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コンスタンス (アンティオキア女公) - Wikipedia コンテンツにスキップ

コンスタンス (アンティオキアおんなこう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンス

在位ざいい期間きかん
1130ねん – 1163ねん
先代せんだい ボエモン2せい
次代じだい ボエモン3せい英語えいごばん
共同きょうどう統治とうち レーモン・ド・ポワティエ (1136ねん – 1149ねん)
ルノー・ド・シャティヨン (1153ねん – 1160ねんまたは1161ねん)
摂政せっしょう

出生しゅっしょう 1128ねん
死亡しぼう 1163ねん
王室おうしつ オートヴィル
父親ちちおや ボエモン2せい
母親ははおや アリックス・ダンティオケ英語えいごばん
配偶はいぐうしゃ レーモン・ド・ポワティエ
ルノー・ド・シャティヨン
子女しじょ
ボエモン3せい英語えいごばん
マリー・ダンティオケ
フィリッパ・ダンティオケ英語えいごばん
ボードゥアン・ダンティオケ英語えいごばん
アニェス・ダンティオケ
信仰しんこう カトリック
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コンスタンス・ダンティオケ仏語ふつごConstance d’Antioche)(1128ねん - 1163ねん)は12世紀せいきちゅうごろに活躍かつやくしたノルマンじんおんなこうである。1130ねんから1163ねんにかけてアンティオキア公国こうこく統治とうちした。彼女かのじょボエモン2せいアリックス・ダンティオケ英語えいごばんあいだまれた唯一ゆいいつ子供こどもであった。父親ちちおやのボエモンこう戦死せんししたさい、2さいというわかさでアンティオキアこう継承けいしょうしたが、このとき従兄弟いとこのシチリアはくルッジェーロ2せいはコンスタンスの継承けいしょう反発はんぱつみずからのおおやけ継承けいしょう正当せいとうせい主張しゅちょうした。母親ははおやのアリックスが摂政せっしょう就任しゅうにんしたが、アンティオキア諸侯しょこうはアリックスに反発はんぱつ彼女かのじょ父親ちちおや(コンスタンスの祖父そふ)であるエルサレムおうボードゥアン2せい摂政せっしょうした。1131ねんにボードゥアン2せいくなると、アリックスは摂政せっしょう復位ふくいこころみたが、諸侯しょこうふたた彼女かのじょ反発はんぱつし、彼女かのじょ義兄弟ぎきょうだいであるフルク5せい摂政せっしょうした。

1136ねん、コンスタンスはレーモン・ド・ポワティエ結婚けっこんした。そしてそののちすうねんあいだ、コンスタンスが4にん子供こども出産しゅっさんするなかでレーモンはアンティオキア公国こうこく統治とうちした。1149ねんにレーモンが戦死せんしすると、フルクおう息子むすこボードゥアン3せい摂政せっしょういた。かれはコンスタンスに自身じしん再婚さいこんするよう説得せっとくしたが、彼女かのじょはそれを拒否きょひした。また彼女かのじょ中年ちゅうねんひがしローマ皇帝こうていマヌエル1せいコムネノスとの結婚けっこん要請ようせい拒否きょひした。結局けっきょく、1153ねん彼女かのじょはフランクじん騎士きしルノー・ド・シャティヨンこいちたすえ結婚けっこんした。

しかし1160ねん/1161ねんおっとルノーはムスリムの捕虜ほりょとしてとらえられた。このさい収監しゅうかんちゅうおっとわって、コンスタンスは自身じしんがアンティオキアおんなこうとして単独たんどく公国こうこく統治とうちすることをのぞんだが、エルサレムおうボードゥアン3せい彼女かのじょの15さい息子むすこボエモン3せい英語えいごばん正式せいしきなアンティオキアこうであることを内外ないがい宣言せんげんして彼女かのじょ対立たいりつした。しかしコンスタンスはボードゥアンおう宣言せんげん無視むしし、ひがしローマ皇帝こうていマヌエル1せいたすけを公国こうこく政権せいけんにぎった。結局けっきょく、コンスタンスはくなるすこまえ息子むすこによって政権せいけんからろされた。

