下流 かりゅう 部 ぶ の最大 さいだい 幅 はば は約 やく 23マイル (37 km) である。下流 かりゅう 部 ぶ は浚渫 しゅんせつ を行 おこな わなくても外洋 がいよう 船 せん が通 とお ることのできる水深 すいしん があったが、ドッグ川 がわ 河口 かこう より上流 じょうりゅう は浅 あさ くなって、喫水 きっすい の深 ふか い船舶 せんぱく はモービル市 し に近 ちか づけなかった。
湾口 わんこう の東 ひがし は細長 ほそなが い砂州 さす のモービル・ポイントがあり、ボンセカー湾 わん とメキシコ湾 わん を分 わ け、ボンセカー川 がわ が注 そそ いでいる。この陸地 りくち はモービル湾 わん に入 はい る海峡 かいきょう で終 お わっており、平和 へいわ な時代 じだい に外敵 がいてき からモービルを守 まも るためにアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 政府 せいふ が砦 とりで を築 きず いていた。
海峡 かいきょう を挟 はさ んで西側 にしがわ は、ドーフィン島 とう [ 2] に始 はじ まる一連 いちれん のバリア諸島 しょとう に続 つづ いている。ドーフィン島 とう の北西 ほくせい にリトルドーフィン島 とう があり、一連 いちれん の小 ちい さな島 しま の間 あいだ にモービル湾 わん に入 はい る2つめの海峡 かいきょう 、グラントの海峡 かいきょう がある[ 3] 。ドーフィン島 とう の南 みなみ にも幾 いく つかの小島 こじま や浅瀬 あさせ があり、モービル湾入 わんにゅう 口 こう より南 みなみ 10マイル (16 km) ほどの主 しゅ 水路 すいろ となっている[ 4] 。
開戦 かいせん 初期 しょき にアメリカ連合 れんごう 国 こく 政府 せいふ は海岸 かいがん 全体 ぜんたい を守 まも ることはしないことに決 き めたが、守備 しゅび を最 もっと も重要 じゅうよう な港 みなと と港湾 こうわん の幾 いく つかに集中 しゅうちゅう させることにした[ 5] 。1862年 ねん 4月 がつ にニューオーリンズ 港 みなと を失 うしな った後 のち は、メキシコ湾 わん 東部 とうぶ でモービルが唯一 ゆいいつ の守 まも るべき主 しゅ 要港 ようこう となった[ 6] 。
モービル市 し はその後 ご 、メキシコ湾 わん における封鎖 ふうさ 破 やぶ り の中心 ちゅうしん になった。アメリカ連合 れんごう 国 こく とハバナ などカリブ海 かりぶかい の港 みなと との貿易 ぼうえき の大半 たいはん はモービルを通 つう じて行 おこな われた[ 7] 。封鎖 ふうさ を破 やぶ る試 こころ みが数 すう 回 かい 行 おこな われたが、その効果 こうか を継続 けいぞく させられるほと大 おお きなものでは無 な かった[ 8] 。この戦争 せんそう で北 きた 軍 ぐん 海軍 かいぐん を最 もっと も当惑 とうわく させた出来事 できごと は、1862年 ねん 9月 がつ 4日 にち に襲撃 しゅうげき 艇 てい CSSフロリダ が封鎖 ふうさ を破 やぶ ってモービル湾 わん に入 はい ったことであり、さらに1863年 ねん 1月 がつ 15日 にち にはフロリダ の湾 わん からの脱出 だっしゅつ を許 ゆる していた[ 9] 。
西 にし メキシコ湾 わん 封鎖 ふうさ 戦隊 せんたい の戦隊 せんたい 長 ちょう デヴィッド・ファラガットはその指揮 しき を任 まか された時 とき に、モービル市 し とニューオーリンズ市 し を占領 せんりょう する指示 しじ を含 ふく めた命令 めいれい を受 う けていたが、初期 しょき はミシシッピ川 がわ 下流 かりゅう への作戦 さくせん に忙殺 ぼうさつ され、モービル市 し と港 みなと は注目 ちゅうもく されていなかった。それが変 か わったのは1863年 ねん にヴィックスバーグ が陥落 かんらく してからだった。
北 きた 軍 ぐん 戦略 せんりゃく の遅延 ちえん に乗 じょう じて、南 みなみ 軍 ぐん は湾入 わんにゅう 口 こう のモーガン砦 とりで とゲインズ砦 とりで を強化 きょうか することで、モービル湾 わん の守 まも りを固 かた めた。さらにより小 ちい さなパウエル砦 とりで を建設 けんせつ してグラントの海峡 かいきょう の水路 すいろ を守 まも った[ 10] 。グラントの海峡 かいきょう は柱 はしら など障害 しょうがい 物 ぶつ でも守 まも られ、それが潮流 ちょうりゅう をヘロン海峡 かいきょう に逸 そ らせる効果 こうか があった[ 11] 。
ゲインズ砦 とりで
アラバマ・ミシシッピ・東 ひがし ルイジアナ軍 ぐん 管区 かんく 、ダブニー・モーリー少将 しょうしょう
モーガン砦 とりで 、リチャード・ペイジ准 じゅん 将 しょう
ゲインズ砦 とりで 、チャールズ・D・アンダーソン大佐 たいさ
パウェル砦 とりで 、ジェイムズ・M・ウィリアムズ中佐 ちゅうさ
モービル市 し とモービル湾 わん はダブニー・モーリー少将 しょうしょう が指揮 しき するアラバマ・ミシシッピ・東 ひがし ルイジアナ軍 ぐん 管区 かんく に入 はい っていた。モービル市 し には軍 ぐん 管区 かんく 本部 ほんぶ があったが、モーリーは湾口 わんこう にある砦 とりで を直接 ちょくせつ 指揮 しき は執 と らず、この海戦 かいせん やそれに続 つづ く包囲 ほうい 戦 せん のときもモービルに居 い なかった。指揮 しき 官 かん 代理 だいり はリチャード・L・ペイジ准 じゅん 将 しょう に委 ゆだ ねられていた。
モービル湾 わん を守 まも る南 みなみ 軍 ぐん の主要 しゅよう なものは3つの砦 とりで だった。モーガン砦 とりで は1834年 ねん に建設 けんせつ された石造 いしづく り構造 こうぞう だった[ 12] 。46門 もん の大砲 たいほう が置 お かれ、そのうち11門 もん は施 ほどこせ 条 じょう 砲 ほう だった。守備 しゅび 兵 へい は約 やく 600人 にん だった[ 13] 。
モーガン砦 とりで から海峡 かいきょう を隔 へだ てたドーフィン島 とう にはゲインズ砦 とりで があり、大砲 たいほう は26門 もん 、守備 しゅび 兵 へい は約 やく 600人 にん だった。ペイジが居 い ないときはチャールズ・D・アンダーソン大佐 たいさ が指揮 しき した[ 14] 。
湾 わん の西端 せいたん にはパウェル砦 とりで があり、3つの砦 とりで の中 なか では一番 いちばん 小 ちい さく、大砲 たいほう は18門 もん 、守備 しゅび 兵 へい は約 やく 140人 にん だった。ペイジが居 い ないときはジェイムズ・M・ウィリアムズ中佐 ちゅうさ が指揮 しき した[ 15] 。3つの砦 とりで は全 すべ て後方 こうほう からの攻撃 こうげき には大砲 たいほう が守 まも られていないという欠陥 けっかん があり、さらにパウェル砦 とりで とゲインズ砦 とりで には適切 てきせつ な柵 しがらみ が無 な かった[ 16] 。
守備 しゅび 兵 へい の数 かず は、実際 じっさい に戦闘 せんとう 可能 かのう だった数字 すうじ を示 しめ しているわけではない。戦況 せんきょう は下降 かこう 線 せん を辿 たど っており、兵士 へいし 達 たち の士気 しき が悪 わる いという報告 ほうこく がなされていた。その質 しつ を判断 はんだん するのは難 むずか しいが、少 すく なくともこの海戦 かいせん における守備 しゅび 兵 へい のお粗末 そまつ な対応 たいおう を一部 いちぶ 説明 せつめい できる[ 17] 。
南 みなみ 軍 ぐん のガブリエル・J・レインズが指揮 しき する機雷 きらい 管理 かんり 局 きょく は、この受動 じゅどう 的 てき な武器 ぶき を使 つか って防御 ぼうぎょ としていた。機雷 きらい 管理 かんり 局 きょく の兵士 へいし は湾口 わんこう に67の機雷 きらい を配置 はいち した。海峡 かいきょう の東側 ひがしがわ に機雷 きらい の無 な い隙間 すきま があり、封鎖 ふうさ 破 やぶ りやその他 た 友好 ゆうこう 的 てき な船舶 せんぱく が港 みなと に出入 でい りできるようにしていた[ 18] 。機雷 きらい 原 ばら はブイで表示 ひょうじ されており、北 きた 軍 ぐん 指揮 しき 官 かん のファラガットはそれを良 よ く知 し っていた[ 19] 。機雷 きらい の目的 もくてき は必 かなら ずしも敵艦 てきかん を沈 しず めるためだけではなく、敵 てき 船 せん がモーガン砦 とりで とその砲台 ほうだい の方向 ほうこう に舵 かじ を切 き るよう仕向 しむ けることが重要 じゅうよう だった。
