コンスタンス・ダンティオケ (仏語 ふつご :Constance d’Antioche )(1128年 ねん - 1163年 ねん )は12世紀 せいき 中 ちゅう ごろに活躍 かつやく したノルマン人 じん 女 おんな 公 こう である。1130年 ねん から1163年 ねん にかけてアンティオキア公国 こうこく を統治 とうち した。彼女 かのじょ はボエモン2世 せい とアリックス・ダンティオケ (英語 えいご 版 ばん ) の間 あいだ に生 う まれた唯一 ゆいいつ の子供 こども であった。父親 ちちおや のボエモン公 こう が戦死 せんし した際 さい 、2歳 さい という若 わか さでアンティオキア公 こう を継承 けいしょう したが、この時 とき 従兄弟 いとこ のシチリア伯 はく ルッジェーロ2世 せい はコンスタンスの継承 けいしょう に反発 はんぱつ し自 みずか らの公 おおやけ 位 い 継承 けいしょう の正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう した。母親 ははおや のアリックスが摂政 せっしょう に就任 しゅうにん したが、アンティオキア諸侯 しょこう はアリックスに反発 はんぱつ し彼女 かのじょ の父親 ちちおや (コンスタンスの祖父 そふ )であるエルサレム王 おう ボードゥアン2世 せい を摂政 せっしょう に推 お した。1131年 ねん にボードゥアン2世 せい が亡 な くなると、アリックスは摂政 せっしょう 座 ざ に復位 ふくい を試 こころ みたが、諸侯 しょこう は再 ふたた び彼女 かのじょ に反発 はんぱつ し、彼女 かのじょ の義兄弟 ぎきょうだい であるフルク5世 せい を摂政 せっしょう に推 お した。
1136年 ねん 、コンスタンスはレーモン・ド・ポワティエ と結婚 けっこん した。そしてそののち数 すう 年 ねん の間 あいだ 、コンスタンスが4人 にん の子供 こども を出産 しゅっさん する中 なか でレーモンはアンティオキア公国 こうこく を統治 とうち した。1149年 ねん にレーモンが戦死 せんし すると、フルク王 おう の息子 むすこ ボードゥアン3世 せい が摂政 せっしょう の座 ざ に就 つ いた。彼 かれ はコンスタンスに自身 じしん と再婚 さいこん するよう説得 せっとく したが、彼女 かのじょ はそれを拒否 きょひ した。また彼女 かのじょ は中年 ちゅうねん の東 ひがし ローマ皇帝 こうてい マヌエル1世 せい コムネノス との結婚 けっこん 要請 ようせい も拒否 きょひ した。結局 けっきょく 、1153年 ねん 、彼女 かのじょ はフランク人 じん 騎士 きし ルノー・ド・シャティヨン と恋 こい に落 お ちた末 すえ に結婚 けっこん した。
しかし1160年 ねん /1161年 ねん 、夫 おっと ルノーはムスリムの捕虜 ほりょ として捕 とら えられた。この際 さい 、収監 しゅうかん 中 ちゅう の夫 おっと に代 か わって、コンスタンスは自身 じしん がアンティオキア女 おんな 公 こう として単独 たんどく で公国 こうこく を統治 とうち することを望 のぞ んだが、エルサレム王 おう ボードゥアン3世 せい は彼女 かのじょ の15歳 さい の息子 むすこ ボエモン3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) が正式 せいしき なアンティオキア公 こう であることを内外 ないがい に宣言 せんげん して彼女 かのじょ と対立 たいりつ した。しかしコンスタンスはボードゥアン王 おう の宣言 せんげん を無視 むし し、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい マヌエル1世 せい の助 たす けを得 え て公国 こうこく の政権 せいけん を握 にぎ った。結局 けっきょく 、コンスタンスは亡 な くなる少 すこ し前 まえ に息子 むすこ によって政権 せいけん から引 ひ き摺 ず り下 お ろされた。