若年じゃくねん

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1128ねん、コンスタンスは誕生たんじょうした。父親ちちおやアンティオキアこうボエモン2せい母親ははおやぜんエルサレムおうボードゥアン2せい次女じじょアリックス・ダンティオケ英語えいごばんであり、コンスタンスはかれらの唯一ゆいいつであった[1][2][3]。コンスタンスは父方ちちかた祖母そぼコンスタンス・ド・フランスにちなんで名付なづけられた[4]ちちボエモンは1130ねん2がつジェイハンがわ英語えいごばん沿いで戦死せんしした[5][6]ちち戦死せんし、アリックスおおやけはひとりむすめであるコンスタンスの摂政せっしょうこうとたくらんだ[7]。しかしこのとき、アンティオキアでは「アリックスはむすめのコンスタンスを修道院しゅうどういんおくりにする」・「アリックスはコンスタンスを平民へいみんとつがせようとしている」といううわさながれていた[7]。またオートヴィル年長ねんちょうしゃであったルッジェーロ2せいもまたアンティオキアおおやけ請求せいきゅうした[8][9]

公国こうこく権力けんりょくにぎろうとしていたアリックスにたいしてアンティオキア諸侯しょこう反発はんぱつし、エルサレムおうボードゥアン2せい使者ししゃ派遣はけんして公国こうこく摂政せっしょうとして公国こうこく統治とうちするよう要求ようきゅうしたが[5]、アリックスはちちボードゥアン2せいたいして対抗たいこうするようこころづもりしていた[7]。12世紀せいき歴史れきしギヨーム・ド・ティールもまた「アリックスがアレッポ総督そうとくザンギー支援しえん要求ようきゅうした」としてアリックスを非難ひなんしていた[7][10]。ギヨーム・ド・ティールの文献ぶんけんによれば、彼女かのじょ派遣はけんした使者ししゃはちょうどそのころにアンティオキアにやってていたボードゥアン2せい兵士へいしらえられたという[7]結果けっか、それからほどなくしてアリックスはちちボードゥアンに慈悲じひ必要ひつようせまられた[7]。ボードゥアン2せいはアリックスを公国こうこく摂政せっしょうから解任かいにんし、アンティオキアからはなれるようめいじた[5][11]

治世ちせい

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子供こども時代じだい

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1135ねんにおける十字軍じゅうじぐん国家こっか領域りょういき
A dozen armed horsemen fight against each other on a field covered by bodies at a large castle on a hill
イナブのたたか戦死せんししたコンスタンスの最初さいしょおっとレーモン・ド・ポワティエ15世紀せいき編纂へんさんされた年代ねんだいウトラメールへのたびen:Passages d'outremer)の挿絵さしえより。
A naked man is hung out from the top of a tower while three men are talking at the tower
ルノー・ド・シャティヨン拷問ごうもんされているラテン・アンティオキア大司教だいしきょうエメリー・ド・リモージュ英語えいごばん

アンティオキア諸侯しょこうはボードゥアン2せい摂政せっしょうみとめ、かれおさないコンスタンスにたいして忠誠ちゅうせいちかった[11]。ボードゥアン2せいエデッサはくジョスラン1せいをコンスタンスの後見人こうけんにんにんじ、彼女かのじょ結婚けっこんするまで支援しえんするようめいじた[5][11]。しかし1131ねん8がつ21にちにボードゥアン2せいが、そしてその1週間しゅうかんにジョスランはくつづけにくなった[12][13]