フランクリン・ブキャナン提督 ていとく
鉄 てつ 装甲 そうこう 艦 かん 1隻 せき
CSSテネシー 、1273トン、鉄 てつ 装甲 そうこう 衝角艦 かん 、ブキャナンの旗艦 きかん
砲艦 ほうかん 3隻 せき
CSSモーガン 、863トン側 がわ 外車 がいしゃ 砲艦 ほうかん 、大砲 たいほう 6門 もん 搭載 とうさい
CSSゲインズ 、863トン側 がわ 外車 がいしゃ 砲艦 ほうかん 、大砲 たいほう 6門 もん 搭載 とうさい
CSSセルマ 、320トン側 がわ 外車 がいしゃ 砲艦 ほうかん 、大砲 たいほう 4門 もん 搭載 とうさい
南 みなみ 軍 ぐん の海軍 かいぐん も与 あた えられた時間 じかん を防御 ぼうぎょ の改善 かいぜん のために使 つか った。湾内 わんない には伝統 でんとう 的 てき な種 たね の小 ちい さな側 がわ 外車 がいしゃ 砲艦 ほうかん 3艦 かん がいた。これに加 くわ えて鉄 てつ 装甲 そうこう 衝角艦 かん CSSテネシー がおり、搭載 とうさい 大砲 たいほう は6門 もん だけだが、その装甲 そうこう によって遙 はる かに強力 きょうりょく な戦闘 せんとう 艦 かん だった[ 20] 。
テネシー はアラバマ川 がわ 沿 そ い、セルマ の町 まち 近 ちか くで建造 けんぞう された。その大砲 たいほう はケイツビー・アップ・ロジャー・ジョーンズ海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ の指示 しじ で造 つく られていた。ロジャーズは1862年 ねん 3月 がつ 9日 にち の有名 ゆうめい なハンプトン・ローズ海戦 かいせん で、北 きた 軍 ぐん のUSSモニター と戦 たたか った南 みなみ 軍 ぐん の装甲 そうこう 艦 かん CSSバージニア を指揮 しき していた[ 21] 。ハンプトン・ローズ海戦 かいせん の初日 しょにち 、フランクリン・ブキャナン提督 ていとく がバージニア を指揮 しき していたが負傷 ふしょう した。ブキャナンはその日 ひ の働 はたら きで南 みなみ 軍 ぐん では初 はつ の提督 ていとく に昇進 しょうしん した。そのブキャナンがこのモービル湾 わん で小 ちい さな戦隊 せんたい を指揮 しき した[ 22] 。
テネシー はその機械 きかい 類 るい や大砲 たいほう を装備 そうび する前 まえ にモービル湾 わん に進水 しんすい し、その後 ご に完成 かんせい された。完工 かんこう してからは、ドッグ川 がわ 砂州 さす を横切 よこぎ りモービル湾 わん 下流 かりゅう に入 はい る必要 ひつよう があった。テネシー の喫水 きっすい は13フィート (4 m) あり、砂州 さす の水深 すいしん は満潮 まんちょう 時 じ でも9フィート (3 m) だったので、砂州 さす を通 とお すためには造船 ぞうせん 所 しょ で「キャメル」と呼 よ ばれた一 いち 組 くみ のケーソンを造 つく る必要 ひつよう があった。これらのケーソンを船腹 せんぷく に取 と り付 つ けて水 みず を抜 ぬ き、かろうじて砂州 さす を通過 つうか するだけ浮 う き上 あ がらせた。1864年 ねん 5月 がつ 18日 にち 、テネシー は無事 ぶじ モービル湾 わん 下流 かりゅう に入 はい った[ 23] 。
テネシー は南 みなみ 軍 ぐん がモービル湾 わん 下流 かりゅう に投入 とうにゅう した唯一 ゆいいつ の装甲 そうこう 艦 かん だったが[ 24] 、他 ほか にも建 けん 艦 かん 計画 けいかく はあった。ブキャナンは8艦 かん は欲 ほ しいと思 おも った。その中 なか には1対 つい の浮 うわ き砲台 ほうだい があり、それで北 きた 軍 ぐん の海上 かいじょう 封鎖 ふうさ を破 やぶ り、ペンサコーラ を攻撃 こうげき し、さらにはニューオーリンズ港 こう の奪還 だっかん まで考 かんが えていた[ 25] 。しかし、南部 なんぶ の製造 せいぞう と輸送 ゆそう の施設 しせつ ではこの大 おお がかりな計画 けいかく に対応 たいおう できなかった。計画 けいかく されていた艦隊 かんたい の一部 いちぶ は、モービル湾 わん 下流 かりゅう が奪 うば われた後 のち にモービル市 し を守 まも るべく完成 かんせい したが、最 もっと も必要 ひつよう な時 とき にはそこに居 い なかった。それでもファラガットが海上 かいじょう 封鎖 ふうさ を維持 いじ しようという作戦 さくせん に緊急 きんきゅう 性 せい を与 あた えることになった[ 26] 。
木造 もくぞう 艦 かん 14隻 せき
USS
ブルックリン 、スクリュー
推進 すいしん スループ
USSモノンガヘラ 、スクリュー推進 すいしん スループ
USSリッチモンド 、スクリュー推進 すいしん スループ
USSハートフォード 、2900トン、スクリュー推進 すいしん スループ、ファラガットの旗艦 きかん
USSガリーナ 、950トン、砲艦 ほうかん 、スクリュー推進 すいしん 蒸気 じょうき 船 せん
USSメタコメット 、1173トン、サソーカス級 きゅう 両頭 りょうとう 船 せん 、蒸気 じょうき 砲艦 ほうかん
USSオシピー 、1240トン、蒸気 じょうき スクリュー推進 すいしん スループ
USSイタスカ 、砲艦 ほうかん
USSケネベック 、砲艦 ほうかん
USSオナイダ 、スクリュー推進 すいしん スループ
USSセミノール 、スクリュー推進 すいしん スループ
USSオクトララ 、981トン、両頭 りょうとう 船 せん 、側 がわ 外車 がいしゃ 砲艦 ほうかん
USSラッカワナ 、1240トン、蒸気 じょうき スクリュー推進 すいしん スループ・オブ・ウォー
USSポートロイヤル 、両頭 りょうとう 船 せん 、側 がわ 外車 がいしゃ 砲艦 ほうかん
鉄 てつ 装甲 そうこう モニター艦 かん 4隻 せき
USSテクムセ 、2100トン、キャノニカス級 きゅう モニター艦 かん 、機雷 きらい で沈没 ちんぼつ
USSチカソー 、1300トン、ミルウォーキー級 きゅう 鉄 てつ 装甲 そうこう 川 かわ 用 よう モニター艦 かん 、砲塔 ほうとう 2基 き
USSマンハッタン 、2100-ton 、キャノニカス級 きゅう モニター艦 かん
USSウィニベイゴ 、1300トン、ミルウォーキー級 きゅう 鉄 てつ 装甲 そうこう 川 かわ 用 よう モニター艦 かん 、砲塔 ほうとう 2基 き
デヴィッド・ファラガット 、当時 とうじ は少将 しょうしょう
モービル湾 わん で北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい を率 ひき いたのはデヴィッド・ファラガット 少将 しょうしょう だった。アメリカ海軍 かいぐん はこの戦争 せんそう の2年 ねん 目 め に組織 そしき の変更 へんこう を行 おこな い、その1つが少将 しょうしょう の位 い を創設 そうせつ したことだった。この新 あたら しい階級 かいきゅう は、海軍 かいぐん の艦船 かんせん が艦隊 かんたい の一員 いちいん として配属 はいぞく されるのであり、単 たん に共通 きょうつう 目的 もくてき を持 も った艦船 かんせん の集 あつ まりではなくなったことを意味 いみ していた。
この攻撃 こうげき 艦隊 かんたい を構成 こうせい する艦船 かんせん には幾 いく つか特徴 とくちょう があった。艦船 かんせん の幾 いく 隻 せき かは戦争 せんそう が始 はじ まったときに存在 そんざい すらしていなかった。選別 せんべつ された18艦 かん の中 なか で、8艦 かん は昔 むかし から木造 もくぞう 船 せん 殻 から の艦 かん であり、その舷側 げんそく に多 おお くの大砲 たいほう を搭載 とうさい していた。そのうちの4艦 かん 、すなわちUSSハートフォード 、USSブルックリン 、USSリッチモンド 、USSオナイダ は戦争 せんそう の始 はじ まりから西 にし メキシコ湾 わん 封鎖 ふうさ 戦隊 せんたい に属 ぞく しており、ミシシッピ川 がわ での戦闘 せんとう に参加 さんか してきた。USSケネベック とUSSイタスカ という小 ちい さな砲艦 ほうかん 2隻 せき もニューオーリンズ占領 せんりょう 以来 いらい ファラガットに従 したが ってきていた[ 27] 。
