アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく歴史れきし (1789-1849)

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本稿ほんこうでは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくの1789ねんから1849ねん歴史れきし(アメリカがっしゅうこくの1789ねんから1849ねんのれきし)をあつかう。この時代じだいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは、1789ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう制定せいてい以降いこう主権しゅけん国家こっかとしての体制たいせいととのえる一方いっぽうで、ルイジアナ買収ばいしゅうべいえい戦争せんそうモンロー主義しゅぎべいぼく戦争せんそうなどしょ外国がいこくとの交渉こうしょう紛争ふんそうて、西方せいほう領土りょうど拡張かくちょうしていった。国内こくないでは南北なんぼくあいだ格差かくさひろがり、奴隷どれい制度せいどという火種ひだねにより党派とうはあいだ闘争とうそう激化げきかし、南北戦争なんぼくせんそうへのみちあゆむことになった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大国たいこくになる基盤きばんがこの時代じだいつくられた。

1789ねん初代しょだいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうとしてジョージ・ワシントン選出せんしゅつしたのちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい政府せいふ機能きのうさせるためのおおくの法律ほうりつ通過つうかさせ、あたらしいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう修正しゅうせい条項じょうこうというかたち権利けんり章典しょうてん採択さいたくした。

ワシントンは行政府ぎょうせいふ様々さまざま部局ぶきょく設立せつりつさせた。議会ぎかい司法しほう制度せいどほう可決かけつし、最高裁さいこうさいふく連邦れんぽう司法しほう制度せいど確立かくりつした。

1803ねんのルイジアナ買収ばいしゅうにより、西部せいぶ農夫のうふたちミシシッピがわ重要じゅうよう水路すいろとして使つかうことが可能かのうとなり、西部せいぶ辺境へんきょうからフランスじんすことで広大こうだい農地のうち利用りよう可能かのうとなった。合衆国がっしゅうこく指導しどうしゃは「大国たいこく」の展望てんぼうえがくようになった。

1812ねんはじまったべいえい戦争せんそう主権しゅけん国家こっかとしての合衆国がっしゅうこく確立かくりつさせ、イギリス干渉かんしょうしにしょ事情じじょうあつかえるようになった。べいえい戦争せんそう終焉しゅうえんとともに、イギリスとミシシッピがわ以東いとうアメリカ・インディアンとの同盟どうめいくなり、白人はくじん開拓かいたくしゃはミシシッピがわ以西いせいのインディアンの土地とちまで進出しんしゅつするようになった。1830年代ねんだい連邦れんぽう政府せいふ南東なんとうのインディアン種族しゅぞく不毛ふもう西部せいぶ領土りょうど強制きょうせいてき移動いどうさせた。

アメリカじんくに境界きょうかいえてきたアメリカ拡大かくだいしていく権利けんりについてなに疑問ぎもんいだかなかった。1840年代ねんだいなかば、合衆国がっしゅうこく拡張かくちょう主義しゅぎは「明白めいはく運命うんめい」("Manifest Destiny")という言葉ことばあらわされた。1846ねん5月、議会ぎかいはメキシコにたいする宣戦せんせん布告ふこくおこなった。このべいぼく戦争せんそう勝利しょうりし、1848ねんグアダルーペ・イダルゴ条約じょうやくで、リオグランデがわ境界きょうかいとするテキサスカリフォルニアアリゾナニューメキシコおよびユタコロラド一部いちぶ獲得かくとくした。

それにつづく13年間ねんかんは、西部せいぶ領土りょうど合衆国がっしゅうこくしゅうにしようという願望がんぼうは、北部ほくぶ南部なんぶ奴隷どれい制度せいど拡張かくちょうめぐ党派とうはてき緊張きんちょう関係かんけい左右さゆうさせるものとして、政争せいそう焦点しょうてんとなっていった。

連邦れんぽう主義しゅぎ時代じだい[編集へんしゅう]

ワシントンの任期にんき 1789ねん-1797ねん[編集へんしゅう]

ジョージ・ワシントン

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう有名ゆうめい英雄えいゆう大陸たいりくぐんそう司令しれいかんおよびフィラデルフィア憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ議長ぎちょうであったジョージ・ワシントンが、あたらしい合衆国がっしゅうこく憲法けんぽうした初代しょだい大統領だいとうりょうとなった。

ワシントンは当時とうじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政治せいじもっと人気にんき人物じんぶつであり、「建国けんこくちち」と宣言せんげんされ、1789ねんだい1かい大統領だいとうりょう選挙せんきょ実質じっしつじょう反対はんたいしで当選とうせんした。議会ぎかい選挙せんきょじん投票とうひょうでは全会ぜんかい一致いっちえらばれたが、全会ぜんかい一致いっちというのはそれ以後いごいちい。ワシントンの選出せんしゅつ一般いっぱん投票とうひょうかった。

ワシントン大統領だいとうりょうもとで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうだい1じょうだい2せつ要求ようきゅうたすため、1790ねんだいいちかいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国勢調査こくせいちょうさおこなわれた。この国勢調査こくせいちょうさ結果けっかにより、各州かくしゅう下院かいん選挙せんきょかずめられ、かく選挙せんきょから1人ひとり下院かいん議員ぎいんえらばれた。

議会ぎかい1789ねん司法しほう制度せいどほう可決かけつし、連邦れんぽう司法しほう制度せいど全体ぜんたい確立かくりつした。同時どうじにこのほう最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじを6にんとし、3つの巡回じゅんかい裁判所さいばんしょ、13の地方裁判所ちほうさいばんしょさだめた。また、連邦れんぽう保安ほあんかん保安ほあんかんおぎなえ、および地区ちく検事けんじ創出そうしゅつした。さらに、州法しゅうほう連邦れんぽうほうちがった場合ばあいしゅう連邦れんぽう政府せいふあいだ調停ちょうていするものとして最高さいこう裁判所さいばんしょつくった。1790ねん妥協だきょうによって、くに首都しゅと南部なんぶのメリーランドしゅう現在げんざいのコロンビア特別とくべつ)につくることをめ(首都しゅと立地りっちほう)、しゅう負債ふさい連邦れんぽう政府せいふ肩代かたがわりすることを可能かのうにした[1]