1128年 ねん 、コンスタンスは誕生 たんじょう した。父親 ちちおや はアンティオキア公 こう ボエモン2世 せい ・母親 ははおや は前 ぜん エルサレム王 おう ボードゥアン2世 せい の次女 じじょ アリックス・ダンティオケ (英語 えいご 版 ばん ) であり、コンスタンスは彼 かれ らの唯一 ゆいいつ の子 こ であった。コンスタンスは父方 ちちかた の祖母 そぼ コンスタンス・ド・フランス にちなんで名付 なづ けられた。父 ちち ボエモンは1130年 ねん 2月 がつ にジェイハン川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) 沿 ぞ いで戦死 せんし した。父 ちち の戦死 せんし 後 ご 、アリックス公 おおやけ 妃 ひ はひとり娘 むすめ であるコンスタンスの摂政 せっしょう に就 つ こうと企 たくら んだ。しかしこの時 とき 、アンティオキアでは「アリックスは娘 むすめ のコンスタンスを修道院 しゅうどういん 送 おく りにする」・「アリックスはコンスタンスを平民 へいみん に嫁 とつ がせようとしている」という噂 うわさ が流 なが れていた。またオートヴィル家 か の年長 ねんちょう 者 しゃ であったルッジェーロ2世 せい もまたアンティオキア公 おおやけ 位 い を請求 せいきゅう した。
公国 こうこく で権力 けんりょく を握 にぎ ろうとしていたアリックスに対 たい してアンティオキア諸侯 しょこう は反発 はんぱつ し、エルサレム王 おう ボードゥアン2世 せい に使者 ししゃ を派遣 はけん して公国 こうこく に来 き て摂政 せっしょう として公国 こうこく を統治 とうち するよう要求 ようきゅう したが、アリックスは父 ちち ボードゥアン2世 せい に対 たい して対抗 たいこう するよう心 こころ づもりしていた。12世紀 せいき の歴史 れきし 家 か ギヨーム・ド・ティール もまた「アリックスがアレッポ 総督 そうとく ザンギー に支援 しえん を要求 ようきゅう した」としてアリックスを非難 ひなん していた。ギヨーム・ド・ティールの文献 ぶんけん によれば、彼女 かのじょ が派遣 はけん した使者 ししゃ はちょうどそのころにアンティオキアにやって来 き ていたボードゥアン2世 せい の兵士 へいし に捕 と らえられたという。結果 けっか 、それから程 ほど なくしてアリックスは父 ちち ボードゥアンに慈悲 じひ を乞 こ う必要 ひつよう に迫 せま られた。ボードゥアン2世 せい はアリックスを公国 こうこく の摂政 せっしょう から解任 かいにん し、アンティオキアから離 はな れるよう命 めい じた。
1135年 ねん における十字軍 じゅうじぐん 国家 こっか の領域 りょういき 図 ず
イナブの戦 たたか い で戦死 せんし したコンスタンスの最初 さいしょ に夫 おっと レーモン・ド・ポワティエ 。15世紀 せいき に編纂 へんさん された年代 ねんだい 記 き ウトラメールへの旅 たび (en:Passages d'outremer )の挿絵 さしえ より。
ルノー・ド・シャティヨン に拷問 ごうもん されているラテン・アンティオキア大司教 だいしきょう エメリー・ド・リモージュ (英語 えいご 版 ばん ) 。
アンティオキア諸侯 しょこう はボードゥアン2世 せい を摂政 せっしょう と認 みと め、彼 かれ と幼 おさな いコンスタンスに対 たい して忠誠 ちゅうせい を誓 ちか った。ボードゥアン2世 せい はエデッサ伯 はく ジョスラン1世 せい をコンスタンスの後見人 こうけんにん に任 にん じ、彼女 かのじょ が結婚 けっこん するまで支援 しえん するよう命 めい じた。しかし1131年 ねん 8月 がつ 21日 にち にボードゥアン2世 せい が、そしてその1週間 しゅうかん 後 ご にジョスラン伯 はく が立 た て続 つづ けに亡 な くなった。