両者りょうしゃくなったことをけて、アリックスはふたた摂政せっしょうこうとこころみた[14]。しかし今回こんかいもまた、アンティオキア諸侯しょこう女性じょせい公国こうこく統治とうちすることにたいして断固だんこ反対はんたいし、ボードゥアン2せい後継こうけいしゃでありアリックスの義兄弟ぎきょうだいでもあるエルサレムおうフルク・ダンジュー使者ししゃ派遣はけんした[14][15]。アリックスはこのうごきに対抗たいこうし、1132ねん初頭しょとうにエデッサはくジョスラン2せいトリポリはくポンス英語えいごばん同盟どうめい締結ていけつしてフルクおうこうした[16][15]。ポンスはくはフルクおう自身じしん領国りょうごくない通行つうこうすることをみとめなかったため、フルクおう海路かいろでアンティオキアにかい[14][15]せいシメオンこう英語えいごばん上陸じょうりくした。そしてそのでアンティオキア諸侯しょこうはフルクおう公国こうこく摂政せっしょうであると承認しょうにんした[15][17]。そしてフルクおうアンティオキア公国こうこくぐんそう司令しれいかん英語えいごばんレイノー1せいマソワ英語えいごばん公国こうこく統治とうちしゃにんじた[17]

1132ねん/1133ねん、ザンギーのいのちけたアレッポ領主りょうしゅSawarが公国こうこく侵攻しんこうしたことをけて、フルクおうふたたびアンティオキアにもどった[18]侵攻しんこうぐん撃退げきたいしたのち、フルクおうはアンティオキアに入城にゅうじょうした[19]。このさい、アンティオキア諸侯しょこうはより基盤きばんつよ統治とうちしゃほっしていたため、フルクおうたいしてコンスタンスに見合みあった結婚けっこん相手あいてえらぶよう要請ようせいした[20]。フルクおうはコンスタンスの相手あいてとしてアキテーヌこうギヨーム9せい次男じなんレーモン・ド・ポワティエ選出せんしゅつした[20][21]。しかしフルクおうシチリアおうルッジェーロ2せいとアリックスによる妨害ぼうがいけるため、この婚約こんやく成立せいりつについて内外ないがい宣言せんげんすることはなかった[21]

ランシマンによれば、アリックスのあねメリザンド王妃おうひ英語えいごばんは1135ねんにフルクおうたいしていもうとのアンティオキア帰還きかん許可きょかするよう説得せっとくしたという[19]一方いっぽうのアリックスは公国こうこくひがしマ帝国まていこくとの関係かんけい強化きょうかするべく、マヌエルみかど息子むすこヨハネスしたにコンスタンスをとつがせようとたくらんだ[19]。アンティオキアとひがしローマの接近せっきん危惧きぐしたフルクおう大陸たいりく使者ししゃ派遣はけんし、コンスタンスの許嫁いいなずけレーモンにたいして早急そうきゅうにアンティオキアにるようつよ要請ようせいした。エルサレムからの使者ししゃ要請ようせいもとづき、レーモンはフランスを出立しゅったつ中東ちゅうとうかったが、道中どうちゅうかれ変装へんそうしてアンティオキアにかったという。なぜならシチリアおうルッジェーロ2せい領国りょうごくみなみイタリアでレーモンを捕縛ほばくせんとこころみていたからである[8][22]

最初さいしょ結婚けっこん

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1136ねん4がつにレーモン・ド・ポワティエはアンティオキアに到着とうちゃくした[22]。このときラテン・エルサレムそう大司教だいしきょう英語えいごばんラウール・ド・ドンフロン英語えいごばんはアリックスにたいして、レーモンは8さいむすめコンスタンスではなくアリックス自身じしん結婚けっこんするためにアンティオキアにはるばるやってたとしんこめませ[23]、アリックスがかれているあいだにコンスタンスを宮廷きゅうていからさらいだし、カシアンだい聖堂せいどうにてレーモンとコンスタンスとの結婚けっこんめた[24]。この結婚けっこんにより、レーモンはアンティオキアこう就任しゅうにんし、アリックスは政権せいけんから退しりぞき、ラタキアにて隠遁いんとん生活せいかつおくった[24]