1794ねんペンシルベニアしゅう西部せいぶのモノンガヘラ渓谷けいこく開拓かいたくしゃ蒸留酒じょうりゅうしゅたいする連邦れんぽう課税かぜいたいして反抗はんこうした、いわゆるウィスキーぜい反乱はんらんは、連邦れんぽう政府せいふため最初さいしょ機会きかいになった。ワシントンは連邦れんぽう保安ほあんかんたいし、ぜい反対はんたいするものたち連邦れんぽう地区ちく裁判所さいばんしょ出頭しゅっとうするように裁判所さいばんしょ命令めいれいくだすのをたすけることをめいじた。8がつまでに抗議こうぎ運動うんどう反乱はんらんちか危険きけんなものになり、8がつ7にちすうせん武装ぶそうした開拓かいたくしゃピッツバーグちかくにあつまった。ワシントンは1792ねん民兵みんぺいほう適用てきようし、いくつかのしゅうから民兵みんぺいあつめた。独立どくりつ戦争せんそうぜんぐんにほぼひとしい13,000めい軍隊ぐんたい組織そしきされた。この軍隊ぐんたい西にしペンシルベニアに行軍こうぐんし、すみやかに反乱はんらん鎮圧ちんあつした。反乱はんらん指導しどうしゃ2にん反逆はんぎゃくざい起訴きそされたが、ワシントンにゆるされた。この反応はんのうあたらしい憲法けんぽう連邦れんぽう政府せいふ強力きょうりょく軍事ぐんじりょく使つかって国民こくみんにその権力けんりょく行使こうしした最初さいしょのこととなった。ウィスキーぜいは、あまり成功せいこうおさめないまま、1802ねん撤廃てっぱいされた。

ワシントンの2にわたる任期にんきちゅうおおきな政策せいさく決定けっていには、大統領だいとうりょう顧問こもんだん2人ふたりかかわった。財務ざいむ長官ちょうかんとしてのアレクサンダー・ハミルトン国務こくむ長官ちょうかんとしてのトマス・ジェファーソンである。この二人ふたりは、それぞれ連邦れんぽうとう民主みんしゅ共和党きょうわとうという党派とうは形成けいせいかかわったように政治せいじてきかんがかたことにしていた。ワシントンはその退任たいにん演説えんぜつ政党せいとうそのものに警告けいこくはっしていたが、その任期にんきわりころはワシントンが連邦れんぽう主義しゅぎものだとかんるものがおおかった。ウィスキーぜい反乱はんらんさえたやりかたにこの傾向けいこうあらわれている。

ワシントンは、外交がいこうてきには中立ちゅうりつ政策せいさくつらぬこうとねがっていたが、合衆国がっしゅうこく成長せいちょうするにつれて外交がいこう問題もんだいえていった。

アダムズの任期にんき 1797ねん-1801ねん[編集へんしゅう]

ジョン・アダムズ
アレクサンダー・ハミルトン

ワシントンは、くに元首げんしゅとして8年間ねんかん以上いじょうつかえることをかた辞退じたいし、1797ねん辞任じにんした。ふく大統領だいとうりょうだったジョン・アダムズあらたに大統領だいとうりょうえらばれた。アダムズは就任しゅうにんまえからハミルトンと喧嘩けんかしており、たもとかった連邦れんぽうとうという重荷おもに背負せおうことになった。

国内こくない政局せいきょくむずかしさにくわえて、国際こくさい関係かんけい複雑ふくざつになった。ジョン・ジェイがこのころイギリスとむすんだ条約じょうやくフランスおこらせ、フランスは、てきみなとけた食料しょくりょう陸海りくかいぐん用品ようひん押収おうしゅう対象たいしょうとなるというイギリスの論法ろんぽうもちいた。1797ねんまでにフランスは300せきのアメリカせん押収おうしゅうし、合衆国がっしゅうこくとの外交がいこう関係かんけいこわした。アダムズが交渉こうしょうのために3めい代表だいひょうパリおくると、外務がいむ大臣だいじんシャルル・モーリス・ド・タレイラン(アダムズは議会ぎかいたいする報告ほうこくでタレイランを"X, Y and Z"と名付なづけた)の代理人だいりにんは、合衆国がっしゅうこくがフランスに1せん2ひゃくまんドルをけ、フランス政府せいふ役人やくにん賄賂わいろおくれば、交渉こうしょうおうじるとつたえた。フランスにたいするアメリカの敵意てきいがった。いわゆるXYZ事件じけん軍隊ぐんたい徴兵ちょうへい巣立すだちしたばかりのアメリカ海軍かいぐん強化きょうかにつながった。

1799ねん擬似ぎじ戦争せんそうとしてられるフランスとの一連いちれん海戦かいせんのち戦争せんそうけられないようにおもわれた。この危機ききにあって、アダムズは戦争せんそうかおうというハミルトンの忠告ちゅうこく無視むしし、あらたに3にん代表だいひょうをフランスにおくった。あらたに権力けんりょくたばかりのナポレオン代表だいひょうだん丁重ていちょうむかえ、交渉こうしょうによって紛争ふんそう危険きけんせい回避かいひされた。公式こうしきには1778ねんのフランスとの軍事ぐんじ同盟どうめいから解放かいほうされることにもなった。しかし、フランスはアメリカのよわみにんで、海軍かいぐん捕獲ほかくしたアメリカせんたいする代償だいしょう2せんまんドルの支払しはらい拒否きょひした。

