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サンタンヌ・ド・ボープレだい聖堂せいどう

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サンタンヌ・ド・ボープレだい聖堂せいどう
情報じょうほう
用途ようと カトリック教会きょうかい
管理かんり運営うんえい レデンプトールかい
着工ちゃっこう 5代目だいめ1923ねん
所在地しょざいち カナダの旗 カナダ ケベックしゅう
座標ざひょう 北緯ほくい4701ふん26.69びょう 西経せいけい7055ふん42.46びょう / 北緯ほくい47.0240806 西経せいけい70.9284611 / 47.0240806; -70.9284611座標ざひょう: 北緯ほくい4701ふん26.69びょう 西経せいけい7055ふん42.46びょう / 北緯ほくい47.0240806 西経せいけい70.9284611 / 47.0240806; -70.9284611
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サンタンヌ・ド・ボープレだい聖堂せいどう(サンタンヌ・ド・ボープレだいせいどう、ふつ: Basilique Sainte-Anne-de-Beaupré, えい: Basilica of Sainte-Anne-de-Beaupré)は、カナダケベックしゅうサンタンヌ=ド=ボープレ英語えいごばんにあるカトリック聖堂せいどうである。病人びょうにんや、障害しょうがいのある人々ひとびと奇跡きせきによって治癒ちゆされた逸話いつわがあり、これによって、巡礼じゅんれい聖地せいちとしてのこうらしめている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

1658ねん3月8にちに、エティエンヌ・ド・レサール名乗なの人物じんぶつが、自分じぶん土地とち一部いちぶ寄進きしんして、その礼拝れいはいどう建築けんちくされた。建築けんちく理由りゆうは、ボープレの開拓かいたくものたち[1]のための礼拝れいはい必要ひつようであったこと[2]、そして奇跡きせきひじりアンナぞうおさめる場所ばしょ必要ひつようであったこと[3]である。

このときに、木造もくぞう聖堂せいどうてられたが、その建築けんちく工事こうじかんする逸話いつわがある。1658ねん3がつ13にち、カナダに派遣はけんされた伝道でんどうしゃヴィニャルが、ひじりアンナにささげる聖堂せいどう起工きこう祝福しゅくふくしたところ、その当日とうじつ奇跡きせきこった[1]オルレアンとうサント・ファミーユ教会きょうかい司祭しさいであったトマ・モレル記録きろくによると、脊柱せきちゅうがわわんしょう(リューマチであったともいわれる)で松葉杖まつばづえなしではあるけなかったルイ・ギモンという人物じんぶつが、この聖堂せいどう建設けんせつ参加さんかした[4]ところ、歩行ほこうできるようになった[2]ほかにも奇跡きせきにより回復かいふくした人々ひとびと証言しょうげんがもとで、この聖堂せいどうはたちまち有名ゆうめいになり、おおくの巡礼じゅんれいしゃ治癒ちゆけにここをおとずれるようになった。また、ルイ13せいアンヌ・ドートリッシュも、この聖堂せいどうへの支援しえんおこなった[5]

巡礼じゅんれいあいだ聖地せいちとしての人気にんきたかまり、おとずれた人々ひとびとをすべて収容しゅうようするため、なん聖堂せいどう拡張かくちょうされた。初代しょだい聖堂せいどうは、セントローレンスがわきしにあったため浸水しんすいし、1661ねんに2代目だいめ聖堂せいどうてられた。この2代目だいめ聖堂せいどうも、きびしいカナダの気候きこうのため、ながくはたなかった。3代目だいめ石造いしづくりで、2代目だいめよりも規模きぼおおきく、気候きこうきびしさにもえたが、老朽ろうきゅうによりこわされた。

4代目だいめだい聖堂せいどう
タシュロー大司教だいしきょう

1872ねん、3代目だいめ聖堂せいどう南側みなみがわで、4代目だいめ聖堂せいどう建築けんちく工事こうじはじまり、1876ねん完成かんせいした。おなねんひじりアンナをケベックの守護しゅご聖人せいじんとする宣言せんげんがなされ、その2ねんの1878ねん、4代目だいめ聖堂せいどう正式せいしきけんじどうされた[4]。4代目だいめ聖堂せいどう時代じだいになると、もとからいた司祭しさいだけではまわらなくなり、サンタンヌ=ド=ボープレの教区きょうくと、巡礼じゅんれい関連かんれん業務ぎょうむかんしては、ケベック大司教だいしきょうエルゼアール=アレクサンドル・タシュローをとおして、1878ねんからはアメリカボルティモアの、いでベルギーレデンプトールかい委任いにんされた。この直後ちょくご鉄道てつどう開通かいつうしたため、巡礼じゅんれいすうはさらにえた。くわえて、カナダの聖職せいしょくしゃたちの熱意ねつい、そして毎月まいつき会報かいほう『アナルス・デ・ラ・ボンヌ・サンタンヌ』の発行はっこうもあって、20世紀せいきはじめには、巡礼じゅんれいかず飛躍ひやくてき増加ぞうかした[1]

