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ケント伯爵はくしゃく

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エディンバラ公爵こうしゃく・ケント伯爵はくしゃくアルフレッド・アーネスト・アルバート、1881ねん撮影さつえい

ケント伯爵はくしゃく(ケントはくしゃく、英語えいご: Earl of Kent)は、イギリス伯爵はくしゃくくらいウェセックスあさ貴族きぞくとして1イングランド貴族きぞくとして6連合れんごう王国おうこく貴族きぞくとして1創設そうせつされた。ウィレム・ファン・イーペル英語えいごばんもイングランドおうスティーブンよりケントしゅうあたえられたが、爵位しゃくいあたえられなかったとするのが主流しゅりゅうであり[1]ほんこうでは記載きさいしつつすうにはかぞえないとしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

初代しょだいケント伯爵はくしゃくヒューバート・ド・バラ

ゴドウィン英語えいごばんはケント伯爵はくしゃく称号しょうごう所有しょゆうしたとされる[2]。その息子むすこレオフウィン・ゴドウィンソン英語えいごばんは1049ねんごろよりケントしゅう統治とうちしたが、若年じゃくねんだったためケント伯爵はくしゃくにはなっておらず、ちち指示しじもとづき統治とうちしたとされ、1057ねんになってようやくケント伯爵はくしゃく称号しょうごうれた[3]。レオフウィンは1066ねんヘイスティングズのたたか戦死せんしした[3]

ウィリアム1せい異父いふおとうとバイユー司教しきょう英語えいごばんオド英語えいごばんは、1067ねんにケント伯爵はくしゃくじょされた[4]。ウィリアム1せい在中ざいちゅうふくおうつとめたり、国王こくおうぐんひきいて反乱はんらん鎮圧ちんあつしたりしたが、1083ねん失脚しっきゃく投獄とうごくされた[4]。1087ねん釈放しゃくほうされるものの、すぐに反乱はんらんこしてよく1088ねん海外かいがい追放ついほうされ[4]爵位しゃくい剥奪はくだつされた。以降いこうオドは大陸たいりくヨーロッパ活躍かつやくし、爵位しゃくいもどすことは二度にどとなかった[4]

フランドルはくロベール1せいまごウィレム・ファン・イーペル英語えいごばんはフランドルはくりょう継承けいしょうをめぐってギヨーム・クリトンあらそい、おなじくクリトンによる継承けいしょうよろこばなかったイングランドおうヘンリー1せいおいスティーブンをフランドルに派遣はけんした[1]。これがきっかけとなってウィレムとスティーブンはいになり、ウィレムは1133ねんにフランドル地方ちほうからされるとスティーブンをたよってイングランドに逃亡とうぼうした[1]。1135ねん12月にスティーブンがイングランド王位おうい継承けいしょうするとウィレムは重用じゅうようされ、1141ねんにはケントしゅうあたえられた[1]。『英国えいこく人名じんめい事典じてん』はこのとき正式せいしきな「ケント伯爵はくしゃく」の爵位しゃくいあたえられなかったとしている[1]。いずれにしても、1154ねんにスティーブンが失脚しっきゃくしてヘンリー2せい (1133-1189)即位そくいすると、ウィレムも失脚しっきゃくし、1157ねんにイングランドをてフランドルにもどった[1]

イングランドおうジョン晩年ばんねんヘンリー3せい若年じゃくねん最高さいこう法官ほうかん英語えいごばんつとめたヒューバート・ド・バラ英語えいごばんは1227ねんにケント伯爵はくしゃくじょされたが、1232ねん突如とつじょ失脚しっきゃくして投獄とうごくされ、1233ねんだい3だいペンブルックはくリチャード・マーシャル英語えいごばん反乱はんらん加担かたんしたが、翌年よくねん恩赦おんしゃされ爵位しゃくいもどした[5]。1239ねんにはふたた反逆はんぎゃくざいうったえられる危機ききしょうじたが、最終さいしゅうてきには1243ねん死去しきょするまで爵位しゃくい保持ほじした[5]息子むすこを2にんもうけたものの、2人ふたりとも爵位しゃくい継承けいしょうできなかったという[5]