フランスにたいする敵意てきいと、国内こくないでは連邦れんぽうとう多数たすうめる議会ぎかい対処たいしょするため、アダムズはアメリカ市民しみん自由じゆうにもおおきく影響えいきょうする外国がいこくじん治安ちあん諸法しょほう署名しょめいした。市民しみんけん取得しゅとくのために必要ひつよう居住きょじゅう期間きかんを5ねんから14ねんげたが、これは民主みんしゅ共和党きょうわとう支持しじしゃにはなりそうにないアイルランドとフランスの移民いみん目標もくひょうにしたさくだった。外国がいこくじんほうはほんの2年間ねんかん有効ゆうこうであったにぎないが、大統領だいとうりょう戦時せんじ外人がいじん排除はいじょまたは投獄とうごくする権限けんげんあたえた。治安ちあんほうでは、大統領だいとうりょうあるいは議会ぎかいたいして「いつわりの、中傷ちゅうしょうてきなおよび悪意あくいのある」もの演説えんぜつあるいは出版しゅっぱんきんじた。治安ちあんほうもとづく有罪ゆうざい判決はんけつ市民しみん自由じゆうたいして犠牲ぎせいしゃることになり、民主みんしゅ共和党きょうわとうたいする支持しじりつがった。

これらのほう抵抗ていこうされた。ジェファーソンとジェームズ・マディソン1798ねん11月12にちに、ケンタッキーしゅうバージニアしゅう議員ぎいんから提案ていあんされた決議けつぎあん通過つうかたすけた。これはしゅう連邦れんぽう政府せいふ行動こうどう異議いぎはさみ、これを無効むこうできるというものだった。無効むこう原理げんりのちに、関税かんぜい奴隷どれい制度せいど問題もんだい北部ほくぶ対抗たいこうして南部なんぶしょしゅうがその利益りえきまもるために使つかわれることになった。

トマス・ジェファーソン[編集へんしゅう]

トマス・ジェファーソン

1800ねん、アメリカじん変化へんか準備じゅんびができていた。ワシントンとアダムズのもとで、連邦れんぽう主義しゅぎしゃつよ政府せいふつくったが、ときにはアメリカ政府せいふ人民じんみん意志いし敏感びんかんでなければならないという原則げんそくはんすることもあり、多数たすうのアメリカじんうとんじる政策せいさく実行じっこうしてきた。たとえば1798ねん国債こくさい陸海りくかいぐんへの支払しはらいのために、アダムズと連邦れんぽう主義しゅぎしゃ家屋かおく土地とち奴隷どれいたいする税金ぜいきん法制ほうせい財産ざいさんのあるあらゆるもの影響えいきょうあたえることになった。わるいことに、ぜいかかわる暴動ぼうどう暴徒ぼうと脱税だつぜいしゃ監獄かんごくからがした)ののちで、アダムズはぐんめいじて税金ぜいきんあつめさせた。ぐんたたか相手あいてつからず、民主みんしゅ共和党きょうわとういん連邦れんぽう主義しゅぎしゃ専制せんせいれいをこの行動こうどうなか見出みいだすことになった。

ジェファーソンは小農しょうのう商店しょうてんぬしなどの労働ろうどうしゃだい集団しゅうだん確実かくじつ支持しじしゃとしてあつめ、その支持しじしゃ自分じぶんたちのことを1800ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ民主みんしゅ共和党きょうわとういんだと主張しゅちょうした。ジェファーソンはアメリカじん理想りそう主義しゅぎうったえたために特別とくべつ恩恵おんけいこうむることになった。しん首都しゅとワシントンD.C.最初さいしょのものとなったジェファーソンの就任しゅうにん演説えんぜつでは、住民じゅうみんあいだ秩序ちつじょたもつために「かしこ質素しっそ政府せいふ」を約束やくそくしたが、「一方いっぽう住民じゅうみん産業さんぎょう従事じゅうじしまた改善かいぜんくわえることを自由じゆう統制とうせいできる」とした。

ジェファーソンは民主みんしゅてき手続てつづきを奨励しょうれいした。部下ぶかには自分じぶんたちのことをたんなる民衆みんしゅう信託しんたくじんなすようおしえた。さらに重要じゅうようなことに、ジェファーソン崇拝すうはいしゃ熱情ねつじょうなみくにちゅう席捲せっけんするにつれて、各州かくしゅう次々つぎつぎ保有ほゆう資産しさんによる選挙せんきょけん制度せいど廃止はいしし、負債ふさいしゃ犯罪はんざいしゃたいするより人道的じんどうてき法律ほうりつ制定せいていした。

ルイジアナ買収ばいしゅうべいえい戦争せんそう[編集へんしゅう]

1770ねんから1840ねんのアメリカ経済けいざい成長せいちょう

1803ねんのルイジアナ買収ばいしゅうにより、西部せいぶ農夫のうふたちはミシシッピがわ重要じゅうよう水路すいろとして使つかうことが可能かのうとなり、合衆国がっしゅうこく西部せいぶ辺境へんきょうからフランスじんすことで開拓かいたくしゃ広大こうだい農地のうち拡張かくちょう可能かのうとなった。ジェファーソンはルイジアナ買収ばいしゅうし、そのルイス・クラーク探検たんけんたいによって、農業のうぎょう西方せいほうへの拡大かくだい奨励しょうれいした。