両者 りょうしゃ が亡 な くなったことを受 う けて、アリックスは再 ふたた び摂政 せっしょう の座 ざ に就 つ こうと試 こころ みた。しかし今回 こんかい もまた、アンティオキア諸侯 しょこう は女性 じょせい が公国 こうこく を統治 とうち することに対 たい して断固 だんこ 反対 はんたい し、ボードゥアン2世 せい の後継 こうけい 者 しゃ でありアリックスの義兄弟 ぎきょうだい でもあるエルサレム王 おう フルク・ダンジュー に使者 ししゃ を派遣 はけん した。アリックスはこの動 うご きに対抗 たいこう し、1132年 ねん 初頭 しょとう にエデッサ伯 はく ジョスラン2世 せい ・トリポリ伯 はく ポンス (英語 えいご 版 ばん ) と同盟 どうめい を締結 ていけつ してフルク王 おう に抗 こう した。ポンス伯 はく はフルク王 おう が自身 じしん の領国 りょうごく 内 ない を通行 つうこう することを認 みと めなかったため、フルク王 おう は海路 かいろ でアンティオキアに向 む かい、聖 せい シメオン港 こう (英語 えいご 版 ばん ) に上陸 じょうりく した。そしてその地 ち でアンティオキア諸侯 しょこう はフルク王 おう を公国 こうこく の摂政 せっしょう であると承認 しょうにん した。そしてフルク王 おう はアンティオキア公国 こうこく 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん (英語 えいご 版 ばん ) レイノー1世 せい マソワ (英語 えいご 版 ばん ) を公国 こうこく の統治 とうち 者 しゃ に任 にん じた。
1132年 ねん /1133年 ねん 、ザンギーの命 いのち を受 う けたアレッポ領主 りょうしゅ Sawarが公国 こうこく に侵攻 しんこう したことを受 う けて、フルク王 おう は再 ふたた びアンティオキアに舞 ま い戻 もど った。侵攻 しんこう 軍 ぐん を撃退 げきたい したのち、フルク王 おう はアンティオキアに入城 にゅうじょう した。この際 さい 、アンティオキア諸侯 しょこう はより基盤 きばん の強 つよ い統治 とうち 者 しゃ を欲 ほっ していたため、フルク王 おう に対 たい してコンスタンスに見合 みあ った結婚 けっこん 相手 あいて を選 えら ぶよう要請 ようせい した。フルク王 おう はコンスタンスの相手 あいて としてアキテーヌ公 こう ギヨーム9世 せい の次男 じなん レーモン・ド・ポワティエ を選出 せんしゅつ した。しかしフルク王 おう はシチリア王 おう ルッジェーロ2世 せい とアリックスによる妨害 ぼうがい を避 さ けるため、この婚約 こんやく 成立 せいりつ について内外 ないがい に宣言 せんげん することはなかった。
ランシマンによれば、アリックスの姉 あね メリザンド王妃 おうひ (英語 えいご 版 ばん ) は1135年 ねん にフルク王 おう に対 たい して妹 いもうと のアンティオキア帰還 きかん を許可 きょか するよう説得 せっとく したという。一方 いっぽう のアリックスは公国 こうこく と東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との関係 かんけい を強化 きょうか するべく、マヌエル帝 みかど の息子 むすこ ヨハネス の下 した にコンスタンスを嫁 とつ がせようとたくらんだ。アンティオキアと東 ひがし ローマの接近 せっきん を危惧 きぐ したフルク王 おう は大陸 たいりく に使者 ししゃ を派遣 はけん し、コンスタンスの許嫁 いいなずけ レーモンに対 たい して早急 そうきゅう にアンティオキアに来 く るよう強 つよ く要請 ようせい した。エルサレムからの使者 ししゃ の要請 ようせい に基 もと づき、レーモンはフランスを出立 しゅったつ し中東 ちゅうとう に向 む かったが、道中 どうちゅう 彼 かれ は変装 へんそう してアンティオキアに向 む かったという。なぜならシチリア王 おう ルッジェーロ2世 せい が領国 りょうごく の南 みなみ イタリアでレーモンを捕縛 ほばく せんと試 こころ みていたからである。