1147ねん初頭しょとう、シチリアおうルッジェーロ2せいフランスおうルイ7せいたいして、だい2かい十字軍じゅうじぐん遠征えんせいちゅうにフランスじん十字軍じゅうじぐんだん聖地せいちへの輸送ゆそう請負うけおいもう[25]。このもうけたフランスがわは、ルッジェーロ2せいがただたんにアンティオキア公爵こうしゃく強奪ごうだつ目論もくろんでいるだけなのではないかと不信ふしんがり、ルイ7せいアリエノール・ダキテーヌ(レーモン・ド・ポワティエのめい)はこのもう固辞こじした[26]。1148ねん3がつには陸路りくろでルイ7せい公国こうこくにやって[27]。それからほどなくして、アリエノール王妃おうひとレーモンこうとがあいっているといううわさ十字軍じゅうじぐん戦士せんしちゅうひろまった[28]十字軍じゅうじぐん戦士せんしたちは、フランスおうたいして仇敵きゅうてきヌールッディーン拠点きょてんアレッポたいして軍事ぐんじ遠征えんせいおこなうよう説得せっとくこころみたが、ルイ7せいはアンティオキアをはなれエルサレムにかうことを決意けついし、アリノエールも自身じしん軍勢ぐんぜい同行どうこうさせた[27]

未亡人みぼうじん時代じだい

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1149ねん6がつ29にちヌールッディーンたいする軍事ぐんじ遠征えんせい最中さいちゅうイナブのたたかでレーモンこう戦死せんしした[29]。レーモンこうとコンスタンスとのあいだには4にん子供こどもがいたが4にんともまだおさなかったため、歴史れきしギヨーム・ド・ティールによれば、「公爵こうしゃくとしての責務せきむたし、民衆みんしゅう絶望ぜつぼうふちからすくすことができる」人物じんぶつ1人ひとりもいなかったという[30]おおやけやぶったヌールッディーンは公国こうこく侵攻しんこうし、オロントスがわ以東いとう公国こうこくりょうすべ占領せんりょうした[31]。ラテン・アンティオキア大司教だいしきょうエメリー・ド・リモージュ英語えいごばん指導しどうしゃ不在ふざいのアンティオキア防衛ぼうえいになったが、大半たいはん貴族きぞく盤石ばんじゃく基盤きばん指導しどうしゃのぞんでいた[31][32]。レーモンこう戦死せんしほうけ、コンスタンスおおやけ従兄弟いとこエルサレムおうボードゥアン3せいはアンティオキアに急行きゅうこうし、急遽きゅうきょアンティオキア公国こうこく摂政せっしょう役割やくわりになった[31][33]。ボードゥアン3せいはこのときヌールッディーンとの講和こうわ条約じょうやく締結ていけつおこなった[31]

1150ねんなつ、ボードゥアン3せいふたたびアンティオキアにもどった[33]おうはコンスタンスにたいして再婚さいこんするよう説得せっとくし、3にん候補者こうほしゃソワソンはくイヴ英語えいごばんゴーティエ・ド・サントメール英語えいごばんラウール・ド・メルルフランス語ふらんすごばん)を提示ていじしたが、コンスタンスはこの説得せっとくおうじなかった[33]。2ねん、ボードゥアン3せいはコンスタンスをトリポリにかわせ、彼女かのじょ叔母おばたち(メリザンド王妃おうひ英語えいごばんホディエルナ・ド・エルサレム英語えいごばん)と面会めんかいさせた[34]。この面会めんかいで、メリザンド・ホディエルナりょうはコンスタンスに再婚さいこんするようせまり、3にん候補者こうほしゃから再婚さいこん相手あいてえらぶよう説得せっとくこころみたが、コンスタンスはれず再婚さいこんするという約束やくそくをすることなくアンティオキアに帰国きこくした[34][35][36]。ギヨーム・ド・ティールによれば、エメリー大司教だいしきょう自身じしん公国こうこく政務せいむ仕切しきりたいがために、コンスタンスにたいして叔母おばおうたちの再婚さいこん要求ようきゅうこうするよう説得せっとくしたという[36][37]ひがしローマ皇帝こうていマヌエル1せいコムネノスは中年ちゅうねん未亡人みぼうじんであった義兄弟ぎきょうだいen:John Rogerios Dalassenosをアンティオキアにかわせ、コンスタンスと結婚けっこんさせようと企図きとした[38][36]当時とうじのギリシャじん歴史れきしヨハネス・キンナモス英語えいごばんによれば、当時とうじ20だい - 30だいであったコンスタンスは中年ちゅうねんのJohnにたいして嫌悪けんおかんしめしていたとされ、結局けっきょくコンスタンスはかれとの結婚けっこんこばんだ[38]