そのすう週間しゅうかんにイギリスとナポレオンのフランスとのあいだ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。合衆国がっしゅうこくはヨーロッパへの農産のうさんひん輸出ゆしゅつたよっていたので、戦争せんそうをしているりょう大国たいこく食料しょくりょう原材料げんざいりょう輸出ゆしゅつし、国内こくない市場いちばカリブ海かりぶかい植民しょくみんあいだ商品しょうひん輸送ゆそうすることから利益りえきそうとした。りょう大国たいこくとも利益りえきつながるときはこの貿易ぼうえき支持しじし、そうでないとき反対はんたいした。

べいえい戦争せんそうにおけるエリー湖上こじょうせん

1805ねんトラファルガーの海戦かいせんでフランス海軍かいぐんやぶれると、イギリスはフランスの海洋かいよう貿易ぼうえきけを実施じっしした。またアメリカのフランス貿易ぼうえきたいする報復ほうふく措置そちとして、ゆる海上かいじょう封鎖ふうさ実施じっしした。

海外かいがいでは海運かいうん利益りえき保護ほごするために、きたアフリカだいいちバーバリ戦争せんそう (1801-1805)をたたかった。だいバーバリ戦争せんそうは1815ねんこった。

議会ぎかいとジェファーソンは、イギリスが合衆国がっしゅうこく以外いがいから食料しょくりょうけることはないだろうとしんじて、1807ねん通商つうしょう禁止きんしほうにより外国がいこくとの貿易ぼうえき中断ちゅうだんし、イギリスがアメリカ海岸かいがんでの海上かいじょう封鎖ふうさくことを期待きたいした。しかし、イギリスが食料しょくりょう供給きょうきゅうげん見出みいだしたために、通商つうしょう禁止きんしほうはアメリカの農業のうぎょう輸出ゆしゅつ壊滅かいめつさせ、アメリカのみなとちからよわらせた。

ジェファーソンの2任期にんきおわりまでに、財務ざいむ長官ちょうかんアルバート・ギャラティンとも国債こくさいを5おく6せんまんドルまでらした。このことは、行政府ぎょうせいふ雇員こいん陸海りくかいぐん士官しかん徴兵ちょうへいした兵士へいしかずらし、政府せいふ軍隊ぐんたい費用ひよう節減せつげんすることでげられた。ジェファーソンはアメリカが抑圧よくあつされた人々ひとびとにとっては天国てんごくであるとしんじ、市民しみんけんるための居住きょじゅう期間きかんふたたび5年間ねんかんらした。

マディソンの時代じだい[編集へんしゅう]

ジェームズ・マディソンは、イギリスとフランスがアメリカとの戦争せんそう瀬戸際せとぎわにあったとき外交がいこうてき手腕しゅわん発揮はっきしたので、1808ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ勝利しょうりし、だい4だい大統領だいとうりょうとなった。マディソンはぐに通商つうしょう禁止きんしほう廃止はいししアメリカの海港かいこうかえらせた。

1800ねん-10ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく拡張かくちょう

アメリカの海運かいうんたいするイギリスの干渉かんしょうつづき(アメリカの水夫すいふのイギリス海軍かいぐんへの強制きょうせい徴募ちょうぼふくむ)、また北西ほくせい領土りょうどにおいてアメリカ・インディアンにたいするイギリスの援助えんじょつづいていたことへの対応たいおうとして、だい12アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい南部なんぶ西部せいぶのジェファーソン崇拝すうはいしゃ支持しじされて1812ねんにイギリスにたいする宣戦せんせん布告ふこくした。南部なんぶ西部せいぶみんもっと熱心ねっしん戦争せんそう支持しじし、西部せいぶ開拓かいたくまも拡張かくちょうし、農産物のうさんぶつ世界せかい市場いちば輸出ゆしゅつする窓口まどぐちることにつよ関心かんしんしめしていた。ニューイングランド連邦れんぽう主義しゅぎしゃ戦争せんそう反対はんたいしたが、戦後せんごその評判ひょうばん失墜しっついすることになり、党勢とうせいよわまっていくことになった。

アメリカとイギリスはくるしいたたかいを1815ねん1がつ8にちまでつづけたのち停戦ていせんした。公式こうしきべいえい戦争せんそうわらせるガン条約じょうやくにより、基本きほんてき戦争せんそうまえ状態じょうたい1795ねんむすばれたジェイ条約じょうやくと、北西ほくせいインディアン戦争せんそうグリーンヴィル条約じょうやく英語えいごばんめた状態じょうたい)にもどされることとなったが、イギリスのインディアンとの同盟どうめい消滅しょうめつした(→インディアン戦争せんそう)。

条約じょうやく締結ていけつ大西おおにしひろしわた情報じょうほうおくれにより、ニューオーリンズたたかいが発生はっせいし、合衆国がっしゅうこく勝利しょうりわった。この勝利しょうり国民こくみん心理しんり高揚こうようかんあたえ、戦闘せんとう指揮しきしたもの一人ひとりアンドリュー・ジャクソン政界せいかいげた。

雰囲気ふんいき時代じだい[編集へんしゅう]

だい5だい大統領だいとうりょうジェームズ・モンロー任期にんき:1817 - 1825)の時代じだい党派とうは抗争こうそうったために、「雰囲気ふんいき時代じだい」とわれた。ある意味いみでこの言葉ことば活発かっぱつ派閥はばつ地域ちいき摩擦まさつ時機じき隠蔽いんぺいした。一方いっぽうで、この言葉ことば国民こくみん政党せいとうとしては崩壊ほうかいした連邦れんぽうとうわって、民主みんしゅ共和党きょうわとう政治せいじてき勝利しょうりしたこともしめしていた。

モンローは、1823ねん12月2にち議会ぎかい演説えんぜつはっせられたモンロー主義しゅぎでおそらくられている。アメリカは今後こんごヨーロッパからの植民しょくみん主権しゅけん国家こっか事情じじょうかんする干渉かんしょう排除はいじょすべきとした。同時どうじにアメリカはヨーロッパ列強れっきょうやその植民しょくみん戦争せんそうには干渉かんしょうせず、アメリカしゅう独立どくりつした国々くにぐにあらたな植民しょくみんつくることや干渉かんしょうすることは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたいする敵対てきたい行動こうどうなすとも宣言せんげんした。