USSガリーナ はこのとき他 た の艦 かん と同様 どうよう な外観 がいかん だったが、元 もと は実験 じっけん 的 てき 装甲 そうこう 艦 かん として始 はじ まっていた。その装甲 そうこう が助 たす けになるよりも邪魔 じゃま になることが分 わ かり、外 はず されていた[ 28] 。USSオクトララ 、USSメタコメット 、USSポートロイヤル の3艦 かん は両頭 りょうとう 船 せん であり、内陸 ないりく 河川 かせん の曲 ま がりくねった水路 すいろ を航行 こうこう するために戦中 せんちゅう に開発 かいはつ された。最後 さいご の4艦 かん が新 あたら しい海軍 かいぐん の代表 だいひょう である鉄 てつ 装甲 そうこう モニター艦 かん だった。このうちUSSマンハッタン とUSSテクムセ は最初 さいしょ のUSSモニター を改良 かいりょう したものであり、単一 たんいつ の砲塔 ほうとう に2門 もん の大砲 たいほう があった。USSチカソー とUSSウィニベイゴ の2艦 かん は喫水 きっすい の浅 あさ い川 かわ 用 よう のもので砲塔 ほうとう が2基 き あった。それぞれ大砲 たいほう を4門 もん 搭載 とうさい したが、マンハッタン などとくらべて小 しょう 口径 こうけい のものだった[ 29] 。
モービル湾 わん 陸戦 りくせん 隊 たい 、ゴードン・グレンジャー少将 しょうしょう 指揮 しき
クラーク旅団 りょだん 、ジョージ・ワシントン・クラーク大佐 たいさ
第 だい 2旅団 りょだん 、ヘンリー・バートラム大佐 たいさ
第 だい 3旅団 りょだん (第 だい 19軍団 ぐんだん 第 だい 2師団 しだん )、ジョシュア・J・グッピー大佐 たいさ
工兵 こうへい 旅団 りょだん (アフリカ軍団 ぐんだん )、ジョージ・D・ロビンソン大佐 たいさ
工兵 こうへい 旅団 りょだん (第 だい 19軍団 ぐんだん )、ジョセフ・ベイリー名誉 めいよ 准 じゅん 将 しょう
砲兵 ほうへい 隊 たい (第 だい 19軍団 ぐんだん )、リチャード・アーノルド准 じゅん 将 しょう
南 みなみ 軍 ぐん の砦 とりで を占領 せんりょう し保持 ほじ するためには陸軍 りくぐん の協力 きょうりょく が必要 ひつよう だった。西 にし ミシシッピ軍 ぐん 管区 かんく を指揮 しき しており、ファラガットがモービル攻撃 こうげき の作戦 さくせん で協 きょう 働 はたらか しようとしていたのは、経験 けいけん のあるエドワード・リチャード・スプリッグ・キャンビー 少将 しょうしょう だった。軍 ぐん 管区 かんく の他 ほか の部隊 ぶたい から5,000名 めい を調達 ちょうたつ すれば、モーガン砦 とりで の背後 はいご に上陸 じょうりく してモービル市 し との連絡 れんらく を絶 た つことができると計算 けいさん していた。しかし、その計画 けいかく は縮小 しゅくしょう された。陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん のユリシーズ・グラント 将軍 しょうぐん が、当時 とうじ 重要 じゅうよう な段階 だんかい に差 さ し掛 か かっていたバージニアの戦線 せんせん に送 おく るべく部隊 ぶたい に緊急 きんきゅう 招集 しょうしゅう を掛 か けたからだった。
キャンビーは2,000名 めい を超 こ えては動員 どういん できないと考 かんが え、それでは大 おお きな砦 とりで を攻 せ めるには十分 じゅうぶん でなかったが、ドーフィン島 とう の砦 とりで ならば占領 せんりょう でき、それによって湾内 わんない の艦隊 かんたい やメキシコ湾 わん の支援 しえん 部隊 ぶたい との接触 せっしょく を保 たも てると考 かんが えた。キャンビーとファラガットはモービル市 し を脅 おびや かすことはできないかもしれないが、モービル湾 わん 下流 かりゅう を支配 しはい することで封鎖 ふうさ 艦隊 かんたい の利用 りよう には大 おお きな方便 ほうべん となるので、攻撃 こうげき 作戦 さくせん を止 と めるべきではないと判断 はんだん した[ 30] 。
艦隊 かんたい と上陸 じょうりく 部隊 ぶたい の通信 つうしん が必要 ひつよう となるので、キャンビーはその信号 しんごう 部隊 ぶたい の兵士 へいし をファラガットの攻撃 こうげき 部隊 ぶたい の主要 しゅよう 艦船 かんせん に配置 はいち することを提案 ていあん した。ファラガットはこの提案 ていあん を了承 りょうしょう した。この一時 いちじ 的 てき に任務 にんむ の異 こと なる兵士 へいし を混 ま ぜ合 あ わせることが、戦闘 せんとう 中 ちゅう に極 きわ めて有用 ゆうよう であることが分 わ かった[ 31] 。
1864年 ねん 8月 がつ 3日 にち 、ゲインズ砦 とりで 包囲 ほうい 戦 せん に備 そな えて、1,500名 めい が砦 とりで の西 にし 約 やく 15マイル (24 km) で、ファラガット戦隊 せんたい の1艦 かん から保護 ほご されながら上陸 じょうりく した。この部隊 ぶたい はイリノイ第 だい 77志願 しがん 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 、アイオワ第 だい 34志願 しがん 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 、オハイオ第 だい 96連隊 れんたい から抽出 ちゅうしゅつ した歩兵 ほへい 部隊 ぶたい であり、またメリーランド第 だい 3志願 しがん 騎兵 きへい 連隊 れんたい からの騎兵 きへい もいた。ゴードン・グレンジャー少将 しょうしょう がこの分遣 ぶんけん 隊 たい の総 そう 指揮 しき 官 かん となり、8月 がつ 4日 にち 夕方 ゆうがた まで行軍 こうぐん して、ゲインズ砦 とりで から半 はん マイル (800 m) 足 た らずの位置 いち に塹壕 ざんごう を掘 ほ り、散 ち 兵 へい 線 せん を形成 けいせい した。
戦闘 せんとう のスケッチ、1864年 ねん 8月 がつ 5日 にち
ゴードン・グレンジャー少将 しょうしょう 指揮 しき 下 か の上陸 じょうりく 部隊 ぶたい は8月 がつ 3日 にち に攻撃 こうげき 開始 かいし できる状態 じょうたい だったが、ファラガットは4番目 ばんめ の装甲 そうこう 艦 かん であるUSSテクムセ の到着 とうちゃく を待 ま とうとした。USSテクムセ はすぐにも到着 とうちゃく する予定 よてい だったが、ペンサコーラ出港 しゅっこう で遅 おく れていた。ファラガットは装甲 そうこう 艦 かん 3艦 かん と陸軍 りくぐん だけで進行 しんこう する決断 けつだん をするところだった。陸軍 りくぐん は海軍 かいぐん の意図 いと を誤解 ごかい したままドーフィン島 とう の岸 きし に揚 あ がっていた。艦隊 かんたい はまだ動 うご き出 だ す準備 じゅんび ができていなかったので、守備 しゅび 隊 たい はゲインズ砦 とりで に援軍 えんぐん を走 はし らせることができた。戦闘 せんとう が終 お わった後 のち で、ファラガットはこの遅 おく れが実際 じっさい には北 きた 軍 ぐん に有利 ゆうり に働 はたら いたと判断 はんだん した。この援軍 えんぐん はそれほど大 おお きなものではなかったので、戦闘 せんとう にさほど影響 えいきょう を与 あた えず、降伏 ごうぶく した中 なか に含 ふく まれることになったからだった[ 32] 。
陸軍 りくぐん が上陸 じょうりく する中 なか 、遅 おく ればせながらテクムセ が到着 とうちゃく し、ファラガットはその艦隊 かんたい の最終 さいしゅう 的 てき な配置 はいち を決 き めた。木造 もくぞう 船 せん 殻 から の艦 かん 14艦 かん は2艦 かん ずつロープで結 むす ばれた。これはルイジアナ州 しゅう ポートハドソンでファラガットが使 つか った戦術 せんじゅつ の再現 さいげん だった[ 33] 。その意図 いと は、もし1艦 かん が機関 きかん に損傷 そんしょう を受 う けて動 うご けなくなったとしても、他方 たほう がそのまま引 ひ いて行 い けるというものだった。