1136年 ねん 4月 がつ にレーモン・ド・ポワティエはアンティオキアに到着 とうちゃく した。この時 とき 、ラテン・エルサレム総 そう 大司教 だいしきょう (英語 えいご 版 ばん ) ラウール・ド・ドンフロン (英語 えいご 版 ばん ) はアリックスに対 たい して、レーモンは8歳 さい の娘 むすめ コンスタンスではなくアリックス自身 じしん と結婚 けっこん するためにアンティオキアにはるばるやって来 き たと信 しん じ込 こめ ませ、アリックスが浮 う かれている間 あいだ にコンスタンスを宮廷 きゅうてい から攫 さら いだし、カシアン大 だい 聖堂 せいどう にてレーモンとコンスタンスとの結婚 けっこん を取 と り決 き めた。この結婚 けっこん により、レーモンはアンティオキア公 こう に就任 しゅうにん し、アリックスは政権 せいけん から退 しりぞ き、ラタキア にて隠遁 いんとん 生活 せいかつ を送 おく った。
1147年 ねん 初頭 しょとう 、シチリア王 おう ルッジェーロ2世 せい はフランス王 おう ルイ7世 せい に対 たい して、第 だい 2回 かい 十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい 中 ちゅう にフランス人 じん 十字軍 じゅうじぐん 団 だん の聖地 せいち への輸送 ゆそう の請負 うけおい を申 もう し出 で た。この申 もう し出 で を受 う けたフランス側 がわ は、ルッジェーロ2世 せい がただ単 たん にアンティオキア公爵 こうしゃく 位 い の強奪 ごうだつ を目論 もくろ んでいるだけなのではないかと不信 ふしん がり、ルイ7世 せい とアリエノール・ダキテーヌ (レーモン・ド・ポワティエの姪 めい っ子 こ )はこの申 もう し出 で を固辞 こじ した。1148年 ねん 3月 がつ には陸路 りくろ でルイ7世 せい が公国 こうこく にやって来 き た。それから程 ほど なくして、アリエノール王妃 おうひ とレーモン公 こう とが愛 あい し合 あ っているという噂 うわさ が十字軍 じゅうじぐん 戦士 せんし 中 ちゅう で広 ひろ まった。十字軍 じゅうじぐん 戦士 せんし たちは、フランス王 おう に対 たい して仇敵 きゅうてき ヌールッディーン の拠点 きょてん アレッポ に対 たい して軍事 ぐんじ 遠征 えんせい を行 おこな うよう説得 せっとく を試 こころ みたが、ルイ7世 せい はアンティオキアを離 はな れエルサレムに向 む かうことを決意 けつい し、アリノエールも自身 じしん の軍勢 ぐんぜい に同行 どうこう させた。
1149年 ねん 6月 がつ 29日 にち 、ヌールッディーン に対 たい する軍事 ぐんじ 遠征 えんせい の最中 さいちゅう 、イナブの戦 たたか い でレーモン公 こう は戦死 せんし した。レーモン公 こう とコンスタンスとの間 あいだ には4人 にん の子供 こども がいたが4人 にん ともまだ幼 おさな かったため、歴史 れきし 家 か ギヨーム・ド・ティールによれば、「公爵 こうしゃく としての責務 せきむ を果 は たし、民衆 みんしゅう を絶望 ぜつぼう の淵 ふち から救 すく い出 だ すことができる」人物 じんぶつ は1人 ひとり もいなかったという。公 おおやけ を打 う ち破 やぶ ったヌールッディーンは公国 こうこく に侵攻 しんこう し、オロントス川 がわ 以東 いとう の公国 こうこく 領 りょう を全 すべ て占領 せんりょう した。ラテン・アンティオキア大司教 だいしきょう エメリー・ド・リモージュ (英語 えいご 版 ばん ) は指導 しどう 者 しゃ 不在 ふざい のアンティオキア防衛 ぼうえい を担 にな ったが、大半 たいはん の貴族 きぞく は盤石 ばんじゃく な基盤 きばん を持 も つ指導 しどう 者 しゃ を待 ま ち望 のぞ んでいた。