連邦れんぽう主義しゅぎしゃ退潮たいちょう大統領だいとうりょうえら仕組しくみにも齟齬そごをきたし、みじかい「時代じだい」のおわりともなった。当時とうじ各州かくしゅう代議員だいぎいん候補者こうほしゃ指名しめいすることができた。

派閥はばつあらそいと政党せいとう復活ふっかつ[編集へんしゅう]

1824ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょではテネシーしゅうペンシルベニアしゅうがアンドリュー・ジャクソンを大統領だいとうりょう候補者こうほしゃとし、サウスカロライナしゅう選出せんしゅつ上院じょういん議員ぎいんジョン・カルフーンふく大統領だいとうりょう候補こうほとした。ケンタッキーしゅう下院かいん議長ぎちょうヘンリー・クレイえらんだ。マサチューセッツしゅう国務こくむ長官ちょうかんジョン・クィンシー・アダムズえらんだ。アメリカ議会ぎかい議員ぎいん集会しゅうかいでは財務ざいむ長官ちょうかんウィリアム・クロウフォードえらんだ。

選挙せんきょ結果けっかおおきく左右さゆうしたのは人格じんかく派閥はばつ連衡れんこうであった。アダムズはニューイングランドとニューヨークの大半たいはん選挙せんきょじん獲得かくとくした。クレイはケンタッキーとオハイオしゅうおよびミズーリしゅう獲得かくとくした。ジャクソンは南東なんとうイリノイしゅうインディアナしゅうノースカロライナしゅうおよびサウスカロライナしゅう、さらにペンシルベニアしゅうメリーランドしゅうニュージャージーしゅう獲得かくとくした。クロウフォードはバージニアしゅうジョージアしゅうおよびデラウェアしゅう獲得かくとくした。選挙せんきょじん選挙せんきょではだれ過半数かはんすう獲得かくとくできなかったので、憲法けんぽうさだめるところにしたがい、下院かいん議員ぎいん選挙せんきょけっせられることになったが、その場合ばあいはクレイが有力ゆうりょくであった。ジョン・クィンシー・アダムズはクレイの支持しじけてだい6だい大統領だいとうりょう当選とうせんし、クレイを国務こくむ長官ちょうかん指名しめいした。このことは「うら取引とりひき」としてられるようになった。

アダムズの任期にんきちゅうあたらしい政党せいとうまれた。アダムズの支持しじしゃ国民こくみん共和党きょうわとう名乗なのり、のちホイッグとうあらためられた。アダムズは誠実せいじつにまた効果こうかてき執務しつむしたが人気にんきのある大統領だいとうりょうにはなれず、いらいらがつのるばかりであった。アダムズは、アメリカ・システムというられる道路どうろ運河うんが国家こっかてき交通こうつうもうつくろうとしたが失敗しっぱいした。アダムズの執政しっせい期間きかんつぎ大統領だいとうりょうせんけてのなが運動うんどう期間きかんかさなり、その冷静れいせい知的ちてき雰囲気ふんいきわざわいして支持しじしゃやせなかった。

アンドリュー・ジャクソンは対照たいしょうてき民衆みんしゅうけがよく、とく民主みんしゅ共和党きょうわとうから派生はせいしてあたらしく結成けっせいした民主党みんしゅとう支持しじしゃからのけがかった。この民主党みんしゅとうはジェファーソン、マディソン、モンローかく大統領だいとうりょうながれをむことになった。

アンドリュー・ジャクソン[編集へんしゅう]

1828ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょで、ジャクソンは選挙せんきょじん圧倒的あっとうてき多数たすう獲得かくとくしてアダムズをやぶり、だい7だい大統領だいとうりょうとなった。アンドリュー・ジャクソンは、ジャクソンりゅう民主みんしゅ主義しゅぎ時代じだい名前なまえもととなっており、民主党みんしゅとうそう生者しょうじゃであった。2にわたるジャクソンの任期にんきは、アメリカの政治せいじてき社会しゃかいてき、また経済けいざいてき展望てんぼうだい変革へんかくたした時期じきでもあった。

ジャクソンりゅう民主みんしゅ主義しゅぎ[編集へんしゅう]

アンドリュー・ジャクソン

ジャクソンは西部せいぶ農夫のうふ東部とうぶ労働ろうどうしゃ職人しょくにんおよび小規模しょうきぼ商人しょうにんから支持しじていた。これらの人々ひとびと産業さんぎょう革命かくめい直面ちょくめんして商業しょうぎょう工業こうぎょう仕組しくみがわろうとしている時代じだい抵抗ていこうするために選挙せんきょけん行使こうしした。

1828ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょは、選挙せんきょけん拡大かくだいするながれのなかでの重要じゅうよう試金石しきんせきであった。バーモントしゅう合衆国がっしゅうこく編入へんにゅうされたときから男性だんせい普通ふつう選挙せんきょ実施じっししていた。テネシーしゅう納税のうぜいしゃのほとんどすべてが選挙せんきょけんっていた。ニュージャージーしゅう、メリーランドしゅうおよびサウスカロライナしゅう1807ねんから1810ねんにかけて、財産ざいさん納税のうぜいという条件じょうけん廃止はいししていた。1815ねん以降いこう合衆国がっしゅうこく参入さんにゅうしてきた各州かくしゅうは、白人はくじん男性だんせい普通ふつう選挙せんきょであるか、納税のうぜい義務ぎむすとしてもその下限かげんひく選挙せんきょ制度せいどであった。1815ねんから1821ねんには、コネチカットしゅう、マサチューセッツしゅうおよびニューヨークしゅう財産ざいさんかんする制限せいげん撤廃てっぱいした。1824ねん選挙せんきょじん選挙せんきょ構成こうせいいんはまだ6つのしゅうでは代議員だいぎいんによってえらばれていた。1828ねんまでに、大統領だいとうりょう選挙せんきょじんはデラウェアしゅうとサウスカロライナしゅうのぞき、一般いっぱん選挙せんきょえらばれるようになった。アンドリュー・ジャクソンがえらばれたのはこのような民主みんしゅ筋書すじがきによるものだった。