装甲 そうこう 艦 かん が1列 れつ 縦隊 じゅうたい をなし、海峡 かいきょう の右側 みぎがわ 、モーガン砦 とりで に近 ちか い方 ほう を通 とお って湾 わん に入 はい ることとされた。その他 た の艦船 かんせん は別 べつ に2列 れつ 縦隊 じゅうたい を形成 けいせい し、装甲 そうこう 艦 かん の左舷 さげん 側 がわ を通 とお り、砦 とりで からの攻撃 こうげき から装甲 そうこう 艦 かん が遮蔽 しゃへい となって守 まも ってもらうものとしていた。南 みなみ 軍 ぐん の艦隊 かんたい が予想 よそう 通 どお り現 あらわ れたときは、装甲 そうこう 艦 かん が南 みなみ 軍 ぐん の装甲 そうこう 艦 かん CSSテネシー の攻撃 こうげき に動 うご き、残 のこ りの艦 かん は足 あし の速 はや い砲艦 ほうかん と戦 たたか うこととされていた[ 34] 。
ワシントンD.C. のアメリカ海軍 かいぐん 記念 きねん 館 かん にあるこの海戦 かいせん の記念 きねん 銘板 めいばん
8月 がつ 5日 にち 夜明 よあ け、条件 じょうけん は攻撃 こうげき のために理想 りそう 的 てき に近 ちか いものとなった。潮流 ちょうりゅう が湾内 わんない に入 はい る方向 ほうこう だったので、ファラガットは蒸気 じょうき 圧 あつ を減 へ らさせ、ボイラーが損傷 そんしょう を受 う けた場合 ばあい の被害 ひがい を最小 さいしょう にしようとした。速度 そくど は潮流 ちょうりゅう に任 まか せることにした。南西 なんせい の微風 びふう があり、艦隊 かんたい の大砲 たいほう から出 で る煙 けむり をモーガン砦 とりで の砲兵 ほうへい の正面 しょうめん に吹 ふ き寄 よ せる状態 じょうたい だった。装甲 そうこう 艦 かん テクムセ を先頭 せんとう にマンハッタン 、ウィニベイゴ 、チカソー が続 つづ き、艦隊 かんたい は砦 とりで に接近 せっきん した。
テクムセ の沈没 ちんぼつ
第 だい 2列 れつ の先頭 せんとう はブルックリン であり、オクタララ と繋 つなぎ 索 さく されていた。ブルックリン は前向 まえむ きに砲撃 ほうげき できる前面 ぜんめん 砲 ほう を4門 もん 搭載 とうさい しており、他 た の大型 おおがた 艦船 かんせん は2門 もん だけだったので、ブルックリン が先頭 せんとう に立 た った。さらにファラガットがその報告 ほうこく 書 しょ で「排 はい 障 さわ 器 うつわ 」と呼 よ んだ機雷 きらい を排除 はいじょ する装置 そうち を取 と り付 つ けてもいた[ 35] 。それに続 つづ くのはハートフォード と'メタコメット 、リッチモンド とポートロイヤル 、ラッカワナ とセミノール 、モノンガヘラ とケネベック 、オシピー とイタスカ 、オナイダ とガリーナ という組 く み合 あ わせだった[ 36] 。
南 みなみ 軍 ぐん の艦船 かんせん は攻撃 こうげき の用意 ようい ができており、機雷 きらい 原 ばら を北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい が通過 つうか するのを阻止 そし できる位置 いち に動 うご いた。午前 ごぜん 6時 じ 47分 ふん 、テクムセ が最初 さいしょ の砲弾 ほうだん を放 はな ち、砦 とりで がこれに応 こた えて戦闘 せんとう が始 はじ まった[ 37] 。ブルックリン を除 のぞ く第 だい 2列 れつ の艦船 かんせん は南 みなみ 軍 ぐん 艦船 かんせん の砲撃 ほうげき に対抗 たいこう できなかったので、砦 とりで への砲撃 ほうげき に集中 しゅうちゅう した。おそらく砦 とりで からの砲撃 ほうげき が鎮圧 ちんあつ されたので、北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい が受 う けた損傷 そんしょう の大半 たいはん は南 みなみ 軍 ぐん 艦船 かんせん からのものだった[ 38] 。
戦闘 せんとう 開始 かいし から間 あいだ もなく、テクムセ が砦 とりで の下 した を過 す ぎ、テネシー に向 む かった。明 あき らかにそれが受 う けていた命令 めいれい の一部 いちぶ に従 したが ったものだった。艦長 かんちょう のチュニス・A・M・クレイブン海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ は、機雷 きらい 原 ばら の東 ひがし に留 と まるよう指示 しじ を受 う けていたのを無視 むし したか忘 わす れており、直接 ちょくせつ 機雷 きらい 原 ばら を横切 よこぎ る方向 ほうこう に持 も って行 い った。ほぼその直後 ちょくご に機雷 きらい がテクムセ 船 ふね 殻 から 下 か で爆発 ばくはつ し、艦 かん は浸水 しんすい し、2、3分 ぶん の内 ない に沈 しず んだ。114人 にん の乗組 のりくみ 員 いん のうち21人 にん のみが救助 きゅうじょ された。クレイブンも助 たす からなかった方 ほう に含 ふく まれており、その決断 けつだん についてい訳 いわけ する機会 きかい が無 な かった[ 39] 。
ブルックリン 艦長 かんちょう のジェイムズ・アルデン海軍 かいぐん 大佐 たいさ は明 あき らかに矛盾 むじゅん する命令 めいれい に混乱 こんらん していた。命令 めいれい は装甲 そうこう 艦 かん の左舷 さげん に留 と まり、また機雷 きらい 原 ばら の右手 みぎて に留 と まることになっており、右舷 うげん の装甲 そうこう 艦 かん が無 な くなった今 いま は矛盾 むじゅん が生 しょう じていた。アルデンは自艦 じかん を停船 ていせん させてファラガットに指示 しじ を求 もと める信号 しんごう を送 おく った。ファラガットはその旗艦 きかん を停船 ていせん させなかった。艦長 かんちょう のパーシバル・ドレイトンにブルックリン を回 まわ り込 こ んでハートフォード を列 れつ の先頭 せんとう につけるよう命 めい じた。このことで、今 いま テクムセ を沈 しず めたばかりの機雷 きらい 原 ばら に進 すす むことになったが、ファラガットは機雷 きらい の大半 たいはん があまりに長 なが く水中 すいちゅう にあったので、機能 きのう しないという確信 かくしん があった。その賭 と が成功 せいこう し、14艦 かん 全体 ぜんたい が無傷 むきず で機雷 きらい 原 ばら を通 とお り過 す ぎた[ 40] 。
テネシー は北 きた 軍 ぐん 艦船 かんせん が通 とお り過 す ぎるときに衝角攻撃 こうげき を行 おこな うには速度 そくど が出 で なかった。ファラガットは艦隊 かんたい の小 ちい さく速度 そくど の速 はや い砲艦 ほうかん に南 みなみ 軍 ぐん の砲艦 ほうかん 3艦 かん の攻撃 こうげき を命 めい じた。ハートフォード と繋 つな いでいたロープを解 と いたメタコメット が敵艦 てきかん のセルマ を捕獲 ほかく した。砲艦 ほうかん からの砲撃 ほうげき がゲインズ に命中 めいちゅう したので、海岸 かいがん に座礁 ざしょう していなければ沈没 ちんぼつ したものと見 み られた。その後 ご 乗組 のりくみ 員 いん が火 ひ を付 つ けて燃 も やした。モーガン は何 なん の抵抗 ていこう もできず、モーガン砦 とりで の大砲 たいほう から保護 ほご される水域 すいいき に逃亡 とうぼう した。次 つぎ の夜 よる に碇泊 ていはく する北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい の横 よこ をすり抜 ぬ けて、モービル市 し まで逃 に げていった[ 41] 。
ファラガットはCSSテネシー がモーガン砦 とりで の大砲 たいほう から保護 ほご される水域 すいいき に行 い くと予想 よそう しており、その間 あいだ に自艦 じかん を停 と めて湾 わん 中央 ちゅうおう で受 う けた損傷 そんしょう の具合 ぐあい を見 み ようと考 かんが えていたが、ブキャナンはただ1艦 かん で北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい 全 ぜん 艦 かん に対抗 たいこう することを決断 けつだん した。2年 ねん 前 まえ のハンプトン・ローズの海戦 かいせん では衝角攻撃 こうげき に成功 せいこう していたので、それを繰 く り返 かえ すつもりだった可能 かのう 性 せい がある。ブキャナン自身 じしん はその決断 けつだん について説明 せつめい しなかった。