イングランドおうエドワード1せい末男すえおエドマンド・オブ・ウッドストック英語えいごばん異母いぼけいエドワード2せい重用じゅうようされ、1321ねん6がつこう長官ちょうかん英語えいごばん任命にんめいされ、同年どうねんにはケント伯爵はくしゃくにもじょされた[6]。エドワード2せい人気にんきうしない、ウッドストックは1326ねんにエドワード2せい廃位はいいさせた反乱はんらん英語えいごばん加担かたんしてしん政権せいけんったが、エドワード2せい死去しきょしておらず投獄とうごくされているというあやま情報じょうほうをつかまされて反乱はんらんこし、1330ねん斬首ざんしゅけいしょされた[6]死後しご長男ちょうなんエドマンド英語えいごばんははによる請願せいがんもあり爵位しゃくい回復かいふくし、おとうとにあたる3だい伯爵はくしゃくジョン英語えいごばん死後しご2人ふたり姉妹しまいにあたるジョーン爵位しゃくい継承けいしょうした[6]。ジョーンのおっとトマス・ホランドつま権利けんりにより英語えいごばんケント伯爵はくしゃく爵位しゃくいたともされるが[7]、いずれにしてもかれはケント伯爵はくしゃくとして議会ぎかい召集しょうしゅうされた[8]2人ふたり息子むすこにあたる2だい伯爵はくしゃくトマス英語えいごばんまごにあたる3だい伯爵はくしゃくトマスはイングランドおうリチャード2せい重用じゅうようされ、3だい伯爵はくしゃくは1397ねん9がつサリー公爵こうしゃくじょされたが、リチャード2せい廃位はいいとともにサリー公爵こうしゃく放棄ほうき余儀よぎなくされ、1400ねんにはヘンリー4せいへの陰謀いんぼう加担かたんしたとして処刑しょけいされた[8]。3だい伯爵はくしゃくおとうとエドマンド英語えいごばん爵位しゃくい継承けいしょう許可きょかされたが、1408ねん9がつ死去しきょすると爵位しゃくい廃絶はいぜつした[8]

初代しょだいウェストモーランド伯爵はくしゃくラルフ・ネヴィル息子むすこひゃくねん戦争せんそう薔薇ばら戦争せんそう参戦さんせんしたファウコンバーグ男爵だんしゃくウィリアム・ネヴィルは1461ねんタウトンのたたか勝利しょうりした功績こうせきでケント伯爵はくしゃくじょされ、海軍かいぐんきょう英語えいごばんにも任命にんめいされたが、むすめしかもうけなかったため1463ねん死去しきょすると爵位しゃくい廃絶はいぜつした[8]

初代しょだいケント公爵こうしゃくだい12だいケント伯爵はくしゃくヘンリー・グレイの肖像しょうぞうチャールズ・ジャーヴァスさく、1710年代ねんだい

薔薇ばら戦争せんそうにおけるノーサンプトンのたたかランカスターからヨーク鞍替くらがえしただい4だいルシンのグレイ男爵だんしゃくエドマンド・グレイ英語えいごばんは1463ねん6がつイングランド大蔵おおくらきょう英語えいごばん枢密すうみつ顧問こもんかん任命にんめいされ、1465ねん5がつ30にちにケント伯爵はくしゃくじょされた[9]薔薇ばら戦争せんそう戦乱せんらんにおいても1484ねんリチャード3せいから、1487ねんヘンリー7せいから爵位しゃくいさい確認かくにんされ、息子むすこジョージ英語えいごばん爵位しゃくい継承けいしょうすることができた[9]。 ジョージは1483ねんバス勲章くんしょう授与じゅよされ、ランバート・シムネル反乱はんらん(1487ねん)で国王こくおうぐん指揮しきかん1人ひとりつとめ、1497ねんコーンウォール反乱はんらん英語えいごばんでも反乱はんらんぐん撃破げきはした[9]。 ジョージの長男ちょうなんにあたる3だい伯爵はくしゃくリチャード英語えいごばんガーター勲章くんしょう授与じゅよされたが、その異母弟いぼていにあたる4だい伯爵はくしゃくヘンリー英語えいごばんは「地所じしょ貧弱ひんじゃく」を理由りゆうとしてケント伯爵はくしゃく称号しょうごう使用しようせず、まごレジナルド英語えいごばんは1571ねん請願せいがんしてケント伯爵はくしゃくとして承認しょうにんもとめて成功せいこうした[10]。 また、ヘンリーがケント伯爵はくしゃくごうまった使用しようしなかったため、レジナルドは請願せいがんまえには庶民しょみんとしてあつかわれ、1563ねんウェイマス選挙せんきょ英語えいごばん庶民しょみんいん議員ぎいん当選とうせんした[11]。 6だい伯爵はくしゃくヘンリー英語えいごばんから8だい伯爵はくしゃくヘンリー英語えいごばんまでの3だいにわたってベッドフォードシャー統監とうかん英語えいごばんつとめたが、1639ねんに8だい伯爵はくしゃく死去しきょするとケント伯爵はくしゃく従属じゅうぞく爵位しゃくいのルシンのグレイ男爵だんしゃく分離ぶんりし、ケント伯爵はくしゃくは4だい伯爵はくしゃくおとうとアンソニーのまごアンソニー英語えいごばんが、ルシンのグレイ男爵だんしゃく遠戚えんせきチャールズ・ロングヴィル継承けいしょうした[10]。 9だい伯爵はくしゃく息子むすこにあたる10代伯爵はくしゃくヘンリー英語えいごばん短期たんき議会ぎかいレスター選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいんつとめ、以降いこうラトランド統監とうかん英語えいごばんとベッドフォードシャー統監とうかん歴任れきにんした[10]。 10代伯爵はくしゃくまごにあたる12だい伯爵はくしゃくヘンリーははからルーカス男爵だんしゃく継承けいしょうし、宮内みやうち長官ちょうかん英語えいごばん王室おうしつ家政かせい長官ちょうかん英語えいごばんおう璽尚しょなどおおくの役職やくしょく歴任れきにんし、1706ねんケント侯爵こうしゃくに、1710ねんケント公爵こうしゃくに、1740ねんグレイ侯爵こうしゃくじょされたが、息子むすこ先立さきだたれたため、そのともな孫娘まごむすめジェマイマがグレイ侯爵こうしゃくとルーカス男爵だんしゃく継承けいしょうしたが、ケント伯爵はくしゃくふく大半たいはん爵位しゃくい廃絶はいぜつした[12]