なみだみち[編集へんしゅう]

1830ねん議会ぎかいインディアン移住いじゅうほう可決かけつした。これは東部とうぶもろしゅう居住きょじゅうするインディアンしょぞく土地とちを、ミシシッピがわより西にし土地とち交換こうかんする条約じょうやくについて、大統領だいとうりょう交渉こうしょう権限けんげんあたえるものだった。1834ねん特別とくべつのインディアン領土りょうどオクラホマしゅう東部とうぶつくられた。ジャクソンの任期にんきちゅう最終さいしゅうてきに、アメリカ先住民せんじゅうみんは94の条約じょうやく調印ちょういんすうせん平方へいほうマイルの土地とち合衆国がっしゅうこく政府せいふわたした。

ノースカロライナしゅう西部せいぶとジョージアしゅうにいたチェロキーぞく1791ねん以来いらい条約じょうやくによってその土地とち保証ほしょうされていたが、1835ねんのニュー・エコタ条約じょうやくにチェロキーぞく一派いっぱ調印ちょういんしたときにその領地りょうちからさされ、土地とちえに金銭きんせんることになった。チェロキーぞくあいだ選出せんしゅつされた政府せいふ白人はくじん支持しじしゃがこれに反対はんたいしたが、1838ねん、チェロキーぞくはインディアン領土りょうどまでのながきびしい行進こうしんいられることになった。病気びょうき食料しょくりょう欠乏けつぼうおおくのものがんだこの行進こうしんは「なみだみち」としてられるようになった。

無効むこう危機きき[編集へんしゅう]

ジョージアしゅうにおける綿花めんかはたけ; 拡大かくだいばん

ジャクソンの1任期にんきわりごろ、サウスカロライナしゅうきつけた保護ほご関税かんぜい問題もんだいしょうじた。保護ほご関税かんぜい1832ねん議会ぎかい通過つうかしジャクソンが署名しょめいして法制ほうせいされ、1828ねんのものよりもゆるやかなものであったが、サウスカロライナしゅうみんにとっては苦々にがにがしいものでもあった。すうにんのサウスカロライナ市民しみんがこれにたいする対抗たいこう手段しゅだんとして、「無効むこう」の「しゅう権限けんげん原則げんそく行使こうしした。この原則げんそくは1832ねんまでジャクソンのふく大統領だいとうりょうであったジョン・カルフーンが1828ねんにその「サウスカロライナの説明せつめい抗議こうぎ」のなか公表こうひょうしたものだった。サウスカロライナしゅう無効むこう条例じょうれい採択さいたくし、しゅうないでは1828ねんと1832ねん関税かんぜいほう無効むこうであると宣言せんげんした。

無効むこう連邦れんぽう政府せいふ権威けんいたいする一連いちれんしゅう反対はんたい運動うんどうでは最新さいしん形態けいたいであった。サウスカロライナしゅうおどしにたいし、ジャクソンは1832ねん11月に海軍かいぐんの7せきちいさな艦船かんせんと1せきのマン・オブ・ウォーをチャールストン派遣はけんした。12月10にち、ジャクソンは無効むこうろんしゃたいするはっきりとした宣言せんげんはっした。サウスカロライナは「暴動ぼうどう反逆はんぎゃく瀬戸際せとぎわ」にあり、しゅうみんはその先祖せんぞたたかってった合衆国がっしゅうこくとの同盟どうめい回復かいふくすべきとうったえるものだった。

サウスカロライナしゅう擁護ようごしジャクソンの政敵せいてきでもあったヘンリー・クレイ上院じょういん議員ぎいん議会ぎかい妥協だきょうあんとおした。関税かんぜいかんする1833ねんのクレイ妥協だきょうあんは、輸入ゆにゅうされる商品しょうひん価格かかくの20%をえるぜいは、しかるべきときたとえば1842ねんまでに軽減けいげんされるべきこと、あらゆる商品しょうひん関税かんぜいは1816ねん中庸ちゅうようてき関税かんぜい水準すいじゅんまでもどされることをうたった。

南部なんぶほかしゅうはサウスカロライナしゅうのやりかた賢明けんめいでなく違憲いけんだと宣言せんげんした。最終さいしゅうてきにはサウスカロライナしゅうれた。ジャクソンは連邦れんぽう支配しはいけん原則げんそくしたがって連邦れんぽう政府せいふ機能きのうさせた。しかし、サウスカロライナしゅうはその要求ようきゅうおおくをとおし、ひとつのしゅう連邦れんぽう議会ぎかいたいしてその意思いし表明ひょうめい行使こうしできることをしめした。

連邦れんぽう銀行ぎんこう仕組しく[編集へんしゅう]