このときテネシー が面 めん している艦船 かんせん は動 うご いており、1艦 かん ではなく3艦 かん の装甲 そうこう 艦 かん と戦 たたか う必要 ひつよう があった。テネシー の速度 そくど が敵艦 てきかん よりも鈍 にぶ かったのでむしろ衝角攻撃 こうげき の目標 もくひょう にされた。北 きた 軍 ぐん 艦船 かんせん の数 かず 艦 かん が衝角攻撃 こうげき を試 こころ みた。そのうちの1艦 かん モノンガヘラ はそのために船首 せんしゅ に鉄製 てつせい の保護 ほご 物 ぶつ を付 つ けていた。しかしその衝角攻撃 こうげき のどれもテネシー を傷 きず つけられなかった。どの場合 ばあい も攻撃 こうげき した艦 かん の損傷 そんしょう が大 おお きかった。ファラガット艦隊 かんたい からの砲弾 ほうだん はテネシー の装甲 そうこう に跳 は ね返 がえ されたが、テネシー からの反 はん 撃 げき も性能 せいのう の劣 おと った火薬 かやく と多 おお くの失火 しっか のためにその効果 こうか が得 え られなかった[ 42] 。
最後 さいご は2艦 かん の装甲 そうこう 艦 かん が接近 せっきん したときに形勢 けいせい がはっきりしてきた。テネシー は既 すで にほとんど動 うご けなくなっていた。煙突 えんとつ が吹 ふ き飛 と ばされ、ボイラーの圧力 あつりょく を上 あ げられなくなっていた。舵 かじ の鎖 くさり が外 はず れて舵取 かじと りもできなかった。さらに砲門 ほうもん の扉 とびら の幾 いく つかが壊 こわ され、その背後 はいご の大砲 たいほう は使 つか えなくなった。チカソー がテネシー の船尾 せんび につき、マンハッタン がその15インチ (38 cm) 砲 ほう で衝角を壊 こわ し始 はじ めた。砲弾 ほうだん が鉄 てつ の装甲 そうこう を曲 ま げ、背面 はいめん のオーク材 ざい を破壊 はかい していた。
砲弾 ほうだん の破片 はへん で乗組 のりくみ 員 いん の何人 なんにん かを殺 ころ し、また負傷 ふしょう させた。その犠牲 ぎせい 者 しゃ の中 なか にはブキャナン提督 ていとく 自身 じしん も入 はい っており、足 あし に重傷 じゅうしょう を負 お っていた。もはや戦 たたか えなくなったテネシー 艦長 かんちょう のジェイムズ・D・ジョンストン中佐 ちゅうさ は負傷 ふしょう したブキャナンに降伏 ごうぶく の許可 きょか を求 もと め了承 りょうしょう された[ 43] 。テクムセ が最初 さいしょ の砲弾 ほうだん を放 はな ってから3時間 じかん 以上 いじょう が経過 けいか していた。
南 みなみ 軍 ぐん 艦隊 かんたい の抵抗 ていこう が無 な くなったので、ファラガットは砦 とりで に注意 ちゅうい を戻 もど すことができた。装甲 そうこう 艦 かん チカソー を送 おく ってパウェルに数 すう 発 はつ の砲弾 ほうだん を放 はな たせ、続 つづ いてゲインズ砦 とりで に向 む かった陸軍 りくぐん の支援 しえん に向 む かわせた。どちらの砦 とりで も大 たい した損失 そんしつ も損傷 そんしょう もなかったが、砲撃 ほうげき はそれらが後方 こうほう から攻撃 こうげき されたときに弱 よわ いことを明 あき らかにするには十分 じゅうぶん だった。
パウェル砦 とりで ではウィリアムズ中佐 ちゅうさ がペイジ准 じゅん 将 しょう に指示 しじ を求 もと めていた。ペイジの回答 かいとう は曖昧 あいまい なものであり気概 きがい のある部隊 ぶたい を扱 あつか うものであれば正当 せいとう 化 か されたかもしれないが、パウェル砦 とりで の兵士 へいし のように士気 しき の落 お ちた部隊 ぶたい に発 はっ せられたときは悲惨 ひさん なものだった。その命令 めいれい は「もはや耐 た えられなくなれば守備 しゅび 兵 へい を救 すく え。できる限 かぎ り長 なが く死守 ししゅ しろ」となっていた。ウィリアムズ中佐 ちゅうさ は抵抗 ていこう しても無益 むえき だと確信 かくしん したので、大砲 たいほう を釘 くぎ 止 ど めにし、弾薬 だんやく 庫 こ を爆破 ばくは させた。ウィリアムズと守備 しゅび 兵 へい は水中 すいちゅう を歩 ある いて本土 ほんど に渡 わた り、モービル市 し に向 む かった[ 44] 。
ゲインズ砦 とりで のアンダーソン大佐 たいさ はすこし長 なが く持 も ち堪 こた えたが、より恐 おそ ろしい敵 てき に直面 ちょくめん することになった。グレンジャー隊 たい の勢力 せいりょく は遙 はる かに上回 うわまわ っており、守備 しゅび 隊 たい の誰 だれ が見 み ても対抗 たいこう できないものだった。北 きた 軍兵 ぐんびょう は砦 とりで まで十分 じゅうぶん 近 ちか い所 ところ まで大砲 たいほう を運 はこ んできており、しかもドーフィン島 とう の砂丘 さきゅう の陰 かげ に隠 かく れて自 じ 部隊 ぶたい は攻撃 こうげき され難 がた い位置 いち にあった。ファラガットの艦隊 かんたい が湾 わん に入 はい ってきた時 とき に発砲 はっぽう した敵 てき の大砲 たいほう 2門 もん を手 て に入 い れ、それを反対 はんたい に向 む かせることもできた。
北 きた 軍 ぐん が砦 とりで を占領 せんりょう した後 のち で、これを検査 けんさ した工兵 こうへい 士官 しかん の判断 はんだん では、「我々 われわれ の(海陸 かいりく の)攻撃 こうげき に対 たい して全 まった く弱 よわ く効果 こうか 的 てき でない。その前面 ぜんめん 、側面 そくめん 、後 こう 面 めん 全 すべ てを相手 あいて にしなければならない。」としていた[ 45] 。事態 じたい が絶望 ぜつぼう 的 てき だと判断 はんだん したアンダーソン大佐 たいさ は休戦 きゅうせん の旗 はた の下 した に、グレンジャーやファラガットとの交渉 こうしょう を始 はじ めた。ペイジからは降伏 ごうぶく することを禁 きん じる命令 めいれい を受 う けていたが、これを無視 むし し、最終 さいしゅう 的 てき に指揮 しき 官 かん から降 お りて、8月 がつ 8日 にち に砦 とりで 共々 ともども 降伏 ごうぶく した[ 46] 。
モーガン砦 とりで の城砦 じょうさい 、モービル湾 わん の海戦 かいせん に続 つづ く降伏 ごうぶく 後 ご に存在 そんざい が分 わ かった
2008年 ねん のモーガン砦 とりで 、城砦 じょうさい を再建 さいけん せずに壊 こわ した、一部 いちぶ はエンディコット砲台 ほうだい になっている
ゲインズ砦 とりで が降伏 ごうぶく してから間 あいだ もなく、グレンジャーは部隊 ぶたい をドーフィン島 とう からモーガン砦 とりで 背後 はいご の本土 ほんど に繋 つな ぐ細 ほそ い陸地 りくち に移 うつ した。モーガン砦 とりで の大砲 たいほう 射程 しゃてい に入 はい らない約 やく 4マイル (6.4 km) 離 はな れた地点 ちてん に抵抗 ていこう も無 な く上陸 じょうりく した。即座 そくざ に砦 とりで の状態 じょうたい が調査 ちょうさ され、モービル市 し との通信 つうしん 手段 しゅだん が全 すべ て遮断 しゃだん された。
グレンジャーは砦 とりで に対 たい して通常 つうじょう の攻 おさむ 城 しろ 法 ほう に取 と りかかった。すなわち塹壕 ざんごう あるいはその他 た の防御 ぼうぎょ 線 せん を構築 こうちく して対象 たいしょう に近付 ちかづ いていき、最後 さいご はその壁 かべ を破 やぶ って突撃 とつげき で奪 うば うというものだった。最初 さいしょ の防御 ぼうぎょ 線 せん は既 すで にあった。砦 とりで の守備 しゅび 隊 たい が準備 じゅんび していた塹壕 ざんごう 線 せん であり、何 なん らかの理由 りゆう で放棄 ほうき されていた。砦 とりで から1,400ヤード (1,300 m) の位置 いち にあり、少 すこ し遠 とお かったが十分 じゅうぶん 役 やく には立 た った。さらに並行 へいこう した防御 ぼうぎょ 線 せん が大 たい した障害 しょうがい も無 む く造 つく られた。工作 こうさく 者 しゃ は砂丘 さきゅう の陰 かげ で働 はたら くことができた。