現代げんだい歴史れきしスティーブン・ランシマンによれば、コンスタンスがボードゥアンおう・マヌエルみかど提示ていじした再婚さいこん候補者こうほしゃとの再婚さいこん拒否きょひしたのは、彼女かのじょ以前いぜんにフランスじん騎士きしルノー・ド・シャティヨン出会であっていたからであるという[39]。ルノーはギヨーム・ド・ティールに「ただの一介いっかい騎士きし」と言及げんきゅうされてすらいたが、コンスタンスはルノーとの婚約こんやくめた[40]。コンスタンスはボードゥアン3せいから結婚けっこん許可きょかたいがために、かれらは秘密裏ひみつり婚約こんやくめた[41]

2度目どめ結婚けっこん

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ボードゥアン3せい結局けっきょくかれらの結婚けっこんゆるし、1153ねん初頭しょとうにコンスタンスとルノーは結婚けっこんした[41]結婚けっこんて、ルノーはアンティオキアこうとして公国こうこく政務せいむ仕切しきるようになった[39]公爵こうしゃくとなったルノーであったが、かれおおやけ国民こくみんからはがりしゃ做されており、不人気ふにんき公爵こうしゃくであった[39]。ルノーこう頻繁ひんぱん資金しきん徴収ちょうしゅうする政策せいさくおこない、資金しきん提供ていきょうこばんだエメリー大司教だいしきょうたいして拷問ごうもんするなどという暴挙ぼうきょすらおこなった。その結果けっか大司教だいしきょうやマヌエル皇帝こうていとの対立たいりつにつながった[41]。そして1159ねんはるにはひがしローマ皇帝こうていはルノーこうたいして、帝国ていこくたいして敬意けいいしめすよう強制きょうせいした[42]。そしてついに1160/1161ねんの11月、周辺しゅうへん地域ちいき襲撃しゅうげきしている最中さいちゅうにアレッポ領主りょうしゅMajd al-Dinの軍勢ぐんぜい捕縛ほばくされ、収監しゅうかんされた[40][43]

ルノーおおやけ捕虜ほりょとなったのち、コンスタンスは公国こうこく統治とうちみずからのおこなうことを宣言せんげんするも、アンティオキア諸侯しょこう女性じょせい君主くんしゅよりも男性だんせい君主くんしゅほうこのんだ[44]。そしてエルサレムおうボードゥアン3せいがアンティオキアに急行きゅうこうし、コンスタンスの15さい息子むすこボエモン3せい英語えいごばん正当せいとう公爵こうしゃく継承けいしょうしゃであると宣言せんげんしたうえで、摂政せっしょうにんをアモーリー大司教だいしきょうかせた[44][45]。しかしコンスタンスはボードゥアン3せいめに断固だんこ拒否きょひし、ひがしローマ皇帝こうていマヌエルのうしたてをもって対抗たいこうする姿勢しせいしめした[46]