無効むこう問題もんだい決着けっちゃくするまえに、ジャクソンの指導しどうりょくあらたな問題もんだい直面ちょくめんすることになった。それは合衆国がっしゅうこくだい2銀行ぎんこう再度さいど国有こくゆうすることであった。だいいち合衆国がっしゅうこく銀行ぎんこうはアレクサンダー・ハミルトンの主導しゅどう1791ねん設立せつりつされ20ねん以上いじょう国有こくゆうのものであった。政府せいふはその株式かぶしき保有ほゆうしていたが政府せいふ銀行ぎんこうではなく、利益りえき株主かぶぬし配当はいとうされる民間みんかん会社かいしゃであった。通貨つうか安定あんていさせ貿易ぼうえき促進そくしんすることが意図いとされたが、西部せいぶ市民しみん労働ろうどうしゃ少数しょうすう有力ゆうりょくひと特定とくてい恩恵おんけいあたえるものとして不満ふまん表明ひょうめいした。だいいち合衆国がっしゅうこく銀行ぎんこう国有こくゆう1811ねん解消かいしょうされ、そのわっていなかった。

つぎすう年間ねんかん銀行ぎんこう業務ぎょうむしゅう管轄かんかつする複数ふくすう銀行ぎんこうによりおこなわれたが、過剰かじょう通貨つうか発行はっこうしておおきな混乱こんらんみ、インフレーション州立しゅうりつ銀行ぎんこうでは統一とういつされた通貨つうか体系たいけい維持いじできないという懸念けねん増幅ぞうふくさせた。1816ねんだいいち合衆国がっしゅうこく銀行ぎんこうだい合衆国がっしゅうこく銀行ぎんこうふたたび20年間ねんかん国有こくゆうされた。

合衆国がっしゅうこくだい2銀行ぎんこうはそのはじまりから、あたらしいしゅう領土りょうどおよび財産ざいさんすくない人々ひとびと不人気ふにんきであった。反対はんたいしゃ銀行ぎんこうくに信用しんよう通貨つうかうえ仮想かそう独占どくせんたしていると主張しゅちょうし、ふたた少数しょうすうめる人々ひとびと利益りえき代表だいひょうしているとうったえた。ジャクソンは庶民しょみん代表だいひょうとしてえらばれたものとして、銀行ぎんこうさい国有こくゆう法案ほうあん拒否きょひけん発動はつどうした。ジャクソンは議会ぎかい演説えんぜつ独占どくせん特別とくべつ権益けんえき非難ひなんし、つぎのようにった。「我々われわれめるものは平等びょうどう保護ほご平等びょうどう利益りえき満足まんぞくしていなかったが、議会ぎかい立法りっぽうによってさらにとみやしたいと切望せつぼうしていた。」拒否きょひけんくつがえらなかった。

それにつづ大統領だいとうりょう選挙せんきょ期間きかんちゅう銀行ぎんこう問題もんだい基本きほんてきに2つの区分くぶんしょうじさせることになった。1つは商人しょうにん製造せいぞうぎょうおよび投資とうし関係かんけいしゃであり、一般いっぱん金融きんゆうめやたか利率りりつ恩恵おんけいこうむっていた。もう1つは労働ろうどうしゃ農場のうじょう経営けいえいしゃであり、しばしば銀行ぎんこうから借金しゃっきんしておりそれゆえ通貨つうか流通りゅうつうりょう増大ぞうだいさせ利率りりつひくおさえるほうこのんだ。その結果けっかは「ジャクソン主義しゅぎ」の熱狂ねっきょうてき是認ぜにんであった。ジャクソンは1832ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょを、無条件むじょうけん銀行ぎんこうつぶすことにたいするの民衆みんしゅう委任いにんった。また銀行ぎんこう国有こくゆうほうにおいて公的こうてき資金しきん排除はいじょすることを承認しょうにんさせる出来合できあいの武器ぶき見出みいだすことにもなった。

1833ねん9月、ジャクソンは政府せいふかね今後こんご銀行ぎんこう預託よたくせず、すでに預託よたくされているものは政府せいふ支出ししゅつしたがって順次じゅんじげていくという命令めいれいはっした。州立しゅうりつ銀行ぎんこういくつかを慎重しんちょうえらび、厳格げんかく制限せいげんなか金融きんゆう政策せいさく代行だいこうさせるものとした。つぎ世代せだいになると、合衆国がっしゅうこく比較的ひかくてき制約せいやくすくない州立しゅうりつ銀行ぎんこう仕組しくみでびていき、これがすくない保証ほしょう西方せいほうへの拡張かくちょう加速かそくさせることになったが、周期しゅうきてきおとずれる金融きんゆう恐慌きょうこうたいしては脆弱ぜいじゃくなままであった。南北戦争なんぼくせんそうのときに合衆国がっしゅうこくふたた国立こくりつ銀行ぎんこうつくることになる。

西方せいほうへの拡張かくちょう[編集へんしゅう]

1815ねんのナポレオンの没落ぼつらくウィーン会議かいぎのち、ヨーロッパでは比較的ひかくてき安定あんていした時代じだいはじまった。合衆国がっしゅうこく指導しどうしゃはヨーロッパ貿易ぼうえきたいする注意ちゅういはらわなくなり、きたアメリカにおける発展はってんおもきをくようになった。べいえい戦争せんそう停戦ていせんにより、ミシシッピがわ以東いとうのアメリカ・インディアンとイギリスとの同盟どうめいくなり、白人はくじん開拓かいたくしゃはミシシッピがわえて先住民せんじゅうみん土地とち入植にゅうしょくしてった。1830年代ねんだい連邦れんぽう政府せいふ南東なんとうのインディアン種族しゅぞく西方せいほう実入みいりのすくない地域ちいき強制きょうせい移住いじゅうさせた。