この工作 こうさく が進 すす んでいる間 あいだ に、ウィニベイゴ 、チカソー 、マンハッタン の装甲 そうこう 艦 かん 3艦 かん が時折 ときおり 艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を行 おこな っていた。これには8月 がつ 5日 にち に捕獲 ほかく したテネシー が修繕 しゅうぜん され、USSテネシー と改名 かいめい されて加 くわ わった。この期間 きかん の進行 しんこう に最 もっと も障害 しょうがい になったのは天候 てんこう だった。8月 がつ 20日 はつか の防風 ぼうふう が暫 しばら くの間 あいだ 作業 さぎょう を停 と め、低地 ていち には水溜 みずた まりができた。8月22日 にち には攻 おさむ 城 しろ 用 よう 迫撃 はくげき 砲 ほう 16門 もん 、様々 さまざま な大 おお きさの大砲 たいほう 18門 もん 、および艦隊 かんたい から砦 とりで が1日 にち 中 ちゅう 砲撃 ほうげき された。装甲 そうこう 艦 かん とテネシー は短 みじか い射程 しゃてい から、その他 た の艦 かん は遠 とお い射程 しゃてい から発砲 はっぽう した[ 47] 。
砦 とりで の中 なか ではペイジ准 じゅん 将 しょう が、砲撃 ほうげき によって火薬 かやく 庫 こ が危険 きけん に曝 さら されることを怖 こわ れていた。そこには8万 まん ポンド (36 トン)の火薬 かやく があった。この危険 きけん 性 せい を避 さ けるために火薬 かやく を持 も ち出 だ し、水 みず に浸 つ けさせた。その夜 よる 城砦 じょうさい の木 き 枠 わく が火事 かじ になって火薬 かやく 庫 こ が本当 ほんとう に危険 きけん な状態 じょうたい になった。この火事 かじ で砲撃 ほうげき の精度 せいど を増 ま させ、大変 たいへん な努力 どりょく で消 け し止 と められた。
8月 がつ 23日 にち 、ペイジはこれ以上 いじょう の抵抗 ていこう が無益 むえき だと考 かんが え、残 のこ っていた大砲 たいほう を釘 くぎ 止 と めさせ、あるいはできるだけ破壊 はかい するよう命 めい じた。午前 ごぜん 6時 じ 、白旗 はっき を揚 あ げるよう命令 めいれい し、包囲 ほうい 戦 せん は終 お わった[ 48] 。
この戦闘 せんとう に関 かん する逸話 いつわ は幾 いく らか劇的 げきてき なものがある。例 たと えば、ファラガットはモーガン砦 とりで 下 か を通過 つうか するときに、自身 じしん の体 からだ をマストに縛 しば り付 つ けた。そのイメージが伝 つた えるものは絶対 ぜったい 的 てき な決断 けつだん である。戦闘 せんとう 中 ちゅう にその乗艦 じょうかん が沈 しず み始 はじ めたならば、自身 じしん も共 とも に海中 かいちゅう に入 はい ったことになる。しかし事実 じじつ はもっと平凡 へいぼん なものである。ファラガットは実際 じっさい にメインマストの索具 さくぐ に自身 じしん を縛 しば り付 つ けたが、挑戦 ちょうせん というよりも警戒 けいかい のための行動 こうどう だった。この行動 こうどう は戦闘 せんとう が始 はじ まり、大砲 たいほう の硝煙 しょうえん があたりに漂 ただよ ったときに起 お こった。ファラガットは戦闘 せんとう の様子 ようす をもっと良 よ く見 み るためにハートフォード の索具 さくぐ に昇 のぼ り、間 ま もなく墜落 ついらく すれば不具 ふぐ になるか死 し んでしまうような高 たか さまで来 き た。これを見 み たドレイトン艦長 かんちょう が水夫 すいふ にロープを持 も たせて提督 ていとく の体 からだ を縛 しば り付 つ けさせた。ファラガットは「気 き にするな、大丈夫 だいじょうぶ だ」と行 おこな って抵抗 ていこう したが、水夫 すいふ は艦長 かんちょう の命令 めいれい に従 したが い、ロープの一端 いったん を前 まえ の横 よこ 静 せい 索 さく に縛 しば り、それを提督 ていとく の体 からだ に巻 ま き付 つ け、他 た の一端 いったん を後 ご の横 よこ 静 せい 索 さく に結 むす んだ[ 49] 。
後 のち にCSSテネシー が北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい に単独 たんどく 攻撃 こうげき を挑 いど んだとき、ファラガットは後 こう 檣索具 ぐ に昇 のぼ った。ドレイトン艦長 かんちょう はこのときもその安全 あんぜん 性 せい が気 き になり、艦隊 かんたい 副 ふく 指揮 しき 官 かん のJ・クリッテンデン・ワトソンに再度 さいど ファラガットを縛 しば り付 つ けさせた[ 50] 。ファラガットはこの戦闘 せんとう 中 ちゅう に索具 さくぐ に2度 ど 縛 しば られたことになった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で兵役 へいえき 徴募 ちょうぼ を呼 よ びかけるポスター、モービル湾 わん のデヴィッド・ファラガットを登場 とうじょう させた
(訳注 やくちゅう :米 べい 語 ご には本 ほん 海戦 かいせん に因 ちな む"Damn the torpedoes, full speed ahead" という地口 じぐち がある。「機雷 きらい が何 なに だ、全 ぜん 速 そく 前進 ぜんしん 」つまり"リスクに構 かま わず全力 ぜんりょく で進 すす め"という程度 ていど の意味 いみ だが、以下 いか の記述 きじゅつ はその由来 ゆらい を説明 せつめい している。なお、torpedoは現代 げんだい では魚雷 ぎょらい を意味 いみ するが、この海戦 かいせん の当時 とうじ は機雷 きらい を指 さ した)
本 ほん 海戦 かいせん の最 もっと も有名 ゆうめい な逸話 いつわ として次 つぎ のものがある。テクムセ が前 まえ を横切 よこぎ ったためにブルックリン が減速 げんそく したところ、ファラガットは何故 なぜ 前進 ぜんしん しないのかと尋 たず ねた。これに対 たい し進路 しんろ に機雷 きらい があると答 こた えたところ、ファラガットは「機雷 きらい がなんだ」と言 い ったというのである。この話 はなし が初 はじ めて出版 しゅっぱん 物 ぶつ に現 あらわ れたのは海戦 かいせん から何 なん 年 ねん か後 ご のことなので、一部 いちぶ の歴史 れきし 家 か は実話 じつわ かどうか疑 うたが っている[ 51] 。
伝承 でんしょう には何 なん 通 とお りかあるが、中 なか にはありそうにないものもある。最 もっと も広 ひろ まった話 はなし はブルックリン に向 む かって「機雷 きらい がなんだ! 前進 ぜんしん !」と叫 さけ んだというものだが、現場 げんば に居 い た人々 ひとびと によれば、大砲 たいほう の騒音 そうおん の中 なか でそのような会話 かいわ が聞 き こえたか疑 うたが わしいという。もっとありそうな話 はなし としては、もし事実 じじつ とすれば、ハートフォード の艦長 かんちょう に「機雷 きらい がなんだ。鐘 かね 4打 だ だ、ドレイトン艦長 かんちょう 」と言 い ったというものである[ 52] 。その後 ご ファラガットはハートフォード の舷側 げんそく に繋留 けいりゅう されたメタコメット の艦長 かんちょう に向 む かい「前進 ぜんしん だ、ジュエット (英語 えいご 版 ばん ) 、全 ぜん 速 そく だ」と叫 さけ んだ。これらの言葉 ことば が時 とき を経 へ て変化 へんか し「機雷 きらい がなんだ、全 ぜん 速 そく 前進 ぜんしん 」という今日 きょう 良 よ く知 し られる形 かたち になった[ 53] 。
この戦闘 せんとう の前 まえ まで陸軍 りくぐん と海軍 かいぐん は全 まった く異 こと なる信号 しんごう 方式 ほうしき を採 と っていた。海軍 かいぐん は色付 いろづけ の旗 はた で通信 つうしん 文 ぶん を分割 ぶんかつ 送信 そうしん してから解読 かいどく するという面倒 めんどう な方式 ほうしき であり、陸軍 りくぐん はアルバート・J・マイアー 大佐 たいさ が最近 さいきん 開発 かいはつ した遙 はる かに単純 たんじゅん なウィグワグ と呼 よ ばれる手旗 てばた 信号 しんごう を実験 じっけん していた。艦隊 かんたい がモービル湾 わん で安全 あんぜん を確保 かくほ した後 のち で岸 きし にいる陸軍 りくぐん と通信 つうしん する目的 もくてき で、設立 せつりつ 間 あいだ もない信号 しんごう 司令 しれい 部 ぶ から陸軍 りくぐん の信号 しんごう 兵 へい が派出 はしゅつ され、ファラガット艦隊 かんたい の主要 しゅよう 艦船 かんせん に乗 の り組 く んだ[ 54] 。この信号 しんごう 兵 へい は必要 ひつよう とされるまで邪魔 じゃま にならないよう待機 たいき することになっており、例 たと えばハートフォード では軍医 ぐんい の助手 じょしゅ として甲板 かんぱん の下 した に配置 はいち された。