1886ねん教皇きょうこうレオ13せいにより、1874ねん認可にんかケベック司教しきょう聖堂せいどう[4]つづきたアメリカふたしょうバシリカ認可にんかされたが、このだい聖堂せいどう1922ねん3月29にち火災かさいにより焼失しょうしつした[2]。このときなんのがれたひじりアンナの木像もくぞうは、いま聖堂せいどう西側にしがわ正面しょうめんくちえられている[4]

1923ねん6がつ6にち焼失しょうしつした4代目だいめ聖堂せいどうおな場所ばしょに、ネオ・ロマネスク様式ようしき聖堂せいどう建設けんせつはじまる。この5代目だいめ聖堂せいどう現在げんざいのもので、花崗岩かこうがん使用しようされている[4]。この花崗岩かこうがんはカナダちゅうのカトリック信者しんじゃから寄進きしんされたものである。また、祭具さいぐ装飾そうしょく費用ひようは、巡礼じゅんれい喜捨きしゃによってまかなわれた[1]。5代目だいめ聖堂せいどうおおきさは、以下いかとおりである[4]

  • 全長ぜんちょう:105メートル
  • 正面しょうめんはば:48メートル
  • つばさろうはば:61メートル
  • 尖塔せんとうたかさ:91メートル

聖堂せいどううつりかわり[編集へんしゅう]

  • 初代しょだい 1658ねん - 1661ねん
  • 2代目だいめ 1661ねん - 1676ねん
  • 3代目だいめ 1676ねん - 1876ねん
  • 4代目だいめ 1876ねん - 1922ねん
  • 5代目だいめ 1923ねん -

せい遺物いぶつ[編集へんしゅう]

ボープレに派遣はけんされたケベック司教しきょうフランソワ・ド・ラヴァル依頼いらいにより、非常ひじょう重要じゅうようせい遺物いぶつであるひじりアンナのゆびほねが、1670ねん3月12にち聖人せいじん崇敬すうけいはじめて公開こうかいされた。そのひじりアンナのほかせい遺物いぶつが3つ追加ついかされ、1892ねんには、タシュローにより、ながさ4インチのせいアンナの手首てくびほね奉納ほうのうされた[1]

ジョゼフ・エミール・ブリュネのぞう[編集へんしゅう]

カナダの建築けんちくであるジョゼフ=エミール・ブリュネは、聖堂せいどうの24の柱頭ちゅうとう設計せっけいしている。これは、イエス・キリスト生涯しょうがいあらわす52の主題しゅだいえがいたもので、ブリュネはまた、かべかかげられた十字架じゅうじか道行みちゆきのとめのうち14場面ばめん作成さくせいたずさわっている。

ブリュネはほかにも、聖堂せいどう正面しょうめんにあるたかやく2メートル30センチの噴水ふんすいと、おなじく2メートル30センチのたかさのひじりぞう4たいをも手掛てがけている。その4たいひじりぞうとは「マリー・ド・リンカルナシオン(マリー・ガイヤール)」「せいヨセフ」「聖母子せいぼし」「ラヴァルのフランシスコときよしヨアキム」である。に、先住民せんじゅうみん聖女せいじょであるカテリ・テカクウィサ銅像どうぞう製作せいさくしている[6]

ギャラリー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Sainte Anne de Beaupré
  2. ^ a b c Lebel, Jean-Marie; Ostiguy, Birgitte (1999), Saint Anne de Beaupré: An Inspiration, Les Editions du Chien Rouge 
  3. ^ Basilica of Sainte-Anne de Beaupré, Quebec”. 2007ねん3がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f アンティークアナスタシア キリスト教きりすときょう カナダ サンタンヌ・ド・ボープレ
  5. ^ Morinis, Alan. "Pilgrimage". Canadian Encyclopaedia. 2007ねん3がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ Joseph-Émile Brunet

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]