レーモン公 こう の戦死 せんし の報 ほう を受 う け、コンスタンス公 おおやけ 妃 ひ の従兄弟 いとこ でエルサレム王 おう ボードゥアン3世 せい はアンティオキアに急行 きゅうこう し、急遽 きゅうきょ アンティオキア公国 こうこく の摂政 せっしょう の役割 やくわり を担 にな った。ボードゥアン3世 せい はこの時 とき ヌールッディーンとの講和 こうわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ も行 おこな った。
1150年 ねん 夏 なつ 、ボードゥアン3世 せい は再 ふたた びアンティオキアに舞 ま い戻 もど った。王 おう はコンスタンスに対 たい して再婚 さいこん するよう説得 せっとく し、3人 にん の候補者 こうほしゃ (ソワソン伯 はく イヴ (英語 えいご 版 ばん ) ・ゴーティエ・ド・サントメール (英語 えいご 版 ばん ) ・ラウール・ド・メルル (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) )を提示 ていじ したが、コンスタンスはこの説得 せっとく に応 おう じなかった。2年 ねん 後 ご 、ボードゥアン3世 せい はコンスタンスをトリポリに向 む かわせ、彼女 かのじょ の叔母 おば たち(メリザンド王妃 おうひ (英語 えいご 版 ばん ) ・ホディエルナ・ド・エルサレム (英語 えいご 版 ばん ) )と面会 めんかい させた。この面会 めんかい で、メリザンド・ホディエルナ両 りょう 名 な はコンスタンスに再婚 さいこん するよう迫 せま り、3人 にん の候補者 こうほしゃ から再婚 さいこん 相手 あいて を選 えら ぶよう説得 せっとく を試 こころ みたが、コンスタンスは折 お れず再婚 さいこん するという約束 やくそく をすることなくアンティオキアに帰国 きこく した。ギヨーム・ド・ティールによれば、エメリー大司教 だいしきょう は自身 じしん の手 て で公国 こうこく 政務 せいむ を取 と り仕切 しき りたいがために、コンスタンスに対 たい して叔母 おば ・王 おう たちの再婚 さいこん 要求 ようきゅう に抗 こう するよう説得 せっとく したという。東 ひがし ローマ皇帝 こうてい マヌエル1世 せい コムネノスは中年 ちゅうねん で未亡人 みぼうじん であった義兄弟 ぎきょうだい en:John Rogerios Dalassenos をアンティオキアに向 む かわせ、コンスタンスと結婚 けっこん させようと企図 きと した。当時 とうじ のギリシャ人 じん 歴史 れきし 家 か ヨハネス・キンナモス (英語 えいご 版 ばん ) によれば、当時 とうじ 20代 だい - 30代 だい であったコンスタンスは中年 ちゅうねん のJohnに対 たい して嫌悪 けんお 感 かん を示 しめ していたとされ、結局 けっきょく コンスタンスは彼 かれ との結婚 けっこん も拒 こば んだ。
現代 げんだい の歴史 れきし 家 か スティーブン・ランシマン によれば、コンスタンスがボードゥアン王 おう ・マヌエル帝 みかど が提示 ていじ した再婚 さいこん 候補者 こうほしゃ との再婚 さいこん を拒否 きょひ したのは、彼女 かのじょ が以前 いぜん にフランス人 じん 騎士 きし ルノー・ド・シャティヨン と出会 であ っていたからであるという。ルノーはギヨーム・ド・ティールに「ただの一介 いっかい の騎士 きし 」と言及 げんきゅう されてすらいたが、コンスタンスはルノーとの婚約 こんやく を取 と り決 き めた。コンスタンスはボードゥアン3世 せい から結婚 けっこん の許可 きょか を得 え たいがために、彼 かれ らは秘密裏 ひみつり に婚約 こんやく を取 と り決 き めた。