ブルックリン がテクムセ と機雷 きらい 原 ばら の困難 こんなん に遭遇 そうぐう したとき、ブルックリン のアベリー艦長 かんちょう は命令 めいれい の明確 めいかく 化 か に関 かん して海軍 かいぐん 信号 しんごう の伝達 でんたつ 速度 そくど に不満 ふまん を覚 おぼ え、陸軍 りくぐん の信号 しんごう 兵 へい に頼 たの んで質問 しつもん を旗艦 きかん に送 おく らせた。これを受信 じゅしん するためハートフォード 側 がわ でも陸軍 りくぐん 兵 へい が甲板 かんぱん に呼 よ び出 だ され、以後 いご 戦 たたか いが終 お わるまでそこに留 とど まった[ 55] 。彼 かれ らの貢献 こうけん は後 のち にファラガットから感謝 かんしゃ された[ 56] 。
モーガン砦 とりで が降伏 ごうぶく した後 のち 、北 きた 軍 ぐん はそこの大砲 たいほう が全 すべ て釘 くぎ 止 と めされており、砲 ほう 架 か や物資 ぶっし が破壊 はかい されていることが分 わ かった。その損傷 そんしょう の多 おお くは白旗 はっき が揚 あ げられている間 あいだ に成 な されたと考 かんが える者 もの がいた。それは当時 とうじ 理解 りかい されていた戦争 せんそう のルールに違背 いはい するものだった。この信念 しんねん が強 つよ かったキャンビー少将 しょうしょう は正式 せいしき な告発 こくはつ を行 おこな い、ペイジはニューオーリンズで裁判 さいばん に掛 か けられ、3人 にん の委員 いいん 会 かい が告発 こくはつ 内容 ないよう を検討 けんとう した。その証拠 しょうこ を照査 しょうさ した裁判所 さいばんしょ は告発 こくはつ された内容 ないよう でペイジが無罪 むざい だと判断 はんだん した[ 57] 。
モービル湾 わん の海戦 かいせん は南北戦争 なんぼくせんそう における陸軍 りくぐん の標準 ひょうじゅん からはそれほど流血 りゅうけつ の多 おお いものでは無 な かったが、海軍 かいぐん の標準 ひょうじゅん からはそうだった。少 すく なくともニューオーリンズのジャクソン砦 とりで およびセントフィリップ砦 とりで の戦 たたか いや、ハンプトン・ローズの海戦 かいせん よりは流血 りゅうけつ の少 すく ないものだった。北 きた 軍 ぐん 艦隊 かんたい は150名 めい が戦死 せんし し、170名 めい が負傷 ふしょう した。一方 いっぽう 南 みなみ 軍 ぐん は12名 めい が戦死 せんし し、19名 めい が負傷 ふしょう しただけだった[ 58] 。北 きた 軍 ぐん の陸軍 りくぐん は損失 そんしつ が非常 ひじょう に軽 かる かった。モーガン砦 とりで 包囲 ほうい 戦 せん では1名 めい のみが戦死 せんし し、7名 めい が負傷 ふしょう した[ 59] 。南 みなみ 軍 ぐん の損失 そんしつ は明白 めいはく になっていないが、僅 わず かに多 おお い程度 ていど と考 かんが えられている[ 60] 。
モービル市 し の近 ちか くに北 きた 軍 ぐん が居 い 続 つづ けることで南 みなみ 軍 ぐん 最後 さいご の絶望 ぜつぼう 的 てき な作戦 さくせん に影響 えいきょう した。モーリーは自軍 じぐん に対抗 たいこう する勢力 せいりょく が攻撃 こうげき には不向 ふむ きだと理解 りかい したが、モービル市 し を失 うしな うことになれば、大衆 たいしゅう の士気 しき に大 おお きな打撃 だげき となるので、大砲 たいほう や予備 よび 部隊 ぶたい を他 た の任務 にんむ 支援 しえん に送 おく ろうとはしなかった[ 61] 。
このことは、当時 とうじ アトランタ方面 ほうめん 作戦 さくせん を実行 じっこう 中 ちゅう の北 きた 軍 ぐん ウィリアム・シャーマン 少将 しょうしょう にとって特 とく に重要 じゅうよう だった。モービル市 し がまだ征服 せいふく されずに残 のこ っているので、ファラガットの勝利 しょうり の意義 いぎ は北部 ほくぶ の世論 せろん にそれほどの影響 えいきょう を与 あた えていなかった。時 じ が過 す ぎて、その後 ご の北 きた 軍 ぐん による勝利 しょうり が加 くわ わると、戦争 せんそう は終息 しゅうそく に向 む かっており、この戦闘 せんとう の意義 いぎ が大 おお きくなっていった。
アトランタが陥落 かんらく すると、歴史 れきし 家 か ジェイムズ・M・マクファーソンの言葉 ことば では、「モービル湾 わん の勝利 しょうり を思 おも い返 かえ し、致命 ちめい 的 てき なワンツー・パンチの最初 さいしょ の打撃 だげき として突然 とつぜん 新 あら たな重要 じゅうよう 性 せい を帯 お びてきた」としている[ 62] 。北部 ほくぶ の暗雲 あんうん が晴 は れ、戦争 せんそう 継続 けいぞく の住民 じゅうみん 投票 とうひょう と見 み なされていたエイブラハム・リンカーン大統領 だいとうりょう の再選 さいせん を確 たし かなものにした。
モーガン砦 とりで を占領 せんりょう してモービル湾 わん 下流 かりゅう に対 たい する作戦 さくせん は完了 かんりょう した。キャンビーとファラガットは既 すで にドーフィン島 とう に上陸 じょうりく する前 まえ に、モービル市 し を攻撃 こうげき できる戦力 せんりょく は持 も っていないと判断 はんだん していた。さらにテネシー を下流 かりゅう まで持 も ってくるために苦心 くしん したドッグ川 がわ 砂州 さす があり、ファラガット艦隊 かんたい が上流 じょうりゅう に行 い くことを妨 さまた げていた。実際 じっさい にモービル市 し が陸海 りくかい 協 きょう 働 はたらけ 攻撃 こうげき に屈 くっ したのは1865年 ねん 4月 がつ のことであり、このときファラガットはヘンリー・K・サッチャー少将 しょうしょう と交替 こうたい していた。モービル市 し は戦争 せんそう の最後 さいご の日々 ひび に陥落 かんらく した[ 63] 。
南北戦争 なんぼくせんそう 期 き の戦闘 せんとう とその後 ご の経過 けいか で多 おお くの難船 なんせん が湾 わん の中 なか に今 いま でも残 のこ っている。例 たと えば、アメリカンダイバー 、CSSゲインズ 、CSSハンツビル 、USSフィリッピ 、CSSフェニックス 、USSランドルフ 、USSテクムセ 、CSSタスカルーサ である[ 64] 。
^ ORA I, v. 39/1, p. 402. The start date is formal; it is the day the landing force went aboard their transports. The first day of contact between opposing forces was August 4.
^ Sometimes spelled Dauphine in contemporary accounts.
^ Grant Pass in present-day nomenclature.
^ Wise, Lifeline of the Confederacy, p. 20. Kinney, Battles and leaders, v. 4, p. 384, map .
^ Luraghi, History of the Confederate Navy, p. 187. ORA I, v. 6, pp. 398, 826, 835.
^ The only other remaining port was St. Marks, Florida, which was too small for most steamships, and furthermore lacked rail connections with the interior. See Wise, Lifeline of the Confederacy, pp. 80–81.
^ Wise, Lifeline of the Confederacy, pp, 168–180; appendices 11–14.
^ Scharf, History of the Confederate States Navy, pp. 537–549.
^ Scharf, History of the Confederate States Navy, pp. 790–791.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 51. Kinney, Battles and leaders, v. 4, p. 385.