合衆国がっしゅうこく政府せいふ公的こうてき法律ほうりつによる西方せいほうへの拡大かくだいによって、西部せいぶ(ニューイングランドの場合ばあい北部ほくぶ辺境へんきょうやさらにそのこうへの開拓かいたくしゃ移動いどううながした。ダニエル・ブーンはケンタッキーに入植にゅうしょくしたもののはしりである。アメリカの猟師りょうしわな狩猟しゅりょうしゃがインディアンと交易こうえき土地とち探検たんけんするにれて、西部せいぶちゅう開拓かいたくなみせた。熟練じゅくれんした戦士せんし猟師りょうしといった山岳さんがくじんロッキー山脈さんみゃくしょう集団しゅうだんはいってビーバーわならえた。毛皮けがわ交易こうえき終焉しゅうえんすると西部せいぶには交易こうえきしょつくられ、インディアンとの交易こうえきつづけたり、ユタオレゴンカリフォルニアかう開拓かいたくしゃ道案内みちあんない猟師りょうしつとめた。

アメリカじんくに境界きょうかいえてきたアメリカのとくにオレゴン、カリフォルニアおよびテキサス拡大かくだいしていく権利けんりについてなに疑問ぎもんいだかなかった。1840ねんだいなかばまでに合衆国がっしゅうこく拡張かくちょう主義しゅぎは「明白めいはく運命うんめい」という思想しそうあらわされるようになった。

1846ねん5月、議会ぎかいメキシコたいして宣戦せんせん布告ふこくした。メキシコはアメリカぐん大砲たいほうによる攻撃こうげきえられず、物資ぶっし枯渇こかつし、また指揮しき系統けいとう分裂ぶんれつによって混乱こんらん敗北はいぼくした。1848ねんのグアダルーペ・イダルゴ条約じょうやくにより、合衆国がっしゅうこくリオグランデがわ境界きょうかいとするテキサスとカリフォルニアおよびニューメキシコ獲得かくとくした。それにつづく13年間ねんかんは、メキシコから獲得かくとくした領土りょうどは、北部ほくぶ南部なんぶ奴隷どれい制度せいど拡張かくちょうめぐ党派とうはてき緊張きんちょう関係かんけい左右さゆうさせるものとして、政争せいそう焦点しょうてんとなっていった。

合衆国がっしゅうこく西方せいほうへの拡張かくちょうなかでのおおきな出来事できごとホームステッドほうであった。このほうでは、開拓かいたくしゃは160エーカー (65 ha)の農場のうじょう用地ようち公定こうてい価格かかくうことができた。ほかにもオレゴンじゅんしゅう開拓かいたくしゃへの解放かいほうテキサス革命かくめいオレゴン・トレイル開設かいせつ1846ねんから1847ねんにかけてのモルモン教徒きょうとのユタへの移住いじゅう1849ねんのカリフォルニアでのゴールド・ラッシュ(この時期じき移住いじゅうしゃを1849ねんちなフォーティナイナーズ(Forty-niners,49ers)という)、1859ねんコロラドでのゴールド・ラッシュ、1869ねん5がつ10日とおか大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう開通かいつうつづくことになった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Charles Warren, The Supreme Court in United States History, Vol. 1: 1789–1821 (1926)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

Studies of the decade 1810-1820:

  • William Freehling: the Road to Disunion, Vol. 1
  • Charles Sellers: the Market Revolution.
  • Joyce Appleby, Inheriting the Revolution: the First Generation of Americans. 2000. Covers the period from 1790-1830 through the lives of those born after 1776.

Cultural and Intellectual History

  • Lewis Perry: Intellectual Life in America
  • Henry Steele Commager, the Empire of Reason: How Europe Imagined and America Realized the Enlightenment

Interpretations of the spirit of the age:

  • Henry Adams: History of the United States During the Administrations of Thomas Jefferson and James Madison v 1 ch 1-5 on America in 1800
  • C. Edward Skeen, "1816: America Rising". 2004 surveys postwar America & sees a new nation being born'
  • Perry Miller: the Life of the Mind in America: from the Revolution to The Civil War (Harcourt, 1965)
  • Vernon L. Parrington: Main Currents in American Thought (1927) (Vol 2: the Romantic Revolution, 1800-1860)
  • Charles Sellers: the Market Revolution: Jacksonian America 1815-46
  • Page Smith: the Shaping of America: a People's History of the Young Republic (1980)

Studies:

  • Steven Watts: the Republic Reborn: War and the Making of Liberal America, 1790-1820 (1987) (a richly documented study which offers dozens of case studies and snapshots of life in the early republic)
  • Kastor, Peter J. "The Nation's Crucible: The Louisiana Purchase and the Creation of America." 2004.
  • Ratcliffe, D.J.: Party Spirit in a Frontier Republic: Democratic Politics in Ohio, 1793-1821. (1998)
  • Richard Bushman, "Joseph Smith: Rough Stone Rolling". 2005. 'An excellent cultural history of New England and upstate New York, Ohio, Missouri, Illinois, as well as terrific biography of a most interesting American from 1805-1844'

From legal perspective:

  • Morton J. Horwitz: the Transformation of American Law, 1780-1860 (1977) (uses the evolution of the law, especially as seen in the decisions of state courts in the north, as a way of measuring intellectual and cultural changes in the whole society)
  • James Willard Hurst, Law and the Conditions of Freedom in the Nineteenth Century United States (Madison: University of Wisconsin Press, 1956)
  • Lawrence M. Friedman's a History of American Law, 2d Ed. (1985)
  • G. Edward White (With Gerald Gunther): the Marshall Court and Cultural Change, 1815-1835 (Abr. Ed., 1990)
  • R. Kent Newmyer, Supreme Court Justice Joseph Story: Statesman of the Old Republic (1985).

Social history:

  • Gaillard Hunt: As We Were: Life in America 1814 (1914(?), Republished In 1993 by Berkshire House Publishers, Originally Titled Life in America
  • Jack Larkin: the Reshaping of Everyday Life, 1790-1840 (Harper & Row, 1988 )
  • Daniel J. Boorstin, the Americans: the National Experience

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]