ボードゥアン3世 せい は結局 けっきょく 彼 かれ らの結婚 けっこん を許 ゆる し、1153年 ねん 初頭 しょとう にコンスタンスとルノーは結婚 けっこん した。結婚 けっこん を経 へ て、ルノーはアンティオキア公 こう として公国 こうこく 政務 せいむ を取 と り仕切 しき るようになった。公爵 こうしゃく となったルノーであったが、彼 かれ は公 おおやけ 国民 こくみん からは成 な り上 あ がり者 しゃ と見 み 做されており、不人気 ふにんき な公爵 こうしゃく であった。ルノー公 こう は頻繁 ひんぱん に資金 しきん を徴収 ちょうしゅう する政策 せいさく を行 おこな い、資金 しきん 提供 ていきょう を拒 こば んだエメリー大司教 だいしきょう に対 たい して拷問 ごうもん するなどという暴挙 ぼうきょ すら行 おこな った。その結果 けっか 、大司教 だいしきょう やマヌエル皇帝 こうてい との対立 たいりつ につながった。そして1159年 ねん 春 はる には東 ひがし ローマ皇帝 こうてい はルノー公 こう に対 たい して、帝国 ていこく に対 たい して敬意 けいい を示 しめ すよう強制 きょうせい した。そして遂 つい に1160/1161年 ねん の11月、周辺 しゅうへん 地域 ちいき を襲撃 しゅうげき している最中 さいちゅう にアレッポ領主 りょうしゅ Majd al-Dinの軍勢 ぐんぜい に捕縛 ほばく され、収監 しゅうかん された。
ルノー公 おおやけ が捕虜 ほりょ となったのち、コンスタンスは公国 こうこく の統治 とうち を自 みずか らの手 て で行 おこな うことを宣言 せんげん するも、アンティオキア諸侯 しょこう は女性 じょせい 君主 くんしゅ よりも男性 だんせい の君主 くんしゅ の方 ほう を好 この んだ。そしてエルサレム王 おう ボードゥアン3世 せい がアンティオキアに急行 きゅうこう し、コンスタンスの15歳 さい の息子 むすこ ボエモン3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) を正当 せいとう な公爵 こうしゃく 位 い 継承 けいしょう 者 しゃ であると宣言 せんげん した上 うえ で、摂政 せっしょう の任 にん をアモーリー大司教 だいしきょう に就 つ かせた。しかしコンスタンスはボードゥアン3世 せい の取 と り決 き めに断固 だんこ 拒否 きょひ し、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい マヌエルの後 うし ろ盾 たて をもって対抗 たいこう する姿勢 しせい を示 しめ した。
マヌエル帝 みかど は自身 じしん の甥 おい のビザンツ帝国 ていこく 海軍 かいぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん (英語 えいご 版 ばん ) アレクシオス・ブリュエンニオス・コムネノス(アンナ・コムネナ の息子 むすこ )とヨハネス・カマテロス(John Kamateros )をアンティオキアに派遣 はけん し、彼 かれ とコンスタンスの娘 むすめ マリー・ダンティオケ との婚約 こんやく 締結 ていけつ 会談 かいだん を開始 かいし した。その後 ご 、婚約 こんやく 取 と り決 き めは成立 せいりつ し、皇帝 こうてい の代理人 だいりにん はコンスタンスのアンティオキア公国 こうこく の統治 とうち 者 しゃ としての立場 たちば を承認 しょうにん した。ボードゥアン3世 せい はアンティオキアに滞在 たいざい し皇帝 こうてい 使節 しせつ と面会 めんかい したものの、この取 と り決 き めに抗議 こうぎ することはなかった。