^ ORN I, v. 21, p. 528. The piles also thwarted early CS Navy plans for cooperation between the defenses of Mobile and New Orleans. See Still, Iron afloat, p. 189.
^ Faust, Encyclopedia of the Civil War, entry for Fort Morgan.
^ ORA I, v. 39/1, pp. 419–420.
^ Maury's report, ORA I, v. 39/1, p. 417. Canby asserted in his report (ORA I, v. 39/1, p. 403) that 818 enlisted men and 46 officers were captured with the surrender of Fort Gaines; this number is quoted by Friend, West wind, flood tide, p. 156. The discrepancy may be caused by the failure of Maury to include in his accounting reinforcements he rushed to the fort when he thought that the invaders could be repulsed (ORA I, v. 39/1, p. 417). On the other hand, all such numbers in the Civil War are unreliable.
^ ORA I, v. 39/1, p. 441.
^ Friend, West wind, flood tide, pp. 74–75, 120–122. ORA I, v. 39/1, pp. 410, 411.
^ Friend, West wind, flood tide, pp. 57–58. ORN I, v. 21, p. 364. ORA I, v. 39/1, p. 414.
^ Friend, West wind, flood tide, pp. 137–139. ORA I, v. 39/1, p. 433.
^ Friend, West wind, flood tide, pp. 67, 125. ORN I, v. 21, p. 373.
^ Opposing forces (Confederate), Battles and leaders, v. 4, p. 400.
^ Johnston, Battles and leaders, v. 4, p. 401. But see Still, Iron afloat, p. 196.
^ Still, Iron afloat, , p. 190. Another tie between Tennessee and Virginia is that Chief Naval Constructor John L. Porter was active in the design of each. This is not surprising, as most Confederate ironclads were prepared from Porter's basic designs. See Still, p. 94.
^ Still, Iron afloat, p. 202.
^ Early in the war, Alabama had acquired steamer Baltic and converted her into an ironclad ram, to serve in and near Mobile Bay. She was never effective, however, and her armor was removed to be used on another vessel, CSS Nashville : Still, Iron afloat, pp. 80–81, 192.
^ Cahore, Naval campaigns of the Civil War, p. 187.
^ Still, Iron afloat, pp. 190–196.
^ Battles and leaders, v. 2, p. 74.
^ Tucker, Blue and gray navies, p. 37.
^ Opposing forces (Union), Battles and leaders, v. 4, p. 400
^ Friend, West wind, flood tide, p. 76. ORN I, v. 21, pp. 380, 388.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 76. Kinney, Battles and leaders, v. 4, p. 381.
^ ORN I, v. 21, p. 416.
^ Farragut had tried to pass the Confederate works at Port Hudson on March 14, 1863, in support of the Vicksburg campaign. Although only two of his seven ships got through, the attempt was regarded as a success. See Anderson, By sea and by river, p. 145.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 154. ORN I, v. 21, pp. 416–417.
^ ORN I, v. 21, p. 403.
^ Calore, Naval campaigns of the Civil War , p. 189.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 166. ORN I, v. 21, p. 415–418.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 168. ORN I, v. 21, p. 418. The disposition of the Confederate ships was in what would come to be known as "crossing the T."
^ In an early account of the battle, Rear Admiral Foxhall A. Parker speculated that the poor steering of his monitor forced Craven's hand; see Friend, West wind, flood tide, p. 178.
^ Duffy, Lincoln's admiral, pp. 240–248.
^ Anderson, By sea and by river, pp. 242–243.
^ ORN I, v. 21, p. 418.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 219–221. ORN I, v. 21, p. 419.
^ Friend, West wind, flood tide, pp. 228–229. ORA I, v. 39/1, p. 436.
^ ORA I, v. 39/1, p. 410.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 236. ORA I, v. 39/1, pp. 417–418.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 239. ORA I, v. 39/1, pp. 411–414.
^ Page, Battles and leaders, v. 4, pp. 408–410. Friend, West wind, flood tide, pp. 239–240.
^ Duffy, Lincoln's admiral, p. 243.
^ Watson, Battles and leaders, v. 4, p. 407.
^ Anderson, By sea and by river, , p. 242.
^ "鐘 がね 4打 だ "は機関 きかん 室 しつ に全 ぜん 速 そく を要求 ようきゅう する合図 あいず である. Friend, West wind, flood tide, p. 187.
^ Duffy, Lincoln's admiral, pp. 247–248.
^ Friend, West wind, flood tide, pp. 124, 178. ORN I, v. 21, p. 525.
^ Kinney, Battles and leaders, v. 4, pp. 379–400. Friend, West wind, flood tide, pp. 123–124, 170, 217–218.
^ ORN I, v. 21, p. 518.
^ Friend, West wind, flood tide, p. 251. ORA I, v. 39/1, p. 405.
^ Musicant, Divided waters, p. 324.
^ ORA I, v. 39/1, p. 404.
^ Page, Battles and leaders, v. 4, p. 410.
^ ORA I, v. 39/1, p. 428.
^ McPherson, Battle cry of freedom, p. 775.
^ Faust, Encyclopedia of the Civil War , entry "Mobile, Siege of."
^ Gaines, W. Craig (2008). Encyclopedia of Civil War Shipwrecks . LSU Press. pp. 1–8. ISBN 978-0-8071-3274-6
Anderson, Bern, By Sea and by River: The Naval History of the Civil War. Alfred A. Knopf, 1962; reprint, Da Capo. ISBN 0-306-80367-4
Calore, Paul, Naval Campaigns of the Civil War. Jefferson, N. C.:McFarland, 2002. ISBN 978-0-7864-1217-4
Duffy, James P., Lincoln's Admiral: The Civil War Campaigns of David Farragut. Wiley, 1997. ISBN 0-471-04208-0
Faust, Patricia L., Historical Times Illustrated Encyclopedia of the Civil War. Harper and Rowe, 1986. ISBN 0-06-181261-7
Friend, Jack, West Wind, Flood Tide: The Battle of Mobile Bay. Annapolis: Naval Institute Press, 2004. ISBN 978-1-59114-292-8
Johnson, Robert Underwood and Clarence Clough Buel, eds. Battles and Leaders of the Civil War. Century, c. 1894. Reprint ed., Castle, n.d.
Johnston, James D., "The Ram 'Tennessee' at Mobile Bay." Vol. 4, pp. 401–406.
Kinney, John Coddington, "Farragut at Mobile Bay." Vol. 4, pp. 379–400.
Marston, Joseph, "The lashing of Admiral Farragut in the rigging." Vol. 4, pp. 407–408.
Page, Richard L., "The Defense of Fort Morgan." Vol. 4, pp. 408–410.
Watson, J. Crittenden, "The lashing of Admiral Farragut in the rigging." Vol. 4, pp. 406–407.
Levin, Kevin M., "Mobile Bay", Encyclopedia of the American Civil War: A political, Social, and Military History , Heidler, David S., and Heidler, Jeanne T., eds. W. W. Norton & Company, 2000. ISBN 0-393-04758-X .
Luraghi, Raimondo, A History of the Confederate Navy. Annapolis, Md.: Naval Institute Press, 1996. ISBN 1-55750-527-6
McPherson, James M., Battle cry of freedom. Oxford University Press, 1988. ISBN 0-19-503863-0
Musicant, Ivan, Divided waters: the naval history of the Civil War. HarperCollins, 1995. ISBN 0-06-016482-4
Scharf, J. Thomas, History of the Confederate States Navy from its organization to the surrender of its last vessel; etc. New York, Rogers & Sherwood, 1887; reprint, Gramercy, 1996.
Simson, Jay W., Naval Strategies of the Civil War: Confederate Innovations and Federal Opportunism. Nashville, Tenn.: Cumberland House, 2001. ISBN 1-58182-195-6
Still, William N. Jr. Iron Afloat: The Story of the Confederate Armorclads. Vanderbilt University Press, 1971. Reprint, University of South Carolina Press, 1985. ISBN 0-87249-454-3
Tucker, Spencer, Blue & Gray Navies: The Civil War Afloat. Naval Institute Press, 2006. ISBN 1-59114-882-0
United States. Naval History Division, Civil War Naval Chronology, 1861–1865. U.S. Government Printing Office, 1961–65.
Wise, Stephen R., Lifeline of the Confederacy: Blockade Running During the Civil War. University of South Carolina Press, 1988. ISBN 0-87249-554-X
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 30度 ど 14分 ふん 28秒 びょう 西経 せいけい 88度 ど 03分 ふん 11秒 びょう / 北緯 ほくい 30.240976度 ど 西経 せいけい 88.053017度 ど / 30.240976; -88.053017
軍隊 ぐんたい - 戦線 せんせん - 作戦 さくせん - 戦 たたか い - 州 しゅう
カテゴリ