マヌエルみかど自身じしんおいビザンツ帝国ていこく海軍かいぐん最高さいこう司令しれいかん英語えいごばんアレクシオス・ブリュエンニオス・コムネノス(アンナ・コムネナ息子むすこ)とヨハネス・カマテロス(John Kamateros)をアンティオキアに派遣はけんし、かれとコンスタンスのむすめマリー・ダンティオケとの婚約こんやく締結ていけつ会談かいだん開始かいしした[47]。その婚約こんやくめは成立せいりつし、皇帝こうてい代理人だいりにんはコンスタンスのアンティオキア公国こうこく統治とうちしゃとしての立場たちば承認しょうにんした[47]。ボードゥアン3せいはアンティオキアに滞在たいざい皇帝こうてい使節しせつ面会めんかいしたものの、このめに抗議こうぎすることはなかった[47]

1163ねん、コンスタンスの息子むすこボエモンは成人せいじんした[48][49]。コンスタンスは息子むすこのボエモンに公国こうこく統治とうち実権じっけんうばわれることをしとせず、ひがしマ帝国まていこくのキリキア統治とうちしゃであるコンスタンティン・カラマノス英語えいごばん支援しえんようと目論もくろんだ[50]。しかし、アンティオキア諸侯しょこうキリキア・アルメニアこうトロス2せい英語えいごばんんでコンスタンスに対抗たいこうし、結果けっか諸侯しょこうらはコンスタンスをアンティオキアから追放ついほうすることに成功せいこうした[45]追放ついほう、アンティオキア公国こうこく統治とうちけんはボエモン3せいわたった[45]一方いっぽう追放ついほうされたコンスタンスはランシマンによれば、そのあいだもなく、ラタキアビブロスくなったという[51]

家族かぞく

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コンスタンスの最初さいしょおっとレーモン・ド・ポワティエは、アキテーヌこうギヨーム9せいとギヨームの後妻ごさいフィリッパ・ド・トゥールーズ次男じなんであり[52][53]、1114ねんまれであった[54]どう時代じだい歴史れきしギヨーム・ド・ティールによれば、1149ねんおっとレーモンがくなったさい、コンスタンスのもとには2人ふたり息子むすこおおくのおさなむすめのこされていたという[55][56]かれらの長男ちょうなんボエモン3せい英語えいごばんはレーモンがくなったとき、まだ5さいであった[56]かれ成人せいじんの1163ねんははコンスタンスからアンティオキア公国こうこく実権じっけん奪還だっかんした。コンスタンスとレーモンのむすめうち美貌びぼうをはせていたマリー・ダンティオケは、1161ねんひがしローマ皇帝こうていマヌエル1せいコムネノス結婚けっこんした[57]。またもう一人ひとりむすめフィリッパ・ダンティオケ英語えいごばんは1160年代ねんだい後半こうはんトロン領主りょうしゅ英語えいごばんオンフロワ2せい英語えいごばん結婚けっこんした[58]

コンスタンスの次男じなんボードゥアンの父親ちちおやは、レーモンであるのかルノーであるのか解明かいめいされていない[59][60]。ボードゥアンは1176ねん9がつ17にちひがしマ帝国まていこくぐん騎馬きば部隊ぶたい指揮しきかんとしてミュリオケファロンのたたか参加さんかし、戦死せんしした[61]。またルノーとのあいだまれたむすめアニェス・ダンティオケは1204ねんハンガリーおうベーラ3せいしたとつぎ、ハンガリー王妃おうひとなった[62]いで次女じじょのアリックスは1204ねんエステ辺境へんきょうはくアッツォ6せい・デステ英語えいごばんしたとつぎ、3にん伯爵はくしゃく夫人ふじんとなった[63]

参照さんしょう

[編集へんしゅう]
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参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Baldwin, Marshall W. (1969). “The Latin States under Baldwin III and Amalric I, 1143–1174”. In Setton, Kenneth M.; Baldwin, Marshall W.. A History of the Crusades, Volume I: The First Hundred Years. 1 (Second ed.). Madison, Milwaukee, and London: University of Wisconsin Press. pp. 528–561. ISBN 0-299-04834-9. https://search.library.wisc.edu/digital/AVOOV2XGSB6CIH8A 
  • Barber, Malcolm (2012). The Crusader States. Yale University Press. ISBN 978-0-300-11312-9 
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関連かんれん文献ぶんけん

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