1866ねん女王じょおう誕生たんじょう記念きねん叙勲じょくん英語えいごばんにおいて、ヴィクトリア女王じょおう次男じなんアルフレッド・アーネスト・アルバート (1844-1900)連合れんごう王国おうこく貴族きぞくであるアルスター伯爵はくしゃくケント伯爵はくしゃくエディンバラ公爵こうしゃくじょされた[13]。しかし、2人ふたり息子むすこ先立さきだたれたため、1900ねんにアルフレッドが死去しきょするとこれらの爵位しゃくい廃絶はいぜつザクセン=コーブルク=ゴータこうだい2だいオールバニ公爵こうしゃくチャールズ・エドワード継承けいしょうした[14]

ケント伯爵はくしゃくだい1、1020ねん[編集へんしゅう]

ケント伯爵はくしゃくだい2、1067ねん[編集へんしゅう]

ケント伯爵はくしゃく(1141ねん[編集へんしゅう]

ケント伯爵はくしゃくだい3、1227ねん[編集へんしゅう]

ケント伯爵はくしゃくだい4、1321ねん[編集へんしゅう]

ケント伯爵はくしゃくだい5、1360ねん[編集へんしゅう]

  • 初代しょだいケント伯爵はくしゃくトマス・ホランド(1314ねんごろ – 1360ねん) - つま権利けんりによりだい5爵位しゃくい所有しょゆう
  • だい2だいケント伯爵はくしゃくトマス・ホランド英語えいごばん(1350ねん – 1397ねん) - 1385ねんははよりだい5爵位しゃくい継承けいしょう
  • 初代しょだいサリー公爵こうしゃくだい3だいケント伯爵はくしゃくトマス・ホランド(1372ねん – 1400ねん
  • だい4だいケント伯爵はくしゃくエドマンド・ホランド英語えいごばん(1384ねん – 1408ねん

ケント伯爵はくしゃくだい6、1461ねん[編集へんしゅう]

ケント伯爵はくしゃくだい7、1465ねん[編集へんしゅう]

ケント伯爵はくしゃくだい8、1866ねん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f Norgate, Kate (1900). "William of Ypres" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 61. London: Smith, Elder & Co. pp. 356–358.
  2. ^ Hunt, William (1890). "Godwin (d.1053)" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 22. London: Smith, Elder & Co. pp. 50–55.
  3. ^ a b Hunt, William (1893). "Leofwine" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. p. 64.
  4. ^ a b c d Davis, Henry William Carless (1911). "Odo of Bayeux" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 5.
  5. ^ a b c Davis, Henry William Carless (1911). "Burgh, Hubert de" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 815.
  6. ^ a b c Tout, Thomas Frederick (1888). "Edmund of Woodstock" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 16. London: Smith, Elder & Co. pp. 410–412.
  7. ^ "Kent, Earl of (E, 1360 - 1408)". Cracroft's Peerage (英語えいご). 18 January 2004. 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Kent, Earls and Dukes of" . Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 15 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 734–735.
  9. ^ a b c Kingsford, Charles Lethbridge (1890). "Grey, Edmund" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 23. London: Smith, Elder & Co. pp. 180–181.
  10. ^ a b c "Kent, Earl of (E, 1465 - 1740)". Cracroft's Peerage (英語えいご). 26 March 2011. 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  11. ^ J., W.J. (1981). "GREY, Reginald or Reynold (d.1573), of Wrest, Beds.". In Hasler, P. W. (ed.). The House of Commons 1558-1603 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  12. ^ "Kent, Duke of (GB, 1710 - 1740)". Cracroft's Peerage (英語えいご). 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  13. ^ "No. 23119". The London Gazette (英語えいご). 25 May 1866. p. 3127.
  14. ^ "Edinburgh, Duke of (UK, 1866 - 1900)". Cracroft's Peerage (英語えいご). 2019ねん12月23にち閲覧えつらん