1163年 ねん 、コンスタンスの息子 むすこ ボエモンは成人 せいじん した。コンスタンスは息子 むすこ のボエモンに公国 こうこく 統治 とうち の実権 じっけん を奪 うば われることを良 い しとせず、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のキリキア統治 とうち 者 しゃ であるコンスタンティン・カラマノス (英語 えいご 版 ばん ) の支援 しえん を得 え ようと目論 もくろ んだ。しかし、アンティオキア諸侯 しょこう はキリキア・アルメニア候 こう トロス2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) と手 て を組 く んでコンスタンスに対抗 たいこう し、結果 けっか 諸侯 しょこう らはコンスタンスをアンティオキアから追放 ついほう することに成功 せいこう した。追放 ついほう 後 ご 、アンティオキア公国 こうこく の統治 とうち 権 けん はボエモン3世 せい の手 て に渡 わた った。一方 いっぽう 、追放 ついほう されたコンスタンスはランシマンによれば、その後 ご 間 あいだ もなく、ラタキア かビブロス で亡 な くなったという。
コンスタンスの最初 さいしょ の夫 おっと レーモン・ド・ポワティエ は、アキテーヌ公 こう ギヨーム9世 せい とギヨームの後妻 ごさい フィリッパ・ド・トゥールーズ の次男 じなん であり、1114年 ねん の生 う まれであった。同 どう 時代 じだい の歴史 れきし 家 か ギヨーム・ド・ティールによれば、1149年 ねん に夫 おっと レーモンが亡 な くなった際 さい 、コンスタンスのもとには2人 ふたり の息子 むすこ と多 おお くの幼 おさな い娘 むすめ が残 のこ されていたという。彼 かれ らの長男 ちょうなん ボエモン3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) はレーモンが亡 な くなったとき、まだ5歳 さい であった。彼 かれ は成人 せいじん 後 ご の1163年 ねん 、母 はは コンスタンスからアンティオキア公国 こうこく の実権 じっけん を奪還 だっかん した。コンスタンスとレーモンの娘 むすめ の内 うち 、美貌 びぼう で名 な をはせていたマリー・ダンティオケ は、1161年 ねん に東 ひがし ローマ皇帝 こうてい マヌエル1世 せい コムネノス と結婚 けっこん した[ 57] 。またもう一人 ひとり の娘 むすめ フィリッパ・ダンティオケ (英語 えいご 版 ばん ) は1160年代 ねんだい 後半 こうはん にトロン領主 りょうしゅ (英語 えいご 版 ばん ) オンフロワ2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん した。
コンスタンスの次男 じなん ボードゥアンの父親 ちちおや は、レーモンであるのかルノーであるのか解明 かいめい されていない。ボードゥアンは1176年 ねん 9月 がつ 17日 にち 、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 軍 ぐん 騎馬 きば 部隊 ぶたい の指揮 しき 官 かん としてミュリオケファロンの戦 たたか い に参加 さんか し、戦死 せんし した。またルノーとの間 あいだ に生 う まれた娘 むすめ アニェス・ダンティオケ は1204年 ねん にハンガリー王 おう ベーラ3世 せい の下 した に嫁 とつ ぎ、ハンガリー王妃 おうひ となった。次 つ いで次女 じじょ のアリックスは1204年 ねん にエステ辺境 へんきょう 伯 はく アッツォ6世 せい ・デステ (英語 えいご 版 ばん ) の下 した に嫁 とつ ぎ、3人 にん 目 め の伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん となった。
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歴代 れきだい のアンティオキア公 こう (1098–1268)名目 めいもく 上 じょう のアンティオキア公 こう (1268–1457)
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